自由を手にする、下準備~イマヌエル・カントさん~

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生き方

こんにちは!幸せマンです。
今回は、「自由を手にする、下準備」と題しまして、超難解でおなじみの「イマヌエル・カントさん」の哲学をご紹介していこうと思います。
ずっと前から、いつかはご紹介したいと思っていた内容ではあるんですが、これが非常に難しく、簡単にすることは更にとっても難しいものでもあります。ですが、少し前に取り上げた私の記事で「人の本性は善である」可能性が非常に高い事に言及でき、またカントさんはその記事と合わせてみることで、誰かが歩みだすのを助けるようなとても強力な「コンビ」になるのではないかと思い、「今しかない!」と考えました。もしご興味があれば、そちらも見てみるといいかもしれません。

また今回の記事では、最初は淡々と小難しい話が続きますが、後半や、特に次回の記事では「とても力強い生き方の一つ」が見えてきます。誰もが理解できるような内容になっていると願いつつ、今回は「カント哲学」を見ていきます。

では、早速いきましょう!!

カントさんに出会えてよかった!!


カントさんと言えば
『純粋理性批判(第一批判)』『実践理性批判(第二批判)』『判断力批判(第三批判)』の3つが有名であり、特に『純粋理性批判(純理:第一批判)』は「不朽の名著・不朽の古典」と言われています。

カント哲学のモットーは「批判哲学」であり、「理性批判」です。
とはいえこれだけ聞くとカントさんはなんとも偏屈で、批判ばっかりしているイメージが浮かびそうです。

ですが、そうではないんです。人間の認識を改め、またその先に晴れやかな気持ちにさせてくれる考えを提示してくれた偉人です。そしてここで言う批判はどちらかと言えば「批判というより吟味」により近いニュアンスがあります。

哲学という学問は、一度触れてしまったらもう元に戻れないような感動や動揺、そして時には混乱を私達に与えてきます。

そんな哲学の中でも、カントさんは特にこの全ての意味合いが強いと思います。
そして私もカントさんに感化された一人であり、また、カントさんに出会えてよかったとも思っている一人です。

ただし、超難解で有名なカントさんです。
その要因の一つに言葉が分かりにくく、原理の分析が難解なのもあるんですが、何よりも読者自身に考えてもらうことにより、自分の力でたどり着いて欲しいという意図があるからのようにも感じます。

私が完璧にご紹介できるなんて毛頭思ってはいませんが、それでもご興味を持っていただければ幸いだと思います。

というか、個人的には「哲学を実生活に落とし込む橋渡し」がしたいんです。その哲学者の真髄を読み解くには、やっぱりその人自身の本を読み、その人の背景を知るしかないと思っています。ですので、今回はそんなカントさんの一端に触れるものなのだと思っていただけると助かります。
前編と後編に分けて、2つの記事に渡ってご紹介していきますが、特に次回の記事はきっと、「心があったかくなる」ものです。

前置きが長くなりましたが、その中身を見ていきましょう!

カントさんの「批判哲学」、「理性批判」


カントさんは「批判哲学」ともいわれ、特に理性について「批判」をしましたが、これにはちゃんと理由があります。
私達は「理性的な人」を思い浮かべる時、「冷静で、公正で客観的な判断をする人」などのイメージがあります。他にも色々あるとは思いますが、そのどれもが比較的好印象なんじゃないでしょうか?
ですが、「公正で客観的な判断」というものは、少なくとも場当たり的にぽんぽんと行っていくのは、正直言ってとっても難しいですよね。何が正解で何が不正解なのかはかなり判断に困るものです。

カントさんはこういった考えを根本から説いていきます。いえ、「説く」というよりは「解く」に近いかもしれません。

彼は、「純粋理性批判:第一批判」によって先ずは、
「人間の認識には、仮像(かしょう:見せかけだけ)のものがある。だからそれを明らかにしていく。」と言う事を目指しています。またこれによって、「カントさん以前の哲学は、カントさんの哲学に集約され、カントさん以降のすべての哲学はカントさんから始まっている」と言われるくらい絶大な影響を与えた人です。

私達人間にはどうも、人類共通の思い込み(認識の誤り)がある事が、今では様々な分野で言われています。

例えば
太陽を初め他の天体すら地球の周りを回っていると信じて疑わなかった頃から、その認識は180度変わっていきました。
実際は地球が太陽の周りを回っていますよね。

「人は自分で、もしくは人類全体で見たものが全てであり、そしてそれを信じて疑わないところがある。だから、一旦このちゃぶ台の上に乗ったもの達を丸ごとひっくり返そう。」
こういったことをカントさんは試みたんです。

つまりカントさんは、
「私達の信じる理性は一見すると冷静で、知的で、公正だ。でも、先入観や思い込みによって、真実を覆い隠してしまう側面も確かにある。だったら、先ずはそれが正しいかどうか?を吟味しよう。その理性の矛盾を解き明かせば、理性とかいうものの本質が見えるはずだ。」
という一貫した考えのもと展開されました。

「合理論VS経験論」から至った考え


人類の歴史の中でその知識を積み上げてきたのと同様に、哲学にもそれまでに積み上げられた知識や理論というものがあります。
ですので、その今まで積みあがったものを無視して、「私達は実はこうなんだよ!真実はこっちなんだ!」と言っても、おそらくは見向きもされません。
だからまずは、それらを「批判」する必要がありました。

そしてカントさんの時代には、「認識」に関わる2つの大きな考え方がありました。

それが「合理論」と「経験論」です。

合理論は、ざっくり言えば「人間には生まれもってすべての能力を与えられているので、推論も論理立てることもできる。その持っている能力でもって、そこから積み上げる論理こそが本質的なことわりを表すんだ。経験論は間違っている。」という考えです。

一方、経験論は、「物事を観察した沢山の事例を集めてきて、そこに共通することわりがあるのなら、それは極めて正しい。みんなが観察出来て、経験できるならそこには明確な関係性があるんだ。生まれ持ってなんかいない。合理論は間違っている。」という考えです。

つまりは「もともと全部持ってるVS観察による経験で培う」という考えがお互いに「こっちが正しいだろ!」とバチバチしていたんです。

カントさん自身、初めは合理論よりの考えでした。しかし、経験論を知るにつれて
一旦は「確かに分からなくもないなぁ…。」という考えが生まれます。

ですが、どちらも正しいという事はあり得ない。だとすれば、可能性は3つに絞られます。

片方があっているか、
どちらも部分的には正しいか、
そして、「どちらも間違っているか」、

です。

カントさんは、理性についての考えを示したかったんですが、それには先ずは、この2つの「認識」への考え方の矛盾を正さなきゃならないと考えます。

ですので第一批判とも呼ばれる『純粋理性批判』は認識の論証に重きを置いています。
要は、正しいように見えて矛盾しているであろう2つの認識を否定し、その根拠を示すことで「【人間の】本当の認識」を論証しよう、と考えていたんです。

「二律背反(アンチノミー)」から見えた「対象と認識の誤り」


じゃあ、カントさんは具体的になにをどう記したんでしょう?
カントさんは、それが確かなものかどうかを、「二律背反(アンチノミー)」を解こうとするによって進めました。

二律背反(アンチノミー)を簡単に言えば
「2つの異なる主張とその説明が、どっちも明らかに正しいように見える」事です。
そういった場合には、
一つの主張とその説明(テーゼ)と
それに反論するような主張とその説明(アンチテーゼ)

があります。

カントさんはそのどちらも論理的に正しいように見える場合、
「どちらも論理的には全く正しいように見える場合ってさ、その前提から誤りがあるんじゃない?実際矛盾している、という現実があるしさ。」と、その矛盾点について深く考えました。

加えて
「特に【対象と認識】においては、やっぱり正しくないのでこれを一から見直しながら、その根拠を説明していきます。」と、まさに「ちゃぶ台返し」を繰り広げます。

カントさんは「批判」の名のもとに、前提から見直しを図りました。
ちゃぶ台をひっくり返す合意を得るために、その根拠を示して「じゃあ、ひっくり返すから見ててね」的なことを徹底的にした結果、その構想から結論に至るために何年もの試行錯誤を繰り返し、得てして「超難解」になりました。

では彼の言う、人間の「対象と認識」に対する誤りって何なんでしょう?
カントさんはこのように説明します。

「われわれの認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う。」

おそらくは初めて聞いた人は全く意味が分からないと思いますが、もう少し踏みこんで説明していきます。

対象が認識に従う


私達は何か目の前のモノを視る時、まるで「その実体そのもの」を見ているかのように感じますよね。
ところが、実際はそうじゃなかったりします。
これは現代の科学でも同じようなことが言われているんです。

例えば、目の前に色とりどりの花が咲いていたとして、私達に見える「色」はあくまで、「人間が可視(見ることの)できる範囲の色」を見ているんです。

これが他の動物、例えば昆虫や、蛇や鳥などからは「赤外線」や「紫外線」が見えている(もしくは感じている)場合があります。

つまりここで何が言いたいのかというと、
「人はモノそのものを見ているんじゃなくて、人が見ることのできる範疇で、そのモノを知覚する」という事です。
もし昆虫が立派に人の言葉をしゃべったなら、
「え?なに?君たち人間はこれが見えないの?」という事になる
だろうな、と思うくらいには見え方が違うようです。

さて、この例はあくまで「視力」に関してでしたが、
カントさんはこれに対して
「人間が把握している認識は、人間が人間の認識の範疇で考えている、仮象(みせかけ)だよ。」という事を説明しにいっているんです。

「本当の音を聞いているかは、分からないし、
本当の物を見ているのかも、分からない。
そもそも確認のしようがない。
でも、人間からすればそう聞こえるし、そう見えるし、そう考える。」

カントさんは人間の認識に対して、こんなことを示したかったんです。

感性と悟性


じゃあどうして人間は、その対象をそのまま認識することが出来ないんでしょう?
カントさんはこれに対し
「人には人の感性と悟性が備わっているから」だと言います。

感性というのが、今でいうところの「感覚や直感」で、
悟性というのが「何が、どこに、どうやってあり、〇〇とは違う」と把握したり「理解する能力」です。

これは脳の仕組みで見ると少しだけ簡単になりますので、そっちの方で説明をしていきます。

私達がモノそれ自体を見る時、先ずはそれを感覚でもって、脳へと情報の入力をします。
そしてそれが「どういう状況か?」を脳で把握するために、各部位に出力します。

この情報の入出力があって初めて私達は、モノを「認識」するんですが、入力された情報が出力されて認識可能な情報になるためには、モノの情報自体が「人の感じる事の出来る範囲に落とし込まれている」という事がなされているんです。

だとすれば、私達はモノそれ自体について語っているのではなく、人間の認識としてのモノを語っていることになります。

カントさんは、「人間の認識としてのモノを語っているという事に気付いた上で、人間の認識上の事柄をこれからは考えていきましょうよ。だってモノそれ自体は確認のしようがないんだから。」と言った感じで、
『純粋理性批判』は、なんだかちょっと寂しい感じの終わり方をします。

形而上学的な「魂、自由、神様」などの、「人間の認識外のもの」はやっぱり確認のしようがないので、語ることは不可能なんじゃ?とカントさんは説明したんです。

ですがこれはカントさんの壮大な考えの「始まり」に過ぎないと、私は感じます。

『実践理性批判』(第二批判)と『道徳形而上学原論』の中で、
実際に実現できる「人間の認識外のもの」があるなら、それは人にとって認識できるものだから、それについてはあり方で示せるぞ!と言った感じで、今度は特にその中でも「自由」というものは、あり方として、示せるぞ!と言ったんです。

つまりは、「人はモノ自体をそのまま認識はできないけど、モノ自体に関わって生きているのは事実だ。だったら、自由というものが実践の中で体現できるのなら、自由は絶対にある。今度はそれを証明しよう。」という事です。

カントさんの更なる目的は「人間の認識外にあるモノの中にも、これが〇〇です、と示せるモノがある。それが自由だ。」という、自由の存在証明でした。

アプリオリ(先験的)とアポステリオリ(後験的)


ここからカントさんは「自由」があることを示し始めます。
ただ、人は人の認識をするがゆえに「先入観を持ちやすい」んです。
先入観を持っていると、人はどうにも間違いやすくなるので、そうならないためにも今度は原点から始めようとします。

カントさんは
「人間は人間の認識を行うがために、先入観を持ってしまう。そして、先入観を持つのはそもそも、ほとんど同じような認識の基、経験をしていくからだ。だとすれば、アポステリオリ(後験的に)に培う部分ではなく、アプリオリ(先験的に)に備わっている部分を見てみよう。」

またアポステリオリだの、アプリオリだのと、よく分からない言葉が出てきましたが、これを簡単に説明するならば、
アポステリオリは「経験の中で培うもの」で、
アプリオリは「経験に先立って既に備わっているもの」くらいに考えると分かるかなぁと思います。

つまりは
「社会の中で学びながら培っていく部分から見ていくのではなく、生まれながらに備わっているその部分を基盤として、一から見ていこう。そしてそうして行為で示そうとしたら自由があった。」という事です。

そのアプリオリなもの(生まれ持ったもの)は、
「人間の範疇で認識している、と気付き、それを今度は間違わないで働かせることのできる理性(道徳的法則からなる意志)」
です。

「抗えぬもの」と「抗えるもの」


そもそも私達は「自由がある!」と口々に言いますが、じゃあ自由って具体的に何なのさ?と聞かれると意外と答えるのが難しいですよね。

カントさんは「自由」について、その確認の仕方を纏めていきます。

前もって、かなり乱暴にまとめるならば、
「現象は自然法則に必ず支配され、知覚も人間の範囲でしかできない。これが原点だ。だが、それと共に原点には、自らの意志に由来するだけの根本的なものもある。だったら、そこから始めれば、自由というものが何か?が本当の意味でつかめる。」
と言えるんじゃないかと思います。

例えば、
物体を掴んでそのまま手放したとき、その物体は必ず重力に引っ張られて「落下」します。また高さや質量や形状によって加速度は決まり、また到達する速度も決まっていきます。
こういった自然法則は、私達がどれだけ抗おうと願っても、必ず起きます。

また知覚について、例えば直感や感覚などは、すぐさまそれを感じる事が出来ます。「直(す)ぐさま」であるがために、私達がそう感じたいと願わなくともその感覚は訪れます。そしてそこから、「それが何で、どうなっていて、〇〇とは違う。」とこれまた感覚的な把握と理解力で、自然とやってのけます。

ところが、これとは別に「こうだけど、ここは我慢してこうしてみよう。」だとか「じゃあそうなら、こうしてみよう。」などの意思決定の猶予(理性的な判断)があります。

何が言いたいかというと、
自然法則や感覚の支配下にあっても尚、支配が及ばぬように、「自らの意志で免れることが出来る側面」が確かにあるという事です。

カントさんはおそらく
「自然現象はその法則に従って必ず起きる。また知覚は人間からすればそう見えるし、そう感じるんだから、これはもうどうしようもない気もする。だから私達は、先入観を持ちやすい。けど、それでも【人間の認識の範疇だということ】に気付くことが出来たので、原点に立ち返ることは叶った。あとは間違わないように、私達の生まれ持った理性を間違わないように働かせることのできる根本を大切にして、自分たちの在り方で示すことが出来ればいいんじゃないか?」
のような気持ちだったんじゃないかと思います。

少なくとも人の認識に関しては「その現実を正しく見積もることできた。」んです。また人間からは知覚しきれない範囲にまで気付くことが出来たんです。

でもこのままじゃまた間違ってしまう可能性もまだまだ含んでいます。原点には立ち返ることが出来たけど、肝心の進み方が分かりません。

だったら今度は、その進み方をもっともっと確かなものにするためには、どうしたらいいんだろう?と考えた時、「どうやって理性を確かなものとして発揮するか?」が大切になってきます。

そしてカントさんは、人間の根本の素養からなる、「道徳や生き方」に関する確固たるものを見つけました。カントさんはそれを「道徳的法則からなるアプリオリな意志(生まれ持った意志)」だといいます。

「その現実を正しく見積もるための根底にあるものがあって、そこから理性を働かせれば必ずうまくいく。そして自由に関しては、私達自身の行動として実現が可能だ。」

さらにそれは「絶対的だ」とカントさんが断言するものです。後にも先にも「絶対だ!」とカントさんが言ったのは「人が生まれつき備わった根本の素養(道徳的法則からなるアプリオリな意志)」だけです。

つまりは道徳について、
「自らが根底からなる意志を働かせることによって、正しく見積もったであろうその先には自由というものがあった。」という事です。

私はこれが「自由への大きな一つの解」だと感じています。
法則からなる意志さえ取り戻せば、それがいい悪いなどの明確な判断に繋がり、また自由でもある、と考えさせられるものです。

カントさんは
起きてしまった事実の支配を感覚的な部分(現象や知覚にのみ)に制限し、それを理性的に自らの意志でもって進んでいけば、それはすべての人間にとって「自由」だ、としました。

ただ、このままだとよく分かりません。

この問題を解決するには、私達が持つべきその「アプリオリな(生まれもった)意志とはなにか?を提示してくれなきゃ困ります。
いや、もっと正確に言えば「生まれながらに持っている(アプリオリな)意志を【取り戻す】」、と言った方が適切かもしれません。

ですので以降は、ようやっと本当にご紹介したかった「カント哲学の道徳感」について更に具体的に触れていきます。

ここまでのカントさんの考え方を見ると、
「人は先入観を持ちやすいから、アプリオリ(先験的)な要素から始めよう。ただそのアプリオリの中にも抗えない自然法則のような現象や知覚がある事は注意だ。でも、自らの意志、それもアプリオリな意志を理性的に働かせることで至った結論は、それを示す事は、真なる自由だ。」
と言った感じです。

少し長くなってしまったので、これ以降は次回に持ち越そうと思います。また、何度か見返してくださる方がありがたいことにいらっしゃるようなので、そんな方のためにも、
これからの生き方の一助になるような「カントさんの道徳観はそれ単体で見ることが出来るようにしておきたい」というのもあります。

カントさんの道徳観には、もしかすると「悩みがぶっ飛んでしまうような考え」が示されているからです。

カントさんの道徳感は、心が晴れ渡るような魅力(自由)を内包しています。
今回の認識にまつわる誤りについて論じる「純粋理性批判」の方が一般的には評価が高いようですが、どちらかというとカントさんは次回の道徳観である「道徳形而上学原論」や「実践理性批判」の方が、論証したかったんじゃないかと、私個人としては思います。

そしてそう思った根拠も示せればと思います。

今回の記事はその道徳感に踏む混むための下準備でした。

次回は、カントさんの言う「自由」について本格的触れていきます。

今日のあなたの一日が「自由に至る、下準備:人間は人間の範疇で認識をしている」を知る一日である事を願って。
読んでいただきありがとうございます!!

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