今回は「哲学の良い所、悪い所」をご紹介していきたいと思います。
「哲学」をものすごく平たく言えば「これってなんだろう?」の学問です。そのように見れば、おそらくは多くの人が「哲学している」ともいえると思いますが、いかんせん「学問としての哲学」というやつは、はっきり言って難しすぎるし、とっつきにくい、とも思います。(古代ギリシャの哲学はそんなこともなかったんですけどね。)特に「現代哲学」に関してはあまりに難しすぎて、万人にお勧めできるものではないです。
ですがその反面、「得るもの」が確かにあるんです。
そんな哲学の良い所と、悪い所を見ていきたいなって思っています。
では、早速いきましょう!
哲学、フィロソフィー、知ることを愛す
そもそも哲学って何でしょう?「哲学」という名前を聞いただけでは、まず「何をやっているのか?」が良く分かりません。笑
「哲学」を全く知らない状態での私の印象は、「なんだかめんどくさい事を考えている学問」です。
ですが、少しずつ触れていく程にそんな印象が誤りだったことに気付かされます。
私自身、「よし!哲学をやってみよう!」という動機から学び始めた訳ではなくて、はっきり言って全くの偶然でした。
心理学や脳神経科学を学んでいると、
「人の心や脳の起源はどうやらずっとずっと昔にあるようだ。」という事を知り、
「じゃあ人類史や歴史でも知ってみるか!」と歴史や生物史に手を伸ばすに至り、
その歴史の中で「大まかな内容の哲学史」に触れた時、「あれ?哲学者さんのいう事って、とんでもなく核心を突いたこと言っているかも?」と感じたことがきっかけです。
哲学(フィロソフィー)のもともとの語源は「知を愛する」という意味です。
要は、「これって何なのさ?知りたい!」というとっても範囲の広い学問です。日本の言われ方である「哲学」の「哲」は、「道理やことわり」の意味で、明治の頃に「希哲学:ことわりを望む学問」や「理学:ことわりの学問」のような言われ方もあったりしましたが、結果「哲学」で収まります。
いずれにせよ「ことわりを知りたい学問、ホントのところを知りたい学問」の意味です。
だから、世界だったり、存在だったり、認識だったり、神だったりと、いろんなことについて考えます。(相当ざっくり分けるなら、古代ギリシャ初期の「世界を知りたい時代」、そこからギリシャ中期の「道徳や善などを知りたいヘレニズムの時代」、ギリシャ後期の「新プラトン主義の時代」、少し時代を開けて「神を知りたい神学の時代」、神秘もオカルトもなんでもござれな「ルネサンスの時代」、哲学の再出発を果たしたり人間主体を打ち出した「近代哲学の時代」、そして、当時行き過ぎだった科学信仰に待ったをかけたり人間主体をも解体しようとした「現代哲学の時代」などなどがあります。)
その哲学史の中で、ある時は大きな視点から、またある時に小さな視点から
「これはこういう事だ!」
「いやいや、それだとこの部分が説明できないじゃん!」
という事を繰り返してきた学問です。
じゃあそんな事を繰り返すだけで、難しい事を考えては「なにも得られない」のが哲学なのか?というと、
全くそんなことないと思います。
ある時は「その前提が間違っているんじゃない?だってほら、こう考えてみてよ。」とひっくり返してみたり、またある時は「それが正しいっていうから、あえてそれにとことん乗っかってみたんだけど、この部分はちょっとおかしいよね?」としてみたりをします。
そんな繰り返しの中には、「考え方のお手本」が沢山詰まっているんです。
「つまりこれはこういう事だよ。」と説明する際に、どうやったって「その考え方の基盤」や「モノの見方」が反映されています。
つまり哲学は、「革新的な、その時代を代表するものの見方に触れることが出来る」んです。
個人的には、これが「哲学」の一番大きいメリットかなと思います。
正直ここまで「個人の心の内を覗けて、言葉として整理されているもので、更には様々な前提をひっくり返してくれるもの」は、哲学の他にはそうそうないんじゃないか?と思っています。
実際私は「私の前提をことごとくひっくり返してくれるもの」として、これ以上のものに、未だに出会っていません。
どれもこれも説得力があって、「確かに!」と、自分の中で腑に落ちる。
自分一人では到底考えつかないような「考え方のお手本」が沢山提示されていて、それが知れてしまう。そして必ず、と言えるくらいには自分にピッタリなものが見つかっちゃう。
そんな学問が「哲学」だと思います。
さらに言えば、革新的な新しい理論などを打ち立てる科学者さんの中には、
「自分の専門的な分野+哲学の考え方」を持った人がかなり多いとも思います。
例えば、皆が知っているアルベルト・アインシュタインは、中世の哲学者であるスピノザに影響を受けています。また、「ソマティック・マーカー仮説」の提唱によって脳神経科学界で有名なアントニオ・ダマシオもスピノザに影響を受けています。
更に、理論物理学者カルロ・ロヴェッリの本などを読むと、西洋哲学と東洋哲学のどちらにも大きな影響を受けておられるな、と感じます。
「ものの考え方としての哲学」は新しい強烈な視点を与えてくれます。
そもそもが「これってなんだろう?」の学問です。
古いのに新しい、と言った不思議を「哲学」が内包するのは、いつの時代も私達人間の心のあり様は変わらないからだと思います。
更にもう一つ挙げるとするならば、哲学全般の考え方を大きな枠組みでとらえた時、
「既存の仕組みや一般通念。更には普通や常識と呼ばれるものは、何度でも吟味でき、分解でき、また違った角度から再構築できる。」
ということに気付ける、という点も大きいと感じます。
私達は、今ある事柄が「当たりまえ」になりすぎてしまって、その枠になんとなく収まろうとしている時があります。例えば「それが普通でしょ?」みたいな話は、「そもそもなんでそれが普通なんだろう?」と一考すると、その「普通」とされるようなものは、とある集団やとある社会、あるいはその人個人の中での共通了解かもしれません。「じゃあなんでそれが共通了解になったの?」と、それを更に深堀して、いくらか分解や解体が出来ると、新たな視点が見つかることも多いです。
つまり、「今ある当たりまえって、疑っても(なんどでも吟味して)いいものなんだ。」みたいな考え方も生まれます。
時に、子供の「なんで〇〇ってこうなの?」のような素朴な疑問が、私達が知らず知らずに持っていた枠組みのようなものを、その外側から見直すきっかけを与えてくれることもあります。そういった素朴な疑問が私達の「当たりまえ」に対して一石を投じてくれるんです。「あれ?確かにそれってなんで〇〇なんだろう?」を根掘り葉掘りしたのなら、それは立派な哲学なんじゃないかと思う次第です。
さて、先ずは「哲学」をお膳立てしてみましたが、
ここから個人的に感じる「哲学の問題」にも触れていきたいなぁと思います。
その難しさから「小さなコミュニティ」を形成している所、また、
「知を愛する」が故に、時にその読者に「妙な気持ちを抱かせる」所があります。
「哲学」は小さなコミュニティを形成している
哲学は「これって何だろう?知りたい!」という気持ちから始まったものではありますが、突き詰めた「知りたい!」であるがために説得力がある反面、徐々にとんでもなく難しくなっていき、その難しさが私のような「一般の人」に一線を引かせてもいます。
ざっくりとした哲学史から知り始めた私は、いよいよ本格的に「哲学書」に手を伸ばしましたが、これがびっくりするほど難しかったんです。初めて手を伸ばしたのが「カント」だったのもマズかったと思います。彼は超難解で有名だからです。
私は数ページほど読んで、そっとその本を閉じました。笑
じゃあ、古代ギリシャの哲学は比較的読みやすいんでしょ?と読んでみたものの、「確かに!」と思うことがある反面、世界についての話なんかは、「なんだかいまいちしっくりこないものもあるなぁ。」といった感じ。私自身はこんな始まり方をしました。(他方で遥か昔にこれだけの考えを展開できたことは、凄まじい事だとも思っています。彼らのおかげで今があるんです。)
それでも、その大きな枠組みはなんとなくかすかに見えてきたので、「今なら!」と再び「近代以降」の哲学に触れていったところ、これが私の中では大ヒット!
「え!?やっぱり哲学ってすげぇ~!!」となっていきました。
もうこの時点で、その難しさには目もくれず、時間も忘れてひたすら読みたいと思うくらいには魅了されていました。
ですがやっぱり難しい、とも思います。
特に現代周辺の哲学は「難しすぎる」んです。これは誰もが認めるところだと思います。
ホントに難しい。
「哲学」というものに相当な魅力を感じた方でなければ、たいていは「門前払い」をされるために、それを知るまでに至らない。そういった矛盾をはらんでしまっています。
またどんどんと専門的な知識が必要とされるようになっては、少しずつ「専門知識としての哲学」の色合いが濃くなっていっているように思います。
こんなに素晴らしいものなのに、あまりに敷居が高すぎるぞ…。というのが率直な感想です。
そしてその敷居の高さのせいで、
哲学は「小さなコミュニティ」を形成してしまっている所があります。
「哲学を知りたい?じゃあ、名いっぱい学んでここまで来てくださいね。」
こんな具合に。
「これが答えだ!」というものを探す試みから始まった哲学は、一部の人だけが知っている「難解かつ専門的な知識」になってしまっていると感じます。
実際は素晴らしい「モノの見方」がそこには沢山含まれていて、私達の認識をひっくり返そうと強く訴えかけてくれてはいるものなのに、「小さなコミュニティに収まって、大きなコミュニティへの還元がしづらい。」こんな問題を抱えているんじゃないかと思います。
汝、驕ること勿れ~個人としての問題~
「哲学」の深さと核心を突く内容に魅力を感じ、いよいよ個人として哲学に触れる時、こちらについてもちょっとした問題があるかなと思います。
「その哲学を知っている。知っていない。」という事に重きを置いて、「知っている」という事。つまり、ある種知識に溺れるような気持ちを覚えたのなら、むしろ自分自身にとって害にすらなっている、と感じます。
難解であるがために、「それを読了した。ある程度は理解した。」ということそのものが、ちょっとした「驕り、慢心」を抱かせることもあるんです。
「よし!この哲学者の言わんとしていることはある程度理解した!じゃあ、次は…。」
とその考えを「知る事」に注力していってしまうと、
「私は他の者たちとは違うのだ。」のような感覚を覚え、いつしか考えだけが独り歩きしてしまうようなこともあります。
こうなってしまうと行く行く、個人によるその「独り歩き」に気付くことがかなり難しくなっていっちゃいます。
当人がふとした瞬間振り返り、
「あれ?一体なんのために学んだんだっけ?他者と距離を感じるためだったっけ?」
と自問することは、結構厳しいんじゃないかと思います。
私自身、古代ギリシャの哲学からようやっと現代哲学まで触れるところまで来ましたが、その道なりの中で、どこかその哲学者さんのおっしゃっていることを「信じ切っている」感は、正直否めませんでした。でも、現実の何かを忠実に見定め、ごまかすことなく見ていくと、どこかで「かもしれない」に出会うものです。大きな傾向で見れば確かにその通りかもしれない。でも、細かな部分には、いくらかの「例外」がどの分野においても存在します。割り切ろうと論理的に、または数学的に突き詰めていったしても、やっぱり割り切れないような「不確実なもの、不確定なもの」が出てきてしまう。
そんな「不確実なもの、不確定なもの」を別の何かで穴埋めしてしまう事は、むしろ現実における明晰性(明確さ)から遠ざかってしまうのではないか?と言うような気持ちが、特に現代哲学(ポスト構造主義当たりの哲学)に触れると芽生え始めたりします。
初めは確かになんとも言えない不安定さを感じるものですが、今となっては「この割り切れなさがリアルなんだ。」と思っているところがあります。哲学の変遷を目の当たりにした今、大切にしていることは
「常に訂正の可能性がある。」
「常にその訂正を受け入れられるような【空白と余白】を持っておこう。」
と言った事です。
それは知識か、生き方の術か?
私達人間は基本的によく間違える生き物です。
「気付いたらこうなっていた」なんてことが本当によくあります。
でも、何かの拍子にハッと自分で気付いたり、他者に気付かされたりして、人はその気持ちを修正できます。
「独り歩きするため」でも、「知識を得るため」でもなく、
「気づいたらこうなってた、に気付くため、自身の心を培うため、またそれによって他者との関係を良好にするため」に「ものの見方」として、その知識を使ってやってはどうかなって思うんです。
「ものの見方」という意味では、やっぱり個人的には「哲学」が群を抜いていると思います。なぜなら、その前提から吟味し、ひっくりかえそうとしてくれるような考え方がまさしく「哲学」だからです。
哲学は、他者にその知識を披露するためにあるのではなくむしろ、「自己の心を吟味し、反省するため」にあるんじゃないかと思う次第です。
私はそういった「ものの見方」を少しずつ増やしていっていますが、他方、日頃の生活で、こういった哲学の知識だったりの小難しい話を誰かに対してすることは、ほぼありません。確かに「それはひょっとすると、こう言うことじゃないかな?」のような、より一般的な伝え方はしますが、「超越論的経験論からすれば…」みたいな話は全くしないです。この知識は「私自身の心のため」に知っていっているところが色濃いです。依然として笑ってしまうほど半人前な私ですが、それでもその心を「在り方として」示す。こんな事が重要な気がします。他者に伝わるのは「なんかアイツ楽しそうにしてんな。」くらいでいいと思ってます。
「私がどれほど自身の心に向き合っているかは、誰にも分からない。しかし何より今確かに自分の心が少しづつ培われている。その反省によって七転八倒しながら。だが、内部に起きるその省察、その吟味。それ自体に意味がある。」と私は、感じています。
難しいものが多い反面、個人の気持ちを動かしてしまうくらいの影響力があって、背中を力強く押してくれる。それが「哲学の考え方の中」にはあります。
また前項で、哲学に触れる際に「信じ切っている感」が否めなかった、と言いましたが、結果として「それでよかったなぁ。」とも思うんです。あたかも哲学者さん本人になりきったかのように、まるで本と同化したかのように読むことで、ようやっとそのモノの見方を実際の経験として落とし込める気がするんです。その考え方は試してみないことには、本当にいいものか?だとか、この部分はあんまり上手く落とし込めてない気がする、だとかが分からなかったと思ってもいます。
また、そういった「吸収」と同じくらい、あるいはそれ以上に「消化」が重要だとも思います。知識の「吸収」ばかりをたっくさんすると、胃もたれしちゃう。だから「消化」もしていかなきゃならん。知識の「消化」は、勝手にされることはほとんど期待できない。私達の心が向き合おうとしないことにはできない。その「消化」のために考え方の解体と構築、受け止めることと吟味すること。こういった「自分の心の中でのこと」が必要だし、それが自身の心を強くも柔軟にもしてくれると感じます。
個人的に好みな哲学者さんたちと読みやすい哲学
さて、最後に個人的に特に影響を受けた哲学者さんたちをご紹介して終わりにしようと思います。
気楽に生きるなら「エピクロス」
尊重からなる自由を手にしたいなら「カント」
人が価値づける優劣について一考したいなら「レヴィ=ストロース」
それを語るなら、事実でもってその在り方で示せと言った「ウィトゲンシュタイン」
その他、哲学の中では人気者のニーチェや、現代哲学者のジル・ドゥルーズなどの影響もあります。(実際ジル・ドゥルーズの考え方にはお世話になることが多いです。)
これらの哲学者さんたちは非常に個人的な好みではあるので(そして今尚影響を受けている哲学者さんは増えていってます。)、もっと気になった方は「自分にピッタリな哲学」を探してみるのもいいかもしれません。きっとピッタリな考え方があります。後世に残るべくして残った優れた知恵ですから。
また、比較的読みやすいものも実はたくさんあって、例えば、
三大幸福論の一つでもあるラッセルの「幸福論」などは、いきなり「幸福になれ!」的な内容から入るのではなく、先ず「不幸の原因」を一つ一つ事細かに紐解こうとしてくれ、その前提からひっくり返すだけのきっかけをくれるかもしれません。
ラッセルさんは「幸福論」によって、深遠な哲学を目指したわけではなく、「誰もが実践できる幸福への考えと行動」を説いています。
ひどくざっくりその内容を見るのなら
「受動的になり義務に生きるな。正しい認識のもと、能動的であれ。」的なことになると思います。
また古代ギリシャのマルクス・アウレリウスの「自省録」なんかは最近新訳が出たので読みやすくなりました。
マルクス・アウレリウスの「自省録」にはホントは哲学がしたかった王の本音が記されています。
王の務めを立派にこなしつつ、自己を省みる記録をつづけた王の生きざまを覗くことが出来ます。
様々な哲学に触れながら、彼が最も愛したのは「ストア派」の哲学です。
ストア派は、自らに降りかかる困難をいかに理性によって克服していくか?を目指した古代ギリシャの一派です。
彼は自身の立場と境遇による様々な困難を乗り越えながらも内省し、理性的に生きました。
マルクス・アウレリウスは「その与えられた立場でもって、出来ることは何か?」を教えてくれます。
また私は同胞に対して怒ることもできず、憎むこともできない。なぜなら私たちは協力するために生まれついたのであって、たとえば両足や、両手や、両眼瞼や上下の歯列の場合と同様である。それゆえに互いに邪魔しあうのは自然に反することである。そして人に対して腹を立てたり毛嫌いするのはとりもなおさず邪魔しあうことなのである。
マルクス・アウレリウス 『自省録』
つねに信条通り正しく行動するのに成功しなくとも、胸を悪くしたり落胆したり嫌になったりするな。失敗したらまたそれに戻っていけ。
マルクス・アウレリウス 『自省録』
今日のあなたの一日が「哲学って、もしかして」と思う一日である事を願って。
読んでいただきありがとうございます!!