「助け合い」は動物の本能

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感情

こんにちは!幸せマンです。
今回は、誰かを助けたり、助けられたり、またはそれを見たりして暖かい気持ちになるのは「助け合い」や「思いやり」が動物に組み込まれた本能だからです、と言う話をご紹介します。
誰かを助けるとは、感覚的な話では無く、心にも脳にも良いものなんです。

では、早速いきましょう!

世界中で助け合いが起きている


今も世界のどこかで「助け合い」は起きています。争い、奪い合う回数よりも遥かに多い頻度で起きています。

映画やドラマで、自分の命を投げ打ってでも誰かを助けるシーンに胸を打たれます。私達は素直に心を動かされ感動しますよね。
映画やドラマを見る目的は「心を動かされる」事を私達は本質的に求めているがため、見ているんです。

この「心を動かされる」瞬間は日常生活でも起きていますよね。ちょっとした時に、道を譲ったり、あるいは助けたり、救ったりする場面に出くわします。そんな瞬間を見て、自分の事ではなくても、まるで自分がそうしてもらったように暖かい気持ちになりますよね。

他者を助けるという行為に対して暖かい気持ちになるのは、なにも人間だけではありません。「助け合い」は他の動物であっても、本能に組み込まれているものなんです。

自然の中で生きる動物の映像をテレビ等で誰しも見た事があると思います。
例えば
サバンナに暮らす草食動物達の群れが肉食動物に襲われた際、子供はどうしても群れから遅れてしまいますが、その襲われそうな我が子を母親が助ける。といったシーンを目にします。これを見た時、当然ながら、動物にも本能的に守ろうとする意思が備わっている事を感じる事ができます。

またさらに言えば、ある動物が、別の動物を助けることもあります。その種として、「同じ仲間や家族」を助けるだけにとどまらず、別の種も時には助けるんです。動物たちも「誰かの痛み」を目の当たりにすると、居ても立っても居られないのかもしれませんね。

動物達は、我が子が寒くないように暖め、また、外敵から身を守るために、誰に言われたでもなくそうします。これら全ては「助けたい誰か」のために本能的に備わっているんです。

奪う側にも助けたい誰かがいる


反面、動物達が食べ物を奪い合うシーンも見た事があると思います。奪い合いの際、そればかりに目がいってしまいますが、その奪う側にも根源には「守りたい誰か」がいるんです。

草食動物を襲う肉食動物にも、狩りで大きな怪我を負うかもしれない、という恐怖と戦いながら「助けたい誰か、守りたい誰か」のために必死で狩りを続けます。

人間の間で罵り合いや紛争が起きてしまうのは、元を辿れば、自らの所属する集団やグループを「助けたい」という気持ちからから起きていますよね。

とはいっても人間が起こす紛争に肩入れしているわけではありません。むしろ、守りたい誰かがいるのなら、紛争を手段にする必要は無く、人間らしく言葉で、と思っています。

少し話が逸れましたが、この「助けたい誰か」の本能を奪ってしまうものが人間社会にも動物にもあるんです。

「助けたい誰か」という本能は裏返る


誰かを助けたいという本能は、奪われ、裏返ってしまうことがあります。
この本質を探るには、動物達から見ていった方が分かりやすいと思います。
助け合いの本能を奪ってしまうもの。

それが「孤独」です。
私達人間を含め、動物達は、その集団からハジキものにされた時、本来持っていた「助け合い」の本能を次第に失います。失うというより、裏返る、といった方が適切かもしれません。

孤立したサルを観察した研究では、そのサル本来が持っていた助け合いなどはせず、攻撃的になります。社会性を失っていくんです。その反面、自分で自分を抱きしめるような仕草を取ったりと、実に悲しそうなのもまた事実です。繋がりは求めているけど、怖くて繋がれない状態が生まれてしまいます。集団行動を基本にした動物達は一人でいると、悲しいんです。

私達は「心の孤独」を感じている


これは私達にも言えます。私達人間の場合は、沢山の人に囲まれているのにこれが起きています。
沢山の人がいながら寂しさを感じてしまうのは「心の上では一人ぼっち(精神的な意味での孤独)」である事がいえるんじゃないかと思います。
これだけの人がいる現代であるにもかかわらず、自らの意思でもって心を一人ぼっちにしてしまっているんです。
自分の意見を守りたいがために、他者の意見が怖いがために、これで良いと決意してしまった結果、心の上では一人ぼっちになり、心が泣いているんです。

一人でいる事を決意してしまうと「守りたい誰か」は次第に自分だけになってしまうんですしかしこれは、いつまでも満たされない気持ちと闘い続ける事になります。

ずっと寂しいと感じ、悲しいと感じます。
心が一人ぼっちになったのは、自らの決意によってである事がほとんどです。

否定される事が怖い、と言う気持ちは多かれ少なかれ誰しも持っています。反面、本当は認め合いたくて仕方が無く、助け合いたくて仕方がない気持ちも誰もが持っているんです。

私達が否定されるのが怖いように、その相手も否定されるのが怖いんです。
相手が持っている怖いという気持ちを先ずは、私達のほうから歩みよらなければ一向に事態は良くならないんです。

否定が怖いを克服する内容は、私の記事にもあるし、他の人や本でも学ぶ事が出来ます。学ぶだけで、今よりずっと楽になれます。何かのきっかけになれたならこんなに嬉しい事はありません。一度ご覧頂き、「いらないな」と思ったら切り捨てていただいて全然かまいません。ただ、見ない事には知る事さえできません。

怖いからこそ皆で繋がる事が必要だと、強く感じています。私達は一人では生きられないけど、ありがたい事に沢山の人がいてくれます。繋がりを断ち切るための決意は救われないんです。
誰かに優しくできないような社会が築かれつつあると感じるならば、それは皆が「心の上で一人ぼっち」であるからだと思います。
本当は皆で繋がり、協力したいはずなんです。

怖いと思う本能を無くし、繋がる本能を強める。

これが現代社会に必要な事です。

繋がりって凄いんです。たとえ、大きな失敗をしても待ってくれている誰かがいるだけで、私達はいとも簡単に再び立ち上がれます。そこに誰かがいてくれるだけでそれが私達の力になってくれます。

また、私達はいずれにせよ、どこかで関係があるものです。必ず何かと何かの関係があるから「事実」というものは生まれていたりもします。

もし、「繋がり、関係、事実」や「心のあり方」についてもっとよく知りたい場合は、個人的にウィトゲンシュタインさんをお勧めします。彼は「関係としての事実」を紐解いた歴史上の天才の一人です。

私達には言葉がある


私達人間には言葉があります。時に、私達は誰かを傷つけるために言葉を用いてしまいますが、言葉の本質はそんなところにはありません。

言葉の本質は、より「助け合い」を作り出すためのツールです。
私はここ数年、誰かを貶めるような言葉を使わないでいられる環境を自ら作り上げました。使わないように気をつけているのでは無く、使う必要がなくなったんです。

職場などの環境は一切変えていません。変えたのは「考え方」のみです。
これはいつからでも得られるものです。私の人生の幸福感は今までとは比べ物にならないほどです。

考え方や生き方ひとつで誰かを罵る必要がなくなります。お高くとまっていた過去の私自身こそが、幸福を感じなくなっていた何よりの原因だったんです。

違う意見は貴重だと感じ、むしろ見聞を広めてくれる1つの案になりました。むしろピンチだと思っていたものは、考え方次第でガラリと変わり、チャンスになりました。

「助けたい誰か」を守るため、言葉で、暴力で争ってしまうのは、その「助けたい誰か」を自分のみ、もしくは自分の周囲に限定しているからです。分かろうとする機会を自ら失うようにしているからです。

争う必要も、罵りあう必要も全くない事を沢山の人に知ってもらいたいと心から願っています。

今日のあなたの1日が「助け合い」の本能を知る1日である事を願って。
読んでいただきありがとうございます!!

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