今回は、「プラグマティズム(実用主義)」というものの考え方です。プラグマティズムは現代の哲学です。哲学は、理解するのが難しい上に、なんだか答えが出ない事をずっと考え続ける学問で、私達にはあまり必要なさそうと思われておられる方もいらっしゃるかもしれませんが、実際はそんなことないんです。様々な方がその答えを見つけ出そうと必死に考え出した、私達のためにもなる学問だったりします。今回はその中でも実生活をガラリと変えるかもしれない、「プラグマティズム(実用主義)」をかなり簡単にしてご紹介していきます。
では、早速行きましょう!
哲学ってなんだろう?
「世界とは何か、その答えが知りたい!!」
こんな問いから始まったのが、西洋哲学です。
哲学は正直かなり難解なものが多く、読むのも時間が掛かるうえ、読み終えた後も
「え!?結局どういう事?」となったりする学問です。
その難解さ故に、読み手によって解釈が違うなんてこともしばしば起きます。
ですが、世の中に今なお伝えられ続けている哲学とは、「天才たちが一生をかけて考え続けたこと」を知る事の出来る学問なんです。
つまりは天才の一生が哲学には詰まっているんです。
そんな天才たちの考え方を良いとこどりして、できるだけ簡単にお伝えすべく、ちょいちょい記事にしていっています。
西洋哲学は古代ギリシャで発展し、時を経てヨーロッパで発展してきました。
そして今回ご紹介していくものは、アメリカで生まれた現代哲学の「プラグマティズム(実用主義)」です。
プラグマティズムって何だろう?
プラグマティズム(実用主義)は、簡単に言うと
「世界とか、人生とか、人間とか、愛とか、正義とか
とりあえず置いておいてさ、切り口を変えてみない?要は【それは実用的かどうか?】っていう見方をしてみたらどうかな。」
といった感じで、少し語弊があるかもしれませんが、これに近しい考え方をしました。
もっと簡単に言ってしまえば
「それ(目的)が何の役に立つのか?」
の一言に集約されます。
つまりは「プラグマティズム」は
「社会にこんなものがありますね。じゃあ、それって何の役に立っているんでしょう?役に立っていないものは本当に必要でしょうか?」
という、実際にそれが役に立っているかどうか?の視点で物事を推し量ろうとした考え方です。
例えば、
「人を殴ってはいけない理由って何ですか?」という偏屈な人が現れたとします。
この回答として
「殴るとその人は嫌な気持ちになるし、家族も悲しみます。」といった場合、またまたその人が
「じゃあ、嫌な気持ちにならない、家族のいない人は殴ってもいいんですか?」という屁理屈を言ってきた場合でも、プラグマティズムはすんなり解決します。
プラグマティズム
「人を殴ってはいけないというルールがあります。じゃあこれは【何のためにあるんでしょう?】」
偏屈さん
「それは私が知りたくて質問しているんですが?」
プラグマティズム
「そうでしたね。では、人を殴ってはいけないルールが無かった場合、どうなるでしょう?」
偏屈さん
「殴りたい放題ですね。」
プラグマティズム
「その通りです。あなたも好き放題出来ますね。しかしその代わりといっては何ですが、おそらく今のように私達は外にでて、こういった会話をすることも困難でしょう。」
偏屈さんは、自らが危害を加えられる可能性については想定していませんでしたが、「なんの役に立つか?」という視点。そして「それが無くなるとどうなるのか?」という視点を持つことで、あくまで客観的な意見としてその問題が見えてきて、
「自分自身も殴ってはいけないルールに守られていた」事に気付けます。このようなルールがない社会環境で生き残れるのは屈強な身体を持つ人間の可能性が高いです。
「社会にとってそれが何の役に立つのか?」
この考え方は、実用主義というだけあってまさに実用的です。
社会の実際に起きている問題へのアプローチにある程度の答えを与えてくれます。
さて、こんな実用的な「プラグマティズム」ですが、私のブログは社会を変えたいブログではないのでこの辺にして、
ここから本題として
「じゃあ、プラグマティズムを個人レベルで生かすにはどうしたらいいか?」について掘り下げていこうと思います。
プラグマティズムを個人のために使う
先ほどまでは「プラグマティズム」を社会全体として、「社会にとってそれが何の役に立つのか?」
を見てきましたが、これを考え方を個人レベルに落とし込んだ場合、やっぱり「実用的」でした。
個人に落とし込むために
「社会にとってそれが何の役に立つのか?」の「社会」の部分を「私」にしていきます。
そうすると
「私にとってそれが何の役に立つのか?」となります。
もっと言えば
「その目的のために、私にとってそれが何の役に立つのか?」
「目的」の部分は皆さんの思う通りのものにしていいんじゃないかと思います。
ちなみに私であれば、こうなります。
「【自分自身が楽しく過ごす】ために、私にとってそれが何の役に立つのか?」
私達人間が、皆で寄り添って集団で日々を過ごす「目的」は、
気を張りながらお互いに消耗し合い、
皆の目を気にして、
わざわざ「苦労」を増やすためでしょうか?
きっと違います。
私達人間が、皆で寄り添って集団で日々を過ごす「目的」は、
気を張ることなく、お互いに信頼し合い
誰の目を気にすることもなく
自らとその大切な周囲との間に「楽しみ」を増やす事ではないでしょうか?
だとするならば、
「自分自身が楽しく過ごす」事を最優先にしてあげるのが最短の道です。
「プラグマティズム」はパースさん、ジェームスさん、デューイさんの3人が考え出したものです。
特にデューイさんは「プラグマティズム」を完成させたともいわれています。
そんなデューイさんは思考についてもこう言っています
「思考は環境に適応するための道具に過ぎないよ。」
これはとっても深い言葉だと私は思います。
怒り、嫌悪や劣等感などの負の感情は「苦しみや悩み」に変わっていきます。だとすれば、これは自分自身を傷つけるだけの「役に立たない道具(思考)」です。
また、「道具」という表現にすることで、その感情が自分そのものではなく、「自分の思考としての道具」であることを気付かせてくれます。
そして実際に、その通りです。
脳は思考を担っている「私達の一部」であって、「私達そのもの」ではありません。さらに言えば感情を生み出している場所は、ごくごく一部です。「感情=自分自身」と思われている方が多いと思いますが、その感情は私達の経験に対して発せられた、脳の反応です。その反応を適応させうるものが「思考法」であったり、考え方だったりします。
この辺は話が別の方向へ行ってしまいそうなので、このあたりにしておきます。
「役に立つ。役に立たない。」
これだけ聞くと実に人間味が無くて機械的な感じがしますが、実際は社会を見極める事も、自分を幸せにする事もできる、その名の通りの「実用的」な考え方なんです。
今日のあなたの一日が「プラグマティズム」を知る一日である事を願って。
読んでいただきありがとうございます!!