あらゆる事物は常に何かになる途中である~ジル・ドゥルーズさん「差異の哲学」のカケラ~

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生き方

こんにちは!幸せマンです。

今回はジル・ドゥルーズさんの「差異の哲学」についての話をします。

ジル・ドゥルーズさんの哲学は、難解な哲学の中でも、「トップクラスに難解」です。ですので、私なりのドゥルーズ哲学のかけら程度の理解でもって、いくつかの要素を抽出したような話をします。そんなカケラ程度でも、とてつもなく示唆に富む(気付かされることが多く、発展性が凄い)考え方をジル・ドゥルーズさんは与えてくれます。

また、お時間があまりない方は「7、差異から見る世界」を見ると、その示唆に富む内容に飛ぶことも出来ます。

では、早速いきましょう!

ジル・ドゥルーズさん、と言う人

ジル・ドゥルーズさん(1,925年1月18日~1,995年11月4日)は、フランスの哲学者です。現代哲学者であるジル・ドゥルーズさんはいわゆる「ポスト構造主義」の一人として活躍されていました。

(本人はポスト構造主義だと言われることに対して、「ポスト構造主義?それは一体何のことかね。少なくとも私には関係ないことだ。」と答えるくらいには、ひとくくりにされるのを嫌がっています。そしてその理由も読み進めると見えてくると思います。)

「ポスト構造主義」のポストとは「~以後」と言う意味です。

つまり、「構造主義以後」の哲学と言う事です。

じゃあ、そもそも「構造主義」って何なのさ?ってなる人も多いと思うので軽く説明すると、「構造主義」は「世の中には、共通した普遍的で根源的な構造があるぞ!」っていった人たちの事を指します。レヴィ=ストロースさんやラカンさんなどが「構造主義」の哲学者として有名な方達です。

さて、そんな構造主義の人たちが、あれやこれやと「これにはこういった構造があるぞ!」と言ったんですが、これに「待てぃ!と言ったのがジル・ドゥルーズさんを含む「ポスト構造主義」。一般的に、「構造主義以後」の人たちを指します。

なんとなく私達は、何かに対して「秩序のある法則」を見出したい、みたいな気持ちがあると思うんです。「その法則を根源的に見出したぞ!」と言った「構造主義」は確かに、知ってみると居心地が良いし、納得感があるんです。

しかし、これに対してジル・ドゥルーズさんは「その根源とか言っている構造の、更に手前。もっと言えばその中にも先にも複雑でごちゃごちゃしたものがあるよ。」と言った人です。

その複雑でごちゃごちゃしたもの。

これがジル・ドゥルーズさんいわく「差異なんです。

つまり、ドゥルーズさんは「根源的法則の更に手前に差異がある。なので構造主義が示した法則は、根源では無いんじゃない?」と考えました。

ジル・ドゥルーズさんの哲学(差異の哲学)は、ここまで見ただけだと、「ようやくまとまりかけた話を壊している」ようにも見えるかと思いますが、壊しているんじゃなくて、むしろ「その根源的な構造だよ、と言ったものすら包み込んじゃった」と見る方がより適切なように思います。

ジル・ドゥルーズさんの考え方は、極めて微細な要素から世界のあれこれを相当なレベルで紐解く鍵であり、その考えを基に、もう少し具体性を持たせて物事を見た時に、「あ!これってこうとも考えられない?」と思わされてしまうのがすごい所だと感じます。

実際、多くの哲学者さんたちはジル・ドゥルーズさんや同世代の哲学者であるジャック・デリダさん達の哲学を【乗り越えようとしても乗り越えられない】、みたいな現状になっていると思います。

ジル・ドゥルーズさんの「差異の哲学」ってなんなの?

さあ、ではジル・ドゥルーズさんの哲学を見ていきましょう!と言いたいところなんですが、前もって触れておかなければならないことがあります。

と言うのも、おそらくジル・ドゥルーズさんの哲学は特に、どこまで行っても「理解した」と言い難いんじゃないか?とも思いながら今、文章化しているという点です。私自身はおおよそ1年半程度、ひたすら足りない頭をこねくり回しながら「差異の哲学」について考えているんですが、未だに全然理解しきれていないと感じます。

現代哲学ははっきり言って難しいです。しかもその現代哲学の中でも屈指の難しさを誇るであろうものが、ジル・ドゥルーズさんの【差異の哲学(本で言えば『差異と反復』や『意味の論理学』などを総評した哲学のこと】です。ジル・ドゥルーズさんの哲学は、あまりに難解なのでその批判の一つに「難解過ぎる」というものもあるくらいです。笑

ですので、ジル・ドゥルーズさんの考えのカケラをご紹介する形になってしまうと思います。ただその一方で、そんなカケラでさえも「とてつもなく凄い」と私は感じてしまっています。

さて、そんなカケラをかき集めて、一言でジル・ドゥルーズさんの差異の哲学を表すのであれば、私は

あらゆるものに差異は先立つ

このように表せるのでは?と、思います。

とはいえ、このままでは「な~んじゃそりゃ?」となると思いますので、以降、順を追って説明をしていければなって思います。

先ずは、【あらゆるものに差異は先立つ】の説明とそれにまつわる話をし、それが終わり次第「私の頭の中にある簡略化モデル」を提示します。

そしてその後に纏め、と言った感じです。

【あらゆるものに差異は先立つ】とは何なの?

【あらゆるものに差異は先立つ】って何さ?について説明するとき、やっぱり説明必須なのは、「差異」についてですよね。

「差異」は先ほど最初の方に少しだけ触れた「複雑でごちゃごちゃしたもの」です。

もうちょっと別の言い方をすると、あらゆる場所に認識できないレベルでの、ぐにゃぐにゃとしながら四方八方に向かうような「無秩序な方向性を持った(非線形に飛び交う:まっすぐではない)認識できない差異」があって、そんな認識できない差異が、「ある程度の纏まり」を持った時、私達はその差異を「認識できる差異」として認識している。と、言えるかと思います。

ジル・ドゥルーズさんの言っている「差異」は、

「違い、と認識できない差異」

「違い、と認識できる差異」も含めて、「差異」と呼びますが、いったん整理するためにあえてここでは、理解のために

「認識できない差異」をそのまま「差異」

「認識できる差異」を「違い」

したいと思います。

ここまでで理解しておきたい点は

微細な差異の纏まりが違いとなって認識される。】ということ。また、【認識できようが、できまいが差異はありとあらゆるところで常に発生している。ということ、です。

私達が「違いを違いとして認識するとき」、偶然たまたま、ある程度統一的な方向性を持った差異がそこに生まれているということです。

要は、認識できないレベルでの「差異」がいろんな方向に無秩序に発生していて、それがいくつかの関係の下で「差異の束」の様に一か所に纏まった時、私達は「違い」として認識する、と言ったような感じです。

つまり、気付けないような差異は常にいろんなところで発生しているけど、気付いたとき初めて「あ、違うや」って認識していて、そういう時は「差異」がいくらか纏まった時だよ。という話です。

かなり抽象的な話なんですが、ここまでの話の中で「差異」についてまとめると

「認識できる差異(違い)」「差異の束、差異の纏まり」「とっても小さな、認識できない四方八方に飛び交う差異」

と言った感じです。

認識できない差異の具体的な例はないの?

ジル・ドゥルーズさんの哲学はとっても抽象的です。言い換えれば具体性がないともいえます。しかしだからこそ、実用化を目指したときにあらゆることに「新たな視点や、オルタナティブ(代替案)の提供」となりうる可能性を秘めていると思います。

でも、このままだとなんだかフワフワとよく分からない中空で漂っている感もあるかなと思いますので、ちょっとした具体例を挙げたいと思います。

私は脳神経科学も好きなので、脳についての例を挙げると、私達の脳は、しきりに神経活動をしています。脳が神経活動をするおかげで知覚し、身体を動かし、思考できます。

起きている時も、寝ている時も大忙しです。

ですが、私達は全ての情報を「意識」しているわけではありませんよね。

例えば、心臓は勝手に動くし、体温は勝手に調整されているし、呼吸も普段は意識していないはずです。

「意識」した時、改めて「あ、心臓動いてる。呼吸してる。」って確認することが出来ます。これは「認識していようが、認識していまいが、発生している差異」の一つだと思います。

ただこれだとまだ、認識するしない」の選択の余地がありますよね。なので、もっと細かな「認識できないレベル」の脳神経活動について見ていきます。

私達の脳がしきりに活動する中で、私達自身が全く認識できない神経活動もしています。

脳はあらゆる場面において、「差異」を感じ取っては、非常に小さな神経伝達を行います。そしてこれがある程度の伝達量に達しなければ、その神経活動は必要のないものとして切り捨てられます。そうなれば、私達は気付くことが出来ません。感情にも思考にも意思決定にも何ら作用しない、小さな小さな神経活動が繰り広げられています。

加えて、神経活動として成立していても意識できないこと、つまり無意識的な活動も沢山あります。私達の脳の中でも「認識までに至らない、認識できない差異」が発生しています。

こんな感じで様々なレベルで「差異」があります。

認識できるレベルでの差異(違い)もあれば、脳の神経活動もほとんど起こらないような小さな小さな差異もあります。

差異と同一性、差異と反復~世界は常に差異を受けて変化し続ける~

認識できる差異と認識できない差異(違い)があるよ、と言うところまではなんとなくご理解いただけたと思いつつ、次は「同一性」と「反復」というものについて言及します。

ここまで見てきて、「でもさ、違いの全く反対のこと。つまりは違いがないこと、おんなじであること(同一、同一性)や、おんなじことが繰り返されるようなこと(反復)もあるじゃない?これはどう説明するのさ?」

ような疑問が出るかもしれません。

確かに私達の世界のありとあらゆる場所で、「同じと言えること」が沢山あるように思えます。

けれども、ジル・ドゥルーズさんは「それも差異によって起きているよ!」と言います。

これはどういう事なんでしょうか?

ジル・ドゥルーズさんは

「差異がおんなじに見せているだけだし、反復しているように見せているだけだよ。」的な説明をします。

一見すると、「同一に思えるもの」がそこらかしこにあります。ですが、その同一性(おんなじよう)に見えることを差異から考えてみた時に、「様々な差異を受けた結果、同一と呼ばれるものが発生した。しかも厳密に見れば、おんなじよう(同一性)ではあっても、おんなじ(同一)ではない。と言えるんじゃないかと思います。

例えば、

私達人類。ホモ・サピエンスはDNAが人種に関係なくほとんど同じです。また、元をたどればおサルさんから様々な差異を受けて、進化したのが私達です。おサルさんもまた、差異を受けて自然淘汰による進化をした結果、その種として分類されるような共通項(ゴリラ、チンパンジー、ボノボ、ヒトなどの)を持ちました。

さらに言えば、そんなおんなじ「種」とされる私達の中にも違いは見られるし、

何なら「私」一人を見た時でさえ、差異による変化はあります。お腹がすいた私は血糖値が下がった、もしくは下がりかけた私だし、一つ深呼吸をした私は少し落ち着いた私一年経った私は、ほとんどの体組織(脳と心臓以外)が入れ替わった私、とも言えます。加えて脳についても、神経活動の強弱が変わるし、記憶も増えたり曖昧になったりします。

私達は「ホモ・サピエンス(人類)、という同じ」や「私、と言う同じ」を「同じ」と一応はみなしていますが、【厳密には全く同じではないし、全く同じ状態ではないんです。

じゃあ、反復も同じ要領で理解できそうではないですか?おんなじことが繰り返されているような事柄(反復)も、差異によって起きていると考えることが出来ます。

例えば

振り子は典型的な反復運動ですが、その振り子は重力や空気抵抗などの「差異」を受けながら、右へ左へ移動します。また振り子を動かす時も、いずれかの方向へ力が働くことで初めて反復運動をします。

私達は振り子を見て「右へ左へ行ったり来たりの反復をしているな。」と捉えますが、ジル・ドゥルーズさん的には「差異を受けて右へ行き、差異を受けては左に行く。ただ差異のその振る舞いを反復、とみなしている。」と捉えます。つまりは、小さな差異が裸の反復(微細な差異の相互関係)をし、それが纏まり、違いと認識されることによって反復だと感じる、ということです。

また同一性と反復は、その状態からまた更に、常々、様々な差異を受けているともいえます。

そもそも、同一性は言い換えれば「おんなじっぽい性質を持つもの」です。

あくまでそれは「っぽい」だけなので、そのおんなじに見えるものも「少しずつ差異を受けて変化していきます。この少しずつの変化の結果、(同一性としての)反復することがあるかも知れませんが、それも「(違いをも含む)差異による変化」の結果と言えます。

とすれば、私達人間の歴史なるものも、そういった差異によって起きた変化による「同一性」と「反復(差異の裸の反復、同一性として認識可能な反復)」の累積であるとみることも出来ます。

同一性を持つものは少しずつ変化する。そのためその変化を含めてジル・ドゥルーズさんは「準安定状態」と言ったりします。「安定状態」に「準」がつくのは、その状態が「安定してはいる」ものの、永続することがないからです。

物事が永続しないというのは、良くも悪くも否定できないことですよね。

おんなじ、と言っているものは、私達がおんなじ、とみなしているだけなのかもしれません。

また、さらに言えば、

「差異によっておんなじっぽいもの(同一性)は説明できるけど、その逆は出来ない」です。

おんなじっぽいもの、が突然何の前触れもなくパッ!と誕生するなんてことは無いと言い切れるんじゃないでしょうか?

それに纏わる事情や、関係がある時点で「差異が先立つ」。

元を正せばやっぱり差異に行き着くと思います。

私の頭の中の差異の哲学簡略化モデル~差異とスライム~

「差異の哲学」について見てきたわけですが、ここで一旦「モデル化」してみたいと思います。

一応ジル・ドゥルーズさんも理解しやすいように例を出しているんですが、その例が微分積分なんです。数学が得意な方は、「ああ!そういうことか!」となるかもしれません。

要は

世界は微分的な差異を受けて常に変化し、積分的に観察され、語られているんだ!

とひらめける人もいるんじゃないかと思います。でも、微分積分を学んでない人にはちょっと厳しいですよね。

そこで、今度は私が頭の中でジル・ドゥルーズさんの考え方を勝手にモデル化している方法をご紹介していきます。

私達はいずれの考え方にせよ、新たな考えを取り入れる時に多かれ少なかれ、自分の中で「簡略化したモデル」を持つこととなると思いますので、よかったら参考程度にしてみてください。

私は差異を食べるスライムをモデルにしています。

以下、このモデルについての説明です。

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「スライム」は同一性(おんなじっぽい性質)を持った個体です。

偶然、たまたま、差異が纏まった時に生まれたのがこの「スライム」です。一応安定はしていますが、大きくなったり小さくなったりもするし、右へ左へ、上へ下へと、少しずつですが移動をする事が出来ます。

好物は「差異」です。差異が見つかればそのプルプルとした身体から手のようなものを伸ばしつつも、流動的な移動します。「スライム」はとにかく「差異」に目がありません。なのでどんどんと取り込みながら基本的には大きくなろうとするかもしれません。

ですが、大きくなれるばかりでもなくって、

食べた差異によっては、同一性を保っていた「スライム」の一部が、別の差異としてこぼれ落ちることもあります。つまり、同一化(おんなじ化)するには適さない「差異」も取り込んでしまう時もありますし、急いで移動しようとする時も、置いていかれる体の一部が出来てしまうことがあります。

また、とても魅力的な「栄養価の高そうな差異」が二つ見つかって、更にそれが全く反対の位置に発生した場合は、二つに分裂することもあります。スライムはあくまで「同一性」を持った差異の集まりなので、意見が分かれることもあります。

差異を食べながらも、場所を変えたり、分裂したりする「スライム」。しかしながら、根源はスライムになる前の「差異」。

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私は「差異の哲学」に対し、今のところこんなモデルを持っています。

あとは例えば、

極めて0に近いものの偶発的な収束が1になる。でもその1も、極めて0に近いものの集まりなので、「0でもあり、1でもある。」また、1以上のものも同様に「0でもあり、10でもある。また、0でもあり、100でもある。」

または物理学の「エントロピー増大則」と「散逸構造」から考えると、

力はエントロピー増大へと向かっていく。言い換えれば、物事に纏わる力は、ゆっくりと平衡(へいこう:つり合いが取れた状態、偏りのない状態、無秩序)に向かっていく傾向があります。そんなゆっくりと平衡に向かっていく只中に、非平衡なもの(つり合いの取れないもの、秩序)が生まれます。

どうして「平衡:つり合い」に向かうのに「非平衡:つり合いの取れないもの」が生まれるのか?と一見不思議に思いますが、これは「散逸構造」から考えると、「長期的には平衡(つり合い)の加速装置として働くから」だと見れます。つまり「散逸構造」とは、「長期的な散逸(平衡)状態のための構造」と言う意味合いです。

簡単な例でいえば、洗面台に水を貯めその後栓を抜くと、水は「渦」という規則的な秩序を形成して流れ出ていきます。つまり「渦を形成することで、より早く下へ流れることが出来る」と言う事です。そのため、「長期的な平衡のための、短期的な非平衡(長期的なつり合い達成のための、短期的な不つり合い)」が発生します。

ことのついでなので、更にもう一個。「万華鏡」で例えます。

「万華鏡」は、中にある「ヒカリモノ」を内部の鏡に反射させて、美しい模様を私達に見せてくれます。時には雪の結晶のように、またある時は美しい蝶のような模様を映し出します。コロコロと変わる形。似ているものに出会うものの、同じものには二度と出会えない。その筒の中で起きていることは、物理法則に従った「差異と変化」です。私達はその偶然の差異に、意味を見出す。思えばこれは、「差異、同一化、反復をより速い変化として感じることのできる、世界のミニチュア」の様にも見えてきます。私達は差異が起こす奇跡を「同一性と見ては、そこに意味や意図」と感じることが出来ます。

また最初の方で、差異について紐解いていく際に、「認識できない差異」をそのまま「差異」とし、「認識できない差異」を「違い」として見てきましたが、

「違い」に関しては、「違い」と認識できている時点で「同一性を持った差異」であると同時に、「極々微小な差異の集まり」でもある。と言えます。

ジル・ドゥルーズさんは、差異によって、「形になる前から、形になった後までの変化」「意味になる前から、意味になった後までの変化」への一貫性のある認識を示そうとしています。

モノとモノ。対象と対象の関係を語る時、そこには「差異と同一性、差異と反復(差異による同一性や反復とも言える。)」があると考えることが出来ます。

差異から見る世界

さて、ジル・ドゥルーズさんの「差異の哲学」の考え方は、私達にどのような「新しい視点」を提供してくれそうだろう?と言うことについて考えていきたいと思います。今のままだと「だから何なのさ?」と感じる人もいると思います。

ジル・ドゥルーズさんの「差異の哲学」は扱う範囲があまりにも広くて、あまりにも深いがために、全てに言及することは、少なくとも私にはかなり難しいとも感じます。

また、この哲学は「考えを変える」にとどまらず、「考え方を変える」と言った意味合いが特に強いものだと感じます。つまりは、根本的な部分からモノの見方や意味の見出し方を変えてしまうような側面があります。だからこそ、受け入れがたいと思う人もきっと多い考え方なのだとも思います。

ですがそれでも、「そこから見えてきそうなこと」と、「ジル・ドゥルーズさんの考え方の影響を強く受けたと思われる本の内容」を少し紹介することで、この哲学が「考え方の引き出しの一つ」になってくれることを願いつつ、終わりにしたいと思います。

以降、「差異」から世界を見ていきます。

世界は常に(違いも含む)差異をうけて、変化していく

人のみならず、生物、地球、宇宙を含んだ世界は差異に満ちています。

世界は常に差異をうけて、変化していきます。

ある事物は、良くも悪くも常に何かになる途中なんです。

その状態で拮抗して見えるものは、絶えず差異をうけては、時に激しく、時に緩やかに変遷している最中です。今、この時も。つまりは【~である】状態はほんの一瞬で過ぎ去り、次の一瞬にはもう【~になる】。この【~になる】の連続が多層多重的に常々、あらゆるところで起きています。

世界中の差異に比べれば、私達人間が認識している差異(違い)は本当に小さな小さな認識内での出来事であって、かつほとんどの認識できる差異(違い)には気付けないし、そんな小さな領域の差異(違い)ですら、とてもじゃないですが、全ては手に負えません。ですが、認識できていなくとも私達はその連関の只中にいます。

私達人間は、どこか人間自身を特別視してきた歴史がありますが、本当はとってもちっぽけな認識内のちっぽけな存在(あるいはむしろ同一性)、なのかも知れません。

しかし、それと同時にそんなちっぽけな人類の、更に小さな一人が、確かに世界の一端、関係の一端、差異の一端を担っています。

また私達は、私達人間の認識領域で、「国、地域、社会、他人」と区別や識別をしていますが、差異から見た時、それすらも、認識できる差異(違い)の、小さな小さなごく一部を区別し、識別し、当たり前の概念とし、切り取ることで、まるで椅子取りゲームの様に戯れているだけなのかもしれません。

そういった数多ある区別や識別の危うさ。もう一方ではその貴重さと儚さに、大きな視点から気付けるかもしれません。

全く同じものもなければ、全く同じ状態ということもない

差異から見れば、世界に全く同じものもなければ、全く同じという状態もありません。

仮に最も小さな単位である量子を見て、「素粒子A、素粒子Bの二つ」があったとしても、「AとB」、「二つ」と識別できている時点で「差異」はあります。

またそうだとすれば、全く同じ人もいないし、個人を見ても全く同じ状態はありません。

それ故に、世界の全て。またその瞬間は「置換しえないもの」であり、その時その瞬間のある事物は文字通り「かけがえのないもの」であると言えます。

その経験、その繰り返し、その出来なさ、その可能性は全て「かけがえがない」とも言えます。

私達は「出来ること、成功すること」を特に「かけがえがない」と考えることが多い気がしますが、他方で「出来なさ」にも「かけがえのなさ」を見出せるのかもしれません。もしそうであるとするなら、出来ないことの方が圧倒的に多い私達に、より多くの選択肢を与えてくれるでしょう。

一つ例を挙げるとするなら、私は私生活においては中々にポンコツなのですが、そのポンコツ具合すら私は気に入ってしまっています。笑

そのポンコツさも含めて私なんだと、思ってしまっているところがあります。

差異を受ければ「思考しなければならない」。しかし同時に、差異を受けるから「思考出来る」。

「差異の哲学」から考えれば私達は、「認識できる差異(違い)を受けて初めて思考できる」と言えます。

逆に言えば、「ひとたび認識できる差異(違い)を受ければ、思考せざるを得ない」とも言えます。

私達は「思考せざるを得ない生き物」であると同時に「思考できる生き物」でもあります。

能動的に思考する、行動するということは、一旦は受動的にならざるを得ません。

差異が先立つのだとすれば、そうなります。仮に何の違いも認識できない状態なのであれば、私達は考えることが出来ません。考える必要が無くなってしまいます。

しかし、受け身の態度、何らかの違いを受け入れる態度がある時、その対応や対処。新たな情報や新たな考え方が得られ、結果能動的と言えるような思考や行動が出来ます。

もし、現時点において独力でどうにもならない問題があったのなら、受け入れの態度を取り、新しい考え方を手に入れることは、個人的にはかなり有効な手であると感じます。また、その方法が例えば本であれば、自分のペースで進められるし、何度でも読み返すことが出来ます。

独力でどうにもならない状態も、差異によって変化します。緩やかに、確かに。

また、私達は能動的な態度が凝り固まってしまった場合に、新たな差異を受けられない可能性があります。そういった場合に新たな差異を「思考出来る状態」から一転して、新たな差異を「思考しなければならない状態」になるのだと思います。

「能動的に受動的になる」という矛盾のようで矛盾でない、絶妙なバランスが大切かも知れません。

真理は、ない~「絶対性の否定、絶対性の崩壊」とその後の、現代~

哲学はずっと真理を求めてきました。「そもそもこれってどういうこと?」を突き詰めた結果、沢山のどんでん返しとちゃぶ台返しを繰り返して、奇しくも現時点での回答は「真理はない」に行き着いています。

ジル・ドゥルーズさんは、「差異によって常に変化する」という考えから、絶対的に動かない、万人が受け入れられる、一つの間違いもない世界の答え「真理」を否定します。

同世代のジャック・デリダさんも「二項対立の脱構築」によって、「対立する立場の意見は全然解体できるし、その解体で新たな構築が生まれる。そしてその新たな構築もまた解体される。その繰り返しだよ。と言いました。加えて、「解釈の違いは発生する」という「変化の観点」の下、デリダさんもまた、絶対とされる「真理」を否定しています。

確かに、「差異」によれば何らかの「絶対的な答え」は変化するし、私達がお互いに議論するとき、何かを認識するときには、常に解釈の余地が生まれ、結果その形をも変えてしまうものです。

私達人間の歴史は「絶対性」を信じることによって、進んできた側面がとても強いです。神を、王を、真理を「絶対」とすることで、大きな一つの方向性を見出してきました。

しかし、現代においてはその「絶対性」が揺らいできています。少なくとも「大きな方向性としての絶対性」は、揺らいで久しいと思います。

その結果かも知れません。多様な生き方。「多様性」なんてことも言われています。

「多様性」と「画一性」が少々ぶつかり合っているように思える現代。

「多様性」とは多様であることを認めるあり方であり、

「画一性」とは皆一緒に同じ方向を向くあり方です。

ここで(前期)デリダさんの「脱構築」の考えを借りて改めて見直してみると、「多様性を目指す人と、画一性を保ちたい人」の中にも、いろんな形の「目指し方と保ち方」がありますよね。要は、全然分解出来ちゃいます。じゃあ、例えば「多様性を目指す人」の一部についてもう少し考えてみます。

仮に「多様性」を急進的に目指す。このような場合、

つまり、「多様性を認める」のではなく、「多様性を認めさせる」方向に向かっているのだとすれば、それは「多様性と言う名の画一性(多様であることを認めなさい。異論は認めません。)」になってしまう可能性があります。

そうであるとするなら、「多様性と言う名の画一性が、今までの画一性とぶつかっている」とも捉えられます。「多様性疲れ」なるものが散見されるのは、こういった事からなのかもしれません。

このような仮定が成立するとした上で、ひどく乱暴に言えば

「旧来の画一性が次なる新たな画一性によって、塗り替えられようとしている様。そしてその途上。」なのかもしれません。これを乱暴だと表現したのは、多様性をひとくくりにし過ぎる嫌いがある(良くない傾向がある)からです。

じゃあ、このひとくくり状態とは「違う多様性」についても考えてみると、

「違った多様性」はもしかすると、「今の社会のあらゆる在り方を個人が認めること。(ただし、秩序を乱さないという条件下で)」なのかなと思います。

とすると、その違った「多様性の体現者」なるものがいるとすれば、

それは「赦(ゆる)す者」のことかもしれません。

あれ?すいません!いつの間にかジル・ドゥルーズさんではなく、同世代の哲学者ジャック・デリダさんの考え方(前期デリダ論)になってしまいました。笑

ちなみに、ジル・ドゥルーズさんの考えから「多様性と画一性」を見るならば、「多様性」も「画一性」も私達が「おんなじっぽい(同一性)とみなしているもの」にあたるのだと思います。

「画一性は画一っぽいものである。」とすれば、よりその内実を見渡せば「多様であるものが、どうにか画一性を持ったようにおんなじっぽく(同一性)振舞っている。」とも捉えられますし、

更にその「多様性」もおそらく「多様っぽく振舞っているのであって、それ自体も画一性をより細分化したようなおんなじっぽい(同一性とみなしている)もの。」と捉えることも出来るかと思います。

つまり、画一であることがより大きな同一性であり、多様であることがより小さな同一性である。と捉えることが出来るかもしれません。このまま更に更に、細かく掘り下げていくとやっぱり「差異」に行き着くと思います。

また他方では、この一連の考えによって見えてくるのは、

「違いとしての差異を同一性とみなす私達の社会」と「認識できないレベルの差異を含んで見る私達の社会」の2つの見方を持ちつつ、世界を見渡すことが出来る。ということです。

つまり、

「共通了解としてのおんなじっぽいものを区別・識別する世界の見方」

「もっと微細な区別・識別が曖昧になった世界の見方(ぜ~んぶ、もともとは差異とその連関!と思えるような見方)」

が生まれるんじゃないかと思います。(そしてこれの融合が出来たら、また新たな見方が更に生まれるんじゃないか?と考え中です。一応その原型は、もうすでに私の中にあったりもします。ですので、次の記事での展開をします。)

こう考えると、おそらく「区別と識別」がより緩やかに、曖昧になった時でも、「性差や人種」などの問題が緩和されるんじゃないかと言うことかな、と思います。

しかしその一方では、これが社会で達成されるには、とても複雑な関係を含む問題がある以上は、これは言うほど簡単じゃないとも感じます。社会に属する多くの人が「そういう雰囲気」になっていくことは、なかなか容易ではないでしょう。(社会制度として成立しても、人々の心がそれについていけない場合があるし、人々の心が先行して、後に何らかの制度や規則が出来る場合においても、やっぱりどこかが上手くいかない。なんてことは歴史上何度も起きていると感じます。)

とはいえ、今ある「多様性」と呼ばれるものも、「画一性」とよばれるものも、その形を変え、分裂もして、新たな概念的な共通了解っぽいものが生まれたりするんだろうと思います。

ジル・ドゥルーズさん的に言えば、「差異」によって「異化―分化(異なっていく、分かれていく)」が起き、また違った形の「同一性(おんなじっぽいもの)」が「精神の同一性(共通了解が生まれるようなおんなじっぽいもの)」として「再現前化する(再び目の前に現れる)。」と言えます。

また、ジル・ドゥルーズさんによれば「この考えも差異をうけて、常に変化する」ので、おそらく私のこういった考えも行く行くは変わっていくのだろうと思います。

「面白いとは何か?」について差異と同一性で考察してみる

ここではもうちょっと緩い話題で肩の力を抜きながら展開していきます。

「面白いとは何か?」を差異でもって考察していきます。

差異から考える「面白い」とは、「意外性のある差異(違い)の達成」もしくは「期待された差異(違い)の達成」

なんて言えるのかなと思います。

私達が「面白い!」って思う時は、同一化していない(おんなじ化していない)、意外性としての差異(違い)があるんじゃないですかね?つまりは、全く予想外で意外な差異(違い)が達成された時、あるいは期待された差異(違い)が達成された時、「面白い!」と思うんじゃなかろうか?ってことです。

例えば、

前に見たコントでこんなやり取りがありました。(どの芸人さんかは忘れちゃいました。)

観光バスで移動している設定の上で、一人は「バスの添乗員さん役」。もう一人は「乗客役」を演じています。

添乗員「本日は〇〇バスをご利用いただき、誠にありがとうございます。」

乗客「・・・。(ムスッとしたご様子。)」

添乗員「私、かつて歌手を目指していたことがあったんです。ですので、この場をお借りして歌を披露していいですか?」

乗客「やめろや!すな!」

・・・と、こんな感じで、歌いたい添乗員さんと、なかなかの悪態をつきながらそれをどうしても拒否したい乗客のやり取りが次々と進んでいきます。そしてある程度話が進んだところで、

添乗員「もう!!どうしてそんなひどい事言うんですか!?」

乗客「・・・いやこれ、深夜バスやで!?」

・・・どうでしょう?私が文字化したことによって、もしかすると面白さが無くなってしまったかもしれませんが、

このコントではもう一つの「深夜バス」という設定が隠されていた結果、意外性としての差異(違い)が達成されていると思うんです。オチで立場が逆転しちゃう面白さを私は感じました。

さて、これが「意外性のある差異(違い)の達成」として、

もう一方の「期待された差異(違い)の達成」を、端的に言えば、

アレが来る・・・!あのオチが来る!・・・・キターーー!

的なやつです。

つまり、

「意外性のある差異(違い)の達成」は初めましての面白さ、

「期待された差異(違い)の達成」は何度か見知った上で、期待しちゃう面白さ、

なんじゃないかな?と考察してみています。これが差異によって成立するとした場合、やっぱり「差異の取り込みによる同一化(おんなじ化が進む)」も起きると思います。

要は、あんまり見すぎると、そこに意外性としての差異(違い)が無くなって「面白くないかも。」となるだろうという予想が出来ます。

また、おそらくは差異を受ける側が、「少なくとも不快でないこと、受け入れ態勢があること」も条件になるんじゃないかと思います。

つまり、

ある人に、あんまり好みでないと思われているような芸人さんは、好みでないことを超えるような意外性を発揮しなくちゃならないので、おそらくめちゃくちゃハードルが高いと思います。また、その芸人さんが「好みでなくなった」のは、不快な意味での差異を達成してしまった。もしくは受け手側が「その芸風に対し、あんまりいい印象がない。」のかもしれません。

加えてこの「面白い」は、例えば本であったり、会話であったりにも適用できる気がしています。

「意外性や新規性のある本は面白い」し、「期待に答えてくれる会話は面白い」んです。となれば、逆もまたしかりです。

さて、この項を纏めるならば「面白い」とは、

「(同一性から見て)意外性のある差異(違い)の達成。もしくは期待された差異(違い)の達成である。」(ただし、不快でないこと。フラット以上の感情があること。あるいはその場においては不快な感情を払拭するほどの好意的な意外性を達成すること。)

とこのようになると思います。

だとすると、例えばコントでは「いかにその設定を理解してもらうか?また、いかにその設定から逸脱した好意的な差異を生み出すか?」がとても重要で、

本や会話、物語などでは「一般常識、社会通念や各々にある想定や価値観から、いかに逸脱した好意的な差異(違い)を提供できるか?」がとても重要になると思います。

もしこの話が

「なるほど!」もしくは「その通りだ!」と思えば「面白い」と感じるし、

「いや、そんなわけないだろう!」もしくは「おいおい、これが抜けちゃってるよ?」と思えば「面白くない・・・」と感じるんじゃないかな?と思います。

以上、「面白い」についての考察でしたが、こんな感じで差異をいろんなレベルで用いてみると、新たな視点が手に入るかもしれないよ!ってことが伝えたかった次第です。

先ずは、「〇〇ってそもそも何だろう?」に対して、「差異」から考えてみるといいかもしれません。今回は、「面白いって何だろう?」に対して、「じゃあここで言う差異にあたるものと、同一化や反復にあたるものはなんだろう?」と考えてみたものです。

実際ジル・ドゥルーズさんも、「差異」から他の哲学の考察と再解釈をしています。

ジャン・ボードリヤールさんの「消費社会の神話と構造(新装版)」を読んでみる

最後に、おそらくジル・ドゥルーズさんの「差異の哲学:特に『差異と反復』という本の意味内容」の影響を強く受けたであろう本の紹介です。(他方で、言語学のソシュールさんの「手稿」に書かれている記号論のニュアンスも感じますが。)

それが社会学者ジャン・ボードリヤールさんの『消費社会の神話と構造』です。

この本は、1970年に刊行された本です。内容は現代社会の消費活動についてなんですが、私が読んだのはこの本の「新装版(新しいバージョン)」です。これがとにかく面白いと感じました。

なにより、先ほども言った通りおそらく「差異の哲学」の影響を強く受けたと思われる記述(具体的には差異、同一化など)が沢山あるんです。

なので「ジル・ドゥルーズさんの哲学を社会に当てはめてみた!」的な読み方が出来る本なのではないかとも思っています。

2023年ももうすぐ終わりの現代で、50年以上も前の社会についての本を読んで本当に意味あるの?と思われるかもしれませんが、現代にこそクリティカルヒット!している本です。また、だからこそ「新装版」が出版されたんだと思っています。

じゃあここから、この本を読むとっかかりとして、少しだけその内容をご紹介します。

消費社会の神話と構造』はそのタイトル通り、

「消費社会は神話だよ。私が神話だと言っている根拠として、その構造をたくさん見ていくよ!」と言った内容です。

このままだと分かりにくいのでもう少し踏み込むとこんな事を言っています。

「社会で消費されるモノは、その実際の機能よりも【それに付与された記号】をメインに消費しているよ。つまりはその商品に付与された【付加価値と言う名の差異(違い)】を消費しているんだよ。実より付加価値を消費している、という意味でこれは神話だ。」

こういった認識の基、展開していく本です。

つまり、差異(違い)をエモいと言っては消費、同一性をダサい、古いと思っては再びエモさを消費する。更には、その消費の傍らで、まだ十二分に使える商品の廃棄も同時にされている。

みたいな内容が散りばめられた本です。

ある人によっては驚愕しながらも面白いと感じ、またある人にとってはモヤッとする本です。結論については、どうぞ消費社会の神話と構造』をご覧になっていただきたいなと思います。

そして読んだ方向けに、こんな言葉があります。

シラケつつノリ、ノリつつシラケること、これである。

浅田 彰 『構造と力』

『消費社会の神話と構造』を読んで「じゃあ、一体どうしたらいいのさ?」と思った方は、浅田彰さんのおっしゃった事を、一つの案として試してみてはどうでしょう?

逃れられないのなら「シラケつつもノッてみて、ノリつつもシラケてみる」のは一考の価値があるかと思います。

今回は、ジル・ドゥルーズさんの「差異の哲学」を感じる回でした。

また、ジル・ドゥルーズさんの哲学は、フェリックス・ガタリさんとの共著である『アンチ・オイディプス』の方が人気です。こっちも面白いですが、やっぱり難しいのでお勧めは出来ません。笑

『アンチ・オイディプス』の内容に非常に乱暴かつ簡潔に触れるなら、「権力や精神分析などの構造を解体する内容」です。つまり、

「形にとらわれ過ぎてないかい?そういう構造化したものは、もっと複雑な要素から成り立ってんだと思うよ。それなのに構造化できちゃうのは、その複雑で分からない部分に蓋をしてしまっているだけなんじゃない?というわけで、こじ開けちゃいます!」的な内容をちょっと過激に危なっかしく繰り広げます。

少し話が逸れましたが、個人的にはジル・ドゥルーズさん個人の哲学である「差異の哲学」に、より魅力的に感じたのと、「差異の哲学」からジル・ドゥルーズさんの関係する著作を読むと、より理解が深まると感じたため、紹介した次第です。

ジル・ドゥルーズさんの著作はどれも、その根幹に「差異」があると思います。

あるいはむしろ、差異こそが、唯一の極、すなわち、現前と明確さの唯一の契機ではないだろうか。差異とは、そこで規定作用ソノモノを語ることが出来る当の状態なのだ。

ジル・ドゥルーズ 『差異と反復 上』

したがって、物質は精神の同一性である。換言するなら、概念の、ただし、自分の外に置かれた、自己意識なき、疎外された概念の同一性である。

ジル・ドゥルーズ 『差異と反復 下』

最後に、「差異や解体」に進んだ「西洋の考え方」を、「東洋の考え方」と出会わせる無茶にも挑戦しています。常識的な認識からすれば、かなり不可思議に感じるような内容を展開していますが、もしご興味があれば。笑

今日のあなたの一日が「それすら差異が先立つ、という視点」を獲得する一日である事を願って。

読んでいただきありがとうございます!

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