才能とはなにか?

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生き方

今回は、「才能」の正体を炙り出し、多くの人の中に根付いているであろう概念を覆していきたいと考えています。才能とはないか?によって心の自由をまた1つ手に入れる後押しができたらいいな、という内容となっています。

では、早速いきましょう!

世界中で使用されている「才能」という言葉。

「あの人は才能がずば抜けている!」
「やっぱり才能がある人は違うな!」

と、さも当然といったように「才能」と言い言葉が用いられています。

それを表すかのように、ドラマ、映画、漫画などの創作されたものの中には、「生まれ持った才能」によって、異能や超能力を使って物語が進行していくパターンが極めて多いです。実際、面白いし見入ってしまいますね。

確かに超能力を生まれ持ち「目に見える形」で備わっていればそんな世界になるのかも知れないなと思います。
ところが、現実において、世界を変えるような超能力はまだありません。

しかし、私達の社会において超能力でなくても、この「目に見える」特徴として見える部分が間接的にある固定概念を作り上げてしまっているように感じます。
その結果、私達の固定された概念である「才能で全てが決まっている」という、誤った解釈を生んでいると感じています。

実際は「生まれ持った才能で全て決まっている」わけでは無いんです。

目に見える部分が才能の誤解を生んでいる


「目に見える」部分の特徴が、私達に「生まれ持った才能で全て決まっている」だという誤解を植えつけています。
例えば、身長が高い、歌が上手い、足が速いなどは、どうしても「目に見える」特徴ですよね。

肉体的な目に見えやすい特徴は、実際に、生まれ持った遺伝などで多くが決まり、それがあまりに目に付くものだから、「全ては決まりきっている」と感じます。

またIQ等で頭の良さを測られる事で、自分の能力を見せられてしまい、平凡な人だと思ってしまったかもしれません。

しかし、一般的な仕事や生き方レベルで見ると「目に見える」特徴による「生まれ持った才能が全て」という言葉は当てはまらなくなります。
足が速いと、IQが高いと仕事ができ、生活においても幸福度が高いのか?というとそうでもありません。世界で活躍している「創造力」のある人、つまり沢山の事をひらめくクリエイティブな人はIQがそこまで高くない人もかなり多いんです。足はもちろん速くはないでしょう。

IQの話がしたいわけでは無いので、さくっといきたいと思いますが、
IQは「言語を扱う能力」と「見て覚える、仮説をたてるなどの分析能力」が高いというものです。
ですので、IQが高い人が、人間関係がそつなくこなせて、芸術的感性が高くて、優しい心を持っている、など全てにおいて優れているかというと、これは全くの別物です。

むしろIQが高い、と鳴り物入りで会社に入り、教えなくても何でも出来ると勘違いされては、苦しんでおられる方もいるようです。

私達はなぜだか「目に見える」特徴と「目に見えない」特徴を紐付けてしまい、物事を判断してしまうところがあります。それによって「目に見える」特徴を持ち得なかった人が「自分には何の才能も無い」と落胆し、自分を過小評価します。しかし、そうではありません。
実際には「目に見えなかったもの」が「目に見えた」時、私達は「才能」と言う言葉を使います。

それはまだ、決まってなんかいない


生まれ持った才能で全てが決まっている」というのは大きな誤解です。
特にひらめきなどの仕事で必要とされるような、「創造力」は生まれ持ったものでは無く、後から手に入れた情報によって生まれています。あらかじめある程度の情報が無ければ、そもそもひらめきは起きないんです。

多くを兼ね備えた人が目の前にいたとして、私達にはそれが努力によるものなのか、はたまた才能によるものなのか?は全く区別がつきません。そして、それは生まれ持った才能では無く、ひとつひとつ努力を重ねたものなんです。
「目に見えなかった」ものを「目に見える」ものにした結果、多くを兼ね備えて「見える」んです。

確かに、これまでの環境や考え方で今の私達は決まっています。それが私達を作り上げてくれました。しかし、これからの環境やそれに対する考え方によっては、私達はいくらでも変わっていきます。

とある研究で
「才能で人生は決まってしまう」という話を聞いた子供は、新しい事に挑戦しなくなる傾向が生まれ、

「人生は自分で切り開ける」という話を聞いた子供は、新しい事に挑戦したがる傾向が生まれました。

むしろ新しいことをやらない子供たちを見て不思議にさえ思っていたそうです。自分を縛るものが無ければ、見えるものが違っていくようです。
たった一つの概念で、その後の行動に影響を与え、また、今後を左右します。

生まれ持った才能で全てが決まる、と言う考え方が
私達の中に根付いてしまい、自らの可能性に蓋をしてしまいます。

俗に言う天才とは、「努力し続けた人、もしくは楽しみ続けた人」です。最初から私達と歴然たる才能の差があるわけではなくて、ただ、やりたいと強く願えるだけの「何か」がその人たちの中にはあり、それを続けた結果、天才と呼ばれています。つまり、誰かには「見えない」努力を繰り返し、「見える」様にしたんです。

積み重ねてきた「目に見えない」努力の過程は、目に見えないがために世の中に見られることなく、ただ成し遂げた偉業の「目に見える」結果を見て、人々は「あの人は才能があったんだ」という過去形で表現されます。つまりは結果論なんです。

やりたいと思ったきっかけは様々だと思います。でもきっと折れない「何か」に出会ったんです。

そんな世の中から「才能がある」といわれるようになった人達は、そこに行き着くまでに沢山の苦難を乗り越え、挫折しそうになりながらなんとかやってきたんです。

生まれゆく才能


私達の中に根付いている「生まれ持った才能」という固定概念を私達の中から追い出してしまうんです。
その余白に、いつからだって変わっていけると勇気をくれる「生まれゆく才能」が入り込んでくれます。

「生まれ行く才能」を信じた先に、「何も持っていなかった」と言っていた人が気付いたらとんでもない偉業を成し遂げるような話がありますよね。何も持っていなかったからこそ、絶対に成し遂げたいと考える人もいるんです。

生まれ持った才能という枠組みが私達から可能性を摘み取っていってしまっています。
やりたい!こうありたい!と願う気持ちにストップをかけて、「どうせ私なんか」と思わせています。
しかし、本当はまだ決まっていません。

「才能」とは、誰でも、いつからでも身に付ける事が出来る、後天的な技術によって、努力した結果を、そう呼んでいるんです。
つまり「誰もが才能を持つことができる」んです。
「才能」は生まれ持つものでは無く、生まれてくるものです。

なりたい自分には今からなれます。
私がこの記事で言いたい事は、
「社会的な成功を目指しましょう!」ということでは無く、
「才能」に縛られ、生きにくいなら、そんなものは不確かで、たとえあったとしても皆が持つ事が出来るもの、得ようと思えば生まれてくるものなので安心して幸せになってください、と言うことです。

幸せを得るために不必要な「どうせ」という気持ちを振り払い、前を向く事が私達に本当に必要なものです。

前を向いて歩いていくのに邪魔になるものは出来るだけ少ない方がいい。
笑って健やかな日々を得るための1つとして、「生まれ持った才能」と言う概念が「生まれいく才能」に取って代わる事を願っています。

今日のあなたの一日が「生まれ持った才能」と言う概念から解き放たれる1日である事を願って。
読んでいただきありがとうございます!!

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