カオスと渾沌、二つの「無」~西洋の「カオス」と東洋の「渾沌」における「無」の微妙かつ重要な違い~

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生き方

今回は「西洋の【カオス】と東洋の【渾沌】の表す【無】は、実は微妙に違っていて、その違いが分かると東洋の典型的な矛盾は、矛盾じゃなくなるよ!」的な話をしていきます。

一見すると、東洋でよく見られる「有でありながら無。無でありながら有。」と言った言葉は矛盾しかないように思えます。しかし、実のところ東洋的な見方をすれば矛盾していないんです、と言ったことをなんとか言葉で説明していきます。

「カオス」と「渾沌」の間にある「無」の微妙な内実の違いは、そこから展開され、拡がっていく内容ともなれば、ことさら大きく違ってきます。

では、早速いきましょう!

カオスと渾沌は、実は微妙に違う概念

「カオス」、「渾沌」

という言葉を聞いて最初に思い浮かぶのは、おそらく、

無、無秩序、グチャグチャ。だったりですよね。ニュアンスで言えば、破壊的で攻撃的な感じがする人がほとんどではないかと思います。

例えば、剣と魔法のファンタジーなどに登場する「魔王」が、よくこんな事を言います。

「この世界をカオス(渾沌)に!全てを【無】に帰してやろう!」

はい、今私の頭の中には不敵な笑みを浮かべて、両手をガバッ!と広げた魔王様がありありと浮かびました。(ちなみにマントもひらひらしていて、さもラスボスと言わんばかりのBGMも。)

やっぱりファンタジーは西洋的なイメージが強く、カオスや渾沌と聞くと、

「絶対的な無と破壊」。それもかなり「虚無」っぽいような感じを受けますよね。

せっかく積み上げた秩序の破壊。平和や安寧(あんねい)を脅かすもの的なニュアンスを感じやすいかと思います。

この「カオス」の語源は古代ギリシャにあって、すごく簡単に言えば、

「すべてがグチャグチャに混ざり合った状態。」です。この、全てが溶け合って区別が無いような状態。これを、

古代ギリシャと西洋文化では「カオス(ケイオス)」と呼び、

古代中国では「渾沌」と呼びます。

さて、一般的な理解としては、「カオス」と「渾沌」を同義語として。つまり、「カオス=渾沌」として、おんなじ意味と捉えて使用しています。(実際にはカオスやら渾沌やらと、日常の中で使用する機会はほぼないと思いますが。笑)

しかし、西洋的な意味での「カオス」と、東洋的な意味での「渾沌」は、実のところ、「本源的にはその内容、その内実が微妙に違う」んです。

今回はその違いを見ていきたいと思うのですが、私達現代人は、かなり西洋的な文化基盤の基、生活をしています。(資本主義、民主主義、科学、等々。)ですので先ずは、西洋的な見方から見ていくことで、理解が捗るんじゃないかと思う次第です。

西洋から見た「カオス」~カオスとコスモスの対立~

「カオス」は、

先にも言った通り、古代ギリシャからその語源が来ています。

また、冒頭で「魔王」の話をしましたが、西洋における「カオス」はどうしても、「強制的な虚無への恐怖」と、それに伴う「絶対的な悪感」がものすごく強い印象として残ります。

この「虚無」っぽさや、「悪役」っぽさの大きな要因の一つとして、やっぱりギリシャ的な考え方の影響を色濃く受けた西洋の価値観があります。

カオスを「無」とするならば、その反対の「有」もまたあります。

カオスの正反対に位置する言葉を、

古代ギリシャと西洋哲学では「コスモス」と呼びます。

古代ギリシャにおける「コスモス」を平たく言えば、

調和がとれ、整った状態。を意味します。つまりは「秩序」と言う事です。ギリシャと西洋文化における「カオスとコスモス」は正反対の言葉です。

「正反対の概念というものは、どうしてもそこに対立関係が築かれてしまう」もので、こちらも例外ではありません。

「無と有」、「無秩序と秩序」、「闇と光」、「破壊と構築」、「不和と調和」の様なニュアンスで、互いが互いを拒絶しあい、抵抗しあうような位置関係が成立しています。

コスモス(秩序)からすればカオスは、「破壊と虚無」そのものであって、出来ればカオスを避けたい、カオスを解決したい。と言った忌避感(きひかん)があります。

実際西洋文化の歴史は、カオスに対する根強い恐怖感があります。

そしておそらく私達現代の日本人も、生まれた時から西洋的生活基盤とその文化の影響を相当に受けているので、西洋的、それもかなりコスモス(秩序)側の感覚は掴みやすいんじゃないかと思います。

西洋の「カオス」に対する価値観を簡単に要約するなら、

「カオスは秩序だったものや、積み上げてようやく手に入れたものを壊してしまう、無に帰すような悪。そしてそれはカオスとコスモスの対立関係によってより強く、対照的に見出される」と言えると思います

ここまでは、西洋的な「カオス」、そして「無」を見てきましたが、ここから東洋的な「渾沌」、そして同じく「無」について見ていきます。

先に言っておくならば、「東洋の渾沌」は「虚無」でも「破壊」でも、「対立関係」でもないよ!ってことです。

東洋から見た「渾沌」~「無」から生成された「有」~

ここから東洋的な「渾沌」と、それにまつわる「無」を見ていきます。

こちらについては馴染みが無い人の方が多いと思います。ですので、おそらく結構な衝撃を受けるかもしれません。

なぜなら、東洋哲学や東洋文化においての「渾沌」は、

あらゆるものの始まりの源」や「あるがまま生(なま)の世界

と捉えるからです。

おそらくは「え?どういうこと?」と思われた方もたくさんおられると思います。

西洋での「カオス」による「無」は、「虚無」っぽさが際立っていましたよね。

しかし東洋での「渾沌」による「無」は、端的に言うならば、

「私達が意味や名前を言葉で与える前の、生(なま)の現実」を指しています。

東洋では、「私達は、本来何の区別もない世界を、区別ある世界」として見えいる、と考え、

その上で、ならば、と個人として「区別の世界から、生(なま)の世界」へのなだらかな深化と回帰、を目指す。

つまり、自分の中で今あるモノの区別をできうる限り取っ払い、そのまま見る、と言ったことが東洋全域の根本原理のように根付いています。

あらゆるモノは、この「生(なま)の世界」に対して、テコ入れすることで、区別されて生まれてるんだよ!的なことを東洋哲学では言っています。

こうしてみると西洋的「カオス」と東洋的「渾沌」は、「無」という点では同じ意味性を持つけど、その内実は微妙に違うということが次第に理解できてくるかと思います

「渾沌」はまっさらな「無(虚無)」ではなくて、「あらゆるものの始まりの源」として、むしろ「あらゆる母体」の様に考えられています。またそうなると東洋的な「無」は「破壊」でもないんです。今ある存在の世界をそのままに、ただただ区別や識別を超えていき、その「母体」を体感すべく、あくまで意識を掘り下げる試みをしています。つまり、今の世界に対してなんらかの環境的・物理的変化を施そうとしているのではなく、「今の世界はそのままに、区別をなくして逍遥遊(こころまかせに遊ぶ:しょうようゆう)」することが「無の境地、渾沌の境地」です。

また加えて「この世界の区別がどんどんとされるほどに、対立関係が生まれ、それによって辛い事とかも一緒に生まれちゃってるよね。」的な考えも根底にあります。つまりは、切れ目や繋ぎ目の無いシームレスな世界の認識を根底に置いています。対立の無いシームレスな世界に区別を施すからまるで対立している様に感じちゃうんだよ!と言った理解が東洋的価値観ではなされています。

さて、この東洋的価値観への理解が深まってくると、

いよいよ「有でありながら無。」「無でありながら有。」

のような、今まで矛盾しているように見えた全く意味不明な文章も、東洋的見地からすれば矛盾していなくて、かつ意味も分かる文章に変わってしまいます。

一枚布とコブ

有でありながら無」、「無でありながら有」。

という矛盾が矛盾ではなくなるとは、つまり、

【分割された世界の見方を、無分割へと自分の中で紐解き、】更には

【無分割の世界から、分割された世界を見ること】

です。

無分割が、分割されたことによる「多」。

多くの「有」の分割を紐解いていった先にあった、「無(無分別、無分割)、一としての渾沌」。

多が多でありながらも一。

有が有でありながらも無。

これが「東洋を貫く価値観」です。

それはまるで、一枚布の上にコブが生まれ、そのコブの特徴ごとに区別を施しているかのように考えるのが、東洋的な考え方です。

コブと布はおんなじ「一」であって、あえて区別をするのなら「あのコブ」、「そのコブ」と出来ますが、よくよく考えると一枚布じゃん!独立した存在できるコブなんかないじゃん!的な考え方をします。

しかし勿論、「東洋の考え方が、全部この考えに収まるよ!」と言うことではありません。

例えば孔子、孟子や荀子、韓非子などは、むしろ「〇〇とはこうだ!」のような正統派(ギリシャ的)とも言えそうな哲学を繰り広げます。

ここで言っている「東洋を貫く価値観」と言うのは、「なぜだかイスラム哲学、インド(仏陀さん『スッタニパータ』や龍樹さん『中論』)、中国(老荘思想や『大乗起信論』、それに禅や華厳哲学)、それに歴史の途中から日本でも。どの地域にも、かなり似た【無分割的な無、渾沌的な一】を説く、根本原理のようなものが確かにある。」と言う事です。

また、根本的な考え方は著しく似ているけど、その根源に「神、もしくはそれに値するもの」を置くか否か?(これは神のおかげだ!とするか?はたまた、ただのあるがままの現実がそうあるだけだ!とするか?)などによって、微妙に変わり、複雑に入り組んだ違いを持ちます。

加えて、何よりこの考えは「説明するのも、理解するのも、とっても難しい!」と言うのが最大のネックだとも感じます。

と言うのも、そもそも「渾沌や無と一応呼んではいるけど、あくまでこれは仮の名で、ホントのところは言葉では言い表せないんだよね。」的なことを、東洋では言います。

つまり、言葉では表せないそれを、便宜上、なんとか表すための仮名(けみょう)として使用していて、最終的な到達点は「言葉じゃ言い表せない」、と言うところがあります。

実際、この考えを打ち出している人々は、

「まあ、分からないよなぁ・・・。」と言わんばかりに、最終的に「無言」になったり、「君の場合はこうしたらどうかな?」的な個別具体的な提案をするにとどまったり、常識的には矛盾する物言いをして、自分で気付いてもらえるような態度をとります。

山の境界線ってどこにあるんだろうね?

さて、最後に東洋的な「無や渾沌」をもう少し理解するために、

「山」について考えてみます。

皆さんは山の境界線ってどこにあると思いますか?

確かに山には、経済的な区分はあるようです。

ですがここでは、純粋な山の境界線について、考えてみます。

地殻変動やら、噴火やら、なんやかんやで盛り上がった大地を、私達は「山」と呼びますが、実際、純粋な意味合いでの「山の端っこ、山の切れ目」ってどこにあるんでしょうか?

後から定義することも出来ますが、「今現在として、山の境界線の定義が決まっていなくとも山」として、私達は山を指したり、「〇〇山」と名前を呼ぶことが出来ます。

何より、私達自身が山の境界線を知らなくとも、山と呼べています。ここに一つの東洋的考え方の理解のためのカギがあるかと思います。

さてではそのカギを用いるべく、「2つの引用」を載せて、終わりにしたいと思います。

道行之而成、物謂之而然。

荘子 『荘子』 内編 斉物論

これは荘子(荘周さん)の有名な一文です。意味は下の様に訳せます。

道路は、そこを通ることによって道路「となる。」

個々のモノとは、「それである」と言うことで、それ「になる。」

これには、先にいった【分割された世界の見方を、無分割へと紐解く】ような文脈が見え隠れしています。つまりは、「じゃあさ、道になる前は何だったんだろうね?モノになる前は、一体何だったんだろうね?」と考えるための足掛かり的な内容を見出せます。

老僧、三十年前、未だ参禅せざる時、山を見るに是れ山、水を見るに是れ水なりき。後来、親しく知識に見えて箇の入処有るに至るに及んで、山を見るに是れ山にあらず、水を見るに是れ水にあらず。而今、箇の休歇の処を得て、依然、山を見るに祇だ是れ山、水を見るに祇だ是れ水なり。

青原惟信

加えてもうひとつ。こちらも有名な青原惟信(せいげんいしん)さんの言葉です。

30年前、老僧がまだ参禅していなかった頃、「山は山」で「水(川)は水(川)」でしかなかった。良き師に出会い、修行し、至って(悟って)みれば、「山は山ではない」し、「水は水ではない」となった。そして今では、「山はただの山」で「水はただの水」だ。

こちらは先の荘子(荘周さん)の文脈と比べると、かなり難易度が上がっています。

当初、「山は山」で「水(川)は水(川)」だったところから、【分割された世界の見方を、無分割へと紐解く】ことで、山は山では無くなり、水(川)は水(川)では無くなっています。ここから更に【無分割の世界から、分割された世界を見ること】で、「山は【ただ】の山」になります。しかしおそらくはこの【ただ】、と言う言葉が非常に重要なんじゃないかと思う次第です。

山は山ではないと同時に、あえて区別をするなら「ただの山」と言える。「渾沌、もしくは無」と「有」を行ったり来たり、あるいは同時に見定めています。

さて、今回は西洋的「カオス」と東洋的「渾沌」の微妙な違いを見てきました。

どうしても東洋の方は馴染みが無いし、理解しにくいので説明の割合が東洋よりになってしまいました。

また、個人的に「関係」の要素から、これらを紐解こうと頑張ってみた一個前の記事があります。そちらもひょっとすると東洋的な考え方の理解の一助になるかもしれません。

今日のあなたの一日が「カオスと渾沌は、ちょっと違うんだな」ってなる日であることを願って。

読んでいただきありがとうございます!!

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