今回は、日本の仏教思想の中でも屈指の著作。道元の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の、特にすんばらしい内容を記している『現成公案(げんじょうこうあん)』の巻についてです。
道元の『正法眼蔵』は未完の大著です。あまりにも膨大な教えが詰まりに詰まっています。しかも更に道元は、それまでの巻を書き改めて、かつ新しく書こうとも考えていたようです。
ともあれ、その『正法眼蔵』という膨大な巻の中でも、とりわけ道元の真髄が記されていると言われる『現成公案』について、原文と現代語訳。それに対する解釈と寄り道とを、今回は試みていきます。(それにちょっとだけ『有時』という巻にも触れます。)
では、早速いきましょう!
言葉にとらわれてはいないことを、あえて言葉で書く、ということ
禅は歴史が長いです。その歴史の中で最初期から「不立文字(ふりゅうもんじ)」が大切にされてきました。不立文字は「言葉や意味にとらわれることなく、全心身を尽くしましょう」みたいな意味です。
そして道元は禅の人です。「言葉にとらわれるな」という教えがあるにも関わらず、道元はめちゃくちゃ書き記しています。こうなれば一見すると、教えを守っていない人のようにも思えます。
実際、仏教の教えは「そもそも言葉にできない」ところにあります。だからこそ「言葉では表せないナニカ」を身体で心で直観していくことが重要なのですが、しかし時が経つにつれ、
「いやいや、不立文字ですよ。そういう言葉には私は惑わされませんよ。」
みたいなことを言ってはそもそもの、その教えの真髄の部分すらも、ないがしろにする僧が出てきたりしてしまいました。
ですが単に「知らない」ことは、どこに向かえばいいかも分からずに「言葉にも身心にもよらず」ひたすら迷うことにもなり得ます。そうなれば哀しいかな、ただ寺にいる人です。
その意味で道元は「言葉にとらわれてはいないことを、あえて言葉で書く」人でした。
彼は、言葉にとらわれてはいけないことをあえて言葉で書くことで、「知った上で手放す」ような仕方を記しました。
つまり彼は、「言葉にとらわれてはいないことを、あえて言葉で書き、言葉にとらわれないということへの実践の手引き・道しるべ」を記していた、ということです。
仏教の理論は、あくまで理論であって、実践ではない。むしろ実践のための手引きだよ。
ということが示されている、ということをまずは「知る態度」が重要です。
と、そういう心構えを携えながら、早速『現成公案』を見ていきます。
『現成公案』を読むにあたって
さて、いよいよ『現成公案』を見ていくわけですが、しかし多くの人は、こう思うはず。
そもそも「現成(げんじょう)」ってなにさ?と。
現成とはなにか?というのは様々な解釈がされています。
岩波文庫さんでは「現実はあるがままで何不足ない真実であり、万物は分をもって平等であること。」と記され、
大辞林さんでは「眼の前にありのまま現れていること。」と記され、
講談社学術文庫さんでは「現成公案とは、ずばり悟りの実現ということばであり、かの(仏陀の)正覚の追体験の成立をいうのだと受領せられる。」と記されます。
どれも素晴らしい解釈です。
ですが、今回はもっともっと「働き的」に感じてもらうべく、
「現成とは、現に成っている(成り続けている)こと。」にして、動詞的に見ていこうと思っています。
とはいえ、現時点ではよく分からないまま読み進めていくことになろうと思いますが、むしろかえってそれが良かったりもします。
ただもう一つだけ言うならば、「現成公案」とは、
「現に成っていることへの、課題」ほどの意味です。その課題を今回、道元に手引きしてもらいます。
またこの、「現成公案」の巻は、本来項番はありませんが、解説の都合上、「原文1、原文2・・・」のように通し番号を付していきます。理由は単純にそのほうが解説する方も、読んでいらっしゃる方も振り返りやすいから、です。
それではいよいよ、現に成っていることのなんたるかに、飛び込みます。
『現状公案 1』
原文1
諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。
万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。
しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。『現成公案』~1~
現代語訳1
諸々言われている存在などに対して、仏法のその理によって向き合う際、
迷いがあり、修行があり、生があり死があり、仏たちがあり、生きとし生けるものがある。
この世のすべてのものに対し、「われ」がかかわらず、すっかり消え去った際、
迷いはなく、悟りはなく、生も死もなく、仏も生きとし生けるものもない。
しかし、仏道はもとより世間の基準を超えたものであるがために、生滅があり、迷悟があり、生仏がある。
しかしいかにこのようであるといっても、花を愛し散るを惜しみ、嫌われる雑草は生い茂るのである。
解釈1~仏の境地と人間臭さ~
これは仏教へ真摯に触れた時には、多かれ少なかれ誰しもが通る、王道的な経験なんじゃないかと思う。
今まで培ってきた一般的な認識とはあまりにかけ離れているような、智慧(ちえ)にいざ飛び込んで見れば、やっぱりその認識があまりにかけ離れているから、混乱する。
しかしいよいよその智慧による考えも実践も深まってきて、「われ」はない。
というか、「われ」はないことも含め、今まで「有る」といってきたものが「無い」になる。
ただ、その後は
根底に「無い」を携えながらも、再び「有る」に迷いもする。一見すると矛盾しますが、
無でありながらも有。
空でありながらも色。そして、
仏でありながらも人間臭い。
これらが矛盾なく成立している。だからこそ、
常なるものなき道理に従って雑草は生い茂り、しかしそうでありながらも人間臭く花を愛で、惜しむ。
実のところ、歴代のお師匠たちも根底が仏でありながらも、しっかり人間臭いところがある。
悪魔の囁きのような欲望を説き伏せ退散させたりした人もいた。
「衆生病むが故に我病む。」なんて吐露した人もいた。
道元も師匠が亡くなった報せを受け、わんわん泣いたし、鎌倉幕府からの寄付を受け、得意げに帰ってきた弟子に激怒した。
だけどもただ人間臭いのではなく、
根底は無や空などと言われるところでもある。
仏っぽさと人間臭さが矛盾しているようで矛盾することなく成立しています。
それと、認識と実践の根底は「無、空、縁起、無自性、真如、如如」などとしばしばいわれる。けれども、それら言われていることは、本来言葉にできないところにある。本来言葉にできないからこそカリソメの言葉をあてがい、そしてカリソメだからこそ言い方も変わる。
『現成公案 2』
原文2
自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。
『現成公案』~2~
現代語訳2
我を張ってあらゆるものや出来事を修め、証し(あかし:明かし)しようとすることは迷いである。
あらゆるものや出来事によって自己を修め、証すことが悟りである。
解釈2~世界と自己~
「自己が」あらゆる物事を修め、明かそうとするのは、むしろかえって迷っちゃう。
そうではなくで、「あらゆる物事によって」自己が証される(明かされる)。
そんなことを言っている。
そしてここは、かなり重要だと思うのでもう少し寄り道をしつつ、述べていく。
「あらゆる物事と自己」について道元は触れているけど、この「あらゆる物事」を
「世界(成立した事柄の総体)」とし、また「世界と自己」として、色々と考えていく。
ここから展開する話は、今回の「現成公案」に通ずる考えでもあり、また個人的にも結構前から大事にしている考えを、できうる限り平素にした話です。
寄り道1~世界している世界で~
「世界と自己」。
なんだかスケールの大きい話です。が、触れずにはおけない。
まずは、自己のことは一旦隅っこに置いておいて、世界についてです。
私達は通常、「世界。」なんてものを考える場合には、
「世界」という名詞で考えます。
ところがここでは、少し変な言い方になりますが、
「世界している。」
と、名詞としての「世界」を
動詞としての
「世界している(と同時に世界し続けている)」
にしてみる。
一見すると「世界している」なんて言い方は、変です。
しかし確かに世界は複雑に動き、働いています。
ただ、
「いやいや、確かに世界と呼んではいるけど、複雑に色々起きていることを含んで世界って言っているよ?」という意見もあるでしょう。
けれど、
もしかすると、実際とあえて距離のある言い方をしている、常に動詞的に働くものを名詞で表している。という意味では「世界」と呼ぶほうがむしろ、変かもしれません。
また、その距離のおかげかそのせいで、色々と見えなくなってしまうこともあるかもしれない。
だからここでは、その距離を縮めるべく、より働き的にすべく「世界している(世界し続けている)」という言い方をします。
私達は、世界していることを世界と、そう呼んでいます。
さて、少し前。道元が「現成公案 2」にて示したことをより短く表せば、
「自己があらゆる物事を明かすのではなく、あらゆる物事が自己を明かす。」
と言えます。
そして、あらゆる物事は「世界している」こととすれば、
「自己が世界していることを明かすのではなく、世界していることが【自己のなんたるか】を明かす。」
と言い換えができそうです。
つまり
【自己のなんたるかが、世界していること、その働きによって明らかにされる。】
ということです。
だとすれば、自己として我欲を発揮するのではなくて、
「まずは」世界していることに、自己を開く。
これによって、今まで知りえなかったナニカが明かされることになる、とも解釈できるのではないでしょうか。
私こそが、と躍起になるんじゃなくて、
まずは、閉じた自己を世界していることへと開く。
さて、世界していることに自己を開くことで、自己のなんたるかを明らかにされる、とするのであれば、
次は勿論、「自己のなんたるか」についても、触れていく必要が出てきます。
寄り道2~自己もまた自己している~
次は【自己のなんたるか】について。
自己とはなんなのだろう?
自己とはいかなるものなんだろう?
先の話で、私達は世界していることを世界と呼んでいると言いました。
ここでもそれと、おんなじ話をします。だから「世界している」とかっていうよく分からない話を辛抱強く読んだ方にであるからこそ、おんなじ話をすると言ったら、もうすでになんとなく察することがあるはず。
私達は自己していることを自己と、そう呼んでいます。
私達はずっと「自己している(自己し続けている)。」
先ほどから、名詞としての「世界」を、より動詞的な「世界している」に置き換えてみました。そしてその「していること」に自己を開いてみましょうとも言いました。となれば、
名詞としての「自己」は、「世界している」その中で名詞であれるはずもなく、「自己」もまた、動詞的な「自己している(自己し続けている)」と表現されたほうがより適切ではないでしょうか。
私達はずっと自己し続けていたし、自己しているし、自己し続けるだろう。
働き、動く「世界している」ことに自己を開けば、自己もまた「自己している」ことを明かされる。
自己を開くとは、能動的に受動的になることであり、「していること」に影響され、感化されるよう、「まずは」積極的に受け取ること。
その受取の態度のによって、【自己のなんたるか】が明かされる。
動詞的な世界していることが、名詞的な自己もまた動詞的に自己していることを明らかにする。
因みに、この話は自己の、あるいは世界の。事細かな全てがまるっと分かった!みたいな「全知に至る話」では、全然ないです。そういう神秘的な話ではない。
世界と自己のありようそのままに「していること」とすることで、少し実際のなんたるかに近づいたかもしれない。
どの程度近づいたかはわからない。でも。
世界の認識の仕方が、まるで今までと異なったね。
そんな話であって、もっと簡単に言えば、
働きに近づいたね、みたいな話です。
ただ、なんというか副産物みたいな感じで、今まで分からなかったことがいくらか分かったりということは確かにあるし、あるいは、なんでこんなものに執着してたんだろ、みたいなことが増えたり、自然とか生き物とかが前よりずっと好きになる。くらいのことくらいは、心に働きの仕方によって、起きたり起きなかったりするかもしれない。
さておき。
世界は世界していて
自己もまた自己している。
世界していることに独立した確固たる実体(本質)はなく、
ただすべてのことが一切のこととの繋がりで成り立つ。
自己していることも同様に、独立した確固たる実体(本質)はなく、ただすべてのことが一切のこととの繋がりで成り立つ。
世界と自己は、「していること」により成り、成り続け、今後も、成り続ける。
石の一つ、水の一滴、砂一粒であっても、「していること」からなる、「していること」。
これで寄り道は、終わりです。
少し寄り道しすぎてしまってすいません。
さあ、『現成公案』に戻ろう。もっとずっと読みやすくなっていることを願いつつ。
『現成公案 3』
原文3
迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。
身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは一方はくらし。『現成公案』~3~
現代語訳3
迷いを転じて大悟したのが仏たちであり、悟りに執着して迷いに迷うのが衆生である。
また悟りの上に更に悟るものもあれば、迷いの上に更に迷うものもある。
諸々の仏達がまさしく仏になる時には、必ずしも自己が仏であると自覚する必要はない。それでも仏はそのあり方を体現しつつ進んでいく。
全身全霊、全心身を挙げて物を見て、耳をそばだて声を聞き、しっかりと会得したけれども、それは鏡が映し出すようなものでも、水が月を映し出すようなものでもない。
つまり、自己と対象の関係のようなものでない。
どういうことかと言えば、
一方が明るいと一方が暗いのである。
解釈3~明るい光に明かされて~
苦しみや悩みは時折、まるで一時の発酵が堆肥になり、肥沃な土壌になる、といったようなことが起きる時がある。ひと時腐ってみると、見える世界が拡がったりする。
とりわけ仏たちには、そういう人が多い。
他方に全身全霊である時、他方は暗くなり、他方の明るさが、他方を見えなくする。
世界が明るい時、自己は暗くなる。
さて、他方が「世界している」ことであれば、他方は自己が暗くなり、「していること」としての、「自己している」ことが明るくなる。
「していること」同士は、究極的には区別できない。だから、対象化されないとも言える。
あたかも河の水の一滴を区別できないように。
『現成公案 4』
原文4
仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。
人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。
人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を弁肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李をしたしくして箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。
現代語訳4
仏道をならうということは、自己をならうということである。自己をならうということは、自己を忘れるということである。自己を忘れるということは、あらゆる物事に証(あか)されるということである。
あらゆる物事に証されることは、自己の身心(しんじん)と他者の身心を脱落させる(脱ぎ捨てる)ことである。
脱落以後、しばらく休息することもあるが、しかし休息したそれ以後から再び大きく飛び出す状態にせよ。
人は始めて教えを求める時、その教えからかけ離れている。
しかし、みずからに教えが十全たる様であるならば、すぐさま、自己なるものの本分となる。
人が船に乗って行く時、目を巡らせて岸を見れば、岸が動いている(近づいてくる)かのように思える。
しかし目を親しく船につくれば、船が進んでいるのが分かるように、身心ばかりからあらゆることへ思いを巡らすのは、自性(確固たる実体)があり、それが常に変わらないものだと思い誤る。
先人の足跡を同じように踏んで行けば、あらゆることから、自己なるものはない。その道理が明らかになる。
解釈4~道理を心得て飛び出せ~
身心脱落は、自己がなく、迷いも執着も束縛もないこと。
しかし道元は休息してもいいけど、いつかはそこから飛び出せ、という。
何故、飛び出すのだろう?ずっと安住してしまえば、もはや迷いも束縛もないのに。
が、やってみれば分かる。
よくよく実践として取り組むと、なんらにも束縛されない認識というのは、逆に言えばあらゆるものの区別がつかない。
そんな区別のつかないまま「それのみ」では、生きられるわけがない。歩けもしない。
実践においてはそれのみでなく、区別・識別も必要。
教えがしっかり身に付き、実践されれば自己なるもののなんたるかは見えてくる。
これらの教えは、理論でああでもこうでもないとすることに力点があるのではない。
なんだか難しい名前の必殺技を覚えるより、その必殺技の働き具合を体感、というか直観することに力点がある。
極論、漢字ばかりの長々とした必殺技は覚えた上で忘れましょう。ただしそれは知らないことではない。知らない場合、知らないんだから活かしようもない。
覚えた上で忘れましょう。働きだけ持って帰りましょう。
船の比喩については、端的に自己から思いを巡らすな。自己が自己が、と考えることは、「まず自己があって・・・。」と考えることになる。でも、私達はよく分からない寄り道をしたから、そのあたりは迷わないで済むかもしれない。
自性(常に変わらない本質)がみずからにあると見誤る、ということの迷いは小さくて済むかもしれない。
それと船の比喩は例えば、電車同士が並列して走っている時や、洗車機で車を洗っている時、まるで電車や車が後退しているかのように感じるあれを思い出そう。広く周囲を見ること、周囲のありように明かされることで、それは自分自身の錯覚だったことに気付く。
『現成公案 5』
原文5
たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。
現代語訳5
薪(たきぎ)は燃えては灰となるが、灰は薪にはならない。ただこれは、灰は後、薪は先とは見るべきではない。
薪には薪としての法位があるから先と後がある。前後はあるけれども、その前後は断ち切られている。
灰にも灰としての法位があるから先と後がある。
だが、薪は燃えては灰になったなら、もう一度薪にはならない。
それと同じように、人は死ねば、もう一度生きることはできない。
このようにあることを、生が死になるとは言わないのが、仏法の習いである。
そのため不生という。
死が生にならないとするのもの、説法の説き方である。
そのため不滅という。
生も死も一時のありようである。
例えば、冬と春のように、冬が春となるとは思わず、春の夏となるといわない。
解釈5~区別をなくした場合の時間は、今この瞬間しかない~
ここは道元の独特な時間論について。
だけどもおそらく、
『現成公案』のこの部分だけでは、ほとんど何を言っているのかが分からない。
なので『正法眼蔵』の『有時(うじ)』の巻をじっくり読む必要がある。
ここでの重要な点は、
「時間は区別によって生じている、あてがわれている。」というような視点が要求される。
またそういう区別の視点から抜け出すと、究極的には「今ここしかない」ということ。これが前提にあります。
道元は『有時(うじ)』の巻において
「時間もまた有るとして疑われない。しかしだからこそ吟味するのである。」
的なことをいう。
また『有時』の冒頭の方では
いわゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。
『有時』
という有名な文言があり、これは、
「時間について言及する(できる)時には常に存在があり、
存在について言及する(できる)時には常に時間がある。」
ということをいっている。
道元が「有時」で言いたいことは、
本源的には「この瞬間しかない」ということ。
無、あるいは空の視座から、時間を考察してみたら、「いや、時間って存在を規定しないと成立しなくない?」みたいに考えることができたのだと思う。
つまりここでの道元は、通常の認識において言われるような
「過去から現在、現在から未来へ」という「時間の矢」的ともいえる考えを改めて吟味して、
「今この瞬間しかない」ことが経ていく(経歴)、という仕方をしてみれば、
「ただ、今成っている。」
としか言えない、という考えのもと、記していると思います。
つまりここでの道元の説明は終始
「通常はこう言われる。しかし今成っている、という視座からすれば・・・」
という仕方を取っている。
率直に、七面倒臭い言い方だ。
ただ、道元の言うように、今この瞬間しかない場合。
言葉もなく、区別識別もなく、意味も意義もなく、有もなく時間も無い。
ただただ、今この瞬間には
「していること、しかない。」
とも言える。
だけどもここでも触れますが、道元は、
無でありながらも有。
空でありながらも色。
を体現したような人だった。
仏でありながら人間臭い彼が、
片方しか認めないわけが無い。
というかここでも、意味や意義や有や時間が無いとして、
そのままでは、やっぱりなんにも分からない。
だから道元は、本源的には「今この瞬間しかない」という立場でありながらも、花を愛で、そして惜しむ。
ただ私達は、本源的に区別のない「していること」に対して、薪、灰、春夏秋冬、私、あなた、と名を付けているよね。という話です。
『現成公案 6』
原文6
人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。人のさとりを罣礙、滴露の天月を罣礙せざるがごとし。ふかきことはたかき分量なるべし。時節の長短は、大水小水を撿点し、天月の広狭を弁取すべし。
『現成公案』~6~
現代語訳6
人が悟りを得るのは、水に月が映るようなもので、映った月は濡れはしないし、水を割ったりもしない。
月は大きな光としてあるけれど、小さな水辺に映り、天も月も、草露にも一滴の水にも映る。
悟りが人を割ったりしないことは、月が水を抉ったりしないことと同じだ。
人が悟りを妨げないことは、一滴の露が天や月を妨げないことと同じだ。
深くあることは高くあること。
掛けた時間の長い短いは、移す水が大きいか小さいかによらず、天や月を広さや狭さによらず映す。
解釈6~無は、なにものも壊さず~
修行の時間の長短、あるいは立場のあるなし。
そんなものによらず、映されようと思えば映る。
また認識のありようが実践においても波及し、変わったというだけで、物事のありようを変えたりはしない。
依然、水は月を映すし、水も割れない。
当然、道元の言うように「今この瞬間しかない」にしても、時間は時間の矢的に過去から未来へと流れる。
単に見方の違いである。
しかし、その「単に」が生き方をも規定し続け、そして変えてしまうことは、禅僧のみならず万人が証明し続けている。見方の影響は相当に大きい。
『現成公案 7』
原文7
身心に法いまだ参飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。たとへば、船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳つくすべからざるなり。宮殿のごとし、瓔珞のごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。かれがごとく、万法またしかあり。塵中格外、おほく様子を帶せりといへども、参参眼力のおよぶばかりを見取会取するなり。万法の家風をきかんには、方円とみゆるほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし。
現代語訳7
未だに身心に法が行き渡らない時、すでに法は満ちたと感じ、もし法が身心に満ちた時には、どこか足りないと思えるものだ。
例えば船に乗り、陸の見えない海から四方眺めると円形にしか見えず、どこにも違った景色が見えない。
だが、大海は円形でも四角いでもない。それ以上の海のさまが見えないだけである。
海は宮殿や宝のようでもある。
ただわが視界の及ぶところが、いちおう円形に見えるのだ。
このように、あらゆることもまたそうであり、それは世俗的なことの内にも外にもわたり、様々な様相をなしているが、人はその力量や視野の及ぶ限りを見ては解釈する。
あらゆることを学ぶには、ただ円形だ、四角だと言うように、見えるところだけでなく、見えざる山海のありようを際限もなく、様々な世界を知ることである。
自己のまわりがそうだというだけではなく、自己の脚下も、水の一滴をも、またそうであると知ること。
解釈7~知れば知るほど終わりなし~
なんにせよ、覚えたては我こそが、まさに心得たり!とか思っちゃう。
でもかなり心得た人ほど、まだ心得が足りないんじゃ?とか思うもの。
新しい考えに出会った時のはじめは、確かに衝撃的ではある。が、それがそのまますんなりと。なにか己の心身に劇的な、わかりやすい認識変化を一瞬のうちにもたらす、なんてことは無い。なんなら初めはなんにせよ、それが衝撃的であるほどに、脳を焼かれるような感じで全く受け付けない。その上で何度も吟味して、ようやっと徐々に取り込み始めることができ、しかもちょっとずつ影響しているんだかしていないんだか分からない感じで、いつの間にやら。というのが、考え方の変わり方だと、経験上思います。
それにとりわけ東洋の考え方は、なんというか、個人的にはヌルっとスルッと。という感じがとにかく強いです。笑
私が初めて原始仏教に出会った時、確かに衝撃でした。顔が真っ赤になって、汗をかいて。おおよそ一ヶ月くらいはなんか変な気分で。その後、何年か費やして。だけど、「何年目のあの時あの瞬間、たちどころに云々」みたいな劇的さは私にはさっぱり無くて、じわじわスルスルと取り組んでいるうちに、といった次第です。はっきり言ってよく、分からない。
ともかく、新しい考えに触れる際には大抵の場合、
「え!?嘘だろ?そんなはずはない!いやでも確かに・・・。であれば、いいだろう上等だ!やってやんよ!取り組んでやんよ!・・・あれ?でも今思えば、そんな気もする・・・。ていうか、なんでこんなことも分からなかったんだろう。あ、だとすれば!こんな感じか?いや違うか・・・。・・・(ふとした時、ふいに)・・・ん?あれ、これじゃない?いや、どうだろう?これかな多分?あ、やっぱりこれっぽい。・・・ん?でもなぁ・・・。・・・(いつの間にか)・・・ああ、あれね。意外とそういうもんだよね。あれ?でも、ほんとにこれで良いのかなぁ?」
みたいな感じだと思う。自分では気づかない内に積極的に受け取りに行っている。
その道程の初めはほんとに混乱するし動揺しっぱなし。
なのに、いざって時は「いつの間にか」。
しかも「いつの間にか」。なのに、はなからそういう認識だったかのようにも振る舞えちゃう。笑
これが、このダサさが人間。まず自身の、こういう手のひら返しをしっかり見つめてみることが大事だと思う。
またなんだか今は達観していそうな著名な方も、一つ一つ。このダサさを通ったのであり、こんな感じだと思う。
依然、どこまでいっても、人間臭い。
むしろこういう人間臭さが嗅げてこない人は、何かしら「つま先立ち」しているか、後世の人がまつり上げちゃったんだと思う。
ですが、そういうつま先立ちは、かえって可愛いとも思える。かと思えば、いい加減にしろ、だとかとも思う。笑
また一旦証したら、その後に修めようとする態度はいらない、なんてことはない。
その後も今後も、ずっと色々ある。
これは生の運動です。
加えて、私達は見える範囲、把握できる範囲から、この先の世界もまた世界しているんだろうな、だとかと思うほかない。際限がない。でもそれを知っていく。
ただ、灯台下暗しにも時々目を配ろう。
『現成公案 8』
原文8
うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。かくのごとくして、頭頭に辺際をつくさずといふ事なく、処処に踏翻せずといふことなしといへども、鳥もしそらをいづればたちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す。以水為命しりぬべし、以空為命しりぬべし。以鳥為命あり、以魚為命あり。以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。このほかさらに進歩あるべし。修証あり、その寿者命者あること、かくのごとし。
『現成公案』~8~
現代語訳8
魚が水を泳ぎ、どこまで行っても水に際限はない。鳥は空を飛び、どこまで飛んでも空に限りはない。だが魚も鳥も、いまだかつて水や空を離れていない。
ただ大きな働きは大きく使われ、小さい働きは小さく使われる。
そのようにしてそれぞれ、どこまでも水中を行き、あらゆる場所に飛んでいけるといっても、
鳥がもし空を飛び出してしまえばたちまち死に、魚がもし水を飛び出してしまえば、たちまち死んでしまう。
水をもって命をなし、空を持って命をなし。
鳥をもって命をなし、魚をもって命をなし、
命をもって鳥をなし、命をもって魚をなす。
その他もさまざま言えようが、
修行と証すこと。それに命は、このようなことである。
解釈8~それぞれがそれぞれと連関「している」~
水や空などの環境。その環境と生物と命が連関をなす。
それと同じく、環境と人と命は、まさしく連関していて、この連関の様は、どこまでも際限がない。
この連関「している」様に、環境に対する認識を開き、人間の人間観を拡げ、命の小さいも大きいも尊いことを、際限がない程に明かされ、証し続けることが修行であり証すことである。
一切が一切に影響するその連関は、尊い。
『現成公案 9』
原文9
しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑにかくのごとくあるなり。
しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法、通一法なり、遇一行、修一行なり。これにところあり、みち通達せるによりて、しらるるきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究尽と同生し、同参するゆゑにしかあるなり。得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず、見成これ何必なり。『現成公案』~9~
現代語訳9
こうであるにもかかわらず、
水を極めんと水中を行く魚、空を極めんと空中を行く鳥がいたならば、
彼らは水にも空にも、その道理を得ることができず、またその道理の処(ところ)も得ることができない。
その道理の処を得たなら、その行くに従い、まさに現に成就している、それを明かすこととなる。
この道理を得たならば、これの行くに従い、現前にて一切が成就している、それを明かすこととなる。
その道理、そしてその道理の処は、
大でも小でもなく、自己でも他者でもなく、前から有るわけでもなく、あるいは新たに有が現れるでもなく、それがためにこう言うのである。
人がもし仏法を修め、そして明かすということは、
一つの法を得て、それに通ずるのであり、また一つの行いに会うことによって、それを修めうるのである。
そこには処があり、それは道理は通じているが、
しかしどこまで知ることができているのか、
それがはっきりわからないのは、知るということが
仏法を極めるということが、常にともに生じ、常にともに連関しているがためである。
みずからが得たる処は、必ずみずからの知見として自覚しうるなどと思うな。
すんなり証されたとしても、内に秘めた精密なる自己の一体何を所有しているかは依然、明白にはなっていない。
しかし、それを明白にすることは必ず必要、ということでもないのである。
解釈9~自己を開いても、自己の内面は完全には分からない~
これも自分が世界を解き明かしてやる、と考えるほどに、我欲が強くなる。ということを言っている。
強いこだわりは巧妙に隠された苦である。
自分のなんたるかを明かされると、一切が一切を成立させている、という(対象なき)連関の奇跡が成り立っていることが成り続けている、ということにも気付く。
現に成っている。成り続けている。
極限の「今ここ」では時間が存在しない。有もない。
ただただ満ちた「今ここ」が成っては成る。
また理論は理論でしかなく、実践における行いによって始めて、修めることができる。
他の考え方も同じことが言えるけど、とりわけ仏教は言葉ではどうにもならない。
加えて、世界の道理を心得たとしても、
自分の内面が完全に明らかになることはない。
確かに分かりやすくなることはある。けれど、常に成っていることの全部が分かるわけが無い。
『現成公案 10』
原文10
麻浴山悪徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、風性常住無処不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ。
師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらずと。
僧いはく、いかならんかこれ無処不周底の道理。
ときに、師、あふぎをつかふのみなり。
僧、礼拝す。
仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。風性は常住なるがゆゑに、仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり。正法眼蔵 見成公案 第一
これは天福元年中秋のころ、かきて鎭西の俗弟子楊光秀にあたふ。
建長壬子拾勒
『現成公案』~10~
現代語訳10
麻谷山(まよくざん)の宝徹(ほうてつ)禅師は扇を使っていた際、僧がやってきて問う。
「風の本質は常にあり、行き渡らない場所はないといいますね。それなのに、なぜ和尚は更に扇ぐのですか。」
師は言う。
「お前は、風の本性は常にあるということは知ってはいるが、行き渡らない場所はない、という道理についてはわかっていないらしい。」
僧が言う。
「では、行き渡らない場所はない、とは一体どういうことでありましょうか。」
その時、師はただ扇を使ってみせた。僧は礼拝(感謝)した。
仏法の明かすこと、伝えることを生かし、活かすとは、こういうことである。
常にあるから扇を使うべきではないだとか、扇を使わない時でも風はあるだとかというのは、理論を理論として用いているだけであって、
常にあるのもののなんたるかも知ってはいないし、風の本性も知らない。
風の本性が常にあるからこそ、仏教の風は大地を黄金かのように現前にて成就させ、熟しては長河のただの水によって乳製品のようなごちそうを作るようなことである。
正法眼蔵 現成公案
これは天福元年の中秋頃に書いて、鎮西の俗弟子楊光秀に与えた。
建長四年拾勒(一つにまとめて整理)する。
解釈10~活かし、生かすということ~
なんども言って申し訳ないですが、仏教はとりわけ理論ではなく実践。
その意味で、いかに常に風があり、行き渡らない場所はないとしても、
その風を起こしてはならないことにならず、むしろその教えを持ってして、実践として活かし、みずからを生かすことが大事。
流れに身を任せるのは、老荘思想の方で、
道元は明かされた後、自己していることとして、証しもする。活かし、生かしていく。
流れに影響されていることを知り、みずからも流れでありながら、流れに影響を与える。
暑かったら扇ぐし、寒かったら服を着る。
人が悲しめば手も取り、自らが哀しいのならば自らの手も取る。
また、満ちたナニカを明かされた後、
大地はまるで黄金の輝きを放つかのように、現に成っている。
ただの川も同様に、まるでごちそうのように素晴らしい様に見える。活かし、生かせ。
川からは当時の贅沢品だった乳製品は当然作れない。だからこれは、川の一つも贅沢品のように活かせる、という比喩です。
道元によればこの世界は、ごちそうかもしれない。
さあ、日常へ帰ろう。そら、こちそうだ。
