今回は、現代心理学の言うところの「快楽順応」という、人はその心地よさに慣れてしまう「心の作用」を見抜き、およそ2,300年以上も前にその解決策を見出した、エピクロスの「快楽主義」についての話をご紹介します。彼はとても現実的な人の心の解決策を説いた哲学者の1人です。
では、早速いきましょう!
エピクロスさんの快楽主義
前回、「人はその生活が当たり前になると、幸せを感じなくなる」という「快楽順応」についてご紹介しました。
前回の記事はこちら
これについて、実は約2,300年も前に気付き、現代においても尚、有効な解決策を教えてくれている人がいました。
それが「エピクロス」です。
エピクロスは「快楽主義」と呼ばれる考え方を説き、そして多くの人に支持されました。
「快楽主義」というその名前から
「酒!金!肉体関係!これがあれば大丈夫!!」的な考え方だと思われがちですが、
全く違うんです。
エピクロスは、自身で「庭園」を作り上げ、そこで自らの考えを説き始めます。
またその庭園では、自分の考えを押し付けるのではなくて、あくまでみんなで更に切磋琢磨したいと考えたところがエピクロスの良い所です。
そのため、その当時では珍しく、男性のみならず女性、召使いさんなども、望むものならみんな受け入れました。
また、外からその庭園を見ることが出来ない事もあってか、それを受け入れない周囲からは「よからぬ噂」がたちました。
「あの庭園では酒池肉林が繰り広げられている。」
「この前、エピクロスが酒の飲みすぎて吐いていたぞ。」
このような噂はそこそこ多かったようです。
しかしその実態は全く違いました。
じゃあ、彼はどんな考えを説いたのかというと、
エピクロスの考え方は
「快楽こそが善(良い行い)であり、人生の目的です。」と言っています。
その名前とその主張から、またもや多くの勘違いが生まれました。
今、読んでくださっている方もきっとこう思うはずです。
「やっぱり快楽におぼれる事を薦めてくる、アブナイ考え方なんじゃないか?」
はい、初めて名前を見たときは私もそう思いました。笑
しかし、彼の言う「快楽」とは贅沢三昧をして、遊びほうけるようなものでは無いんです。
彼の言う「快楽」とは、むしろ贅沢とは程遠い、
質素な生活による「心の平穏を保つこと(アタラクシア)」です。
心の平穏「アタラクシア」
エピクロスは「心の平穏を保つこと」を最高の「快楽」であると言いました。
そしてそれは「質素な生活の中にある」と、エピクロスは言います。
「心の平穏を保つ=質素な生活」がピンと来ないと思いますので、ひとつ簡単な例を挙げると、
例えば
大きな権力を持ったとします。この時、確かにその権力によってある程度の得るものがあります。しかし反面、もっと大きな権力を持った人のいう事を聞いたり、場合によっては自分の意思を曲げなければならないし、守りたいものが増えることによって緊張状態を維持しなければならない、などの煩わしい一面も同時に発生するものです。
要は、何でもかんでも手に入れようとするとその何倍もの煩わしさがやってきます。という事です。
そんな煩わしさの為に「心の平穏を乱す」くらいなら、
友人や健康や、自然などがいつだってあるような「質素な生活」をした方が、それだけでも最高に尊いものだよね!とエピクロスは考えたんです。
とはいえ、エピクロスはただ単に「パンと水があればオッケー!後は無用なものだ!」といっているわけでは無くて、
「たまにちょっとの贅沢するのは全然ありです。」と説いているところが、現実的な視点を持った人です。
エピクロスは
「我慢に我慢を重ねて苦痛を感じるくらいなら、【たまには】ちょっとした美味しいものでも食べてください。その本質は【心の平穏を保つこと】なのであって、無理してしまったら本末転倒でしょう?」
このような考えだからこそ、多くの人の支持を得たんです。
つまり、エピクロスのいう「快楽」とは
心の平穏を保つこと=精神的な充足であり、
何気ない日々の生活にこそそれが実現される、と考えたんです。
そしてそんな「何気ない日々の生活」を私達自身が素晴らしいものだと心から満足できたのなら、これに勝る幸せは無いんです、と説いています。
また、エピクロスの考え方は
「精神的な充足を保つために、あらゆる苦痛から逃げろ!」
というものも含んでいますが、これまた勘違いされやすいんです。
ここから更に、この「苦痛から逃げろ!」についてもご紹介していきます。
「苦痛から逃げろ」の意味
エピクロスのいう「苦痛から逃げろ!」はその言葉だけ聞くと
「友人とケンカしてしまった。あ、そうか、一緒にいなければ良いんだ。」的な考え方だと思ってしまいそうですが、これもまた違うんです。
こういった考え方を許容するという事は、行く行くは一人ぼっちになってしまいます。
「苦痛から逃げろ!」の意味は、
「良く考えることで、長期的な苦痛になるものを選択しないでね!」ってことです。
例えば
友人とケンカをしてしまった時、その状況だけを見たら、やっぱり腹が立つし、納得がいかない。
でも、長い目で見れば過去を振り返っても、基本的には良い奴だったし、お互いに何かしらの誤解があるかもしれない。それにこのままでいても全く良い事は無いし、仲直りはしたい。だとすれば、怒ってしまった事を先ずは謝ってもう一回話してみよう。
「あの、ごめん…。さっきは言い過ぎた。」
こんな感じで、
短期的な感情や報酬に振り回される事無く、長期的な目で見て「なにが一番心を穏やかに保てるのか?」を選択する事が大切だとを説いています。
この考えは多くの事に当てはまります。
長期的に見て、それが果たして本当に自分の「心の平穏が保てるのか?」
これが物事の選択の中心にあります。
嫌な事を乗り越えて、その先に「心の平穏」が待っているのなら、突き進め!その先に「心の平穏」が得られないのなら、迷わず逃げろ!とエピクロスは言っているんです。
そういう意味で、地位や名誉といったものは、やっぱり疲れることが多いじゃない?それに、贅沢が日常になればそれに慣れてしまうし、そうなってしまえば今度はそれを失う事に「恐怖」を感じるでしょ。と考えました。
エピクロスの言う通り、
私達は疲れてしまわない範囲で生きていくことが大切なんじゃないかと思います。
「心の平穏を保つ」ために生活しているのであって、生活するために「心の平穏」を犠牲にする必要は無いんです。
さて、これだけでも勇気を与えてくれたエピクロスですが、彼の言った事はこれだけには留まりません。
運によるもの
エピクロスは、「運」についても紐解いていて、その中身を簡単に言うと
「運や自然現象はいくつかの条件がそろった事による偶然でしかなくて、それはただの現象です。」と言っています。
彼は、運に身を任せ、運に左右されるような生き方は、やっぱり運によって良くなったり、悪くなったりもします。そんな偶然に身を任せるから、常に失敗の恐怖を抱く事になり「恐怖」が生まれ、「心が乱れる」んです。と言っています。
つまりは、運という目の前にあるただの現象に対して、何かの意味を見出そうとするから、余計な心配事が増えるんです。
例えば
よく私達は「目の前を黒猫が横切ると不吉」だ。なんていったりしますが、エピクロスに言わせれば、それは「猫が道路を横切る」という現象なんです。
それが現象なのであれば、猫が横切ろうがなんだろうが「自分がその道を通る」という意志には、何も影響しなくなります。
これによって、「不吉」などの感覚に惑わされる事なく私達は私達の「選択する意志」によって進む事ができます。
「自分自身をコントロールできている」と感じると大きな気持ちの充足を得ることが出来るという事は、現代の心理学でもよく言われています。その観点から見ても、エピクロスの考え方はそれに一役買ってくれます。
晩年のエピクロス
沢山の勇気を人々に与えたエピクロスですが、彼は晩年重い病に苦しみました。しかしそんな最中であっても彼が友人に宛てた手紙から、彼が本当に幸せであった事を教えてくれます。
その手紙の中身を簡単に見ていくと
「この手紙を君が読んでいる時、私は人生最後の日を迎えているだろう。病は重く、どうやら治る事は無いようだ。だが、これだけ身体が蝕まれても、君と語り合った日々のおかげで私の魂は喜びに満ち溢れているよ。」
彼は自らの人生でもって、その生き方を全うし、幸せを自らの力で手にしました。
平凡よりも少しだけ質素な生活の中、彼は確かに幸せを実感したんです。
また、彼の有名な一言
「隠れて生きよ。」
という、これまた誤解されやすい言葉があるんですが、
これは「隠居をして誰の目にも付くことなく生活せよ!」という意味ではなくて
「自分の気の会う仲間と平穏無事な毎日を過ごしましょう。」というものです。
今回の内容を簡単に纏めるなら、こんな感じになると思います。
何気ない日常の中に「たまに」贅沢をするから、人はそれをより味わいつくす事ができて、それに更なる彩りをあたえてくれるものが仲間である。その範囲を決めたのは自分だからこそ自信を持って行動でき、長期的な「心の平穏を保つこと」が出来るのだ。
運などの要素はただの現象に過ぎなくて、それに意味を見出そうとするから「心の平穏は乱される」。
そんなものに惑わされず、友と平穏な暮らしを!「アタラクシアを!(心の平穏を保て!!)」
心を満たし、今日を充実した一日に。
今日のあなたの一日が「アタラクシア(心の平穏を保つ)」な一日である事を願って。
読んでいただきありがとうございます!!