今回は「アドバイス」についての内容をご紹介していきます。アドバイスというものは、とても難しい部類のコミュニケーションだと個人的には思っていますが、今回はそれに至るまでについついやってしまう過ちを取り上げ、そこからじゃあどうしたらいいのさ?という方向に繋げていきたいと思います。心理学からとある古典まで幅広くご紹介できればと思っています。
では、早速いきましょう!!
アドバイスという名の「批判」
私達は子供の教育、夫や妻への進言、部下への指示など、いろんなところで「アドバイス」が必要とされる場面があります。
こうした方がいいんじゃないか?と思う時に私達は自分の意見を相手に伝えます。
ところがどの場面においても、「こうした方がいい」という想いが強ければ強いほど、人は強い口調になってしまいがちです。
ですがこういう時って、相手も同じく強い想いがあったりもすることも多いです。
善意でもって「アドバイス」をしたのにも関わらず、相手からは強い反発があった。なんてことは皆さんも一度くらいはご経験がある事と思います。
これは相手にも思うところがしっかりとある場合が多いからです。
だとすると、私達から良かれと思って、と発せられた「アドバイス」は相手からすれば「批判」そのものになってしまっている可能性があるんです。
相手からすれば「自分はこんなに必死なのに、あの人は批判ばっかりしてくる」
という気持ちになって、もうそれ以降は話が聞けなくなってしまう場合が生まれます。
そうなるとお互いに「意見の違いの部分」ばかりで頭がいっぱいになっていって、これまたお互いに「なんとかこうしなくちゃ!」「いや、それは違う!」のような、押し付けの形をとってしまいがちですよね。
特に、上下関係があるような会社の「上司と部下」のような関係では、上司の言い分がこういった場合は強くなるものです。
今回はこんな問題を解決すべく、掘り下げます。
どの案にも「背景」があるものです
例えば、
会社でとある問題が発生し、その会社の上司はこれに対処すべく、部下たちにその解決案を委ねた、とします。
その後、部下達から問題の解決案が上司の基へと提出されましたが、これを見た時、上司の考えとは全く違うものだったとします。
そういう時にやってしまいがちな返答が
「え!?この問題で重要なのはこっちなんじゃないの!?」あたりかなと思います。
先ほども言った通り、解決したいという気持ちが強いほどに人は口調が強くなる傾向がありますので、場合によってはもっと厳しくいってしまう事もあるかと思います。
もしかすると、部下が出した解決案が妥当なものではなかったのかもしれません。
しかしここで最も大切なことは「それが妥当かどうか?」ではないんです。
そもそも一任された部下は、部下なりに「これでいける!」という考えの基、案を出しています。
一所懸命に課題に取り組み、至った結論であり、案です。
部下の立場から考えた時、上司にそのように言われたらどうでしょう?
どうしたって自分が間違った感が強くなり自信を無くすか、自分は間違っていない、ちゃんと理由があるんだ!と反発を強めるかのどちらかになっていく可能性は非常に高いと思います。
また「上司がこういっているから今回はこうしよう。」という改善の仕方は、その要点がつかめていないので、またおんなじ様に「意見の違い」を生み出し、そしてまた怒られる、なんてことをやりがちになります。
こうなれば誰だって意欲を削がれてしまいます。
その考えに至った結論とは「登場人物へのフォーカス」でしかありません。
その登場人物にした「背景」には、そう考えるに至った状況があります。そしてそちらにこそ、多くの情報が詰まっています。
形骸化
部下の意見が自分と違う事なんて頻繁に起きることです。この頻繁に起きることに対して「アドバイス」として進言をする際は、その「背景」を知って初めて出来るものだと私は思います。
部下から解決案が出された時、上司にできることは「意見の一致」と「方向性の提示」ではありますが、強硬策は「意見の押し付け」と「方向性の堅持」になりがちで、そして大抵失敗するか、不満を大きくします。
また、厳しい事を言えば「場当たり的」なので部下自身も次回もどうしていいのかが上手く把握できなくて、困り果ててしまいます。
これが何度も続くと、ふと上司の頭に
「部下たちは自分で考えられなくて、いつも間違っている。何度も間違うから何度も自分が訂正しなきゃならない。」
という何ともひん曲がった考えが生まれ始めます。
また、部下も部下で
「この会社ではこれが好まれるから、余計なことしないでおこう。ただただ出勤して、言われた仕事をこなせばいいや。」という考えに至ってしまうかもしれません。
結果、上司も疲れるし、部下も諦める会社になっていってしまいます。
日本では依然として、しばしば厳しく律しなければ会社は堕落する、という考えが色濃いのかなと思いますが、これはその実、形骸化(中身が空っぽ化)していて、厳しい部分だけ独り歩きしていると感じています。
また間違うことを極端に嫌い、正解のない道をさも正解かのように見せかけているようにも感じています。反面上司は「常々正解を知っている風」に装う羽目にもなっています。
間違うには間違うなりの理由があるし、正解なんて正直あったり無かったりなのにも関わらずです。
正解があるか無いか分からないなら、一緒に進んだ方が良いと私は思います。
違う言い方をするならば
「妥当性を常々先に求めると会社は悪循環する。」ようになるなら、
「妥当性は後から、一緒に求める。」という形でも、いやそちらの方が長期的な互恵性(お互いのメリット)があるんじゃないでしょうか?
その妥当性は後から見出せばよい
「その妥当性を後から、一緒に求める。」
そんなことが本当に可能かどうか、
再び例でもって見ていきます。
部下が持ってきた解決案が、上司の想定とは違った場合、そこには最初に「意見の不一致」があります。というか、基本意見が最初から一致している事の方が「初めは」少ないと思います。
例えばこんな時
「案を挙げてくれてありがとう。でさ、今回の解決案なんだけど、どうやってこの考え方に行き着いたのか教えてもらっていいかな?」
これは一例であって、他のどんな言い方をしてもいいと思うんですが、この本質的な目的は「意見の一致を図るためにその理由を知る」ところにあります。先ほどの例え話で言えば、「どうしてその登場人物にしたのかを、背景から探る」作業に当たります。
そもそも私達には心理学でいうところの「心理的リアクタンス」が心に備わっています。
端的に言えば、「自分の事は自分で決めていきたい」という気持ちです。
私達が考えを改め、方向性を変える時は大抵、
「自分の考え方に多少の抜けがあって、確かにそこには一考の価値がある」と、
自らの考えに疑念を抱き、その考えにある抜けや誤りを「自分自身で」直したいと思った時、すんなりと受け入れられるものです。
だから一所懸命に取り組んで出した案が生まれた理由を、先ずは一旦聞いてみるんです。
こうすることで、実は上司が気付けなかった観点があって、これはその観点からの結論なんだ、と分かることもあります。
そんな理由からなる結論を聞いて、その後に「その解決策の妥当性を一緒に考える」んです。
「確かに説得力があるけど、この部分の欠点もあると思うんだ。ここはどうしたらいいと思うかな?」と、その中に残された問題点に言及すれば、
部下はその理由と見逃していた問題点に目が向くようになります。上司自身も答えに至ってはいなかったとしても、過去の事例などの経験値は上司の中にたくさん詰まっていることも多いはずです。
多種多様な問題は、初めから正解が見えてなくてもいいんです。
一つの頭で考えるより、沢山の頭で考えた方がよりいい打開案が出ます。
「妥当性は後から、一緒に求める」事は「きれい事」ではなく誰の心にも優しく寄り添う心理学的なアプローチになっていきます。
そういった機会を設けたことこそに、上司の度量というものが現れるんじゃないかと思います。
また、沢山の頭で考えた案は、皆に共有されることによって「沢山の経験を積んできた皆の頭」を今度は一人きりでも発揮出来るようになります。
これによって初めて、人間の編み出した「分業」は効率よく機能すると思っています。
「縦に延びる安定した軸」に加え、それをさらに円滑にするための「横串」が通っている関係はやっぱり強いんです。
そして何より、「誰もが心地よい」と感じるんです。
近年、心理学で「心理的安全性」がしきりに言われるようになりました。
「心理的安全性」とは何か?を端的に言えば
「多種多様な発想を潰してしまわないよう、誰もが安心して発言できるという確信が持てる会社(チーム)の在り方」です。
以前から、業績を伸ばす会社は、「心理的安全性」が保たれた会社であることが言われていて、場合によってスーパーエリート達がそこらかしこにいる会社よりも効果的であるという事も言われています。
誰もが発言しやすい会社は、考えただけでもいい会社だなぁと思いませんか?
本来の意味でのアドバイスは「より良くなるように進言する事」ではありますが、それを成すためにも「意見の一致、または価値の共有」からなる選択肢の提示の基「自分で、あるいは皆で答えを導き出す事」なのではないでしょうか?
実は古典でも似たようなことが記してあった!
「心理的安全性」は1990年にエドモンドソンから生まれた言葉ですが、実は、古典を探れば似たようなことがずっと昔から記してあることを知ることが出来ます。
その中でもいいなぁと思ったものをいくつかご紹介していきます。
唐の二代目皇帝・李世民さんが残した「貞観政要(じょうがんせいよう)」という書物では
「三鏡(さんきょう)」という言葉が出てきます。
人の上に立つものはこの「三鏡」を大切にせよ、というんです。
三鏡はその名の通り、「3つの鏡」の事を指してします。
その3つの鏡を1つずつご紹介していきます。
1つ目は「銅の鏡(実際の鏡)」です。
実際の鏡を見て、自分自身の態度や行いが好ましいものであるからこそ、それが相手にも伝わります。
要は自分の気持ちを整え、それを他者に向けましょう、という事です。
2つ目は「歴史の鏡」です。
こちらは端的に言えば、「歴史を鏡みたいに使いましょう。」という事です。
歴史の中で人は同じような過ちと同じような栄光を繰り返している。だから自分の人生経験のみで選択をするよりは、人の歴史から学び、それを自分自身に落とし込んだ上で選択し、行動した方が方向性は定まるよ。という事です。
ドイツの名宰相であるビスマルクさんも同じようなことをおっしゃってますよね。
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ
オットー・フォン・ビスマルク
3つ目は「人の鏡」です。
要は「他者も鏡みたいに使いましょう。」という事です。
人の鏡は実現するのがなかなか難しいですが、個人的にはとっても大切な考え方だと思っているものです。
「人の鏡」とは、厳しい事を言ってくれる人、「あなたは間違っている」と言ってくれる人を大切にすることを指しています。
いくら学んでも、いくら信念があっても、人はしばしば間違うものです。
そんな間違いを指摘してくれる人がいるからこそ、国を治められると李世民さんは感じて、それを「貞観政要」に記したんです。
実際李世民さんが王だった時代は中国の長い歴史の中でも、「最も治まった時代の一つ」と言われています。
李世民さんは自らが王になった時、諫言(かんげん:部下が上司を戒めること)を許しています。「王よ、それはやっちゃいかんだろ!」という部下たちからの言葉を非常に大切にした皇帝です。
「三鏡」は今尚とてつもない威力を放っている、と私は感じます。
また更に、そんな根底を支えてくれそうな考え方も、この際見ていきます。
「礼記(らいき)【大学】」という中国古典には、
「修身・斎家・治國・平天下」という言葉があります。
「修身・斎家・治國・平天下」は、
「自分自身を修めるから、家族を整えることが出来、家族を整えることが出来るから、国を治めることが出来る。国を治めることが出来るから、天下をも平和に出来る。」
という意味です。
つまりは「何事も自分自身を修めてからだよ。」と言っているんです。
そしてこの「修身・斎家・治國・平天下」と李世民さんの「三鏡」を繋げていくと、
「自分自身を修める」とは、「なんでもかんでも完璧であれ!というものではない。」というところが見えてきます。
李世民さんは、最も国を治めた王の一人ですが、おそらくは完璧な人間ではなかったんです。むしろ「自分はついに完璧に至った!!」という驕りをいつまでも持たなかったからこそ、上手くいったんだと思うんです。
「王とて完璧ではない」という事を自分から、歴史から、そして他者から学んだからこそ
「平天下」が成されたんだと思います。
自分自身を修める、というのは常々正解を知っていることではなくて、自他共に心穏やかでいれるよう努める様なのだと、私は思います。
「子曰く。」的論法が、試練を与える理由
事のついでですので、更にもうちょっとだけ。おまけ的な感じなので、読まなくてもオッケーです!笑
古典でよく出てくる「子曰く(先生は言いました)」的論法には「よくある形」がありますよね。
大まかな例で見ていきますが、これが現代で言うところの「心理的リアクタンス:自分で決めたい心理」に上手く則った形を取っていることに気付きます。
例えばこんな風にです。
1、弟子はとある課題がどうしても解けないので、思い切って先生にどうしたらいいのかを聞く。
2、先生はその答えを知っているけど、素直に答えは言わない。先生はあえて「突拍子もない試練」を与える。
3、弟子は訳も分からず、言われたままそれをやってみるけど、やっぱりよく分からない。諦めかけたその時、ふとその試練の意味を悟ります。「ああ、先生はこれを言いたかったんだ!」
このように、よくわからん試練、一見関係なさそうな試練を弟子に与えることによって、先生はその答えを弟子自身に出させようとしますよね。
これが「自らに疑念を生まれさせ、自らで解を見出す」という一連の過程があるから、とても説得力があるんだと思います。
東洋の考え方に「体現」というものがあります。
これはおおざっぱに言うと「頭での理解ではなく、心と身体での理解」の事を指します。「言うは易し、行うは難し」の精神的な概念を理解する時によく言われますが、特に心理学のような心の問題を取り扱う時には、その後も続くようなより大きな理解を得るための「体現」はとても重要なものだと感じます。
遥か昔の先生方も考えに考えた末、「言葉で全部伝えると弟子たちは、さも心から分かっているように言うが、その実全然体現できてない。だから今度は実際にやってもらって実感してもらおう。」というところに至ったんだと思います。
これらの観点から、じゃあ今回は「まだ答えが見出せなくても、実際に取り組めるレベル」での記事でも書いてみようかな、という気持ちが生まれた結果です。
「構造主義的な比較」は法則性を見出せる
こちらもおまけです。
今回ちょっと詰め込みすぎた感が否めませんが、ここまで言っちゃったもんですから、削除するのもどうかなと思ったので、話を進めます。笑
今まで私の記事の中で、色々な法則や鉄則を取り上げてきました。
例えば
「便利なものは最初は便利だが、その便利が当たり前になるとそれを維持するようにコストを支払うようになる。」だとか
「区別をすることで違いを知ることが出来るが、そこに優劣が付与されると途端に差異や差別を生む。しかしその差異は、人間の観念的な思い違いであることが多い。」だとかと
好きなようにああだこうだと書いてまいりました。
ちなみに最近
「神話も漫画も映画もドラマも、物語を色付けているのはトリックスターとトラブルメーカー(いたずらと問題)ただし、王道と邪道は実は逆であることもある。」のようなしょうもない事まで基本構造があるなぁと感じています。笑
そしてこれらは割かし簡単に見出す事も出来ます。
私はこれを勝手に「構造主義的な比較」と呼んでいます。「構造主義」そのままではどうにも私には扱えそうになかったので、あくまで「構造主義【的】」です。
ちなみに構造主義についての記事にご興味があればこちらにリンクを張っておきます。
じゃあ具体的に何をするかというと、
「いろんな書物や概念を見比べて、その根っこにある【共通する部分】を抜きだす」んです。
つまりはいくら比べてもブレない軸探し、をするんです。
表面上は全く違うことを言っているものであっても、その全体構造や根幹の部分は結構似通っていたりします。
これを見つけ出すのは本当に面白いのでやってみるもの良いかもしれません。
今日のあなたの一日が「みんなで進めばいいじゃない」と思う一日である事を願って。
読んでいただきありがとうございます!!