それにもなにかの事情がある

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人間関係

こんにちは!幸せマンです。
今回は、私達の持つ心理作用の1つである「根本的な帰属の誤り」についてご紹介します。名前だけ聞くとちょっと難しそうな印象を受けますが、理解自体はとてもしやすい心理なのでご安心くださると嬉しいです。この心理を理解できれば誰かに対してのわだかまりが少しだけ減っていく、今日はそんな話です。

では、早速いきましょう!

問題行動の根本


例えば
私達が車を運転していて、横から凄い勢いで違う車が割り込んできたとします。次の赤信号で偶然にも先ほど割りこんできた車に追いついた時、私達はおそらくその人を見てしまうと思います。運転していたのは若者でした。
そんな時私達は
「危ない運転をしやがって!なんて奴だ!」と心の中で思ってしまいがちです。

または、常にイライラしている上司に対して、私達はこう思ってしまうかもしれません。
「いつもイライラしていて面倒くさいな。あんなに怒る必要ないのに。と。

私達は、常々外側からの影響を受け、その度に気持ちを動かされがちです。特にこういった問題行動とも取れる誰かの行動に対して、その「人格」を見ようとしてしまいます。

どうしてこんな話をしたかというと、これこそが「根本的な帰属の誤り」だからです。
しかし、これだけでは「根本的な帰属の誤り」がなんなのかがとても分かりにくいので具体的な説明をしていきます。

根本的な帰属の誤りとは


「根本的な帰属の誤り」とは
他人が何かをした時に、その問題はその人の「内面や性格」にあり、その人の「事情や状況」をあまり考慮しない心理です。

「根本的な帰属の誤り」という言葉だけ聞くと難しそうな印象を受けますが、要は「問題の根っこが抜けちゃっている」心理と捉えると少しは分かりやすいかもしれません。

先ほどの例を見てみると
車で割り込んできた若者を見たとき、私達はその若者の内面に目を向け、その事情は軽視してしまっています。
でももしかしたら、その若者の赤ちゃんが高熱にうなされていたかもしれない。
もしくはどうしても急がなければならない状況にあって、周りが少しばかり見えていなかったかもしれない。

または、上司が常にイライラしているのは、実はもっと上からの何かしらの圧力を受けていたのかもしれません。または、日常生活内にその人を苦しめるだけの何かがあったのかもしれません。

ここで、「それでも人に当たるのはどうかと思う」というご意見もあると思います。

しかし、それすらその人なりの事情があるものです。
人に当たらなければならないほどに、もう精神的な限界を迎えている事だってあり得ます。

反対に「自分が」何かをした時に、その問題は自分の置かれた事情や状況にあり、内面や性格にあるものだとは思いたくは無いもの、とも言えます。

しかし「自分には事情がある」というこの気持ちが、
割り込んだ若者にも、イライラする上司にも起きている事と思います。
つまり「誰かを見るときは内面的な原因を重視し、自分の場合ではそれに至った事情を重視する」これが「根本的な帰属の誤り」です。

これでは、お互いの考えている事が「内面」と「事情」という大きなギャップを抱えてしまっています。もし仮に話し合いをしたとしても和解は難しいものです。

では、こういった「根本的な帰属の誤り」を脱するために私達はどうしたら良いんでしょうか?

全ての人に事情がある


誰かを見るときはその内面を重視し、事情を軽視する「根本的な帰属の誤り」の問題点は、ひとえに「相手の事情を考慮していない」事で起きていると思います。

誰かが、自分にとってあまり好ましくない行動を取った時
「何か事情があるのかもしれない」と考える事が出来たなら、なにより私達の心の重荷が少しばかり減っていきます。
そもそも、自分の時はほとんどの場合において、そうするに至った事情があるのなら、相手にその事情が無いとする理由が無いんです。必ずその誰かにも何らかの理由があります。

「何か事情があるんだ。」と誰かに対して思う事。

これが世間でしばしば言われている
「他者の視点に立つ」具体的な方法なんだと私自身は感じています。

自分の場合に置き換えてよくよく考えてみると、そう行動した事というその時ばかりのものでなくて、内面や性格でさえも、今までの経験、つまりは「事情」からなっていますよね。

私達も今までの経験があって個人の事情が出来ています。
だとすれば、その誰かがその問題を引き起こすに至った今までの「事情」は必ずあります。

とはいえ、その個人に具体的になにがあったかは知る事は出来ない事のほうが圧倒的に多いと思います。
ですが、別に具体的な事情を知る必要は無いんです。
私達はただ「何かあったかもしれない。」と、何かの事情があったんだと置き換えるだけで良いんです。

これだけでも、性格の悪さでこうされたのだと捉えるより、遥かに楽になります。
もっと言えば、私達から見て性格が悪い行動にも、まず間違いなく「事情」があります。

世の中に目的の無い「純粋悪」というのは、極めて少ないんです。
例えば、相手の苦しむ顔が見たいというのは、心理的に見れば、
自分に自信がなく、その穴埋めとして自分と同じ不幸にやってきて欲しいという気持ちがあります。
つまりは、心が疲れてしまうだけの「事情」があったんです。

ですが、そこまで心が疲れてしまった人に対して、私達の方から何かをしてあげられる事は、その人が変わろうと決心するための「きっかけ」以外に何もありません。

厳しい話かもしれませんが、その人の人生の責任はその人にしか取る事は出来ないんです。
そしてこの話は、私達も例外では無いんです。
私達が何かの事情で心が折れ、もう立ち上がれない、もう踏ん張れないと考えるのは、必ずそれに至る「事情」があります。ですが、そこで立ち止まっていてはその「事情」に振り回されてしまいます。しかし、私達自身が決心して、その「事情」を塗り替えてあげることが出来れば、着実な変化をもたらします。

私自身が暗闇の中を苦しみながら這いずっていた時期があります。
しかし、決心してからは着実に変わっていきましたよ。

私も苦しむだけの事情を抱えていた頃から、苦しまなくていいだけの事情を重ねていった結果、幸せに生きるだけの事情が出来ました。苦しみの中で留まる事は、自分自身を苦しめるだけなんです。

そして、苦しみから抜け出すための努力は、ずっとしなければならないものでは無く、丁寧に1つずつ対処していけば、自分でも驚くくらいに「その対処すら必要なくなっていく。」ものです。

諦めなければ必ずその時はやって来るんです。

今日のあなたの一日が「根本的な帰属の誤り」を知る一日である事を願って。
読んでくださりありがとうございま!!

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