人生を振り返った時~何を残し、何を得るか~

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人間関係

今回は、「人生を振り返った時、何を残し、何を得たかったのか?」についての内容をご紹介していきます。つまるところ、「本当はどうありたいか?」を問う内容となっております。今回はハイデガーさんのお力を借りつつも進めていきたいと思っています。
そんなこんなでまずは、「幸福度」の実態から、見ていこうと思います。

では、早速いきましょう!

幸福度ってなあに?


世の中には「幸福度」なるものが存在していて、それが私達の「一般的な幸せ」を示すことについては、一役買っています。

一人当たりでみると、単純に人それぞれ「今、幸せをかんじているかどうか?」を指し示す指標でしかないものですが、
その調査の数が多ければ多いほどに、私達の思う「幸せ」の平均と、その傾向を示してくれます。
大きなデータになるほどに、「現代社会の幸せの傾向」が正確になっていきます。

そして大抵の場合は、年収と幸福は紐づけられます。
なぜなら、多くの人は「お金が多いほどに幸福であろう。」と感じているからです。

ところが実際は年収600万~800万で、その幸福度はピークを迎え、それ以上ともなると緩やかに下がっていきます。

これはなぜなんでしょう?

この原因は人それぞれなんですが、大きな傾向で言えば、
大きなお金を稼ぐということは、その権利の代償に、責任が増えるということでもあるということ、
また、社会的な成功へとひたすらに歩みを進め「これで幸せになれるだろう。」と思っていたのにも関らず、実際には「満たされない思い」の大部分は満たされることは無く、「こんなはずではなかった」と、モヤモヤとした気持ちを抱えていることも多いということ

が挙げられます。

つまりは「お金が多いほどに幸福であろう」というものに関しては、その大きな傾向でもって、「必ずしもそうではない」ということが言えます。

じゃあ、幸せなんかどこにもないのか?というと、それも違います。
これはあくまで傾向、なんです。
どの年収においても、その傾向から大きく逸脱した「幸せな人」が存在します。

これは裏を返せば、年収とは関係なく、「多くの人がその幸せを味わうことができる可能性がある」ということです。

人類史上最も裕福な私達


現代の知の巨人と評される、ユヴァル・ノア・ハラリはこのような事を言いました。
「人類を発展させたものは、【虚構】です。」

遥か昔のちょうど一万年くらい前。人類は狩猟の時代から農業革命へと至り、確かに安定した食料を手にしました。
人口は次第に増え、定住するための条件はどんどんと整っていきました。

ところが、その手に入ったものの代償として、失ったものも数多くあります。
主食である作物や家畜を育てるために、働く時間は増え、
増えた人口を支えるには、労働をやめるわけにはいかなくなります。

そうして更なる安定した基盤ができていくと、今度は階級社会が少しずつ形成されていき、いわゆるエリート層も誕生します。

その後も発展を続け現代に至った人類ですが、
「得るものに目がいき信じ続けた結果、失いつつあるものには目がいかない」ということをその歴史の中で何度も繰り返しています。

私達は「お金が多いほどに幸せであろう」と感じていることが多いですが、そのために費やしているコストにはあまり目がいきません。
ここでいうコストとは時間のようなものも勿論ですが、特に言っていることは「精神的」なもののことです

そもそも、人類史上最も裕福な私達現代人が、これほどまでに悩みを抱えているのは、
この現代に何かしらの原因がなければ、説明がつきません。

「悩みを抱えた人」が少しずつ増え続けていることには、必ず原因があるはずです。

食べるものに困らず、外敵は極めて少ない。中世の貴族が見たらきっと羨ましがるだろう生活を私達は手にしています。にもかかわらず、精神的な負担を感じている人は年々増え続けているのは、どこかがおかしい。もしかしたら私達は「虚構」に苦しんでいるのではないか?

将来は何になりたい?


少しだけ話を変えていきます。
小さいころ、「将来は何になりたい?」と尋ねられたことがおそらくは誰しもあると思います。
子供の頃にこう聞かれたときのことを思い出してみてください。

少し、複雑な気持ちになりませんでしたか?
私の場合は少なくとも、
子供ながらに「今後何かにならなくてはならない」という気持ちにかられ、
よく意味も分からず「歯科技工士!」と答えていました。

そうすると周りは「すごいねぇ!」という反応をしてくれたので、私もまた嬉しくなったことをやや曖昧にですが、記憶しています。

もうこの頃からうっすらと「肩書きや地位は高い方が良い」と意識し始めたように感じます。

この時もし、「大人になった君はどんな人かな?」と聞いてもらえたなら、
私は「優しい人!」だとか、「みんなを楽しませる人!」だとかと答えていたかもしれません。

さて、なぜこんな話をしたかというと、
私はこの話にこそ、原因の一つがあると感じているからです。

これは大人であっても、いえ、大人であるからこそ、今一度考えてみる必要があると思っています。

何者かになろうとしてはいませんか?


何かにつけて、わりかし評価されがちな、そして評価しがちな私達の世界ではありますが、
ここで、ご自身に問うて欲しいんです。

「何者かになろうとしてはいませんか?」
「自分ではない誰かに、なろうとはしていませんか?」

「そしてそれは、誰かが良いというから決めたものだったりはしませんか?」

ご自身の身でもってそこに可能性を感じ、進むこと自体はむしろとても素晴らしい事だと思います。
しかし、もし、その希望がご自身の身体から離れ、「自分ではない何者かになる」ことを目指してしまったのなら、
厳しい話かもしれませんが、それがご自身の存在を否定してしまっています。

私達は多くのことを学び、大人になりました。
しかし、必ずしもいい事ばかりではなかったはずです。
そしてその中にある、まるで「誰かに、自分ではない何者かに、ならなければならない。」という気持ちが私達を強く傷つけます。

辛い現実に打ちのめされ、苦しい現状を受け入れることができないかもしれません。
しかし、その原因の大きな大きな一つの中に、「何者かになれなかった自分」というものがあったりはしませんか?

はっきりと申し上げます。
あなたは、あなただから良いのです。
他人の人生は生きなくていいんです。

素直な心を取り戻す


なんだか息苦しいと感じる原因の一つは、
私達が「何者かを演じているから、もしくは演じようとしているから」です。

本当は好きでもなんでもない「模範」になるような生き方をし、本当はとんがっていたあなたの個性を、まるで丸かったかのように暮らしている結果、苦しいのです。

または、本当はこうありたかったけど、夢破れた際、その現実は私達に重くのしかかります。
それでもあきらめきれずなんとも言えない気持ちを抱き続けた結果、私達はこう思うのです。
「ああ、〇〇だったらなぁ」と。

こう思いをはせ、今の自分というものを否定した結果、こちらもまた、苦しいのです。

ここで、こう思うかもしれません。
「じゃあ、そんなものは捨て去ってこの溜まった鬱憤を誰かに吐き捨て、思うがままに生きればいいの?」

そうではないんです。人は何者かになろうとせずに、自分自身と向き合い、素直なままの自分というものを心から受け入れることができた時、そこには何のわだかまりも生まれないものです。これは断言いたします。

私達が根源的に欲しているものは、「安心感」です。
もっと言えば、ここに存在しているということが認められることです。

例えば、お金があれば安心だ。誰もが認めてくれれば安心だ。と、

私達はそれをしばしば、お金や社会的地位に求めてしまいますが、元をたどれば、「安心したい」んです。
だとしたら、まずはご自身の存在を認め、その弱さを許すことこそに、大きな大きな意味があります。

そうなったときはじめて、私達は前に再び歩みだすことができ、またその際には誰かに吐き捨てるような言葉は、必要ない事にも気付きます。

だから、何物にもならなくていいんです。
あなたはあなたのままでいいんです。

永き眠りにつく日が来たら


更にもう少しだけ。
ここでは哲学者ハイデガーさんの考え方を用いていこうと思います。

私達は「時間」という流れの中、皆等しく「存在」し、年を取っていきます。
そうした中、紛れもない事実として、私達はいずれ永い永い、眠りにつく時が来ます。

ここでひとつ、質問します。

永き眠りにつくその瞬間に、
「あなたはどう思いながら、どんな人生を振り返りながら眠っていきたいですか?」

私達の人生の中で、やりたいことは何だったのだろう?
皆に気を遣い続け、自分の意見を押し殺しながら、生き続ける事だったんだろうか?
目まぐるしい仕事に追われてお金を稼ぎ、俺が俺がと生きながら、気付いてみれば、家族の気持ちは離れてしまっても尚、生き続ける事だったんだろうか?
または、そんな苦しい思いを抱えて誰かを罵倒し生き続ける事だったんだろうか?

いや、きっとそうじゃない。
誰であってもそうじゃないはずです。

私がこう思ったように、多くの人がきっとこう感じるはずです。

永き眠りにつくその瞬間に、
「いろいろと困難なことはあった。苦しい日々も確かにあった。でも、それでも、楽しかった!それもこれも私が楽しもうとしたからだし、そんな私と一緒に、みんなが、家族がいてくれたからだ。思い残すことはもう、何もない。」

「本当に、ありがとう。」

すべての重荷を放り投げて、裸のままの心で振り返った時、
それでも尚、残り続けるもの。

それが、私達のこの人生の中で、求めるものなんだと思います。
それが、本当に心から欲したものです。

社会的なしがらみや、見栄などを取り払った先にあるものはきっと、
「身近にいてくれるであろう、自分を含めた、家族や友人の存在」なのだと、私は強く感じます。
私達が大切にしたいものは、もうすでにあったんです。
自分を含めたその一つひとつが私、というものの存在を認めてくれるから、私もまたそれに貢献したいと心から感じるんです。

その上で、それでも成し遂げたい何かがあるのなら、
迷わず突き進んでください。
あなたの歩みを止めるような「社会や世間」という存在は、あなたの心の中には、もうないはずです。

やること自体に意義を感じ、やってよかった!と心から向かっていける何かに出会ってしまったあなたにはもう、敵は無いんです。

哲学者ハイデガーさんの主張は、簡潔に端折って言えば、
「命の終わり」を意識することによってこそ、本当に大切なものに気付き、そしてそれにひた走れる、というものです。

今回の記事の冒頭で「幸福度」について、どの年収であっても幸せな人がいる、と言いましたが、
その答えは
「自分を含め、人を大切にできる人」です。

これは誰であってもできることです。
だからこそよく、だからこそ尊いものです。

今日のあなたの一日が「本当にしたいこと」が見つかる一日であることを願って。
読んでいただきありがとうございます!!

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