今回は「断章形式」のアフォリズムな回です。
曲がりなりにも沢山の考え方に出会ってきました。そしてその中のいくらかをブログに書いている、といった次第なんですが、
やっぱり様々な考え方に真っ向勝負を仕掛けていくと、どうしても「混乱や動揺」にも出会うものです。むしろその「混乱と動揺」を感じる本が、私にとっての良本でもあります。
だったらたまには、そういった時々に出会ったその混乱と、人間くさい私自身の迷いや決心を順番はグチャグチャでそのまま載せてみるのも、いいんじゃないか?そんなことをふと、感じました。
新しい考え方に触れる際、私はスマホでメモを取るんですが、そのメモには過去の私の人間くささが記してあります。笑
今回はそれをそのまま載せちゃってみる。なので、時には皮肉めいたことも言っていますが、これもまた私の半人前さや、人間くささ、人間らしさだとも思っていますし、これがまた誰かのきっかけになればと感じます。
また、この記述は見つけ次第少しずつ増やしていこうと思います(膨大なメモがあるので、いくらでも出来そうです。笑)。それにこの人間くささを振り返ることが私自身の温故知新になっている気もします。都度変化するアフォリズムは、恥ずかしながら楽しいと、素直に感じます。
では、早速いきましょう!
拙き人間の、迷いと決心の断片
・この現在の不始末。この悪印象しかない状態は、私がこしらえた、というわけだ!
大変結構。では逆に、これを変えてしまっても問題は無いわけだ!
再び私の力で。
・お前は、誰かの期待を満たすために生きてきたな?しかしその結果どうだ、ご機嫌取りの嘘を平気で付き、大きく見せるために見栄を張り、もはや自分の本心すら分からなくなっているじゃないか。
ところで、どうしてお前は自分の本心を満たしてやらないんだ?
・満たされた杯は、いずれ水が溢れ出す。その杯からあふれた水は、他の杯にも影響する可能性を持つ。自らの杯に湧き水を。
・聖人君子の皆々様が、一切の悪しき思考を持たぬとすれば、それは生まれてから死するまで不幸を感じずして一生を終えたか、もしくは不幸を余すことなく受け止め、乗り越えた末の結果かの、どちらかだろう。だとすれば僕は後者でしかあり得ないし、また後者であっても、一切、というのはあまりにも今は信じがたい。
・人は、他者の欠点を見渡し、それの理由を入念に思考する。不幸なことに僕らは、自分に対してそういった思考を、し難い。
自身の欠点を見渡し、それの理由を入念に思考する。幸か不幸かその稀有な人は、手始めに痛みを伴うその思考によって、精神の成熟に進みつつある。
自他の、世界の欠点と美点を見渡し、それの道理を入念に思考する。幸いにして非常識極まるその人は、世界を嘆きつつ、それごと慈しむ。
・不正を繰り返すものは、社会的地位と価値を所有しうることがある。それと、辻褄の合わぬ嘘と終わりなき不機嫌をも。嘘による不機嫌の代償を払い続ける。
・私もまた、欠点をつつき回してくれる人には、感謝こそできそうなくらいになりつつある。
・文脈には、うごめく背景がある。それを僕が受け取っては、僕の背景がうごめき始め、僕の文脈が生まれる。文章と文脈。それによる背景の連鎖。
・あれから四年。私はおそらくいい意味で四歳児のような気持ちだ。
・脳の可塑性を信じてよかった。
・苦しみの原因の幾割かは、むしろ自分にこそあるのではないか?でなければ、過去の痛みをほじくり回し、洗いざらい自身に暴露した結果、楽になってしまう説明がつかない。幾割かは、依然として分かりえないが。
・どんな対応策を自分に訴えても、5分後、10分後には再びやってくるあの、辛い反すう思考。
「これは今までお前が何度も考えてきたことだ。受け取れ!」と、心が訴えかけてきている。
頑固なかつての私の心は、今の私を拒絶する。でも、決心してしまった今の私もまた、頑固だ。なら頑固どうし、今度はいっそ仲良くやろう。
少しずつ和解してみる。ほら今日は、少し違う。
・自らの凍った心を、溶かすは熱。それもただならぬ自らの。
・安寧を得ることに必死で、憎しみを感じ続けることなどとてもできない。自他のためにもそれが一番楽だ。
・掘り進めばその先はいつもどん詰まりの袋小路。だが、なんとも幸福な、である。
・自分の現状を認めていく、納得するほどに、外へと向かう承認欲求は小さくなっていくことを実感している。完全になくなったかと言われれば、そんなこともないのだけど、メタ的なストッパーが働くこともしばしばある。
・こだわりとは、巧妙に隠された苦。
・私の中で私を律してくる「見えない監視者」は途轍もなく大きかったようです、フーコーさん。
・暇とは一状態であり、退屈とは一感情である。
パスカルを思い出せ。飽くなき気晴らしを必要とするのは、やはり不安と向き合うことを恐れるからではないか?
・重要なのは、それを学ぶことで知識を得ることではなく、その新たな視点によって自身にもたらされる世界像の方なんだ。
・現代人は中世の貴族が目の当たりにしたら、喉から手が出るほどの生活を獲得している。では、一体なぜ私は?
・幸福は、社会によって規定された幸福は、マイノリティにしか達成できない。
達成困難な幸福の一本道は、マジョリティを不幸にする。
であれば、規定された幸福など、幸福のために幸福を犠牲にする幸福など、御免こうむる。
僕は利息の無い幸福が好みだ。
・世間一般が語られる時、怪物じみたナニカとして語られることがある。しかしその怪物は、誰でも、何者でもない、寄せ集めの亡霊。純粋悪のような亡霊の噂に屈することなく勇気をもって分け入ってみれば、個別的出来事の集約的な物語。かつ一部分の切り取りによる物語だった。
オバケなんてないさ。オバケなんて嘘さ。
・亡霊はどこにでもいる。しかしどこにもいない。遠いほどに確かにいるとささやかれ、近いほどに霧のように散る。
・人類学者の様に、自分自身を「参与観察」している。生活の中で、逐一自分を観察している。
・他者に要請することなど、ぼくには出来かねし、どうなるものでもない。あれはあまりにも痛みを伴う。
ただ態度では示す。あり方にて示す。にじみ出るような所作と態度として。
・カルロ・ロヴェッリのいうように、物理学は締め切った窓を開け、遠くを見ろと促す。更にはドアを開け、飛び出して見ろ、と。
窓から見える景色は驚きに満ちていた。外へ出てしまえば尚のこと。
・行き過ぎた懐疑・正義は、それも一つの独断である。異なる見解があり得ること。これもまた事実であり、現実である。そんなことはお前が通ってきた道。その変遷そのものじゃないか。
・多くの賢人が言うように、社会とは人間が作り出した一つの神話・フィクションなのだろう。
・あれからちょうど三年。頭にモヤが掛かったようなあの感覚は完全になくなったし、突然心臓の鼓動が大きくなって顔が熱くなることも、もう1年半の間、やってきていません!すごく大変だったくせに、今となっては随分楽しそうですね。よく、頑張ったね。
・品格とは自らのためのものであり、社会のためのものではなさそうだ。
・嫉妬は、自身にとって「高い地位と認めたもの」に対して起こる、当人を貶めたい感情である。
同様にして、憧憬も、自身にとって「高い地位と認めたもの」に対して起こる。が、こちらは当人と肩を並べたいといった意欲足り得る感情である。
前者は足を引っ張る感情。後者は同じ目線に立つ意欲、その動機たる感情。
しかし、いざやや近いところにまでなんとも泥臭く這い上がってみれば、その偉人もまた、同じく悩み、安堵する、ただ優劣の無い人間同士。それである。
・なるほど。さっぱり分からない。今はただ、分からないということが分かった。
・私は演者としてあれこれ社会で演技をし続けるのはやめようと思う。休日の演者くらい気を抜いて生きよう。
・まずはなんでもかんでもこなそうとする癖を止めることから始めよう。コントロールできることからやってみよう。コントロールできないことはコントロールできないのであるから、いっそ遮断する。まずは自分から。ひたすらに自らの意志で、自らを承認すること。
・人は、自らが意味付けを施した世界に住まう。
誰もが共有する世界の、誰とも共有しえない世界。
同じ世界の、非常に似ていて、微妙に異なる世界観。
ウィトゲンシュタインのいうように、「幸福な世界と不幸な世界は別物」だ。
・世界は差異、現象、要素。あるいは相互関係・相互作用。
・人は動くべき時に動く。心が勝手にそれを拾い集め始める。そうなってしまった人は、勝手に動くし、そうでない人は動かない。ただそれだけなのだから、君は楽しく過ごしながら、待てばいいんだ。
・怒りを覚えた。それを表明した。そしてその場では、すっきりした。これを忘れてはならない。
だが、その後しばらくして来たあのより長く続く後悔と胸の痛みは、もっと忘れてはならない。
・驕りが生まれた時、お前の詰め込んだその知識は、再び痛みを伴う。
痛みを払しょくしたいがために重い腰を持ち上げ、ようやっと歩み出したお前は、その先で再び痛みを求めるのか?そんな本末転倒な考えは今すぐ捨ててしまった方が良い。
・たまにゃあ、ちょっと一休み。だってさ、きっと疲れちゃうから。
・小さな「出来た」を噛みしめろ。大きな「出来ない」に飲まれるな。
・「気を付け!休め!」と号令されることに慣れ親しんだ私は、「休め!」の時こそ休めていない。
「休みフリでなく、本当にダラっと休め!」の号令も、今後は慣れ親しんでいきたい。
・言葉は先鋭的な分節化。それによる道しるべ。そうであるから重要で、そうであるから限定的にもなる。言葉の分節化による限定性は良くも悪くも、範囲を一気に絞り一端化し、時間を止めるかのように痕跡化する。
ふと、そんなことを考えながら、よそへと目をやる。
僕の目の前にあるそれが、あまりにも力動性を表している。僕は言葉で思考する訓練をし過ぎたあまりに、この静と動の違いを、すっかり見落としていた。
言葉はおそらくどこまで行っても、この、ままの力動性を、その儚いうごめきを、表し切れない。それどころか、その動きを取り囲んでは固定的にして、僕らになにかそこにある力動性の見落としをさせるところが、確かにある。
・使い慣れた思考と使い勝手のいい思考。これは同義ではない。
しかし、使い勝手のいい思考も、いざ使い慣れてさえしまえば、
使い慣れた、使い勝手のいい思考である。
・今わかった。言葉ではなく、心と身体で理解した。
・意を決して、踏み出してみた。見事に失敗した。
良かったじゃないか。その道は君の歩む道ではなかったことが、たった今わかったのだから。
・脳の仕組みが感情と思考を紐解いてくれた。
・やっぱり私には、枝や葉より、根っこや土壌が重要だ。
・子供の頃、青信号の「青」はどう見ても「緑」だと思い、大人の言うことに納得できなかった記憶が蘇る。僕らはきっと、そんな大人の認識にすっかり馴染んでいる。青臭さをどこに置いてきてしまったのだろう?
・短所しかない?
いいや、あり得ない。
長所しかない、と思っているくらいに。
・常識に迎合し続けるのは、暴力に屈し続ける事と同義であるが、常識全てを否定し続けることは、同様にして暴力に屈し続ける事である。
ラッセルさんの言葉は、今も脳裏に焼き付いている。
・お前の持ち物がお前を表すのではない。
お前を表すのは、おまえ自身の思考とそれに伴う行動である。
確かに行動にて示しても理解されえないことは今後もある。
だが、蛇が脱皮し、旧い皮を脱ぎ捨てる様に、ひとりで行け。
あたかも、仏陀の様に。
・私達は知ること無しには、火おこしも出来ない。だから先ずは知るべきだろう。
・自分で自分の幸福を願えないのなら、一体どうして他者の幸福を願えるというのだ。
自身の犠牲を伴わず、それは、成り立つのだろうか?
・非言語的コミュニケーションの有用性は、動物たちから教えてもらった。実に素直に行動に表れている。極めて嘘の少ない所作と表現の世界。
・神秘も魔法もない。
あるのは世界と、その世界を解釈した人間の視点。
世界とそれを解釈する人間の間には、分かりえないものが横たわっている。
そのために、人はそれに理由を付けて蓋をしたがり、その蓋に「神秘、魔法」と名前を付けたのだ。ちょうどマジシャンのマジックの様にタネとシカケが。
・事実、言葉に助けられたのだから、言葉での思考も大事にしようと思う。
・心に渦巻く、悲しみと憂い。
さんざんに語れ。思う存分に語れ。泣いても喚いてもいい。ただひたすら徹底的に。一切思い残すことなく、徹底的にだ。
…全て終えたなら、あと一つだけ考えてみる。
それで、これからはどうする?
・現実への明晰性を求めつつも、
「平凡を平穏に暮らす。」
そこへと、戻れ。
・むしろ寄り道が大事なんだと思うの。
・私とは、現象である。ひと時も現象していない時などない、現象である。
一枚布の上のコブ。現象という濃霧の只中の、その集成。我々の認識と概念は仮固定的。しかし実際はと言えば、実に流動的。
・植物に動物的な予測は必要ない。
なぜなら「今からあの大きな動物がやってきて、私を踏み抜くだろう。」と予測しているのなら、それは解決のしようがない、悲劇そのものだ。
そして残念ながら、人間はおそらくどの動物よりも予測をする。思考による予測が出来てしまう。これは悲劇だ。
しかし、なぜ予測は悲劇を知らせるのか?正当な予測は、解決可能性を秘めているからである。だからそこへと知らせを運ぶ。この予測を、この想定を、変えることができる事柄に向ける。予測とは、悲劇であると同時に、解決へのしるしでもある。
・不安は、解決を心待ちにする心と身体の、願いである。
・苦しみを手放し、重荷を捨て去る。これができるのは、自己以外にありえるかな?
知識を得ても、それが自身にとって使用不可であれば、それも捨て去ってしまった方が良い。それもまた重荷になるからさ。
・行動動物学も、僕を反省させてくれた。ナンキョクオキアミの協力と生態系への関与。サバクトビバッタの友愛と狂乱。カラスとゾウの文化継承。あとミツバチの八の字ダンスかわいい。それとゴリラすんごい好き。他の動物の社会を見渡した後、自分たちの社会を見つめると、そこには良くも悪くも共通点と相違点がある様に思える。
・ラプラスの悪魔がいたのなら、彼は相当に退屈だろう。
全ての現象が完全に把握できる、ということは予想外の驚きも面白さもないだろうから。
彼は迷わず、起きることのない事態を想定しては、それが決して起き得ないことまで分かってしまう。この現実と想定のギャップは、むしろ眼前の現実を否定し始める。
全知とは、一生の退屈と同義である。
・より理にかなった考え方は、「先払い式」で、
理にかなわぬ考え方は、「リボ払い式」みたいだ。
前者は短期的には辛い。非常に辛い思いをする羽目にもあう。しかし長期的には、平穏無事な心がある。
後者は短期的には口当たりがよい。いくらか気が紛れる。しかし長期的には、次第に負債が溜まっていく。
・いっそ一旦、言葉すら、離れてみる。そんで、戻ってもみる。
・二極があれば、その割合を変えてみること。一方に偏り続けずに、色々と試してみること。多分どっちも大切だろうから。
・ネルソン・マンデラさん達は、「赦し」と「和解」によって、その歴史的瞬間を刻んだ。
これは単に社会関係だけでなく、人間関係、更には個人の心にも通じるものがあるんじゃないか?
・なんの野心も持たず、身を潜めたような天才や賢者がたっくさんいるんだろうなぁ。
・悩みだとか問題だとかは、乗りこなせればむしろやってやった感の方が色濃く残るようになってくる。サーファーだとかスノーボーダーだとかのように、初めは立つことすら難しいのに、徐々に上半身と下半身と脳の連動。お尻の筋肉や腕や足首の使い方、バランスの取り方が何度も転んでようやっと分かる。分かってくると都合がいいもので、初心者だったころの何度も転んだことが、かつてはすごく大変だったなぁ、のような具体性のない記憶になる。これはスポーツと似たところがある。頭と言葉でわかっても、感覚の方はやっていかないことには身につかない。
・ウィトゲンシュタインは純粋な論理実証主義。…なんだけど、今の僕からすればその純粋さがかえってその裏側の別の部分を示しているように感じる。現実(起きたことと起きなかったことの、関係の総体)は、モノそれ自体に決して到達できないってことは、もうそういうことなんだと、思ってしまう。どっちがオモテで、どっちがウラだろう?
・いろは歌作った人凄すぎて鼻水出た。
・実のところ抽象が具体で、具体が抽象なことも多いな。
・でもなんか多分明日も、良い日だ。雨が降ったら傘をさす、雨宿りする。出来る事をやるから、雨に濡れなくて済む。ずぶ濡れにはもうならなくていいや。だって、濡れたくないし。
・日常と遊びの区別を曖昧にしてみる。日常と遊びの区別はつかなくていいや、って思った。
・数年前読んだ本を読みなおした。印象が変わっていた。変わったのはどうも本の方ではなさそうだ。
・自由になってから自由にやるのが大事なんじゃないか。
・誰彼の考えを再現しきることが重要なんじゃない。再現を目指しはするものの、どうしたってその内に個々人の再現には、差異が生じる。だったらむしろこの差異を含めて、自分なりの考えに落とし込む。だってそれが、自分なりのカタチ、なのだろうから。慣れ親しんでも尚、無理のある過剰な差異は、自分には合っていない。これは調整が必要で、調整の余地を残している。しかし他方、無理なく余剰の場合は残しておいた方が良い場合もあるだろう。居心地の悪さがなければ残そう。不足と欠如もまた然り。
・なんたる僥倖。私は不運だったが幸運でもあった。私の場合は偶然の出会いという運だったからこそ、驕り高まる理由が今は明確に見出せないで済んでいる。しかし人間にとって偶然でない出会い、というものがあるのだろうか?
・脳の感情と思考は、一つの音楽のようである。楽器たちの「音、鳴り」がてんでバラバラで、不協和になることも、整然と美しくも穏やかな協奏曲を奏でることもある。調和が取れるように調整することが出来るのは、指揮者だけだ。さあ、舞台へどうぞ。一生付き合う楽器たちを気持ちよくしてあげよう。楽器たちの願いは、美しい音楽なのだから、多少調子が外れても許してあげよう。外れるからこそわかることもあるから。
・無知とは、余地でもあり得る。
・一旦はあえてとにかく行き過ぎてみる。それで、行き過ぎたのが確認できたなら、今度はそっと「揺り戻す」。自身にとっての「振り子」を振り、「シーソー」を漕ぐ。あえての「過剰接続」と、ちょうどいい塩梅の「切断」。揺り戻しによる、ちょうどいい「接続具合」。
・最もなされた《接続》と、最もなされた《切断あるいは未接続》。
この両極の二つは、対立ではなく、むしろ同じ状態でこそあるんじゃないか?
ジル・ドゥルーズとユクスキュルのおかげかそのせいで、一つの極致との近似性を有す、ダニの環世界を知ってしまった。おかげさまで今も尚、時々に思い起こしては、ダニをこそ一つの視点の師匠、のように感じてしまうようになった。
何も語らざるものが、雄弁に語りかける。
・大人のような認識を持ちながら、子供の様に無邪気で、胎児の様に判然としない。
そんな状態でもって非記号の掘り出しによる個人的記号化と、既存の記号の解体・分解による非記号化をしてみる。「《聡明》っぽさと《快》っぽさと《無》っぽさ」の遊びは、割かし心地よい。
・多面的視点、素朴で無邪気な問い、全一。
・かつては自身の色メガネを外すことの混乱と動揺が怖くてたまらなかったのに、今となってはその色メガネのかけ替えによる混乱と動揺に、ヤミツキにすらなっている自分に驚く。より色の薄いメガネを求めているのか、刺激それ自体を求めているのか?自身の動的な変化に呼応して突き動かされているのか?それとも一応の帰る場所があるから旅をするのか。
・動的な解体と構築。複雑なカタチとナカミ。
心はハウルの動く城、みたい。
・今思えば、私はかつての自分の見ていた世界像によって心と身体にことごとく不調をきたしたからこそ、新しい考え方に触れた折に、それが自身にとって有効性が高いか否かが、心身によってより鋭敏に選り分けられたように感じる。不格好に泥臭く、とにかくその考えの基生活に挑戦したからこそ、ある程度の方向が見えたんじゃないかと。
・欲すること。不足を補いたい欲、抱えきれず漏れ出し押し出された欲。
欲それ自体に注目すると「とにかく欲しい。」となりがちで、なぜか分からず貪ってしまう事が必要以上に多くなる。そしておそらく一つの特徴として、「補われず、押し出される欲」は悪意的、かつ悲愴的に漏れ出してしまう事が多く、「補いの基、押し出される欲」は正反対の漏れ出しを見せることが多い、ということがあるように思える。
しかし他方、こういった欲は、自身の中の欲の生まれについて熟考すると、「補いと押し出し」の方法すら変わってしまうことがある。
不足を補う欲が不足を感じるのは「現在をもって過去を遡った末の潜伏したもののおぼろげな自覚」であり、
漏れ出し押し出される欲が漏れ出すのは「過去を遡り、訳も分からず自覚した、この現在をもって未来への顕在的発散」である。
ならば、先ずはそのおぼろげな自覚をできうる限り掘り起すよう「現在をもって過去の構成・関係を丁寧に新たに接ぎ、紡ぎ直す」ことが出来れば、未来へ押し出される欲はカタチを変える。悪意の後方には、悲愴がこっそり、しかし確実に隠れている。文字通り「悲しみの心の倉庫番」を見つけ、事情を聞き、理解し、今まで放っておいてすまなかった、と抱きしめてやることこそ、何よりすべきことである。倉庫番に鍵を開けて欲しい、これも一つの欲である。
そういう欲は、持っていた方が良いし、しつこいくらいに向けてやろう。
・本って奴は、一人で黙々と読んでいる行為じゃなくて、作者との対話なんだと思う。
・仏陀ですら「自己への執着」は滅したものの、「正見」による「世界を正しく見てぇ、知りてぇ」という気持ちを持っていた。
悟りというものは、「悟りてぇ」というそれ自体が自己への執着なんじゃないか?僕は仏教徒ではないけど、知れるものは知りてぇ。
・例えばゲシュタルト崩壊のように、
目の前にあるそれが、それであると分かりつつも、それ以外の何かのようにも感じるあれ。非・意味と意味のはざま。二重の見とは、多少はこれに近い感覚であるように思う。
差異の裸の反復と同一性なるものの変容。強度のせめぎ合いと外延上の表示。不立文字による空と記号や概念による色。
・外延上の0℃は、強度の上では0℃以上の温度と0℃以下の温度のせめぎ合いの只中の、表示である。表示として温度の、その背後を考えずには、もういられない。外延が成立するそれ自体が、我々が見逃している強度の上で成立している。あるいは差異と反復。その差異が反復することによる毎回のズレ。
・アクセルで加速の仕方を心得たのなら、今度はブレーキ君の方も手伝ってあげないとスピードの落とし方が分からなくなる。風呂にゆっくり浸かって、後は寝ろ。
・今の気持ちを整理してみる。東洋哲学の唯一の難点は、社会生活にわずらわしさすら感じるほどの、その説得力のように感じる。おそらくは原基的には、あまりにも核心に迫っている。しかし僕は、事実、その傍らで実生活に、その社会生活にこそ身を置いている。だから、この拡大しつつあるわずらわしさを放っておいてはいけない、とも今思っている。原基的には相互作用を念頭に起きつつも、このわずらわしさをも払拭したいと感じている。ぼちぼち自分自身の考えに歩み出す時が来たのかもしれないと。どちらとも折り合いがつくような、そんな考えを。慎重にズラし、揺り戻し、自身にとって違和感のないオリジナルとして、動き、作り上げてみたいと感じている。本項目では、そんなことに挑戦する。
今日のあなたの一日が「アホの織り成す恥ずかしいアホリズム」で晴れ男、晴れ女になることを願って。
読んでいただきありがとうございます。