刺激と抱擁。拙いアフォリズム。~過去の私の、迷いと決心の記録~

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人間関係

今回は「断章形式」のアフォリズムな回です。

曲がりなりにも沢山の考え方に出会ってきました。そしてその中のいくらかをブログに書いている、といった次第なんですが、

やっぱり様々な考え方に真っ向勝負を仕掛けていくと、どうしても「混乱や動揺」にも出会うものです。むしろその「混乱と動揺」を感じる本が、私にとっての良本でもあります。

だったらたまには、そういった時々に出会ったその混乱と、人間くさい私自身の迷いや決心を順番はグチャグチャでそのまま載せてみるのも、いいんじゃないか?そんなことをふと、感じました。

新しい考え方に触れる際、私はスマホでメモを取るんですが、そのメモには過去の私の人間くささが記してあります。笑

今回はそれをそのまま載せちゃってみる。なので、時には皮肉めいたことも言っていますが、これもまた私の半人前さや、人間くささ、人間らしさだとも思っていますし、これがまた誰かのきっかけになればと感じます。

また、この記述は見つけ次第少しずつ増やしていこうと思います(膨大なメモがあるので、いくらでも出来そうです。笑)。それにこの人間くささを振り返ることが私自身の温故知新になっている気もします。都度変化するアフォリズムは、恥ずかしながら楽しいと、素直に感じます。

では、早速いきましょう!

拙き人間の、迷いと決心の断片

・この現在の不始末。この悪印象しかない状態は、私がこしらえた、というわけだ!

大変結構。では逆に、これを変えてしまっても問題は無いわけだ!

再び私の力で。

・お前は、誰かの期待を満たすために生きてきたな?しかしその結果どうだ、ご機嫌取りの嘘を平気で付き、大きく見せるために見栄を張り、もはや自分の本心すら分からなくなっているじゃないか。

ところで、どうしてお前は自分の本心を満たしてやらないんだ?

・満たされた杯は、いずれ水が溢れ出す。その杯からあふれた水は、他の杯にも影響する可能性を持つ。自らの杯に湧き水を。

・私は弱い人間で良かった。誰もが痛みを抱えていて、懸命で美しいということに、出会うこともなかったはずだから。折れてしまった誰かにも、悪態をつく誰かにも、言い訳をしてしまう誰かにも、痛みを痛みでお返しできない位に、その痛みを人一倍感じられるがために。悪意を長らく保てないほどに弱くて本当に助かった。

・聖人君子の皆々様が、一切の悪しき思考を持たぬとすれば、それは生まれてから死するまで不幸を感じずして一生を終えたか、もしくは不幸を余すことなく受け止め、乗り越えた末の結果かの、どちらかだろう。だとすれば僕は後者でしかあり得ないし、また後者であっても、一切、というのはあまりにも今は信じがたい。

・人は、他者の欠点を見渡し、それの理由を入念に思考する。不幸なことに僕らは、自分に対してそういった思考を、し難い。

自身の欠点を見渡し、それの理由を入念に思考する。幸か不幸かその稀有な人は、手始めに痛みを伴うその思考によって、精神の成熟に進みつつある。

自他の、世界の欠点と美点を見渡し、それの道理を入念に思考する。幸いにして非常識極まるその人は、世界を嘆きつつ、それごと慈しむ。

・不正を繰り返すものは、社会的地位と価値を所有しうることがある。それと、辻褄の合わぬ嘘と終わりなき不機嫌をも。嘘による不機嫌の代償を払い続ける。

・私もまた、欠点をつつき回してくれる人には、感謝こそできそうなくらいになりつつある。

・強くあろうとしないことが、むしろ強くあれるようなことが多々ある。気持ちが楽だと余裕が生まれるっぽい。おちょこみたいな小せぇ器の私であっても、気楽になれたのホントラッキー。

・文脈には、うごめく背景がある。それを僕が受け取っては、僕の背景がうごめき始め、僕の文脈が生まれる。文章と文脈。それによる背景の連鎖。

・あれから四年。私はおそらくいい意味で四歳児のような気持ちだ。

・脳の可塑性を信じてよかった。

・苦しみの原因の幾割かは、むしろ自分にこそあるのではないか?でなければ、過去の痛みをほじくり回し、洗いざらい自身に暴露した結果、楽になってしまう説明がつかない。幾割かは、依然として分かりえないが。

・どんな対応策を自分に訴えても、5分後、10分後には再びやってくるあの、辛い反すう思考。

「これは今までお前が何度も考えてきたことだ。受け取れ!」と、心が訴えかけてきている。

頑固なかつての私の心は、今の私を拒絶する。でも、決心してしまった今の私もまた、頑固だ。なら頑固どうし、今度はいっそ仲良くやろう。

少しずつ和解してみる。ほら今日は、少し違う。

・自らの凍った心を、溶かすは熱。それもただならぬ自らの。

・より重要なのは、頭の良さではなくて、泥まみれになる覚悟なんじゃないか?だったらイケるぜ。

・私は、あれだ。「人生は長い」というあまりにも沢山言われてきていることをしばしば忘れる。

長い山道の中で起きる問題に対して、気持ちが急いて早足になりがちだ。そしてそのまま駆け足になっていることに気付かず、汗まみれになったり、大怪我をしたり、しまいには他者がゆっくりに見えてしまったりするだろう?一旦休んで落ち着いて、汗と怪我と、他者を見て、ひとしきり確認が出来たのなら、汗を拭い、怪我を手当てし、他者と共に周りを見渡しながら景色や焚き火でも楽しめ。山道の醍醐味を捨てるな。それに大抵は「休みと歩きとジョギング」の方が頭が冴えわたっているし、楽しいから。

・安寧を得ることに必死で、憎しみを感じ続けることなどとてもできない。自他のためにもそれが一番楽だ。

・掘り進めばその先はいつもどん詰まりの袋小路。だが、なんとも幸福な、である。

・色々考えて使ってみた結果、「今の私」の場合はこうなったよ、というだけだ。これは人によって違っていいし、違っていることが良い。

それにおそらく今後も徐々に変わっていくだろうし、変わっていくからこそ自然だ。

どうなっていくのかは想像もつかないけど、むしろそれが楽しいとすら感じてしまっている。

・我々は環世界に生きているのであって、環境に生きているのではない。我々が認識する世界は、脳が処理をした世界である。その処理には実に様々な浸透物が混じり合っているのである。であればその種子を探したくもなる。

・集中とリラックスの均衡の最中、本音で語るその人が、あまりにも美しく思えるのは、その弱さと儚さが垣間見え、かつその人の奥底に隠されていた温かみが、それらを包み込んでいるからではないか?真剣に向き合う面持ちと、けれども気負いもないその姿に。

・人間は本性として「知りたい」生き物である。しかししばしば「知りたい」は、「知っていなければならない」、「知らないことが恥ずかしい」となりがちで、結果「知ったかぶり」をしてしまったり、「知らないことの排除、拒絶」をしてしまったりする。「恥ずかしい」の奥山を超えて、「知りたい」に素直に。

言うは易く行うは難し、なんだけどもね。

・言葉は方向性を定めた上で、その意味以上の意味を喚起し、感情を惹起する。どれだけ中立的な言葉であっても、本質的に潜伏した意味性と感情性を有している。しかし他方、意味体系の只中で、イデア的な普遍の概念をも、我々に認識させるところがある。

・自分の現状を認めていく、納得するほどに、外へと向かう承認欲求は小さくなっていくことを実感している。完全になくなったかと言われれば、そんなこともないのだけど、メタ的なストッパーが働くこともしばしばある。

・我々の一つの大きな困難は「気が付かない」ということである。どこまで行っても、思考の枠からはみ出したモレと、思考の中でのヌケが生じる。ただ今は、気が付かないということに気が付いた訳だから、色々と横槍を受けてみたい、とそう感じる。

・こだわりとは、巧妙に隠された苦。

・私の中で私を律してくる「見えない監視者」は途轍もなく大きかったようです、フーコーさん。

・暇とは一状態であり、退屈とは一感情である。

パスカルを思い出せ。飽くなき気晴らしを必要とするのは、やはり不安と向き合うことを恐れるからではないか?

・重要なのは、それを学ぶことで知識を得ることではなく、その新たな視点によって自身にもたらされる世界像の方なんだ。

・難解で不確かなものは、大抵受け入れがたく、常識的でもない。しかし常識的でない、という理由によって、そこに内包された現実的な視点をみすみす見逃し、見ないフリをすることはもう、し難い。

・現代人は中世の貴族が目の当たりにしたら、喉から手が出るほどの生活を獲得している。では、一体なぜ私は?

・鉄は熱いうちに、っていうのは本当にそう思う。若かろうが年老いていようがそんなことは関係なしに熱くなったら無我夢中で、というそんな意味で。

・幸福は、社会によって規定された幸福は、マイノリティにしか達成できない。

達成困難な幸福の一本道は、マジョリティを不幸にする。

であれば、規定された幸福など、幸福のために幸福を犠牲にする幸福など、御免こうむる。

僕は利息の無い幸福が好みだ。

・世間一般が語られる時、怪物じみたナニカとして語られることがある。しかしその怪物は、誰でも、何者でもない、寄せ集めの亡霊。純粋悪のような亡霊の噂に屈することなく勇気をもって分け入ってみれば、個別的出来事の集約的な物語かつ一部分の切り取りによる物語だった。

オバケなんてないさオバケなんて嘘さ。

・亡霊はどこにでもいる。しかしどこにもいない。遠いほどに確かにいるとささやかれ、近いほどに霧のように散る。

・人類学者の様に、自分自身を「参与観察」している。生活の中で、逐一自分を観察している。

・ここ数十年で全体の犯罪件数は劇的に減少している。にもかかわらず、我々は年々危険が増している様に感じてしまうのはなぜか?

・他者に要請することなど、ぼくには出来かねし、どうなるものでもない。あれはあまりにも痛みを伴う。

ただ態度では示す。あり方にて示す。にじみ出るような所作と態度として。

・カルロ・ロヴェッリのいうように、物理学は締め切った窓を開け、遠くを見ろと促す。更にはドアを開け、飛び出して見ろ、と。

窓から見える景色は驚きに満ちていた。外へ出てしまえば尚のこと。

・行き過ぎた懐疑・正義は、それも一つの独断である。異なる見解があり得ること。これもまた事実であり、現実である。そんなことはお前が通ってきた道。その変遷そのものじゃないか。

・多くの賢人が言うように、社会とは人間が作り出した一つの神話・フィクションなのだろう。

・現代の社会や文化を知るために、なぜだか神話、伝説、呪術などを探求する偉人が、一体何を考えていたのかが、少しだけ分かった気がする。

・天下統一で成されたのは、物質的・外的な統一でなく、むしろ精神的・内的な統一である。ここから考えられることは山程ある。

・あれからちょうど三年。頭にモヤが掛かったようなあの感覚は完全になくなったし、突然心臓の鼓動が大きくなって顔が熱くなることも、もう1年半の間、やってきていません!すごく大変だったくせに、今となっては随分楽しそうですね。よく、頑張ったね。

・品格とは自らのためのものであり、社会のためのものではなさそうだ。

・子供の頃は、親やら先生やら、全く知らないおじさんやらにしこたま怒られた。そしてその度、反省したり、理不尽だと感じたりした。ところがある程度年齢を重ねると、そういった機会は極端に減っていく。であれば経年後の反省なり理不尽への吟味なりは、自身でしていかなければならなくなる。

反省できなくなってしまうともうその後は、ひどく狭く、ひどく偏り、どんどんと辛くなっていく。徐々に住まう場所は小さく、自身の定めた中心のみへと追いやられる。

自由の只中の、不自由で窮屈な世界。

・プロスペクト理論によれば、我々は利益より損失を大きく見積もる。しかも快と不快は、どうやら指数関数的でなく、対数的でもある。

不快は底が深く、快は天井が低い。仮に全く同じ数の両方の経験をしても、我々はより底の方へと赴いてしまう。であれば、底の埋め立て方は考えてみる方が良い。加えて同様に、天井の方も。

天井が浅く、低いからといって必ずしも悲観しなくとも良い。そのデザイン・意匠は、当人の掘り込み次第では、趣をガラリと変える。多くを生きる、とはそういうことなのだろうと思う。

・嫉妬は、自身にとって「高い地位と認めたもの」に対して起こる、当人を貶めたい感情である。

同様にして、憧憬も、自身にとって「高い地位と認めたもの」に対して起こる。が、こちらは当人と肩を並べたいといった意欲足り得る感情である。

前者は足を引っ張る感情。後者は同じ目線に立つ意欲、その動機たる感情。

しかし、いざやや近いところにまでなんとも泥臭く這い上がってみれば、その偉人もまた、同じく悩み、安堵する、ただ優劣の無い人間同士。それである。

・媚びへつらう人は、常に甘く、

優しい人は、時に厳しく、

拒絶の人は、常に辛(から)く、そしてなにより常に辛(つら)い。

・なるほど。さっぱり分からない。今はただ、分からないということが分かった。

・私は演者としてあれこれ社会で演技をし続けるのはやめようと思う。休日の演者くらい気を抜いて生きよう。

・純然たる悪人なんぞいるものか。

・最近は実に淡泊になったように思う。

こう話しているんだからこう感じて欲しい。と言った話し方・接し方というよりかは、

こう話すとどういう返答があるんだろう?と言った話し方・接し方により近い気がする。

そうなったのは、たぶん我々は、人の話の幾割かを抽出して、各々の世界像から繰り出し、返答する。そういう仕方が標準的なのかもしれない、と自他含めそう思ったからの様に思う。

確かに期待のようなものは薄まって、まして最初はある種、諦めの様にも感じた。が、他方で、自身の中で受け入れの態勢ができ、より広まった気がするし、むしろ他者の意見に自由の権利を与えることになった気がする。

何より各々のプールの広さは、多少接したところで分かり切れない。相手のプールがあまりに広大で、自身の方が咀嚼しきれていない可能性も十分にあるし、反対に相手のプールが仮に小さくても、そこでは何が起きているのかが掴める可能性もあるのものだから、そのプールで遊び散らかしてみよう。事実、賢者のプールも、子供のプールも食わず嫌いを起こさなければ、同様にとても楽しい。

・まずはなんでもかんでもこなそうとする癖を止めることから始めよう。コントロールできることからやってみよう。コントロールできないことはコントロールできないのであるから、いっそ遮断する。まずは自分から。ひたすらに自らの意志で、自らを承認すること。

・様々な感情が混ざって気分になって、その気分から世界を見るのが私達なんだろう。

だとすれば、気分を遡って感情の混ざり合いをできうる限り記述しては、調整可能かどうかを鑑みれば、世界はいくらか明るさを取り戻すんじゃないか?

・鎮火できない炎に自ら近づいて、火傷をし続けること。私達はそんなことをして既に傷んだ自らを、更に痛めつけてしまう。火傷はあまりに痛いものだから、余裕を失い、同じく傷ついた他者を蔑んでしまう。

・「ある」という状態に注目するのと同じくらい、「ない」という状態に注目することが肝心だ。科学においてもNULLが重要だったりするわけだから。

・人は、自らが意味付けを施した世界に住まう。

誰もが共有する世界の、誰とも共有しえない世界。

同じ世界の、非常に似ていて、微妙に異なる世界観。

ウィトゲンシュタインのいうように、「幸福な世界と不幸な世界は別物」だ。

・世界は差異、現象、要素。あるいは相互関係・相互作用。

・人は動くべき時に動く。心が勝手にそれを拾い集め始める。そうなってしまった人は、勝手に動くし、そうでない人は動かない。ただそれだけなのだから、君は楽しく過ごしながら、待てばいいんだ。

・他者に配慮し、慮るのならば、他者の心情があることも忘れることなかれ。

「馬を水飲み場に連れていくことができても、水を飲ませることは出来ない。」このイギリスのことわざは、言い得て妙だと思う。無理やり水を飲ませることは、配慮でなくむしろ自己中心的な態度である。

・習得とは、その意味の拾得と、それの実生活への反映のための、繰り返される実践の謂いである。拾得と実践により始めて習得され得る。ただし忘れてはいけない。一人で考えていた時は、全くどうにもならなかったことを。拾えたのは先人が紡ぎ、散りばめた末にある、社会のおかげである。何に助けられ、何を用いることが出来たのか?もがきの実践は自身によってであるが、もがき方の拾得はそうそうたる他者に与えられた。

確かにこの時代だから悩み苦しんだん「だろう」。しかし、この時代だからこそ悩みから抜け出せた「」。前者は「だろう」が依然付くが、後者の「だろう」は既に消え失せた。

・怒りを覚えた。それを表明した。そしてその場では、すっきりした。これを忘れてはならない。

だが、その後しばらくして来たあのより長く続く後悔と胸の痛みは、もっと忘れてはならない。

・驕りが生まれた時、お前の詰め込んだその知識は、再び痛みを伴う。

痛みを払しょくしたいがために重い腰を持ち上げ、ようやっと歩み出したお前は、その先で再び痛みを求めるのか?そんな本末転倒な考えは今すぐ捨ててしまった方が良い。

・たまにゃあ、ちょっと一休み。だってさ、きっと疲れちゃうから。

・小さな「出来た」を噛みしめろ。大きな「出来ない」に飲まれるな。

・完璧で理想的な信条を持つほどに、苦しくなる。その時人は、その完璧でない現実を前にして、「嫌な事探し」をし始める。修正が必要な問題は外側でなく、むしろ内側にこそ潜むことが多々ある。

・「気を付け!休め!」と号令されることに慣れ親しんだ私は、「休め!」の時こそ休めていない。

「休みフリでなく、本当にダラっと休め!」の号令も、今後は慣れ親しんでいきたい。

・言葉は先鋭的な分節化。それによる道しるべ。そうであるから重要で、そうであるから限定的にもなる。言葉の分節化による限定性は良くも悪くも、範囲を一気に絞り一端化し、時間を止めるかのように痕跡化する。

ふと、そんなことを考えながら、よそへと目をやる。

僕の目の前にあるそれが、あまりにも力動性を表している。僕は言葉で思考する訓練をし過ぎたあまりに、この静と動の違いを、すっかり見落としていた。

言葉はおそらくどこまで行っても、この、ままの力動性を、その儚いうごめきを、表し切れない。それどころか、その動きを取り囲んでは固定的にして、僕らになにかそこにある力動性の見落としをさせるところが、確かにある。

・我慢は有限で大した許容量がない。我慢をし続けて、楽観的であれた試しがない。問題は頑張ってなんとか背負っているそれである。何かを求めるなら、持ち物チェックから始める必要がある。手練れほど最小限の荷物しか持っていないのである。おそらく強いのではなく、楽をしている。

・我慢するためにもがいているんではなくて、今後できうる限り我慢しなくてもいいようにもがいています。結局私は、そこへと帰結すべく試行錯誤しているのだと思います。

・使い慣れた思考と使い勝手のいい思考。これは同義ではない。

しかし、使い勝手のいい思考も、いざ使い慣れてさえしまえば、

使い慣れた、使い勝手のいい思考である。

・視点無くして、存在無し。

主体無くして、客体無し。

客体無くして、主体無し。

区別無くして、差別無し。しかしそうと分かれば翻り、

区別あれども、差別無し。

・今わかった。言葉ではなく、心と身体で理解した。

・何度も読んだ本は、次第に目が滑り始める。僕はその時、本を読んでいるフリをしながら、自らの想定を読み直している。一呼吸おいて、滑る目を止め、かぶり付き、味わい尽くすように、目で食べてみる気持ちを持ってみる。そしてそのまま景色や部屋を見る。僕はまたもや目で食べていないことに、大きなバイアスに気付いた。

・意を決して、踏み出してみた。見事に失敗した。

良かったじゃないか。その道は君の歩む道ではなかったことが、たった今わかったのだから。

・メタファーは個別具体的な明示をしないにも関わらず、時には明示された言葉より、心揺さぶることがあるのは、なぜか?

・メタファーは、感覚的な描写がしやすい。文章以上の余白を暗示できうる。受け手自身の経験から多義的な解釈の余地がある。

おそらくメタファーは抽象的であるが故に、より「行為と働き」に重きが置かれるからこそ、個別の心に働きかけ、置換されうるんじゃないか?これがホントの働き方改革なんじゃないか?って思った。

・脳の仕組みが感情と思考を紐解いてくれた。

・「めでたしめでたし。」の後からが人生の本番なんじゃないか?

・やっぱり私には、枝や葉より、根っこや土壌が重要だ。

・子供の頃、青信号の「青」はどう見ても「緑」だと思い、大人の言うことに納得できなかった記憶が蘇る。僕らはきっと、そんな大人の認識にすっかり馴染んでいる。青臭さをどこに置いてきてしまったのだろう?

・短所しかない?

いいや、あり得ない。

長所しかない、と思っているくらいに。

・人間は予測せずにはいられない。であればむしろ、予測にちょっとした付け足しをしてみるのもひとつの手ではないか?その予測がどう転んでもそこそこ上手く行くような付け足しを。

・常識に迎合し続けるのは、暴力に屈し続ける事と同義であるが、常識全てを否定し続けることは、同様にして暴力に屈し続ける事である。

ラッセルさんの言葉は、今も脳裏に焼き付いている。

・お前の持ち物がお前を表すのではない。

お前を表すのは、おまえ自身の思考とそれに伴う行動である。

確かに行動にて示しても理解されえないことは今後もある。

だが、蛇が脱皮し、旧い皮を脱ぎ捨てる様に、ひとりで行け。

あたかも、仏陀の様に。

・皮だけ置いて、すたこらさっさ。

・私達は知ること無しには、火おこしも出来ない。だから先ずは知るべきだろう。

・テセウスの船、砂山のパラドクスなどは、その名を冠した「ラベル」の方にこそ問題があって、その問題を抱えたままに再び問題提起をする、という問題の二重性を帯びている…。しかしそんなことを言うと思考実験としては本末転倒にしてしまうんだけども。

・自分で自分の幸福を願えないのなら、一体どうして他者の幸福を願えるというのだ。

自身の犠牲を伴わず、それは、成り立つのだろうか?

・非言語的コミュニケーションの有用性は、動物たちから教えてもらった。実に素直に行動に表れている。極めて嘘の少ない所作と表現の世界。

・アフリカ哲学の「ウブントゥ」を人のみならず、もっと拡大してみる。

「人は人によって人である。」を「生きとし生けるものは世界によって生けるものである。」的なね。

・神秘も魔法もない。

あるのは世界と、その世界を解釈した人間の視点。

世界とそれを解釈する人間の間には、分かりえないものが横たわっている。

そのために、人はそれに理由を付けて蓋をしたがり、その蓋に「神秘、魔法」と名前を付けたのだ。ちょうどマジシャンのマジックの様にタネとシカケが。

・事実、言葉に助けられたのだから、言葉での思考も大事にしようと思う。

・心に渦巻く、悲しみと憂い。

さんざんに語れ。思う存分に語れ。泣いても喚いてもいい。ただひたすら徹底的に。一切思い残すことなく、徹底的にだ。

…全て終えたなら、あと一つだけ考えてみる。

それで、これからはどうする?

・現実への明晰性を求めつつも、

「平凡を平穏に暮らす。」

そこへと、戻れ。

・むしろ寄り道が大事なんだと思うの。

・できるだけ広い視野、深い視野、鋭い視野に飛び込み、得てみる。それでも尚、基のそこへと赴きたければ、それはそれで良いじゃない。今度こそ胸を張って自分に「これでいい。」って言えるから。

・シルバーバックのマウンテンゴリラのリーダーは、幼い子や手伝いを必要とした仲間を助けるが、それ以外は見事に対等に接するようだ。弟子入りしたい。

・私とは、現象である。ひと時も現象していない時などない、現象である。

一枚布の上のコブ。現象という濃霧の只中の、その集成。我々の認識と概念は仮固定的。しかし実際はと言えば、実に流動的。

・植物に動物的な予測は必要ない。

なぜなら「今からあの大きな動物がやってきて、私を踏み抜くだろう。」と予測しているのなら、それは解決のしようがない、悲劇そのものだ。

そして残念ながら、人間はおそらくどの動物よりも予測をする。思考による予測が出来てしまう。これは悲劇だ。

しかし、なぜ予測は悲劇を知らせるのか?正当な予測は、解決可能性を秘めているからである。だからそこへと知らせを運ぶ。この予測を、この想定を、変えることができる事柄に向ける。予測とは、悲劇であると同時に、解決へのしるしでもある。

・不安は、解決を心待ちにする心と身体の、願いである。

・苦しみを手放し、重荷を捨て去る。これができるのは、自己以外にありえるかな?

知識を得ても、それが自身にとって使用不可であれば、それも捨て去ってしまった方が良い。それもまた重荷になるからさ。

・行動動物学も、僕を反省させてくれた。ナンキョクオキアミの協力と生態系への関与。サバクトビバッタの友愛と狂乱。カラスとゾウの文化継承。あとミツバチの八の字ダンスかわいい。それとゴリラすんごい好き。他の動物の社会を見渡した後、自分たちの社会を見つめると、そこには良くも悪くも共通点と相違点がある様に思える。

・ラプラスの悪魔がいたのなら、彼は相当に退屈だろう。

全ての現象が完全に把握できる、ということは予想外の驚きも面白さもないだろうから。

彼は迷わず、起きることのない事態を想定しては、それが決して起き得ないことまで分かってしまう。この現実と想定のギャップは、むしろ眼前の現実を否定し始める。

全知とは、一生の退屈と同義である。

・井筒俊彦の言うように、言語は「ロジック」であると共に、「マジック」でもある。言葉は言葉である以上、多かれ少なかれ黒魔術的か、白魔術的に作用する。記述・発声の上での「外延」と、それ以上に喚起され、惹起される「内包」が確かにある。

・より理にかなった考え方は、「先払い式」で、

理にかなわぬ考え方は、「リボ払い式」みたいだ。

前者は短期的には辛い。非常に辛い思いをする羽目にもあう。しかし長期的には、平穏無事な心がある。

後者は短期的には口当たりがよい。いくらか気が紛れる。しかし長期的には、次第に負債が溜まっていく。

・いっそ一旦、言葉すら、離れてみる。そんで、戻ってもみる。

・二極があれば、その割合を変えてみること。一方に偏り続けずに、色々と試してみること。多分どっちも大切だろうから。

・一義的で一意味的に思えるものは、必ずと言ってもいいほどに、両義的、あるいはむしろ多義的である。ドゥルーズが「一つひとつの概念が、既に多数である。」と語ったように。

・ネルソン・マンデラさん達は、「赦し」と「和解」によって、その歴史的瞬間を刻んだ。

これは単に社会関係だけでなく、人間関係、更には個人の心にも通じるものがあるんじゃないか?

・なんの野心も持たず、身を潜めたような天才や賢者がたっくさんいるんだろうなぁ。

・悩みだとか問題だとかは、乗りこなせればむしろやってやった感の方が色濃く残るようになってくる。サーファーだとかスノーボーダーだとかのように、初めは立つことすら難しいのに、徐々に上半身と下半身と脳の連動。お尻の筋肉や腕や足首の使い方、バランスの取り方が何度も転んでようやっと分かる。分かってくると都合がいいもので、初心者だったころの何度も転んだことが、かつてはすごく大変だったなぁ、のような具体性のない記憶になる。これはスポーツと似たところがある。頭と言葉でわかっても、感覚の方はやっていかないことには身につかない。

・ウィトゲンシュタインは純粋な論理実証主義。…なんだけど、今の僕からすればその純粋さがかえってその裏側の別の部分を示しているように感じる。現実(起きたことと起きなかったことの、関係の総体)は、モノそれ自体に決して到達できないってことは、もうそういうことなんだと、思ってしまう。どっちがオモテで、どっちがウラだろう?

・言語は、現代の重要な関心の一つである。論理的に語ることは尊ばれ、言の葉の組み立て方が重要視される。

しかし他方、言語自体の根本的な働きについては、ほとんど見向きもされない。気付くことも難しいほどに浸透しているが故に。

・いろは歌作った人凄すぎて鼻水出た。

・実のところ抽象が具体で、具体が抽象なことも多いな。

・でもなんか多分明日も、良い日だ。雨が降ったら傘をさす、雨宿りする。出来る事をやるから、雨に濡れなくて済む。ずぶ濡れにはもうならなくていいや。だって、濡れたくないし。

・日常と遊びの区別を曖昧にしてみる。日常と遊びの区別はつかなくていいや、って思った。

・数年前読んだ本を読みなおした。印象が変わっていた。変わったのはどうも本の方ではなさそうだ。

・自由になってから自由にやるのが大事なんじゃないか。

・うんざり君がうんざりを促す時、その背後で、こうなったらいいのに君が、うんざり君の意見を助長していることに気付く。よし、今夜はどっぷり存分に語ろう。いや、うんざり君の方ではなくて、むしろ、こうなったらいいのに君の方とだ。

君の気持ちは大いにわかる。だって確かに君の感じた予測はその可能性を秘めてもいる。しかし今のところ実際にはそうなっていないのだから、もう少しだけ実際の方から改めて考えてみよう。少しずつお互いを分かち合おう。

・有為(つくられたもの)と無為(つくられていないもの)を、いったりきた~り。

・誰彼の考えを再現しきることが重要なんじゃない。再現を目指しはするものの、どうしたってその内の個々人の再現には、差異が生じる。だったらむしろこの差異を含めて、自分なりの考えに落とし込む。だってそれが、自分なりのカタチ、なのだろうから。慣れ親しんでも尚、無理のある過剰な差異は、自分には合っていない。これは調整が必要で、調整の余地を残している。しかし他方、無理なく余剰の場合は残しておいた方が良い場合もあるだろう。居心地の悪さがなければ残そう。不足と欠如もまた然り。

・外を大切にしたいがために、内を大切にしているんだけどね。外を補いの装置にするのではなく、内に源泉をこさえ、できうる限りの潤いを保ちたいがために。

・なんたる僥倖。私は不運だったが幸運でもあった。私の場合は偶然の出会いという運だったからこそ、驕り高まる理由が今は明確に見出せないで済んでいる。しかし人間にとって偶然でない出会い、というものがあるのだろうか?

・「あなたには分からないでしょうね!」みたいな考え方は、

「まあ、こんなの正気じゃないって思いますよねぇ。」みたいになってからは、楽しくって仕方がない。

拒絶の異端者はしんどいけど、和解の異端者って楽しい。

・脳の感情と思考は、一つの音楽のようである。楽器たちの「音、鳴り」がてんでバラバラで、不協和になることも、整然と美しくも穏やかな協奏曲を奏でることもある。調和が取れるように調整することが出来るのは、指揮者だけだ。さあ、舞台へどうぞ。一生付き合う楽器たちを気持ちよくしてあげよう。楽器たちの願いは、美しい音楽なのだから、多少調子が外れても許してあげよう。外れるからこそわかることもあるから。

・無知とは、余地でもあり得る。

・そうだった。私はただ楽がしたいだけだった。

・幸せとか不幸せとかという奴は、副次的な、それもある時ふと振り返った時にあてがわれる事後的な、無形の、あるいは不定形の概念である。仮に「幸、不幸」という言葉が失われたとしたら、人はむしろ「行為による状態とその変化」にこそ、より目を向ける気がしている。

・一旦はあえてとにかく行き過ぎてみる。それで、行き過ぎたのが確認できたなら、今度はそっと「揺り戻す」。自身にとっての「振り子」を振り、「シーソー」を漕ぐ。あえての「過剰接続」と、ちょうどいい塩梅の「切断」。揺り戻しによる、ちょうどいい「接続具合」。

・マイケル・サンデルの言うように「運も実力のうち」ではなくて、「実力も運のうち」なんだと思う。サイコロを振るくらいに偶然出会い、偶然試され、偶然得ている。そんなわけだから、手もとにある材料で下手くそながら料理でも作ろうか。

・料理もまた、作り方を知らなければ美味しくは作れない。作り方を知っても、実際作ってみるとあれこれ上手くいかない。これもまたヒントだったというのに、長らくそういったものを見逃してきた。身近にこそ沢山落っこちてる。

・豪華絢爛な理想郷が天界があるような気がして、こぞって皆で口々に自慢の気球で向上の道を語り、目指す。でも偶然、端っこ隅っこ変わり者の妙に穏やかな人らにでくわした。気球が見えていないわけではないのに、それでも魚を釣ったり、井戸を掘ったりしているその人らは、全く不思議な人ではあったが、誰もが私よりも遥かに楽しそうだった。得体のしれない不気味さを感じつつも、どこか惹かれるその人らが、どういうわけで楽しそうなのかを知りたくて、釣り竿とスコップを持って、一緒になってやってみた。そこからしばらくしていくらか分かったことは、

彼らは深さが尋常でない地質学者だった、ということ。

我々は、地上を蔑み、天界を求め、昇ろうとする。けれど彼らは、地上を嘆きつつも愛し、地面を掘り、深く潜りつつも戻ってきては楽しそうに釣りをもする。

なるほど。こりゃ楽しい。

・最もなされた《接続》と、最もなされた《切断あるいは未接続》。

この両極の二つは、対立ではなく、むしろ同じ状態でこそあるんじゃないか?

ジル・ドゥルーズとユクスキュルのおかげかそのせいで、一つの極致との近似性を有す、ダニの環世界を知ってしまった。おかげさまで今も尚、時々に思い起こしては、ダニをこそ一つの視点の師匠、のように感じてしまうようになった。

何も語らざるものが、雄弁に語りかける。

・大人のような認識を持ちながら、子供の様に無邪気で、胎児の様に判然としない。

そんな状態でもって非記号の掘り出しによる個人的記号化と、既存の記号の解体・分解による非記号化をしてみる。「《聡明》っぽさと《快》っぽさと《無》っぽさ」の遊びは、割かし心地よい。

・多面的視点、素朴で無邪気な問い、全一。

・繊細さは一見するとハンディキャップ。ところがどっこい、アドバンテージですらあり得る。

・かつては自身の色メガネを外すことの混乱と動揺が怖くてたまらなかったのに、今となってはその色メガネのかけ替えによる混乱と動揺に、ヤミツキにすらなっている自分に驚く。より色の薄いメガネを求めているのか、刺激それ自体を求めているのか?自身の動的な変化に呼応して突き動かされているのか?それとも一応の帰る場所があるから旅をするのか。

・動的な解体と構築。複雑なカタチとナカミ。

心はハウルの動く城、みたい。

・今思えば、私はかつての自分が見ていた世界像によって心と身体にことごとく不調をきたしたからこそ、新しい考え方に触れた折に、それが自身にとって有効性が高いか否かが、心身によってより鋭敏に選り分けられたように感じる。不格好に泥臭く、とにかくその考えの基生活に挑戦したからこそ、ある程度の方向が見えたんじゃないかと。

・欲すること。不足を補いたい欲、抱えきれず漏れ出し押し出された欲。

欲それ自体に注目すると「とにかく欲しい。」となりがちで、なぜか分からず貪ってしまう事が必要以上に多くなる。そしておそらく一つの特徴として、「補われず、押し出される欲」は悪意的、かつ悲愴的に漏れ出してしまう事が多く、「補いの基、押し出される欲」は正反対の漏れ出しを見せることが多い、ということがあるように思える。

しかし他方、こういった欲は、自身の中の欲の生まれについて熟考すると、「補いと押し出し」の方法すら変わってしまうことがある。

不足を補う欲が不足を感じるのは「現在をもって過去を遡った末の潜伏したもののおぼろげな自覚」であり、

漏れ出し押し出される欲が漏れ出すのは「過去を遡り、訳も分からず自覚した、この現在をもっての未来への顕在的発散」である。

ならば、先ずはそのおぼろげな自覚をできうる限り掘り起すよう「現在をもって過去の構成・関係を丁寧に新たに接ぎ、紡ぎ直す」ことが出来れば、未来へ押し出される欲はカタチを変える。悪意の後方には、悲愴がこっそり、しかし確実に隠れている。文字通り「悲しみの心の倉庫番」を見つけ、事情を聞き、理解し、今まで放っておいてすまなかった、と抱きしめてやることこそ、何よりすべきことである。倉庫番に鍵を開けて欲しい、これも一つの欲である。

そういう欲は、持っていた方が良いし、しつこいくらいに向けてやろう。

・本って奴は、一人で黙々と読んでいる行為じゃなくて、作者との対話なんだと思う。

・扁桃体が感情を生起し、島皮質で自覚され、前頭葉が予測と思考で統率を図る。単純化してはいるが、とりわけこの3つの過程とそのループは重要である。我々は良くも悪くも、思考による予測と実際との予測誤差が大きいほどに、それに見合う大きな感情が動き出す。

強い負の感情の修正・緩和を考える時、我々にできうることは、その予測に見合うような外的な変化を達成するか、もしくはその予測が実際とは不釣り合いであることを認めてしまうような内的な変化を達成するか、のほとんど二択を迫られている(ただし、程度が肝心であって、白黒つけようとすることがむしろ完全な白でない、ということ自体に再び苛まれる。そういう意味では大枠の二択。及び二択に纏わる無数の程度。)。

確かに人や環境を変えることも、自身の考えを改めることも、非常に難しい。が、後者の難しさは、前者ほどではない。しかも後者はひとたび心が受け入れてくれさえすれば、ずっと傍に、内部にいてくれる。

またそうなってくると強い正の感情を、より楽しめてしまう状態が実に多くなる。

・辛くなる時は、必ず何らかの「壁」が心に生まれている。その壁は心の内であるからこそ、見えなくて分かりにくいし、それを認めてやるのにいつだって一苦労する。しかし心は、いざ認めてしまって一緒になって壁をぶっ壊してやると、いつだってとんでもなくうれしそうなのである。

・自身の中にある確証バイアスとのぶつかり稽古をしていくこと。これが肝心なのだと思う。何度も何度も、数え切れないほどに真っ向勝負を仕掛けていくと、いずれは何度吟味してみても、認めたくなくとも認めざるを得ないような妥当性を有したやり方に出くわす。そうして繰り返していくと、以前のやり方にこだわっていたことが嘘の様に気持ちが晴れ、その時改めて「そりゃ疲れるって」と、すんなり思えるようになる。

・この先、より妥当でより明晰な考えに出くわしたとしたならば、私はすぐさま手のひらを返して迎え入れるよう動き出す。

・仏陀ですら「自己への執着」は滅したものの、「正見」による「世界を正しく見てぇ、知りてぇ」という気持ちを持っていた。

悟りというものは、「悟りてぇ」というそれ自体が自己への執着なんじゃないか?僕は仏教徒ではないけど、知れるものは知りてぇ。

・正見が先立ち、執着が弱まる。

・例えばゲシュタルト崩壊のように、

目の前にあるそれが、それであると分かりつつも、それ以外の何かのようにも感じるあれ。非・意味と意味のはざま。二重の見とは、多少はこれに近い感覚であるように思う。

差異の裸の反復と同一性なるものの変容。強度のせめぎ合いと外延上の表示。不立文字による空と記号や概念による色。

・外延上の0℃は、強度の上では0℃以上の温度と0℃以下の温度のせめぎ合いであり、外延はその只中の、ただの表示である。表示として温度の、その背後を考えずには、もういられない。外延が成立するそれ自体が、我々が見逃している強度の上で成立している。あるいは差異と反復。その差異が反復することによる毎回のズレ。

・アクセルで加速の仕方を心得たのなら、今度はブレーキ君の方も手伝ってあげないとスピードの落とし方が分からなくなる。風呂にゆっくり浸かって、後は寝ろ。

・思想とは、視点の変換器である。その変換器を上手く使用できうるか否かは、当人に掛かっている。

使用の際、違和感や不快感はできうる限り見逃さないことが重要で、その理由探しは更に重要だ。

本当に難しい事なのだけど、中途の混乱による不快感なのか、はたまた使いこなした上での違和感なのか。こじつけぬよう丁寧に、できうる限りに模索してみる。

常識も含め、それが視点である限り、大枠で言えば全て、思想である。

・今の気持ちを整理してみる。東洋哲学の唯一の難点は、社会生活にわずらわしさすら感じるほどの、その説得力のように感じる。おそらくは原基的には、あまりにも核心に迫っている。しかし僕は、事実、その傍らで実生活に、その社会生活にこそ身を置いている。だから、この拡大しつつあるわずらわしさを放っておいてはいけない、とも今思っている。原基的には相互作用を念頭に起きつつも、このわずらわしさをも払拭したいと感じている。ぼちぼち自分自身の考えに歩み出す時が来たのかもしれないと。どちらとも折り合いがつくような、そんな考えを。慎重にズラし、揺り戻し、自身にとって違和感のないオリジナルとして、動き、作り上げてみたいと感じている。本項目では、そんなことに挑戦する。

・極度の構造化は、ダイナミクスを徹底的に殺し、ダイナミクスによる変数的変化・侵入を見逃す。

他方、極度の解体は、スタティクスは一切無い。そのため内外すらない、ダイナミクスままである。しかしそうなると、不可分であるが故に一切の抽出が不可能になる。

一方には、ルール的・象徴秩序的な抽出可能な反復と、それによる効率の向上可能性がある。がしかし、硬直、分断、腐敗と抑圧もある。

もう一方には、アンチルール的・カオス的で抽出不可能な反復しかない。がしかし、多少揺り戻すか構造を対置すれば、流動、接合、緩和、有の無化、無の有化があり得る。

であれば、スタティクス的ダイナミクスともいえるような、一見中途半端な仮像を、動的なナニカを抽出できうる象徴を、仮押さえであることを自覚しつつも流動的に利用可能にするくらいが、バランスが良いのではないか?

・こんなにハッピーで良いんだろうかなんて時々思うくらい余裕だ。

・認識即存在。認識論と存在論は根源的に同一なものを異なる言い方をしているに過ぎない気がする。

・小さい光を欲するが故に、より大きな光に気付けない。

大海原の只中にありながら、それでも水を求める。

こだわる、執着するとは、けだし、このようなことなのではないか?

・例えば天文のようなあまりにも壮大な視点は、自分なるもののちっぽけさを思い起こさせる。大きな世界に包まれて、何とも言えない矮小な自分を感じるしかしそれと同じくらい、個別の問題が小さいものにも思えてくる。そしてそのまま自分に戻るとなんだか軽くなって、心の中で小さくなった問題のその余白が別の何かで満たされていくのも感じる。僕らはきっと自分に向き合わないことによって生じる諸問題と、自分に向き合いすぎることによって生じる諸問題を抱えている。スケールを変えてみるから、分かることもある。とりあえず宇宙は壮大で、自分はちっぽけで、唐揚げはウマい。

・尊敬し、師匠としているのは、マダニとゴリラです。なんて人には言えない。笑

・幸福を語るラッセルにせよ、対等な尊重を語るカントにせよ、いつの時代もそれぞれの文化・文明における無自覚な偏見を有していたことは、黙されがちだ。ヒュームの偏見についてはさすがに有名だけれども。

しかし、だからといって彼らの語ったことを全て否定するのは、黙することくらいナンセンスであるし、何より現代においても、我々が想像すらできない無自覚な偏見が、おそらく多々あるはずである。

・禅は言葉を嫌う。目指そうとするほどに遠のくそれは、一つの態度として沈黙があり得る。しかし語らずにいるにはあまりにも魅力的でもある。

ただ見よ。どこに分別があろうか?

ただ見よ。ひとつとして時の止まったものがあろうか?

本来無一物。無常。

・両界曼荼羅で重要なのは、付与された名、ではなくて、そこに詰められたありったけの力動性なんじゃないか。

・我々はどこまで行ってもエピステーメーの只中である。たったひとつの知の枠組み、一つの視点は、得るものの傍らで、偏執をも得ては、その枠外を失う。

・「何を言っているんだ?頑張ったのは君じゃないか?」という言葉を、私はきっとずっと忘れない。

今日のあなたの一日が「アホの織り成す恥ずかしいアホリズム」で晴れ男、晴れ女になることを願って。

読んでいただきありがとうございます。

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