みんな「客観」っていうけど、それって本当に経験したことがあるものかな?~フッサールさん 『現象学の理念』~

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感情

こんにちは!幸せマンです。
今回は「客観についてもう一回考えてみよう」的な話を、哲学者フッサールさんの「現象学」から見ていきます。おそらくフッサールさんの考え方を理解するのは、とっても難しいものになるとは思います。ですが、出来るだけ簡潔に彼の言わんとしたことをご紹介し、「もしかすると、実際そうかも!」と読んでくださった方に「純粋」に感じていただけるよう尽力いたします。

では、早速いきましょう!

フッサールさんは【あえて】突っ切り、突っ走った


今回ご紹介するのはドイツの哲学者「エドムント・フッサールさん」の「現象学の理念」についての話です。彼は哲学史の中でもかなり異端な考え方「現象学」を世に広めようと尽力した現象学の創始者です。

そのあまりに異端な考え方のため、多くの人に「誤解や批判」をされた方の一人かなと思います。
実際私自身も、彼の考えについてはサラッと見て知ったつもりになっている程度で、「なんだか突飛な事を言っている人なのかなぁ」と思いつつ長らく手を出していなかったところがあります。

でもそんな中でなんとなく、あえて横槍を受けてみたい、本当にフッサールさんが突飛なことを言っているのかどうか?を自分で確認してみたい、と言ったような気持ちを覚え、フッサールさんの『現象学の理念』に手を伸ばしました。

そしてその結果、何度か読んでいくうちにそれが全くの誤解だったことに気づかされます。

というのも、フッサールさんの現象学の説明の手法が「【あえて】突っ切る。突っ走る。」やり方です。その根本である肝心要(かなめ)の【あえて】を捉えない事には、「やっぱり突飛なこと言ってる…。」という感想を持ちやすいところがあります。


この【あえて】が理解されないが故に、ただ単に「突っ切る。突っ走る。」哲学者みたいな位置づけにされてしまっていると、個人的には感じました。

加えて、彼独自の造語がめちゃくちゃ多い点が、その理解を更に難解にもしています。

さてでは、それらを踏まえて実際にここから「現象学」の考え方を見ていきますが、できれば皆さんには
「頭をまっさらにした状態で」読んでいただくと、少しだけ理解が捗(はかど)るんじゃないかと思っている次第です。

「ものすごく、できうる限り、素朴に考える。」

これがおそらく現象学の要になってくると思います。

「客観」ってなんだろう?だれも経験したことなくない?


「客観ってそもそもなんだろう?」
フッサールさんはこんな疑問を持った結果、「現象学」という考えを立ち上げます。

「私達は【客観】だの【客観的】だのと言うけれど、どうしたって主観からものを見るのが私達なのに、どうやってそれが【客観】だって確かめたのさ?」

こういった観点から、フッサールさんは「客観」というものに対して、とっても素朴に疑問を持ちました。
そしてこんな疑問を解決するため、更に考えを進め、

「誰も【客観】というものを経験したことがないじゃん。だったらもっと正確な捉え方をするならば、【客観的だと感じる主観でもって、それが客観だと確信している】と言った方が適切じゃない?だとすればそれは【客観】じゃなくて、【主観による客観化】なんじゃないかな?」
と考えました。

ちょっとまどろっこしい言い方になったので、もう少し整理してみようと思います。

つまりは
「私達は確認しようのない客観というものをベースに考えているけど、もっと正確に言えば主観からものを見ている、という自覚をもって主観をベースに考えてみたらどうかな?」
と言っているんです。

このようにフッサールさんは【あえて】主観で突っ走ることで、むしろより正確に物事を把握できるんじゃない?だって私達は実際に主観を通してしか見ることができないじゃないか!と思い至った哲学者さんです。

ふと考えてみると、確かに私達はおそらくすべての事に対し、主観によってものを見ていることに気付かされます。
「判断ある所に主観あり」が私達なわけです。
そういった自覚をすることなしに、客観的だと言い切ってしまう事は、むしろ何らかの思いや感情や価値が付け足されているような事態に気付くことが出来ずに、決めつける事なんじゃないか?
とも思えてきます。

とすれば私達にできる最大限の「客観的視点」は、自身の中にある思いや感情などを付け足すことなく、いえ、もっと正確に言えば、そういった付与がされたこと自体をも自覚して、最も素朴な現象を見つつ、とことん「純粋」に認識すること、だと言えそうです。

フッサールさんは「純粋な現象の認識」で持って、それがどれだけこの世界を正確に捉えられるか?を考えました。
これを「的中」、なんてフッサールさんは言います。

これが「現象学」の根本となるスタートラインです。

しかし、この時点においてもちょっとした誤解が生まれる可能性を含んでいます。
というのも、実際に「客観的なものを認めず、主観が正しいっていうんだったら、何もかも肯定されるおかしな世の中にならない?俺の世界はこうなんだから、放っておいてくれないかな?みたいなことになるじゃん!」のような反論がそこそこ沢山生まれました。

ですが、フッサールさんが言っていることはそういうことではない、と私は感じます。
パッと目に入ったものを何の臆見もなく、何の価値も付け足すことなく、ただただ「素朴に感じる」

これによって初めて、とことん純粋な認識が出来る、とフッサールさんは言っています。
そして何より、そういった純粋な認識を持った人々で集まっては、「私にはこう見えるんだけど、君はどうかな?」という「各々の認識のすり合わせ」も含めて、慎重に検討することを目的としたのが「フッサールさんの現象学」です。

例えるならば、純粋な認識による「的あて」を皆でしていって、今まで「中心」だと言われてきた事柄に対して、実はズレてるんじゃない?と指摘していくような試みと言えるんじゃないでしょうか?前もって中心を決めるんじゃなくて、純粋な認識の「的あて」が集中する場所こそが、より妥当性の高い「中心」なんじゃない?というのが現象学の試みです。

つまり、「客観的だと言われるなにかを出発点にすることなく、また、何らかの臆見や思惑を付与した主観的な意見を出発点にするのでもなく、もっと素朴で純粋な認識による主観と主観の共通了解から始めてみませんか?そこからできうる限りのど真ん中を探り当てようよ。」ということが言いたいのだと思います。

とはいえ、一般的な感覚からすればやっぱり「客観」というものがどうしたってちらつきます。「さあ、主観から考えてみましょう!」と言われたって、「客観(自分の外側、自分以外のもの)」的なものがかなり強い力として、私達に影響してきます。

このため、フッサールさんは「じゃあ、【あえて】主観と客観という、このそもそもの認識から抜け出そうじゃないか!」と、全く新しい考え方を提示します。

エポケーによる判断中止


私達の認識が「主観」をベースにしていると考えようとした時でさえ、「客観」という強い存在感を放つものが、とにもかくにも、ちらついてきます。

この状況を打破すべく、フッサールさんはこのように考えます。
「どうにも客観というものが強すぎるな。だとすればもういっそ主観と客観から離れてみるような方法が必要だ!というわけで、先ずは一旦【客観というものを、「」かっこの中にいれちゃおう!】。あえて外側の世界に関する一切を【エポケー:判断中止】してみよう!」

つまり、「先ずは一旦外界や客観、というものを考えないで、今その場で感じた知覚に神経を研ぎ澄ましてください。」と言っています。
これを【エポケー:判断中止】と言います。

はっきり言って、この辺りからヤバイ匂いを感じた方も多いと思います。
私達「え~っと?つまり外側の世界を無いものとして考えろってことですか…?
フッサールさん「はい、その通りです。」
私達「マジっすか…。」

このまま進むとおそらく多くの人が読むのをやめてしまう気がしたので、説明を付け足させてください。

フッサールさんは、「現実世界が存在しない」と言ったわけではなくて、主観からとことん考え抜く際に、その強すぎる影響力を放つ「客観」なるものが、とっても邪魔してくると考え、とにかく純粋な認識をするために、一旦外側と考えているものに対して、【カッコの中にしまい込もう。エポケー:判断中止をしよう!】と、言っています。

つまり、「客観」の強い影響力を排除するためには、一旦保留し、判断中止(エポケー)してみようと言っているだけであって、その世界の存在を認めないよ!と言っているわけではないんです。むしろこの世界の妥当性を高めるべく、【あえて】こうしてみよう!といっているんです。

ですので、言い換えるとすれば
「今見ているものの一切を判断中止(エポケー)して、自分の内側で知覚していることに感覚を研ぎ澄まし、その内側から着実に純粋な感覚を拡大した結果、それがどれだけ妥当なものかを確かめる態度」をここでも取ろうとしている、より具体的に進めようとしている、と言えます。

ここで実際のフッサールさんの考えを見ると、

私が求めているのは明晰性であり、私が理解したのはこの的中の可能性である。

エドムント・フッサール『現象学の理念』


このように言っています。

つまり、「こっちの方がより妥当性や可能性が高まるっぽくない?ちょっと一緒に考えてみてよ。私はね、もっと皆で純粋にこの世界を認識したいんだ!ただそれだけなんだよ!」ということを求めた人です。

内側からなる何の先入観のない純粋な認識から始め、それを拡げていくことでもって、初めて極めて妥当性の高い共通了解(的中のより高い可能性)が生まれるんだ!と言っているところに肝がある、ということをご理解いただければと思います。

例えば、「目の前にリンゴがある。」のような簡単な認識は、「まず間違いなくリンゴがある!」と言えると思います。すぐにでも共通了解に至れると思います。ですがもっともっと複雑さを増した問題や出来事を目の前にした時、客観から始めると、「何が妥当で何が妥当でないものか?」の見当を付けることが非常に難しいですよね。

フッサールさんはそういった複雑な問題。とりわけ学問や科学に対する「妥当でないもの」を見つけるべく、自身の内側から純粋な認識を拡げることによって、少なくとも今よりは、可能性の高いもの、妥当性があるものをより見定めることが出来るはず!と考えました。

ところで、このような判断中止(エポケー)によって、「内側の純粋な認識から始め、いざそれを外側へ拡げる」と言った場合、「結局客観(外側)に頼らなくちゃいけなくなるんじゃないの?だって実際自分の外側の事なんでしょ?」という疑問も生まれるんじゃないかと思います。ですので、以降はこの辺りについて掘り下げます。

エポケーから内在と超越へ。「現象学的還元」


自分の内側から純粋な認識を持ち、いざそれを外側に向けようとするとき、
「なんだよ!結局それって客観じゃん!」
となってしまいそうな気がしますよね。

ですが、よくよく考えてみれば
客観って、「客観的だと判断した主観」であって、どこまで行っても究極的には
「各々の主観の延長線」でしかない
気もしませんか?

つまりその「外側だとしていること」も、私達が知覚する以上は「主観の域を出ていない」。
このようにフッサールさんは考えます。

外側で起きていることですら、私達はどう足掻いても「各々の主観」を通して、その延長線上として見ています。

そしてそういったことをもっと明確に自覚し、あくまで主観である態度を継続するために、フッサールさんは
内側の主観。もっと言えば「知覚を知覚する」ことを
「内在」
と言い変え、

外側の主観。こちらは「その知覚を主観の延長として外側に向ける」ことを
「超越」と言い換えました。

主観と客観で考えると、どうしても客観がちらつくので、
内側の主観である「内在」外側の主観である「超越」
もう、この二つで考えてみようよ!主観をベースにしていることを自覚しようよ!というのがフッサールさんの考えです。

さて、先ほどご紹介した内容について一連の流れを纏めておけば、
何かを見た。
「外側は一旦置いておいて…。」判断中止、エポケー)
「私は今こんな事を感じた。」( 知覚したことを知覚 。内在。)
「私は純粋にこう感じたんだけど、これってどうなんだろ?」 (主観の延長として外側に向ける。超越。)

と、こうなると思います。
フッサールさんはこの一連の流れを
【現象学的還元】。もしくは【還元】と言います。

そしてこの「還元」によって、私の、私達の純粋な認識はどれだけこの世界のあり様に「的中するか?(近づきうる?)」を突き詰めました。

考えにはやっぱりルーツがあるものです


フッサールさんは20世紀初頭に『現象学の理念』を打ち立てました。そして、やっぱりそういった考えを持ったのにはルーツがあります。

その当時、フッサールさんは「明らかだ!」と言われていたことが何度も何度も覆るような事。特に学問や科学などに疑問を持っていました。

その結果、「客観的に正しいという立場に何かしら誤りがあるんじゃないか?」という視点が生まれ、「そもそも客観ってなにさ?」と思い、「それって私達の主観への理解が足りないから起きるんじゃないかな?」とさらに歩みを進めました。

要は、学問や科学に、さらなる妥当性を持たせたいがために、声を上げたんです。
フッサールさんはしばしば「学問と科学を批判した人」だと言われますが、そう考えるとむしろ「学問と科学をより純粋なものにしたいと考えた人」に見えます。

フッサールさんは
「私以外は私の意識の中の存在」のように考える独我論のような立場を取りたかったわけでも、
「現実に起きることの一切は虚構だ!世界は存在しない。」のような立場を取りたかったわけでもない
んです。

なにがしかの分析・検証をするにあたって、自他にある主観による誤りの可能性を自覚し、丁寧に除外したとき初めて、最も妥当で純粋な認識の基、分析・検証が行えるんじゃないか?と考えた人です。

「誤解を恐れず【あえて】言うとね。」と言った結果、まさに誤解をされた人なのだと思います。

実際、科学でさえも個人の名誉のようなものが先立って、成果を出したいその一心で「そうであって欲しい」と方向づけをしてしまうようなことが、ままあります。
また、全く同じ人に一定期間を置いてもらい、再び全く同じ検証をした結果、その結果自体が違ってくる。
実際こんな事もあります。

フッサールさんはそういった想いや思惑や臆見。または「ノイズ」のようなものをとことん無くしていき、最も妥当性の高い学問や科学の成果だけを後世に残したい。とそう願っただけなんだと思います。

とはいえ、フッサールさんの示した「還元」は、やってみるとものすごく難しいと思いもしました。

個人的にもう少し挑戦してみようとは思いますが、
少なくとも現時点では「確かに私達は主観とその認識への自覚が足りないのかも。」ということを補強してくれた点においては、飛び込んでみて本当によかったなぁと思っています。

またそれと共に、「私達は主観によって認識を行う」という前提が持つからこそ、多種多様な意見を、より深く理解し、共感できるのかもなぁとも思った次第です。
「私はどうしてこう考えたんだろう?」、
「この人はどうしてこういう考えに至ったんだろう?」
という考えを持つ、
きっかけの一つになってくれるんじゃないかな?と感じます。

私達が認識する事物は、それが主観である以上、「実体+臆見や憶測」が付きまといます。
それは時に全く同じ事物に対して、全く違った印象をも持ち得、判断をもし得るという事に気付かせてくれます。

認識は、それがどのように形成されていようと、一個の心的体験であり、したがって認識する主観の認識である。しかも認識には認識される客観が対立しているのである。ではいったいどのようにして認識は認識された客観と認識自身との一致を確かめうるのであろうか?

エドムント・フッサール『現象学の理念』

今回は、ちょっと考えさせられるであろう、フッサールさんの『現象学の理念』についてでした。

今日のあなたの一日が「客観ってなんだろう?」と思う一日であることを願って。
読んでいただきありがとうございます!!

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