自由って欲望のまま生きる事じゃないよ?~イマヌエル・カントさん~

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人間関係

こんにちは!幸せマンです。
今回は前回の「自由を手にする、下準備」の続きです。今回は最初にざっくりと前回のおさらいをして、カントさんの「道徳観」に触れていく所存です。厳しさの中にも「圧倒的な自由」があるカントさんの考えを、ぜひ見てもらえたらって思います。
自由へ至る道は「自己への回帰」なんじゃないか?と思わせてくれます。
私達はただただ、元に戻ればいいのかもしれません。

では、早速いきましょう!!

前回のおさらい


前回、カントさんの道徳観に至るまでの下準備をしていきました。むしろ下準備の方が難しいんですが、カントさんがどのようにそういった考えに至ったのかは、やっぱり外したくなかったんです。

さて前回のおさらいを相当ざっくりにまとめていくと、
「人間にはその認識の中で仮象(見せかけだけのもの)が生まれる。なぜなら、人間は人間の認識している範疇で目の前の事柄を感じるからだ。だから、先入観は得てして生まれている。踏み込んでしまえばそれに気付くことは非常に難しいがために、私達は先入観を持ったまま歩まねばならなくなる。これを改めるべく、先ずはアプリオリな(生まれ持った)ものに立ち返るよう、見ていこう。私達はその法則を携え、生まれながらに持った意志から始めれば、【自由】というものを自ら示せる。

こんな感じかなと思います。

前回までの内容で、現代で言えば、例えば心理学でいう「バイアス」などの考え方の偏りにも通ずるところがあります。それに気付くことで違う観点が生まれます。
また脳科学で言えば、知覚などの感覚の出入力で言われていることです。錯視などの画像が動いて見えたり、実際より長く見えたりする現象は、認識のつじつま合わせを脳がしきりにするからでもあります。

しかし、バイアスは気付くことで矯正でき、また錯視は錯視だと分かれば「こう見えるけど、実際はこうなっているんだ!」と分かります。

今回の話はこれに近いものですが、カントさんはこれを「根本」から見事にやってのけました。それも生き方や道徳全般のレベルで、です。
何より「ブレない自分と圧倒的な自由(自分らしさ)」が見えてきます。

今回はそんなカントさんの道徳観の「根本」である、肝心要の「アプリオリな意志(生まれながらに持った意志)」について触れるべく、カントさんの道徳観を掘り下げていき、どなたでもご理解いただけるよう落とし込めた事を願いつつ、ご紹介していきたいと思っています。

カントさんの道徳~意志からなる無条件の自律~


さて、いよいよここからさらに深く、カントさんの道徳観に触れていきます。
カントさんはしばしば「厳格主義」などと呼ばれるくらいには、厳しい側面があります。ですが、その先に待っているのはそれとは似つかわしくないほどの、圧倒的な開放感です。

じゃあ、早速見ていきますが、
その前に、ひとつの有名な例を出します。
これから出てくる人が道徳的に正しいかどうか?
一緒に考えていただけたら幸いです。


ある場所にお店を構えたとある店主がいます。
そのお店に一人の見慣れないお客さんがやって来て、買い物をしていきました。でもなんだか買い物自体に慣れていない様子です。

ここで店主は考えました。
「このお客さんは、おそらく買い物をあまりしないからこの商品のお釣りをごまかしてもきっと分からないだろう。ごまかしてしまうかな?いや、まてよ。もしこのお客の知り合いが気付いて、それが明るみに出てしまった場合はこのお店に悪い噂が立つかもしれない。だとすれば、お釣りをごまかすのはやめよう。」

店主はそう思いなおして、お客さんにきっちりお釣りを渡します。

さて、この店主のしたことが「道徳的に正しい」と言えそうでしょうか?
確かに途中で良からぬことを考えました。しかし、結果だけを見てみれば公正な取引をしましたよね。

この例に関しては、沢山の意見があると思います。
ですがカントさんからすれば、この店主は道徳的には
「全く正しくない」と断言されます。

一体なぜでしょう?
店主は一考して、理性を働かせているじゃないですか?

これに対してカントさんはこう言います。
「それを行うに至った動機が、全く道徳的でない。」と。

よくよく考えてみると、この店主の「動機」になる部分は「公正さを保つこと」ではなくて「自己の利益を得ること」です。
「自己利益」を動機にしている場合、完全にごまかせる場面や、利益に目がくらんだ場合は、もしかしたらその限りでは無くなります。
だから正しくない、とカントさんは言います。

カントさんは「もし〇〇なら、△△しよう。」のような考えが生まれるようなケースバイケースな信条は、必ずその考え方自体がブレる、と考えています。
この「もし〇〇なら。」のような「条件によっては変化する自分への命令」をカントさんは「仮言命法」と呼びます。

彼は、自分に対するルールが仮言的である事。つまりは「もし〇〇なら」が信条の生き方はよろしくない、とはっきり言っています。
またそういった生き方は、いずれは他者や周囲の環境に振り回されることになるとも言います。
そしてカントさんは他人の立てた規律などによって周囲に振り回されがちになることを【他律】と言いました。

確かに私達は「ああだったら、こうしよう」という行動の結果、終始誰かに振り回されたりしがちです。そしてその結果、とても疲れてしまいます。

じゃあ、一体どうすればいいのさ?という当然の問いに、カントさんはこう答えるはずです。
「根底にある法則からなるアプリオリな意志を取り戻し、それに基づく【定言命法】(無条件のルール)による【自律】(自分の理性)をして生きよ。」
ちょっと難しくなりましたが、この後すぐに説明を付け足します。

また、もう少しで前回から何度も登場している「アプリオリな(生まれ持った)意志」についてご紹介できるところまで至りましたが、その前に【定言命法】と【自律】について見ていきます。

「〇なら△」ではなく、「無条件に□」 ~定言命法と自律~


「定言命法」とは先ほどの「仮言命法」の反対の意味。
また「自律」とは先ほどの「他律」の反対の意味です。

仮言命法は「もし〇〇なら、△△しよう。」というケースバイケースな考え方でした。
一方、定言命法は「定言的(無条件)に□□する。」という意味です。

また他律は他人の立てた規律などによって周囲に振り回されがちになることを言い、
一方の「自律」は、自分で立てた規律の基、それに従い理性を働かせることを言います。

つまりは、
「道徳的法則からなるアプリオリな意志(生まれながらに持つ意志)を取り戻し、それを基に定言的に(無条件に)、かつ自律をして(理性に基づく選択をして)生きよう。」

もっと簡単に言ってしまえば、私の記事内で何度か言っていることである、
「根っこを確立して、そこから枝葉を自由に伸ばそう。根っこがしっかりしていれば、枝や葉や実も、しっかりしたものになる。」
という考え方に非常に近いと思います。ただ、カントさんの場合はもっと深く、根強いものです。
そしてなにより、これ以上の「根っこ」は今後見つからないんじゃないか?と思うくらいに深い位置に根差しています。

また、カントさんの場合の「根っこ」は【元々持っている人間の素養】なので、勝ち取るものではなく、「自己への回帰」をすれば見つかるものです。そして私も「客観的事実」として、「元々持っている」と言えると思っています。

じゃあ、そんな根っこに当たる「アプリオリな意志」というのは一体何なんでしょう?
「アプリオリな意志(生まれ持った意志)」に言及するタイミングを伸ばし伸ばしにしてしまってごめんなさい。
ただ、カントさんの意図を踏まえ、私もあえて皆さんに考えてもらえるような構成にしたかったんです。ここまで長々とみていただいてありがとうございます。あと少しでようやっと答えが出ます。

最高善、善の意志~道徳の最高原理~


「生まれながらに持つ意志(アプリオリな意志)」とは、なんでしょう?

それは例えば、
「自分で所有する権利を持つのは国でも社会でもなく、自分自身だ。だから他人は全く関係ない。」のようなものでも、
「多くの人が救われるなら、自己犠牲も厭わない。また多くの人が救われるなら、少数の犠牲なら厭わない。」のようなものでもありません。

カントさんの言う「生まれながらに持つ意志(アプリオリな意志)」とは、

「すべての人間を尊重する」

という意志です。

人は元々善い心の【源泉】を持っている。蓋がされているか、または気付いていないだけで、皆持っている。
だから「すべての人間を尊重する意志」に立ち返り、理性を働かせる事こそ、大切なんだ。
と説きました。

例えば
「すべての人間を尊重する」というアプリオリな意志(生まれ持った意志)を取り戻した場合、以下のようになります。

誰かに信頼されようが信頼されまいが、私はその誰かを尊重しよう。そこに区別はない。
優しくされようが優しくされまいが、私はその誰かを尊重しよう。そこにも区別はない。
誰かが私を信頼しないのは、優しくあれないのは「生まれ持った善意」をその経験の中で、社会の荒波の中で、忘れてしまっただけだ。

また、これだけでは終わりません。
その「すべての人間」の中には【自分自身】をも含みます。


誰かを悩ませ傷つけるのはその誰かを尊重していないことになる。それと同じく、自分を悩ませ傷つけるのは自分自身を尊重していない事にもなる。
だから自己犠牲すら正しくはない。
だが、自分自身を他者より尊重することでもない。自分自身を一番に置くと、人はどうしてもそこに驕りが生まれてしまうものだから。

カントさんは、法則だの、定言的だの、自律だのといった、理性によって厳しく自己を律するものばかりですが、「すべての人間に尊重する」ための根底の目的が定まっているからこそ、反面、その先には圧倒的な手段の選択枝があります。厳しくある反面、温かいんです。

また、ここで注意したいのは、「なんでもかんでも誰でも救うスーパーヒーローになれ!」という事では無い事です。

あくまで自分を含むすべての人を尊重するというのは、
自分自身の心身の健康を守り、その尊重の基、余裕があれば「自分磨き」をする事です。
それと同じく他者も尊重するために、他者に対して悪意をふるわず日々を過ごし、余裕があれば困っている人を助けることです。
他者の心身の維持は、その個人の責務であり、その個人が目指すものです。

つまりは自分の中にある、自分や他者に対する悪意をとことんゼロに、そしてできうる限りの善意を持ち、それでも尚余裕があれば、と言った感じです。
これ以上は非常に難しい事です。仮にあなたがスーパーヒーローさながらに誰でも救い続ければ、いずれはあなたが犠牲になります。

なので
私もあなたも、ただただ「一人の善意ある人間」であれば、良いんです。またその前提を基に、
私もあなたも、ただただ「自分らしく選択する人間」であれば、良いんです。

触れ合う機会がやってきたとき、その善意を振るえばいいのだと、私は思います。
私はこれ以上に優しい「命令」に出会った事が、いまだかつてありません。
こんなに優しい「しなければならない。」は他に見たことがありません。

私達の親切心というものは、「無理して我慢して振舞い続けると消費してしまうもの」のような印象があったりますが、この原因は「社会にとって相応しい態度を取るための負担であり、義務」だと感じるからであり、本来やりたくないからです。ですが、心に余裕が生まれた際の善意であれば、負担でも義務でもなくなります。

また厳密に言えば、カントさんは
「道徳的法則からなる善の意志を持て。」と言っています。
「道徳的法則」とは「自分にも他人にも当てはまる絶対的な良い悪いのルール」であり、そのルールを守った善の意志であれば、そこに何かを追加してもいいよ!と言っています。

ただ、「すべての人間への尊重」以外のルールを設けた場合、おそらく今以上の規定(縛り)が必要になるだろうという事にも言及しています。

また私は「すべての人間への尊重」と言いましたが、こちらもカントさんの「道徳的法則からなる善の意志」を正確に言うと

「我々自身(自他)に対する尊敬」の意志です。

これを根本に携え無条件に、かつ自律していくことは、そのまま自由に繋がると考えています。

カントさんの「自由」とは
「欲望のままに生きることでも、自己犠牲をすることでもなく、自分を含むすべての人間への尊重からなる、その行動の選択の自由」なんです。

ここで言う「行動の選択」とは「根底にある無条件の善意のもとの理性による選択」です。

「私は私自身とあなたたちを尊重する。だからこそ私の場合は、こうしよう。」という個人の選択(自分らしさ)に基づいた自由なんです。

「各々目指す場所もできる事もきっと違うだろう。だが、根本は同じだ!」がカントさんのいう道徳であり、意志でもあり、自由でもあるものなんです

人が喜びや苦痛、飢えや渇きなどに支配されるのみの存在なのだとしたら、それは全く「自由」ではない。そこに理性を働かせ、自らの意志に由(よ)って行動することこそ、読んで字のごとく「自由」だと、カントさんは考えています。

ちなみに日本語の「自由」とは、ドイツ語の「自由」の意味にかなり近いものです。ですので「自らに由る」は、カントさんの自由と極めて近い意味合いを持ちます。

「自己への回帰」であり、「支配の制限」でもあるため、カントさんの道徳感は「厳格ながら自由」と評されるんです。

そもそも私達は「自由がある」と言うけれど、じゃあそれがいったい何なのか?は意外とよく分かっていません。ですがカントさんは
「私達は自由を観念的に捉えることは出来るが、自由それ自体としての存在の仕方を知らない。でも、自由はアプリオリな意志に基づいた理性を駆使することによって、それをあり方として示せる。」
という形で「自由それ自体」を捉えようとしたんです。

「根っこが定まれば、あとは自由に選べる」と考えると、なんとも開放的だなぁ、と私は感じます。

全ての人を疑って生きゆくよりも、または無関心に生きゆくよりも、すべての人を尊重する生き方の方が自由の幅は広いんです。その自由を謳歌することで、心の釣り合いが取れる領域は、どんどんと広がっていきます。

また、「人間が生来、善かどうか?」に関して依然として疑問がある方もいらっしゃるかと思います。
実際、他の哲学者さん(ショーペンハウアーさんなど)からも「どうして道徳法則が絶対なんて言えるんだ?そこの根拠が乏しいじゃないか。」などとツッコミを入れられたんです。

ですが、「人間の本性が善である」可能性は極めて高い事を、私の以前の記事で客観的事実として「考え方の生まれ、2つの科学的実証の裏、争いの始まりと戦争の実態、情報の実態」など、多岐にわたって4つの連続した記事で取り上げています。ご参考になれば幸いです。

「じゃあ、私の心根も善じゃないか!」の一助になれれば嬉しいです。

カント哲学を貫く「考え」が生まれた瞬間 ~告白、改心、決意の時があった~


おそらくは誰であっても、その考え方に出会ってそれまでとは全く違う考え方に至る瞬間というものが多かれ少なかれあります。
そしてそれはカントさん自身も同じでした。彼も、イギリスのベーコンさんやヒュームさん、フランスのルソーさん、古代ギリシャのエピクロスさんなど、その他沢山の方々の考えに触れるにつれて、自分自身の考えに至った、という時があるんです。

実は、その心境に至った決定的瞬間というものが、世間に見つかっちゃったんです。笑
そして本当は見られる予定もなかったので、かなり突っ込んだ内容まで書いてあります。しかしだからこそ「カントさん自身の本音」が記してあります。

その内容を端的に見ていけば
「私は、知識を得ることに喜びを得ていると同時に、無知な人を軽蔑すらしていた。」
「だが、ルソーに出会って目をくらます優越感が消えうせ、人を尊重することを学んだ。」
「そしてもし、この気持ちを忘れるようなことがあれば、私は私自身を無用な者だとみなす。」

これは今なお語り継がれる3つの歴史的名著が生まれるずっと前、カントさんが40歳の頃の著書である「美と崇高との感情性に関する観察」への「覚え書き」に書いてあります。

以前の自分の考え方にあった誤りを「告白」し、
「改心」があったことを吐露し、
「決意」を新たにした様が記されています。

つまりはカントさんだって、最初から皆に対して尊敬や尊重をしていたわけではないんです。カントさん自身も先入観に「目をくらまして」いたんです。

そしてその後も沢山の論文を公表し続けたことこそが、カントさんが「無用な者」にならなかった証ともいえます。

ちなみに、私自身が「美と崇高との感情性に関する観察には、カントさんの原点が書いてあるんだ!じゃあ、自分の目で確かめてみたい!」と思い立って実際に「美と崇高との感情性に関する観察」を買ったんですが、
一番見たかった「覚え書き」が載っていませんでした。笑

その後再度確認したところ「覚え書き」は「カント全集」の方には載っているという事を知り、愕然としたのを今でも覚えています。笑

ただ、この本(美と崇高との感情性に関する観察)自体の二章では、人間を尊重するという根本原理に従う事の尊さの枠組みが既にあった事を見て取れます。
ただそれ以外の章はまだまだ偏見だらけで、もしかしたら気を悪くする人もいるかもしれない位の内容です。(時代背景的なものをものすごく感じました。)

特にこの本の二章は、その他にも「人に気を遣いすぎる人」「快楽を求めすぎ、穏やかな日常に満足できない人」「名誉を欲しすぎる人」などの悪い所を指摘していきもするので、一見の価値はあるかと思います。

そして何より、「カントさんの文章なのに難しくない」ので、違う意味で感動を覚えます。笑

近年の科学で分かったこと~人は悪の癖も持っている~


さて、最後にちょっとだけ暗い話をします。とはいえ、解決が可能な事でもあります。
むしろ、あえて包み隠さず言うことで、しっかりと向き合う機会が生まれると考えています。

というのも実は、カントさんはその後、
「人は善の素養を持ってはいるけど、悪の癖も持ち合わせている。」
とも言いました。

実際人は、それが悪い事だと知っておきながら、それでも罪悪感を覚えるような行動をとってしまう事がありますよね。
それが「プライド」のためだったり、「自己利益」のためだったりという形で現れます。

そしてそういった行動をとる根拠は、これもまた現代の科学で実証されてもいます。
ですので、ちょっと現代に帰ります。

イエール大学の乳児知覚センター、通称「ベビーラボ」。
そのベビーラボで2007年にカイリー・ハムリンさんによって行われた実験
から、

「人間は生まれながらにして、道徳心を持っている。」
という事が分かりました。

この実験は生後6か月と10か月の赤ちゃんを対象に行われた実験です。そしてそんな赤ちゃん達であっても、善悪を見分けた上に、善い事を好みました。やっぱりアプリオリに(生まれながらに)人の心には善が備わっていると、ここからも見ることができます。

これで終わればなんとも素敵な話だね!で終わるんですが、どうにも楽観視できない側面も垣間見えてきます。

それが
「赤ちゃんは確かに道徳心を持っている。だが、自分の好みを道徳心よりも優先する傾向もある。」
という結果です。

つまりは「おいしそうなものを持っている悪い人(ここでは意地悪な人形)に、より興味を持つ赤ちゃんの割合が増える」という事です。

これは何度も検証された紛れもない事実です。
「善意よりも主観的な好みを優先する傾向がある」とすれば、私達が社会の中で善意より、好みが勝ってしまう事があるのは、やっぱり理にかなっています。
また、好みへの優先を私達が生まれながらに持つのなら、「根絶不可能」という事にもなります。

じゃあ、これに対し、カントさんはどう答えたんでしょう?
彼自身も残念ながら
「人間の持つ悪癖は根絶不可能」と言っています。

しかし、こうも言っています。

「確かに根絶不可能ではあるが、矯正は可能だ。」

私達の心の中には、主観的で個人的な好みというものが確かに存在します。

そしてその内で特に自他の気持ちに悪さをするようなものはアポステリオリな(経験によって培った)ものであることも多いです。
例えるなら、「〇〇を持っている人が羨ましい」などです。

しかし、カントさん的に言えば「自分自身の欲望に支配されるのは自由じゃない」んです。

羨ましいなどの気持ちは、大抵は社会生活の中で生まれた「それを持っていると社会的にいいと思われるもの」から生まれるものです。
ですが、よくよく考えてみるとそれ自体は「本当に欲しいものや必要なもの」ではなくて、「みんなに良いと思われたいから欲しいもの」だったりもします。
だとすれば「本当に欲しいものでもないのに、心と金銭的なコストを支払っている」ともいえます。皆が皆より先んじるために、皆で無理しているかもしれません。

ふと、そのような気持ちに気付けば、「本当に欲しいもの以外はいらない」という気持ちも芽生え始めます。

それに気づくことで「主観的な好み」が根底の「すべての人間への尊重」を均衡を保つよう、「定言的に自律(無条件な善意の基、理性による意思決定)を」することは可能なのではないでしょうか?
少なくともカントさんは「可能」だと言っています。そして私もそう思います。

少しだけ脳科学の話をすれば、脳は「前頭葉」で理性を働かせます。そしてその理性による「抑制と判断と意思決定」が、脳自体がゆっくりとした、しかし着実な変化をもたらします。

脳は一から始まったものを全体へと送り、また違う一へと集約し、再び全体へ…という事を繰り返し行います。脳が「一対多」と「多対一」を繰り返すのは、その情報を脳全体でもって適切に処理するためでもあり、また順応するためでもあります。であれば、理性からなる判断や意思決定に順応しない(全体に影響を及ぼさない)はずがありません。

また、理性を担う前頭葉が成長しきるのは、25歳~30歳くらいと言われてもいます。だとすれば、いわゆる大人の大部分は「意志による選択能力は、子供より遥かに高い」ともいえそうです。

「その考え方に出会ってそれまでとは全く違う考え方に至る瞬間というものが多かれ少なかれあります。」
と先ほど言いましたが、それが起きうる根拠は、その理性によって「脳が変化・順応する」ためです。だとすれば、矯正・変化は可能だともいえます。

カントさんの言っていることは常々厳しいですが、
その分得られる自由もまた多く、そして広いものです。

その先にあるのは対等な心の関係と、自らに由(よ)る「自由」です。

ただただ、「善の心の源泉」を取り戻せ。
「一人の善意ある人間」たれ

その法則はすべての人の内に刻み込まれているではないか。それを学ぶには、自己を顧み、情念を鎮め、良心の声に耳を傾けるだけでいいのであるまいか。

ジャン・ジャック=ルソー

今日のあなたの一日が「すべての人間への尊重への回帰」であることを願って。
読んでいただきありがとうございます!!

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