これでもう、批判はこわくない

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人間関係

こんにちは!幸せマンです。
今回は、人間関係の悩みをこれでもかと言うくらいに無くす事のできる思考法をご紹介します。今回の内容は、私自身が特に常々お世話になっているものです。人間関係の悩みというものは今現在の私には、全くといっていい程にありません。なので、その考え方を今日ここで記事にしていこうと思います。

では、早速いきましょう!

私達の気持ちが振り回される


私達の気持ちは振り回されます。
会話の中で起こるであろう
「それは違うよね!」
などの批判や否定に対し、腹が立ったり、「あれ!?違うのかな?」と言う気持ちになってしまう事があると思います。

もしくは、その集団の発言力のある人が
「こうするから!」
といった場合に、内心「違うんじゃないかな?」と思っても、私達の意思を押し殺して賛同する事ってあると思います。

今日の内容は、このどちらにも、もっと言えば全ての会話や物事への対処が可能になるものです。

もうこれからは、そういった気持ちに振り回される事も、腹を立てる事も、気持ちを押し殺す必要も無くなっていきます。
これからはずっと、楽、しちゃいましょう。

会話のきまり


会話には「ある一定のきまり」があります。それが分かってしまえば、もうこわくないし、動じません。

そのきまりはとても簡単です。以下のようになります。
私達の会話は
「事実や出来事」
「解釈や考察」の2つが登場してきます。

事実や目の前で起きた事は、基本的に「変わらないもの、変えられないもの」です。
しかし、解釈や考察は「人それぞれ違うもの、変わってもいいもの」です。

「そんなの当たり前じゃん!!」と言う意見もあると思いますが、これが本当の意味で理解できている人と理解できない人がいて、理解できている人は少ないものと思っています。

というのも、
事実に基づく解釈は、「違って当たり前で、違っていいもの」なのに、何故だか私達は、この解釈の部分が一緒じゃないと気が済まないと感じているんです。
「なんで分からないんだ!」と人それぞれ違うであろう解釈の部分に対してとことん追及をし、自らを疲れさせ、相手を疲れさせています。

例えば
たった今、目の前で子供が転んでしまいました。
この出来事に対し、
自分で立ち上がる事を待つ親もいれば、
「助けてあげなきゃ!」と手を差し伸べる親がいます。

手を差し伸べた親に対して、自分で立ち上がる事を期待した親は
「ああ、助けちゃうんだ!」と考え、

自分で立ち上がる機会を与えたい親に対して、手を差し伸べるであろう親は
「なんで助けないんだ!」
考えてしまう様な事が実際に、頻繁に起きています。

このどちらも「目の前の出来事」に対し、「各個人の解釈や考察」をし、どちらも「子供のため」を思っています。どっちが正しいなんてありません。ですが、私達はそこに「自分の正しさ」を求めています。

実際にあった出来事に対し、個人の思惑や何らかの気持ちが乗ったものが解釈や考察です。それが「思いやり」であっても、こうした感覚の違いに私達の気持ちが右往左往しているんです。むしろそれが思いやりだからこそ、誰かからの異論に強く反応してしまいます。

しかし、私達が解釈や考察の部分に異議を唱えたところで、どうにもならないものなんです。私達だけの、誰かだけの考え方です。私達がいいと思った事は誰かから見て、必ずしもいいと思える事では無いんです。

つまり、その解釈はただの「見解の違い」なんです。そこをあわせる必要がある場面は、会社であったり、家族の今後を一緒に歩いていく場合に必要とされる「きまりごと」のみです。
日常生活においては、そう多くないんじゃないかな?と思います。

そしてそうした「きまりごと」に対しても
一緒に歩いていくためにしているのであれば、争う必要が全くないんです。
ただただ、

「事実はこうだよね。実際はこうだよね。」
「それでもって、私はこう思うんだけど、君はどうかな?もっといい案
があるかな?」
と言う機会が与えられているだけなんです。

この「きまりごと」を決める時、事実ごと曲げようとしてしまうと、おかしな事になっていきます。この辺の事実の捻じ曲げに関しては後述します。

しかし、少なくとも日常の会話の場合は、そもそも合わせなくていい、合うこと自体も少ない「自分だけの解釈」ですよね。

事実や出来事を知って、その事実からなる解釈をお互いが認め合えば良いだけだったんです。

「事実は受け止めるもの、解釈は違っていいもの」と考える事が出来れば
自分や相手から出たその解釈に、固執する必要がなくなります。

なぜなら、事実からなる自分から出た解釈も、相手から出た解釈も「人それぞれ違うもの、変わっていいもの」だからです。
私達がそう思うのも、相手がそう思わないのも認め合えばいいんです。
知らないうちに縛り付けあって不自由を感じていただけで、そもそも私達は自由だったんです。

私自身がこれに気付いた時、驚くほどに頭が晴れ渡ったんですが、皆さんはどうでしょう?

じゃあ、討論会って何なの?


このような考え方の基、
世間で繰り返されている討論会や議論とはなんなのか?を見ていくと、自ずと見えてくるものがあります。

一人の人が「こうです。」といった事に対し、
もう一人の人が「それは違います。こうなんです。」といった討論がされています。

要は「解釈と解釈のぶつかり合い」なんです。お互いが言いくるめようとしている時点で、解決する事なんてありません。しかもこの解釈には、権威者の背景や個人の思惑などが多分に含まれた、「どうしても譲れないなにか」があるわけです。

そしてそもそもぶつかり合いを目的としているところもありますよね。ぶつかり合う事で見てくれる人を増やそうとしているか、譲れないなにかを譲れないだけなんです。

もっと言えば、根拠が何なのか?を示されていない討論が繰り返されています。
何かの専門家の方であっても、科学的な根拠が無かったり、事実を認める事ができないまま「こうですよね。」とおっしゃっている方が残念ながらいらっしゃいます。

もし、その討論が事実からなっていない以上は
「さあ、私の夢物語についてお聞かせしましょう!」といっているのと変わらないんです。その夢物語については、もう本人の物語なのでそこに議論の余地は本来ありません。

これを先程の子供が転んだ例で見ていくと、もっと分かりやすいんじゃないかと思います。
目の前で子供が転んだ事に対し、こう言っているんです。
「いや、あの子は転んだように見えるけど、実際は転んでないんじゃないかな?」

こんな事が世の中では当たり前に起きています。
ここでコメンテーターさんが、
「転んでいないという根拠は何ですか?ほら、膝をすりむいて泣いているじゃありませんか?」

といっても、その事実を認めない人は
「私は認めない!なんなんだあなたは!!」
と押し通ろうとしています。

こうなってしまうと、その話に筋が通っているかどうかは関係なくなり、自分の意見をどうにか押し通したい!になっています。また、事実からだったとしても解釈の違いを埋める気が無い限り、結論は出ないんです。

自らの主張を証明したいなら、どうしてその考えに至ったか、事実や根拠から説明した方が建設的な議論が出来ると思うんです。
それがいつの間にか、建設的な議論が目的では無く、自分の意見を押し通すのが目的になっているんです。

しかし、それでご飯を食べている人は「負ける事が許されない」んです。

こうなってしまった場合、私達は事実を認めたくない人の抵抗を観ている状態が続いていきます。

私達はどうしたらいいのか?


では、私達の場合はどうでしょう?
私達は、言い争うことでご飯を食べているわけでも、「負ける事が許されない」わけでもありません。特に日常生活で勝つ必要が無いんです。

勝ち負けは、私達の中で生まれているもので、そもそもその勝ち負けに乗っからなければ、生まれてこないものです。

私達は私達のままでいいんです。
「事実は受け止めるもの、解釈は違っていいもの」です。
問題に向かう時、実際に間違っていたり、至らない点があったなら、そこから直せばいいし、特に間違っている点が無かった場合は、その批判に応じる必要がありません。
あくまで異論や批判はその人の解釈や考察です。「そう思っているんですね。」でいいものです。

例えば、
その言い争いに勝ったとして、私達はつかの間の喜びを得るかもしれません。
しかし、そもそも言い争いをしなければ、負けることがない上に、その際に感じる嫌な感情も味わうことなく暮らしていけます。

争うんじゃなくて、認め合えばいいんです。
ただそこに、その人の「解釈」が生まれているだけです。

それに対して私達は「思いやり」を持って尊重しあい、
「私の意見はこうだけど、あなたの意見はこうなんですね。そういう意見もありますよね!」と日々を暮らせたなら、その瞬間から人間関係の悩みはたちどころになくなります。
あなたの意見はあって然るべきだし、相手の意見もあって然るべきです。

事実を事実として受け止め、そこからの解釈を認めさえすれば、争いはそもそも生まれないんです。

これが身に付くと、なにが事実かを知る力を強め、もう誰かの意見で腹を立てたりすることは少なくなっていくことは勿論、何事にも動じず、ありのままの私達でいる事が出来ます。意見は合わせなくてはならないものじゃ無くなります。

今日のあなたの一日が人間関係の悩みから解き放たれる事を願って。
読んでいただきありがとうございます!!

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