語りえぬものについては、沈黙しなければならない~ウィトゲンシュタインさん 『論理哲学論考』②~

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人間関係

こんにちは!幸せマンです。
今回は前回に引き続き『論理哲学論考』(略して『論考』)の続きとなります。
一応、冒頭では前回のおさらいをサラッとします。
今回は天才哲学者ウィトゲンシュタインさんの『論考』を結論まで一気に駆け上がりそしてその頂点から「論考という険しい山全体」を見ます。

では、早速いきましょう!

前回のおさらい「世界と思考:事実、現実、事態」と「言語:世界の表現模型」


前回、おそらくは『論考』を理解する上で最も重要な前半部分を見ていきました。ちょっと難しくしすぎた感も否めませんが、私の能力ではこれ以上は厳しかったと、正直に言っておきます。

さて、前回の内容をざっくりとおさらいすると
「世界は全ての事実から出来ているよ(事実の総体だよ)。でもその一方で私達の頭は、世界で起きていること以上に広い範囲【論理空間】で思考できてしまう。その状態でさらにそれを「像:表現の模型」として言語などで表現しているんだけど、そのおかげかそのせいで、私達は【語りえないこと】まで表現しようとしてしまうんだよ。なので一旦これ以上分解できないような、その構造を読み解く手段として、人工言語、作るよ!その限界は純粋な言語としての構造の限界を示すから、そうなれば日常言語の限界まで示せるよ。これでどこまで【語りうる】かの線引きが出来るね!」

こんな事に触れていきました。また、その副産物として「事実とはなにか?」「事態とはなにか?」「現実とはなにか?」などの定義付けも、ウィトゲンシュタインさんがしてくれます。それだけでも一見の価値があったかと思います。

そして、ここから
「人工言語について」
「意味が分かるけど、意味をなさないものについて」
「じゃあ、私達は結局何を【語ることが出来るんだろう?】という事について」

ひとつずつ見ていきます。

では早速、「人工言語」についてです。

人工言語としての記号論理学


さて、ウィトゲンシュタインさんは「言語の構造を読み解くような完璧な人工言語」を作るために、師匠でもあるフレーゲさんやラッセルさんが革新的に進歩させた「記号論理学」を基に、更に進歩させた分析を行っていきます。

と、その前に、
前回の最後で触れた「要素命題」と「複合命題」についておさらいします。
「要素命題」は「[名:これ以上分解できない原子記号]を組み合わせて出来た言葉」の事であり、
「複合命題」は「名が組み合わさって出来た要素命題と要素命題を更に組み合わせたもの」です。

さて、ではまず「記号論理学」についてです。

「記号論理学」は
「要素命題:名の組み合わせでできた言葉」を「p」や「q」、あるいは「r」などで示し、更に「論理定項」と呼ばれる、
否定「~(ではない)」、連言「.(かつ)」、選言「∨(または)」、条件「⊃(ならば)」、

または全て「∀」、ある「∃」、などを用いて「p、q、rなどの要素命題を繋ぎ合わせ、複合命題として」記述します。

これらを使用すれば、例えば「私は人間であり、かつ、日本人である」のような便宜上の複合命題はp=私は人間。q=私は日本人。とすると
「pである、かつ、qである」という感じで表されます。

更に「論理定項」を使用すれば、
(p.q)と、これだけで表すことが出来ます。とってもスッキリしましたね!

とはいえ、論理記号学自体をあまりにも深く見ていくのはちょっと厳しいと思うので、
出来る限り「この人工言語の話は、要点だけ分かる形」でご紹介します。

もう少しだけ見ていきますが、ご了承いただければ幸いです。

さて、先ほど上でみた(p.q)のように「要素命題に論理定項を加えて複合命題を作る」事によって、その他のものも
「pである、または、qである」は(p∨q )
「pである、ならば、qである」は(p⊃q

などとすっきり記すことが出来て、更には言語の構造に特化も出来ます。

これによって何をしたいのか?というと
「~(ではない)」や「∨(または)」などの「論理定項」によって言葉を「あらかじめ」操作した時、「この組み合わせ(複合命題)の時点で、言葉としてそれが意味を成すかどうか?を調べよう!」ということです。

言葉による意味のあいまいさをできるだけ少なくしようとし、かつ組み合わせ的に成立するものと成立しないものを列挙することで、経験せずとも、そもそも意味をなさない言葉をあらかじめ炙り出そうとしてるんだ、と理解していただければと思います。つまり、文章の繋がりとその構造の時点で「語りえないものは何か?」を示そうとしています。

そしてこれをさらに改変するため、
「6 真理関数の一般形式はこうである。[p,ξ,N(ξ)]これは命題の一般形式である。」
といいます。

「真理関数」を平たく言えば「言語の真偽(意味があっているのか間違っているのか?)を確認するこの作業が、まるで一つの値が決まってしまえば答えの導き出せる関数」の様になっている、ウィトゲンシュタインさんの「人工言語の真偽の判定」の事です。

つまり6の主項目は
「言語の真偽が分かる関数はここからこうやって表すよ!どうやってかというと、
[p,ξ,N(ξ)]を使用してだよ!」

こんな事を言っています。また一応触れておきますが、
[p,ξ,N(ξ)]のそれぞれの意味は、
p;要素命題の事。
ξ:要素命題と要素命題。つまりは複合命題の事。
N(ξ):Nは否定の事。なので言語化するとN(ξ)は「(複合命題)の否定」の事。

となります。

例えば
(N(私は人間である、日本人である))は、
(私は人間「ではない」、日本人「ではない」)
と表せます。

じゃあどうして先ほどよりも難しそうな[p,ξ,N(ξ)]を使用したのかというと、
「すべての論理定項(かつ、または、など)は、否定Nで表せちゃうから。そしてその方が複数の条件を見なくて済み、Nのひとつに纏められるから。」
です。

ウィトゲンシュタインさんは『論考』においての「現実」を、「起きたことと起きていないこと」と定義し、またそれらの全てを「世界である」としています。そう考えるとこの作業。要するに、否定のNで表すことは「有るものと無いもの」である「現実、及びその総体である世界」との対比・対置を行える方法である、と考えられます。

つまりは「こちらの方が一本道を通せるぞ!」というウィトゲンシュタインさんの考えがあったんです。

例えば
「~p.~q」は「pではない、かつ、qではない。」という意味ですが、これをN(ξ)で表せば、
N(p,q)と表せます。
(pではない、qではない。)

ちなみに
「p∨q」の意味する「pである、または、qである」は
N(N(p,q))=(p|q)|(p|q)=~(p|q). ~(p|q)
=~(p|q)
=p∨q

と表せます。(記号「|」は両側の命題の否定を意味します。)

また、
(p.q(pかつq))=N(N(p),N(q))と、
(p⊃q(pならばq))=N(N(N(p),q))と、

それぞれ表せます。

とはいえ、こんな事をやっていると「哲学からものの見方を学ぼうと思ったら、いつのまにか記号論理学の勉強をしていた!」状態になると思います。笑
実際私は見事にこの状態に陥りました。笑

この記事の目的は「ウィトゲンシュタインさんから、ものの見方を学び取ること」です。
ですので、もうここからは頭の痛くなるような「人工言語の計算」的なものは、
一切、出てきません。

そのため、あえて人工言語の項目を一挙にまとめました。

重要なのは
「じゃあ人工言語によって、この操作と言語の根本と限界を表すことで、一体ぜんたい何が分かったのさ?」というところの方です。

ウィトゲンシュタインさんは
「4・26 すべての真な要素命題の列挙によって、世界は完璧に記述される」といい、
実際に最終的には世界をどこまで表せるの?という限界を見出します。
(この辺は後で纏めます。)

また、この作業によって分かった、とりわけ重要なもう一つのことは
「意味が通じるけど、何の意味も表していないものが2つあった!」という事です。

それが「トートロジー」と「矛盾」です。
もう終わりが近づいています。これさえ分かってしまえば、もう結論が出たも同然です。
そしてここからの話はもう、今までよりは、難しくありません。

「トートロジー」と「矛盾」~意味は分かるけど、意味をなさない言語~


「トートロジーと矛盾」と聞いて、おそらく多くの人は「矛盾は分かるけど、トートロジーって何さ?」という気持ちだと思いますが、ここは今までと比べると簡単です。

トートロジーの例を挙げるなら、例えば
「今日は晴れだね。もしくは、晴れではないね。」
「私は人間だ。または、人間じゃないぞ!」

こんな文章はまさしく「トートロジー」です。

1つ目は「晴れていても、晴れていなくても意味が通じる」文です。
「曇り」でも「雨」でも「雷」でも「雪」でも、オールオッケー(すべてが真である)です。
2つ目も「私が人間でも、人間じゃなくても意味が通じる」文ですよね。
私が「猫」でも「犬」でも「宇宙人」であっても、オールオッケー(すべてが真である)です。

加えてもう一つ身近な表現のトートロジーを示すなら、前編で例えに出した「いつかは火星に住む」と言う文は、まさしくトートロジーです。「いつかは火星に住む」と言うことはつまり、「火星に住むかもしれないし、住まないかもしれない=現時点ではどっちもあり得る。全ての可能性を含んでいる。」ということです。

また、一応「矛盾」についても触れれば、「矛盾」は
「今日は雲一つない快晴だ。かつ、快晴ではないね。」
「私は人間だ。それと共にさ、人間じゃないんだよね!」

これは「晴れていても晴れていなくても成立しない」し、
また「人間でも人間じゃなくても成立しない」。
それが矛盾です。

もっと端的に言えば
「トートロジー」は「すべてを許容し」
「矛盾」は「重なり合う部分すべてを許容しない」んです。

言い換えれば
「意味があるのに意味がない」。そのためそのままの限りにおいては「意味を欠く」のがトートロジーと矛盾です。

つまり
「意味はあるのに何事も語っていない」と言えます。
意味があるように見せかけて、いっくら考えてもそのままじゃ答えが出ない。それが「トートロジー」と「矛盾」なんです。だからこれらは「語りえない」んです。

前回例えで挙げた「ムジャラグジャラしている太陽」の様に、全く意味不明な文章とは違い、「意味はあるんだけど、何も意味をなさない」言葉が「トートロジー」と「矛盾」です。

例えば、矛盾について
マサヤ君が「ユキコちゃんがお菓子を食べていました!」といい、その反面
ユキコちゃんは「マサヤ君がお菓子を食べていました!」と言った場合、

そのままの状態で、いくら考えてもその答えが出そうにありません。これが矛盾なわけです。
しかし、よ~く二人を観察してみると、あれ?マサヤ君の口元にお菓子の粉末がついている…。

じゃあ答えは…。
「マサヤ君、じゃあそのお口についているものはなあに?」

とこんな感じで別の条件を追加した「現実(起きたこと&起きなかったこと)」を確認した時初めて、「語りうること」になる可能性が生まれます。

だとすれば、「トートロジーや矛盾」はそのままでは「意味はあるけど、意味は無い」。
そしてもっと言えば、
「あらゆる推論は、事実や現実と照らし合わせることで、世界の状態の記述になって、現実かどうか?を確かめることが出来る」という事です。

もう頂上に到達しました。あとは全体を見渡しながら結論を見ていくだけです。

論理学の命題はトートロジーである


ウィトゲンシュタインさんは6・1で
「6・1 論理学の命題はトートロジーである」と言います。

これは言い換えれば「論理学がああだこうだと言っているものは、全ての可能性を含んでいるがために、意味を欠く」ともいえます。

これは論理学だけじゃなくて、哲学も、その他の事も、「推論」、「理論」や「説」だけ立てて、それを「事実」として確認できないのなら、「可能性を語っている」にすぎません。

なんの事実も反映することなく「ああだろう!いや、こうだろう!」と推論することは、ウィトゲンシュタインさんからすれば、
「可能性から可能性」を
「推論から推論」を

語っているようなものです。

これに結論を与えるのならば、こう言えます。
【事実として、確認できたことは明確に示せる】

裏を返せば、
「現実として確認できていないこと、つまりは【経験したことのないこと全ての存在や概念】に対して、どれだけ論理的に突き詰めたところで、答えはこれです。と言い表すことは絶対にできない。」
という事です。
これが『論考』におけるウィトゲンシュタインさんの結論、だと言えます。

「存在や概念そのもの」の解明は、誰もできない。それは科学でさえも


私達が事実として確認できることの全ては、
「その在り方」のみです。

実際の在り方として説明でき、示せるものは「語りうるもの」であり、
例えば「世界とは?」のような「存在そのものや概念など」は「語りえないもの」です。

私達は世界を「世界の在り方として」しか記述できないんです。

「世界の在り方を示す」のが限界だとすれば、私達は「世界そのもの」には決して到達できないから、語りようが無い。

「世界ではこんな事が起きているんだよ!」という話は、「でもそれって、世界そのものじゃないですよね。」となってしまいます。

哲学はしばしば「世界とは?」「存在とは?」と考えてきましたが、ウィトゲンシュタインさんからすれば、「確認できる次元より高度なものはいかに言葉を尽くしても、その次元を表せない。」という事になります。

そして「世界を解き明かそう」としている科学であっても、これはおんなじです。

「脳とは何か?」のような科学の解き明かしていることでさえ、
私達が分かることは「脳そのもの」ではなく、「脳というものは、このように機能し、このように身体に作用するぞ!」という「在り方」までしか示せません。

科学が解き明かせるもの、もっと言えば私達が解き明かせるものは全て、
「その在り方」であって、「それ自体そのもの」じゃない、
と言えます。

また、5番台でウィトゲンシュタインさんは「私は私の世界である」と言いました。

これは「私の存在が、他者の存在をも確定付けている。私最強!」的な意味ではなくって、
「各々の確認する世界の在り方や関係」がこれまた各々によって表現される、という意味です。
言い換えれば
「私を私という時、それは私の在り方とその関係である。あなたがあなたという時、それはあなたの在り方とその関係である。」と言えそうです。

その在り方や関係を「事実」として示せるものにこそ、哲学としての学説や活動の意味がある。
事実から始まり、推論をたて、またそれを事実として実現する。
それが出来れば「語りうる」し、できなければ「語りえない」。
また「対象そのもの」は「その在り方であれば語りうる。(=対象そのものは語りえない。)」

そんな事をウィトゲンシュタインさんは示そうとしました。

そして最後の7の主項目として、たった一言。
第7の主項目に一切の説明を添えることなく、最後にたった一言。

【7 語りえぬものについては、沈黙しなければならない。】

と終わりを迎えます。

【語りえぬものについては、沈黙しなければならない】の、少し前


ウィトゲンシュタインさんはこのようにして「語りえないことへの沈黙」を示しましたが、実はその「ほんの少し前の部分」で、こんな事も言っています。

6・41の文中に
「…世界の中には価値は存在しない。…」と言っているにも関わらず、

6・43では、
「善き意志、あるいは悪しき意志が世界を変化させるとき変えうるのはただ世界の限界であり、事実ではない。……。一言で言えば、そうした意志によって世界は全体として別の世界に変化するものでなければならない。いわば、世界全体が弱まったり強まったりするものでなければならない。
幸福な世界と不幸な世界とは別物である。」

こういっています。

つまりは、「世界は無味乾燥な事実によって構成されている」と言っているにも関わらず、私達の意志によって、「世界の見え方」が変われば、「その人にとっての世界の強弱」が変わってしまう、と言っているんです。

もっと簡単に言うと、「事実は変わらずとも、世界の強弱は変わる」と言っています。

また、ウィトゲンシュタインさんが『論考』を書く以前の「草稿(下書き)」があるんですが、そちらもこの際見ていきます。

「この世界の苦難を避けることが出来ないというのに、そもそもいかにして人は幸福でありうるのか。
まさに認識に生きることによって。

「幸福に生きよ!」

更に、ウィトゲンシュタインさんは全体を通して「世界とは?」なんて知ることが出来ないと言っているのにも関わらず、
「6・44 神秘とは世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。」
とも言います。

彼自身が、「語りえない事(世界そのもの)」に踏み込んでは、それを「神秘」だと言っているんです。

この世界がある事自体が「神秘」なのだとするならば、

ここに世界があること、
私達がここにいること、
ここにあれること。
そしてその中で関係を紡いでいけることは、

「奇跡」なんじゃないでしょうか?実際この地球が存在し、更には生物たちが存在するであろう確率は、限りになくゼロに近しいものらしいですよ。私達はそんな「関係(コト)の奇跡」の中にいます。

在り方にて、事実を示す~世界とその強弱~


世界とその強弱についてもう少しだけ触れるため、ここで少しだけ、自分自身の話をします。くだらない話ですのでさらっと読んでください。
私自身は、仕事を初めてから間もなくして、そこそこ長い期間、人生に悩んでいました。
「私はなんでこんな思いをしているんだろう?」
「なんでこんなに辛いのに、生きているんだろう?」
と日々感じながら、なんとか生きていました。

とにかくあの当時は毎日を乗り切るのに本当に必死でした。それ以前、比較的社交的だった私は、いつの日からか、他人が怖くて仕方がなくなり、また毎日が辛いだけの日々が続きました。
「普通に暮らす。」これがとてつもなく苦しかった時があったんです。

人は悩みを抱えすぎるとどうにも頭が回らなくなります。突然大きな不安に襲われて、視野が極端に狭くなります。私はまさしくそんな人間でした。

ですが、
ひょんなことから、心理学や脳神経科学や哲学などに出会って、
「ああそうか、そうやって世界を、身の回りの事実を認識しているからこそ、私は辛いんだ。だとすれば、その認識にこそ核心があるのかもしれない。もしそうだとすれば、もう一度、もう一度だけ、頑張ってみてもいいのかもしれない。」
そう思わせるには十分なものに出会いながら、そして実践しながら、今に至っています。

現実の厳しさを味わい、怖くて直視できなかった私は、
意を決して自ら向き合った先で初めて、その見え方が変わっていったんです。

在るものに絶望し、無いものにも絶望した私の「現実」は、向き合った先にいい意味で「その色合い」が変わっていきました。
ウィトゲンシュタインさん風に言えば
「私の世界の強かったもの(その関係から受ける負の感情)は、弱いものとなり、
私の世界の弱かったもの(その関係の中で見落とし、見いだせなくなっていた心地よさ)は、強いものとなった。いかにしてか?まさに、認識によって。」
と、こんな感じに様変わりしました。

現時点での結論から言えば
「現実(起きたこと、そして起きなかったこと、と言う諸々の関係)に苦しむような色付けをしていたのは、私」だったんです。
「自分にとっての強く持つべきものを弱くし、自分にとっての弱く持つべきものを強くしていた」んです。

ですが今現在は、こう思うんです。
「この日常すらも奇跡なんだとしたら、私は世界との関係を強め、私の世界を色付けてやるか!」
バカみたいなホントの話で、今は実際こう思っちゃっているわけです。
「普通に暮らす。」今度はこれが自分自身にとっての、尊いものになりました。

また、これを手放すようなことは、人生に絶望したかつてから抜け出してしばらくしてみれば、一度もありません。
ビビりなのは変わらないし、メンタルが強くなった、とも思いません。
ただ、何度も転んで、再び立ち上がる。嫌な気持ちと向き合って仲直りする。この繰り返しの先にあったのは
「どんどんとブレにくくなる私」だったんです。
同じような境遇(現実)の中でもその感じ方(世界の強弱)が変わった、というだけであって、それ以上でもそれ以下でもないなぁ、と思ったりします。

日常すらも、驚きと素晴らしさに満ちている、と「私が」感じている。ただそれだけです。バカみたいでしょう?
でもそれで良いんです。
いや、それが良いんです。

全くの偶然から考え方や価値観が変わっていった私ではありますが、そんな偶然によって、そんな関係の一端によって、助けられたんです。そしてこの内容を読んでくださっている方とも、また新たな関係としての事実が出来ています。皆さんには今、一体どんな色が見えているんでしょう?

ちょっと話が逸れましたが、実際の例があった方が良いと感じたので、私自身をやり玉にあげた次第です。

彼の最期の言葉に、心打たれた話


ウィトゲンシュタインさんは、気むずかし屋で有名ですが、彼も「自身の現実の認識と、その在り方」に向き合おうと必死になった一人の人なんです。

ウィトゲンシュタインさんは超がつくほどの天才であり、またお金持ちな家柄でした。
それでも尚、幸福を感じることについては上手くなかった、
と言えます。

誰よりも関係を欲しては、受け取り方が分からなくて拒絶した。そんな人です。

ですが、彼は何度も挑戦し、彼自身の最後の期に間に合わないであろう知人や愛弟子たちに対して、こんな言葉を残しました。

「素晴らしい人生だったと、彼らに伝えてほしい。」

裕福な家庭に生まれながらも、人生に絶望した彼。
それでも幸福に生きようと必死だった彼。
激しく怒る反面、奉仕活動や、すべての財を投げうって莫大な寄付をした彼。
重い病であっても、身体が動く限りは執筆をつづけた彼。

そして最後に「その在り方、その関係」をひとつ。たったひとつ。付け加えました。

どれも彼であり、また、命いっぱい生きた証です。

自らの認識と何度も向き合い、幸福であろうとした。
そしてその認識のもと、その在り方で示そうとした。
それが、ウィトゲンシュタインさんという人です。

『論考』を知った後の「素晴らしい人生だった」という最期の言葉に、
心を打たれるのは、おそらく私だけではないはずです。

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ふと、思い立ったので最後にちょっとだけ追記します。

ウィトゲンシュタインさんは、「モノそれ自体ではなく、その関係」に着目しました。モノに対して、何らかの関係が生まれた時、それを確認できるのが私達だと、私も思います。風を感じられるのは、その風を身体に受け、その音を聞くからこそ。水面が揺れるのは、そこに関係があるからこそです。

関係がそこに生まれたから、世界は記述できます。そして同じく、関係が新たに生まれるから、世界は「変化」します。変化によって、世界の記述は付け足されます。ウィトゲンシュタインさんはいわば「言語原理と言語構造」を解き明かすような哲学を展開しました。だったらこの原理を基に、改めてその変化」をも、考えてみるのは面白いと思います。

そしてその変化とは「関係の新たな成立による変化であり、変化とは【相互の差】」でもあると思います。

世界とは関係で記述されます。しかし同時に、新たな出来事も生まれている。そしてそれは変化であり、差であって、それがある時初めて、「世界の動きを含めた、その状態変化ごと」を語れます。つまり、「世界は固定的ではなく、むしろ固定的に振舞いながらも、やや流動的に変化している。」、「閉じられているように見えて、実は常に開かれているのが、現実。」とも言えます。現実というものをより厳密に見た場合、「~である。~ではない。」ではなくて、「~になる。~にならない。」という生成変化が常に起きているものです。だったら今度は、「原理と構造」を基に、「差と変化」の観点から新たな、それでいて途方もなく小さく、途方もなく大きな視点を見つけてみるのもいいかもしれません。

あとは、「近代言語学の父である、ソシュールさん」を学んでみるのも面白いと私は思います。ただソシュールさんにはややこしい事情があって、なかなかその真意が見えにくいところがあります。と言うのも、ソシュールさんの超有名な『一般言語学講義』は、実のところソシュールさんの亡くなった後、弟子たちの「改編」がなされて出版されたものであるがために、かなり大事な部分が抜け落ちていたりします。一度根付いてしまった印象と言うのは中々に拭い難いのですが、もし、そちらにご興味がありましたら、先ずは『一般言語学講義』を知り、その後に、丸山圭三郎さんの『ソシュールを読む』と言う本でも知ってみることを個人的におすすめします。『ソシュールを読む』では、「ソシュールさんの手稿(手書き原稿)」を垣間見ることが出来、かつ丸山さんの深い「読み」に出会えます。こちらもかなり衝撃的な展開が待っています。

「ソシュールさんの手稿(手書き原稿)」には、もはや言語学の中には納まらない内容が記されていて、存在論(存在とはなにか?)や認識論(認識する、知るとは何か?)まで届いてしまっています。またこちらでもやはり「関係(コト)」が重要視されています。(ソシュールさんについても、いつかは纏めようと思っています。)

また、ここまで「関係(コト)」が重要視されているのを知ってしまうと、どうしてもそれについて考えたくなってしまいました。ですので、「関係を突き抜けて考えてみた!」的な意味合いで別で考察もしています。もしご興味があれば、そちらも。

今日のあなたの一日が「その関係を、その世界を強めるために、その身でもって示し続ける。まさに認識によって。その在り方によって。」な一日である事を願って。
読んでいただきありがとうございます!!

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