世界には共通普遍の構造があるよ~レヴィ=ストロースさんの構造主義~

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生き方

こんにちは!幸せマンです。
今回は、「世界には共通普遍の構造があるよ!」と題しまして、哲学者レヴィ=ストロースさんの「構造主義」を取り上げていきたいと思っています。前回、サルトルさんの「実存主義」を取り上げましたが、前回の実存主義の考え方を含めてみていくと、よりレヴィ=ストロースさんの考え方がすんなり腑に落ちると思います。「構造主義」も「実存主義」もその字面からは、なんだかわかりにくい雰囲気を醸し出していて、どうもとっつきにくいです。ですので、これを私なりに簡単な形にしていきたいと思っています。

では、早速いきましょう!

実存主義の衰退、構造主義の台頭


前回、資本主義→共産主義→実存主義という流れの基、サルトルさんの「実存主義」についてご紹介しました。
実存主義について簡単におさらいすると、
「人間が生きる意味というのはない。というのも、生まれた時に意味が決まるんじゃなくて、今から意味を持たせることが出来るのが人間だからだ。だからみんなで歴史を作ろう!加速させよう!それが生きる意味となる!」

かなり乱暴な説明になりましたが、もう少しだけ掘り下げた内容が前回の記事となります。
もしご興味があれば、そちらから読んでみることをお勧めしときます。

さて、サルトルさんは「歴史」をとっても重んじた人です。
「今までいろいろと積み重ねたから今の文明があるのであって、これこそが人間が人間たる証拠でしょ?我々の歴史そのものが崇高だよ。」
こんな感じでサルトルさんは考えました。

それに現代の私達が、自然の脅威にさらされることなく文明的に暮らせるのもきっと、先人たちが「より高み」を目指してくれたからでもあります。

やっぱり「歴史は偉大だ!」こう考えることは、何らおかしなことではないように感じます。

しかし、
「歴史を動かそう!それが生きる意味になる。」
こういったサルトルさんの考えは、奇しくも「歴史を動かす=過激なデモ活動」のような考え方になってしまった一面もあります。

それに加えて、マルクス主義が実際はその多くが、あんまりうまく機能しなかったこともあり、
マルクス主義を基とするサルトルさんの「実存主義」は次第にその勢いを弱めました。

そして、時を同じくして活躍していたフランスの哲学クロード・レヴィ=ストロースさん(1908年~2009年)は、この考え方に「待った!」を掛けていました。レヴィ=ストロースさんが祖である「構造主義」は実存主義にとってかわるかの如く、人々の心に刺さります。

サルトルさんの「実存主義」は、人類が積み重ねてきた「歴史」を重んじているんですが、レヴィ=ストロースさんは、「その歴史といっているものが、ヨーロッパで積み重ねられてきた歴史しか見ていないじゃないか!」と批判します。

つまり、レヴィ=ストロースさんは
「歴史と言っても、その国、その民族によっていろいろある。そしてそれはしっかり分解、分析してみれば、どれをとっても立派であり、理性のあるシステムばっかりだよ!」
「どれが優れていて、どれが劣っているなんてとんでもない!その中にはしっかりとしたどの文化にも共通する【構造】があるんだ!」
「根幹からなる自覚していないレベルの「構造」があって、そこから派生したのが文化だ。そしてどの文化も優れている。また文化を作った「構造」は共通していて普遍的だ。どれも共通した「構造」を持っているんだから、文化の良し悪しを決めたがっているのは、優れている、劣っている、といったヨーロッパ的な考え方に染まってしまっただけに過ぎないよ!」
と言いました。

レヴィ=ストロースさんの「構造主義」は、歴史、もっと言えば偏重した考え方を持つような色メガネに気付くために、生まれたといっても過言ではない考え方です。

そして、なにも根も葉もないことから口だけでこんな事を言った人ではないんです。

さて、ここから「構造主義」について詳しくお話ししたいところではありますが、彼の半生や生い立ちを見ていった方がより理解が深まると思うので、先ずはその辺を掘り下げていきます。

レヴィ=ストロースさんの変わった生い立ち


レヴィ=ストロースさんは1908年に生まれました。そして彼はいわゆる「スーパーエリート」でした。パリの大学を卒業して、超難関だった哲学教授試験を合格。その頃の合格者はボーヴォワールさん、ポンティさん、そしてサルトルさんなど、後に有名になった哲学者さんたちばかりです。
当時の哲学教授というものは、極めて地位が高いもので、いわば将来を約束されたといって間違いないようなものでした。

ですが、レヴィ=ストロースさんは哲学による抽象的な考え方についての議論に飽き飽きしてしまい、3年程で前から気になっていた「人類学」をやってみたいと思いました。

そんな折、偶然にもちょうどサンパウロ大学で人類学教授のポストが空いていて、26歳の時、ブラジルへと渡ります。

これが後に「哲学的な考え方をする人類学者」の誕生になります。要は彼自身が様々な文化に触れることが出来た人物なんです。

ただ、その後しばらくして世界の動乱に巻き込まれます。兵隊としてフランスに召集されたり、そのフランス陸軍が崩壊して兵役解除されたりと、日々変わりゆく毎日を送っていました。フランス陸軍が崩壊したとなれば、ユダヤ人だった彼は、当時のナチスドイツに捕縛されたら大変です。様々な方の助力もありつつ、命からがら逃げ延びることに成功し、彼はアメリカの「社会研究新学院」に腰を落ち着けることになります。

当時のその学院は、アメリカが急ごしらえした「知識人をかくまう急造施設」だと思って間違いはないと思います。

しかしその学院での出会いが、レヴィ=ストロースさんの「構造主義」が確立された転機でもあります。
その学院で出会った、言語学者のヤーコブソンさんとあれこれを議論するうちに、沢山の知り得なかったことをどんどんと吸収することになったんです。

特にその中でも、ヤーコブソンさんから聞かされた、言語学者ソシュールさんの「音韻論」に心を踊らされます。

音韻論についてはちょっと難しくなりがちなのですが、ざっくり言えば、
私達が話す言葉には、その言葉自体が理解できるもっと根本のところに、これ以上分解できない「音素」という音を構成する素があって、その音の素の並びや、その並びから来る意味を考えると、どうやらどの文化の言葉であっても、共通する構造がある。
といった感じです。

また、レヴィ=ストロースさん自身がインディオの方々、そしてブラジルの民族の方と実際に一緒に暮らして、人類学者としてその文化に直接触れてもいました。

言語学の話と自らの経験とを踏まえてもっと一般化した結果、レヴィ=ストロースさんはこういった考えに至ります。
「それぞれの文化を比べつつ、これ以上分解できない位に分解してみよう。そうしたら何かしらの根本を支えるような共通していて普遍な【構造】(比べても違いが生まれない根っこ)も見えてくるんじゃないか?あと、比べる際には妙な思い入れは切り離した方がいいな。うん、どうもこれは上手くいきそうだ!」

これによって、レヴィ=ストロースさんは
「哲学+人類学+言語学」というそれぞれの良いところを加味した考え方を持つに至ったわけです。

一説には「数学」の構造にも通ずる視点を持っている、なんて考察もあります。
まあ、とにかく「いろんな視点を持っている」んです。

じゃあ構造主義の「構造」って何なの?


「よし!じゃあ、つまり文化の構造っていうのはどういったものなの!?」
多くの人はそう思います。私もそうでした。笑
しかしこれがまたかなり難解で、どうにも理解がしにくいんです。

残念ながらレヴィ=ストロースさんの構造の分析方法が難解なため、肝心の構造そのものがつかみにくいものではありますが、頑張って理解しようとしてみると少なくともその枠組みは見えてきます。

その枠組みは
「構造は人類に共通する普遍の部分であって、文化の違いはそこから派生した結果だよ。」
「その証拠に、様々な文化の違いを偏重することなく見比べることで、どんどんと人類共通の部分があることが見えてくる。そしてその結果見えたものに結論を与えるならば、文化には差異こそあるけれど、優劣なんぞない!という事がいえるよ。」
といった感じです。

彼はフラットな視点でその違いを見定めることで、共通の根っこの部分が見えるよ!と言っているんです。

実際にレヴィ=ストロースさんは、部族の文化に触れて感銘を受けます。ですが部族の文化に染まることなく、ヨーロッパ的な文化にも染まることなく客観的に見ることを徹底しました。

レヴィ=ストロースさんはヨーロッパの文化が嫌いなわけじゃなくて、人類が形成する文化が全て丸ごと「対等」だと、その「構造」に触れることによって知っていったんです。
「いやいや、世界はもっとずっと広いんだぞ!」という意味で、偏重していたヨーロッパ的な考え方を批判したんです。
「ヨーロッパの文化は素晴らしい。だが、部族にあるような文化もまた、素晴らしいものだ!」という事を世界に知って欲しかったんだと思います。

「構造主義」は、私達の凝り固まった文化への偏重に対し、第三者の目で視る、という視点を与えてくれると感じています。

なに事にも根っこがあって、そこから枝葉が生えている


構造主義の少し後、哲学では「ポスト構造主義」というものが現れます。「ポスト」というのは「~以後」という意味なので、ポスト構造主義は、そのままの意味で「構造主義以後」という事です。

じゃあ、構造主義は「構造主義以後」の哲学に蹴落とされて、今は大したものじゃないのか?というと全くそんなことありません。
あくまで「構造主義の後に生まれた哲学」という意味であって、現在でもその考え方は非常に素晴らしいものです。

さて、今尚新しい視点を与えてくれる「構造主義」ですが、今回は私なりにもっと範囲を絞って焦点を当てたいと思います。また、そうすることで、今度は個人個人にも日の光が当たるとも考えています。

というか実のところ、私が常々ブログで言っているようなことは、わりと「構造主義」の影響も多分に受けています。絶対視しているわけではないけど、やっぱりその影響は大きいかなって思います。

私自身は「何事にも根っこがあって、そこから枝葉が生えている」って思っているんです。
それはまるで大木のように、です。

例えば、「人の心」という単位で見た時に、
私達はしばしば、自分の、はたまた誰かの「枝や葉」ばかり見ることが多いんです。
実際問題根っこは土に隠れていて見えにくいので、どうにも仕方のない部分ではあります。

誰かが怒っているのを見た場合、「あの人はきっと怒りっぽい人だな」なんて思ってしまいませんか?
でも実際は、「怒ってしまうような根本的な原因」がもっと深い所に大抵、いやほぼ間違いなくあります。

じゃあ、怒ってしまう根本的な原因って何だろう?と考えた時、その人には間違いなく「不満」があるんです。
不満と言っても表層的なものではなくて、もっとずっと奥深くに日ごろ感じるような「根本的な不満」です。
根っこの方で渦巻いている不満がその人を穏やかではあれないようにしてしまっているからこそ、本人以外から見たらほんの些細なことに見えるようなことで怒りを感じます。

また、その怒っている本人も、これまた身の回りの、あるいは自分の感情の「枝や葉」を見てしまっています。根っこを置き去りにしては、「次は気を付けよう、次は怒らないようにしよう」と表面的に我慢する形で対処します。

でもそんな時は、その人が自分の根っこにある「不満」に対処するよう、ある時決心して、考え、行動していくことでこそ、真に穏やかな日々を手にします。
そういった決心を促してくれるものは、今の世の中にはもう既にたっくさんあります。
ただ、知ってみてやってみない事には、やっぱりあまり大きな役目は果たしてくれないんです。
頭でわかっていても、心から分かってないことが良くあります。
だからその時は感銘を受けても、ゆくゆく続くような変化はなく、生活は変わらない、といったことが起きます。

ですがもし、習慣のある一部からでも実生活に取り込もうとした場合、その変化はずっと続きます。
心から理解して、根っこの部分から日ごろの穏やかさを獲得したのなら、怒る理由はもうどこにもないんです。

日ごろの「不満に対処する」という事は、日ごろの「安心を手に入れる」という事とほとんど同じ意味だと、私は感じています。
つまりは「根っこの安心」が、そこからなる枝葉「表層で見えている不満」をも変えていってしまうという事です。完璧な安心なんてものはもちろんないんですが、それでも不満と呼べるものは、少なくした方が穏やかに暮らせます。

この「安心」という観点から文化を見れば、敵国が攻めてきても「安心できる」ように、国を大きくしたと考えられるし、反面、とある部族の元へ敵はそうそうやってこなくて、もうすでに「安心できた」から、小さな集落で維持するような文化へと発展したんじゃないかと思ったりもします。
その枝葉は形こそ違えど、常々目指しているところは「安心」に見えてきます。

大陸だからこそ隣国からの危機に瀕し、大陸だっただからこそ危機を脱する必要があったんだと思います。

私は、根っこの「安心」が獲得できるか否かが、人類共通の目指す部分の一つのなのだと感じています。「安心」を周囲の人々と一緒に獲得するよう目指し、実現することが大きな要因があるように思うんです。

ただ、いわゆる「先進国」と呼ばれる文化は「国の安心と安定と個人の身の安全の保障」が独り歩きして、「個人の心の安心」はどこかないがしろな印象も受けなくはないですよね。(レヴィ=ストロースさんからすれば先進も後進もないんですけど、例を挙げるためにあえて先進国って言っときます。)

私達の根っこの不満を大きくしているような「資本主義」の要因を挙げておきます。特に日本においては多様化が進んできているとはいえ、以前として顕著な話です。
日本では「トレンド」みたいなものがわりかし重視されていますが、これはひとたび離れた視点から見ると、もしかしたらヘンテコに見えるかもしれません。

資本主義ってやつは、どんどんと成長し続けなければならない、といった業を背負っています。
そのため、毎年毎期、新商品なるものをとにかく作り続けなければなりません。
どの国も、経済的発展を至上命題にしているので、経済的発展が遅れる=周辺国との差が生まれることに直結し、場合によってはその国の価値が落ち、貨幣の価値も落ち込んでしまう。

だからどれだけ物があふれていようと、とにかくジャンジャン作って、消費してもらう必要があります。

流行り廃りを作り上げることで、「これを持っていると最先端!」みたいな気持ちを消費する側に与え続けなければならない。

だからたまに、それら「新商品」の中に「いやいや、こんな新機能何につかうんだよ!」みたいなものが含まれていますよね。
でも企業だって生き残りのために必死です。今まで新商品を出し続けていたのに、突然「やめま~す!」と言ったら、消費する側からは「あそこの製品は古いからなぁ」なんて言われちゃいます。

なので場合によってはお互いの利益を削り合いながら、コストをかけてでも新商品を開発していたりしてもいるんです。

さて、ここら辺で今度は「私達目線」から考えてみたいと思います。
私達が「トレンド」のものを求めるのは、ちょっと嫌な言い方をすれば「周りと差をつけたいから」「周りに置いて行かれたくないから」みたいな気持ちがどこかにあると思うんです。そしてそれは場合によっては、ちょっと強迫観念のような形で存在しています。

でもそこにあるのは「優劣の差」なんかじゃなくて、もしかすると資本主義的な観念の植え付けかもしれません。要は「優劣だと思わせるような差別化」だともいえそうです。

そう考えると「資本主義による価値観の強制」な気がしても来ます。
またそう思えたなら、みんなが何を所有しているだとか、もうそういったところは気にしなくてもいいんじゃないかな?
ほんとに好きなら、それを求めていけばいいんじゃないかな?
そんな気持ちにもなります。

それでもって、この考え方は他の事にも転用できちゃいます。
「誰かがどう思うかは、私達には決められない。だから気にしても仕方がない。」などと言ったりしますが、これはどこか否定的な意見であるような感じがしますよね。ですが、先ほどの観点から見るとこの言葉は、ガラリと様変わりします。
「私の価値を押し通したいわけでも、あなたの価値を否定するわけでもなくって、どれも素晴らしいと思うよ。だって大切な価値という根っこは一緒で、その枝葉が違うだけじゃん。そこに優劣はなくって、ただただ違いがあるだけだ。」
そこに否定的な見解は全くなくて、肯定的な見解しか生まれないんです。
社会全体としてこうなるのは非常に難しいと思います。ですが、少なくとも「個人においては」これが実現可能です。

構造主義のように偏重することなく一歩引いて、社会全体、あるいは世界全体を見渡した後、今度は自分に戻っていって「じゃあ、その中で何ができるんだろう?したいことは何だろう?」という
「客観から始め、主観に戻る」が、ほんとに欲しいもの、大切なものに気付かせてくれます。

まっさらにしてみた後に、じゃあ私は?と考えると見えるものがあるんです。

流行り廃りなど関係なく「私はこれが好き!だから大切!」
「あの人はこれを大切にしているけど、私はこれが大切です。どちらも優劣なんかなくて、ただ好きなものを大切にしているってだけです。」

もちろん、その枠組みで充足しているならそれでいいと思います。
でも、もしその枠組みの中にいることで「安心」できないなら、「一歩引いて見渡してみる」のも一つの手です。
幸い資本主義は、その中にいながら何を求めてもいいわけですから。

あれもこれもっていうのは、確かに手にした時は嬉しいですが、なんだか疲れちゃうのも否定できないですよね。
「ああ、私って何だろう」なんて思ったりするのは、根っこで大切にしたいと思っているものが、今はほんの少しだけ、見えなくなっているのかもしれません。

世の中の本は「枝葉整え本」と「根っこ復活肥料本」がある~本のススメ~


長くなってしまいましたが、これで最後です。ホント冗長で(長ったらしく無駄が多くて)すいません。

私は「何事も根っこがあって、そこから枝葉が生えている。」と言いましたが、
その観点から世の中にある「お悩み解決本」をざっくり大別すると二種類に分けられます。


「枝葉を整える剪定(せんてい)本」「根っこを復活させる肥料本」とがあります。
どちらもいい点と悪い点があると感じましたので、そこにも触れていきます。

「枝葉整え本」は言い換えれば、「即効性のある本」です。
今抱えている問題を、すぐさま解決する可能性を秘めています。また何より取り組みやすいんです。そして「整え本」はものすごい数が出版されています。
しかし、裏を返せば、どこか「場当たり的」で長続きしない対策だったりもします。
まるで、その木からなる枝葉を綺麗に整えるが如くです。しかしその枝葉は、再び喜ばしくない方向に伸びたりもしますので、問題があれば毎回あっちもこっちもと、別々の方法で直さなくちゃなりません。

もう一方の「肥料本」は、これまた言い換えるならば「遅効性のある本」です。
今抱えている問題に対して、すぐさま解決はしてくれないです。またそれに取り組む際は私達を沢山混乱させてきます。
しかしこれは、一旦根っこが十分に育ってしまえば、混乱はその後ほとんど起きないんです。そこからなる枝葉は以前より管理がしやすくなり、また実りも多いと言えます。

これらを鑑みた時の個人的なおすすめは、「肥料本」で確固たる心を養った後に、それでも足りない部分や、育ちすぎる問題にアプローチするような「整え本」を選出し、自分のものとしていくことです。

確かに時間はかかりますがそちらの方が、整える枝葉は少なくて済み、更には長続きするものと考えています。

あくまで、個人的な感想ですけど、私はそちらで実際に絶望から這い上がりました。
ご参考になれば幸いです。

今日のあなたの一日が「社会の色メガネを外す」一日であることを願って。
読んでいただきありがとうございます!!

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