今回は、「物事(モノゴト)をモノではなくむしろ、コトによって見てみる。」そんな回です。私達は日頃、自身の周辺の物事をモノ中心で考えますが、それを今回はコト中心で見ていくために展開していきます。一見すると不可思議にも思える「コト中心的な見方」は、この世界をより深く見ていける可能性が詰まっているんじゃないか?と感じましたので、展開していきます。
認識は、言葉は、関係(コト)の成している切れ目のない連続体を、0と1のデジタル的な分節を施すことで、象徴としての境界線を形成し、それを概念化する。おおよそこのような視点から、話を展開します。
とはいえ、今回の話は多くの人にとって「理屈は分かるが心がついていかない」たぐいの内容だとも思います。
ですがこんなニッチな、それも怪しげな名前のブログだからこそ、読んでくださる方に吟味していただけるとも感じております。批判的に見ていただいて、それでも尚、心に印象深く残ったのなら考え方の一つにでもご使用いただき、またそうでなければ、「この前ヤバイ事言ってるやつのブログ見てさぁ!」と、酒の肴にでもしていただけると、このブログ主は大変喜びます。笑
では、早速いきましょう!
素朴に「事物」を見る私達~モノ中心的見方~
私達はモノ(事物)をモノとして、「固定的」に見ています。
机は机で、子供は子供。道路は道路・・・と言った具合です。
「何を当たり前なことを」と思われる方も多いかと思います。素朴に事物を見る際には、確固たる事物として、「固定」されたモノとして、スマホはスマホ、PCはPCと言ったように、私達は確認しています。
しかし果たして本当にモノ(事物)はモノとして「固定」されているんでしょうか?
いや、私達は事物を見る際に「固定」はしていないけれども、「固定的」には見ている。と言う方がより適切ではないかと思います。
なぜなら、「固定的」であるからこそ、事物の変化を確認することも出来るからです。しかし他方では、そうであるからこそ変化への対応を行う際に私達は、「更新するかの如く」事物を再確認するような認識の工程を設けます。
つまりは「固定化された事物A」→(変化への対応・修正)→「固定化された事物A’」→(変化への対応・修正)→「A’’」→・・・
と言ったように、「固定的から次の固定的」へと、「事物に対する想定を更新する」ような見方をしています。素朴に事物を見る際の私達は、事物を事物として「固定的に」見つつも、更新が出来るという点において「事物+その関係のいくらか」でもって確認を行い、変化に対応しています。これを「モノ中心的な見方」としておきます。
私達はこのような「モノ中心的な見方」を持ちつつも、
いざ、大きな変化が起きた時には、その固定化された事物を「注目したい、もしくは注目せざるを得ない変化ごとに更新」している。
例えば、家のホコリがいつの間にか溜まっている時。こういった際は、綺麗な状態から汚れた状態へと私達の認識が追いつくように「更新」されます。しかし実際のホコリは毎日、少しずつ溜まっていくものです。
脳神経科学では、どうも「私達は予測(想定)ありきで世界を見ている」と言う意見が日に日に強まってもいて、上記の「固定化更新的な見方(モノ中心的な見方)」は、人間の認識のスタンダードなのではないかと思います。
ホコリの溜まった机、子供の成長、はたまた心の変化などは、ある時、ふと気づくところがあります。そしてこれは「想定の更新」によって気付くことが出来ているんじゃないかと思う次第です。「あれ?汚れてるや。」だとか「いつの間にかこんなに大きくなったんだな。」だとか「なんか最近辛さが減ったな。」だとかは、やっぱり大きな変化(注目に値する変化、注目せざるを得ない変化)のその後で、ふと気づくものです。
脳自体もその可塑性によって、常に変化しているんですが、そういった変化に対しても私達はこれまた後から、事後的に、「あれ?なんか変わってるっぽい。」と気付くことで初めて、想定の更新をしていきます。
だとすれば、私達はその「更新以前と以後の間のリアルなナニカ」を、それも何か大きなナニカを「見逃し」てしまっていると考えてみるのも、面白いんじゃないか?
「モノとそれ以外の有る無し」のように、0と1とでデジタル的(純粋なデジタルではなく、あくまで有る無いの区別として。だからこそデジタル「的」)な「切れ目」を入れる見方を、0でも1でもない連続的な「連なり」による見方にしてみるのは、どうだろう?
というわけで今回は、そんな「見逃し」ている「連なり」を模索し、現実と想定のギャップを極力小さくなるように、もしくはそのギャップを埋める際に、より埋めやすいようにするべく掘り進めていき、更には考え方の転回(見方がガラリと変わる)を目指します。
今回はこんな観点から、想定を想定しなおす。考え方自体を刷新してみるような考察をしていきます。
事物の成立には相互の関係、相互の連関が必要である。
先に、私達は何か大きな「見逃し」をしているんじゃないか?と言いました。
もったいぶっても仕方がないので、その「見逃し」について、早速触れていきます。
私達が見逃しているものは、「相互の連関(折り重なった関係)」ではないか?と思います。
事物が事物として成立するには、その事物のみでは、成立しえません。事物が成立するには、その成立に至るまでの様々な連関が無ければ、そもそも事物というものは生まれることも、変容することもあり得ません。
それが事物として成立するには、その間を突き抜け、更には「事物自体の内部」においても貫いて流れるような「相互の連関とその作用が不可欠」だと言えます。
私達は通常、事物を事物として見る時(モノ中心的な見方をする際)、その相互に折り重なる多重多層的な、あまりにも膨大な連関を「欠如させて」見ている、とも言えます。
つまり、事物を見る際の私達の常識的な認識(モノ中心的な見方)とは、
「事物単体として見るために、様々な相互の連関に対して【仕切りをこしらえる。】」
ことで初めて、モノ、事物、対象を存立、確立しています。
事物を成立させているのが他でもなく相互の連関であるのであれば、何かしらの変化を確認し、更新の必要があった場合にのみ、一旦事物に設けた「仕切りの一部、(注目に値するような)変化のあったその一部」を取っ払う。
こうすることで、その事物の変化に対しての「更新」が可能になり、いよいよ更新が確定したら【再び仕切りをこしらえる。】
この一連の働きが、現実と想定の間に起きるギャップであるとした場合、【仕切りを極力透明化してみる】ことが可能かどうか?を模索するのは、その間にあるギャップを埋めるための一つの手かと思います。
そのために【仕切り】をこしらえる以前と以後の、「その間」にこそ着目してみるのはどうでしょう?
言い換えれば、
あるいはむしろ、モノ(事物)では無く、コト(関係)、に力点を置いて見るのはどうかな?と思っています。
少なくとも私達は日頃、相互関係。いや、もっと膨大な数の「相互連関」の圧倒的大分部を「欠如させて」、見ているといえます。
そもそも事物そのものとは何か?
ここからは「事物、モノ、対象」を再定義することも可能なんじゃないか?と、突き抜けて考えていきます。
事物についてもう少し考察し、その置き換えが出来ないか?と言うことを掘り進めるためには一旦は、「あえて」突き抜けて考えてみて、その後ちょうどいい具合のところに「揺り戻してやる」必要があります。
以降は、そんなことに挑戦します。
さて、
先ず「事物そのもの」を再定義するには、それ(事物)が何かを炙り出してやらねばなりません。
ですがこの作業はとてもとても難しい事です。
ですので、ここは偉人の力をお借りしていこうと思います。
現代に至るまで尚、多大な影響を与え続けている一人でもあるウィトゲンシュタイン。
彼は、厳密な人工言語を構築し、それによって言語及び思考による限界としての「語りうることと、語りえないこと」を示そうとしました。そしてその結果、その一つの大きな結論として、
「事実関係の説明だけでは、モノそれ自体を至ることが出来ない。」ということを見出しました。
例えば、「私」という人物を説明する際に、
私の考えた(考えてきた)こと。行った(行ってきた)こと。(今に至るまで)身体の構成要素などをどれだけ説明し、あらゆる関係を網羅したとしても「私そのもの」には至らない。言い換えれば「思考と言語では、私そのものには決して達する事が出来ない。誰がどのように頑張っても、現実でのあり方(起きたこと、起きなかったこと)までしか確実なものとして、語ることが出来ない。」という事を示しました。
つまり
「私そのもの」なるものを説明する際、究極的には「私そのものとは、私そのものである。」と言うほか無くなってしまいます。
しかしこれだと、「私に関するあらゆるものとの関係」と「私そのもの」との間に「思考と言語では説明できない飛躍、飛び越え」が生じます。
もっと平たく言えば、
「事物そのもの」>>(超えられない壁)>>「事物に関するあらゆる関係の総体」
と表し得ます。
さて、もし
「事物そのものはいかに言語と思考を突き詰めても、現実のものとして、確実なものとして、語りえない。」とするならば、むしろその手前で踏みとどまり、持っているカードで改めて考えてみることが重要では無いかと思います。
跳躍して、「カタチ」を求めてしまいたい気持ちをグッとこらえて、その寸前で、超えてしまいそうになりつつも、超えないように。超えてしまったのなら、また戻るように、じっくり考えてみる。
つまりは、あえて「相互の関係、相互連関のみ」で、「コトのみ」で、この世界を見ることが可能かどうか?を考えてみます。また、そうすることで事物への理解をより深め、更には現実への明晰性をも高めることになるのではないでしょうか?
事物とは、事象化である。~コトそのものをカタチに見紛う~
言葉と思考によって、事物そのものを説明しようとすれば、関係から事物への飛躍が生じる。そのため、
事物そのものにたどり着けないなら、むしろその一歩手前の条件で考察してみる。
その結果、私はこのように考えます。
【事物とは、事象化である。】と。
このままでは何のことだかよく分からないので、もう少し掘り進めて行きます。
事象。これを読んでそのまま「事(コト)が象(カタチ)となる。」
名詞的な事物としての想定を、もっともっと動詞的に。現に事物なるものは今も尚、常に変容している。
「~である」を「~になり続ける」に。そして、そう考えるならば、
私達は、「~になり続けている、事(コト)そのものを象(カタチ)に見紛う。」このように言えるのではないでしょうか?
要は、多重多層的な、幾重にも折り重なった「相互連関」に、仕切りをこしらえることで「事物を固定化するべく、一個の概念として想定することで、事物の確立。コトのカタチ化(事象化)」をしているのではないでしょうか?
つまり、上では
「事物とは、コトがカタチと化したものである。」と、言っています。
常に動的な「高密度に編み込まれた事(コト)の集成」は、「事物」として名詞化・記号化することで、その意味と特徴を確立する反面、その動的で力強い状態に働く諸々の作用を、仕切りによって覆い隠してしまっている。
動的な内外に働く諸々の作用を、動的なままの「裸の相互作用」として捉えるには、むしろ「事(コト)そのもの」として、改めて捉えてやる必要があるのかもしれません。
事物を事物として成立させるには、「概念上の固定化:仕切りをこしらえること」が必要です。そしてそこには概念上の飛躍(論理的な説明が不可能な飛躍、飛び越え)、固定化された想定があります。そうであるならば、仕切りをこしらえず、固定化しない場合には、コトそのものである。コトの集成である。と言いえると思います。
もっと違う言い方をするならば、
「常に変容する現実なるものを極限まで捉えるために、あるがままに揺れ動き続ける世界をできうる限りそのまま捉えるために、私達の認識の想定自体もまた、変容するそのまま、その揺れ動いたままに再構築してみよう!」、「モノからコトを探るのではなく、むしろコトからモノを考えてみよう!」と言うことです。
私達は、私達を含むあらゆるものは、常に影響し、影響される相互連関を保ちつつも、時に微弱に、時に大きく動き、変容していきます。
相互の連関は、限定的な範囲での仮の切断を起こしながらも、それは「仮」であり、関係から見るならば「常に、既に」接続されています。
常に変容する動的なままの私を考えてみると、
私とは、その連関のただなかの「とあるコトそのもの(それも事象寸前の高密度なコト)の集成」である、と言えるんじゃないかと思います。
またその「とあるコトの集成」の内部でも、今も尚、膨大な数の連関が織りなされている。
内外に突き抜け関係し合う、「コトの複雑な交わり」。
ひとつの全体が、沢山の「とあるコトの集成」となり、そのひとつの「とあるコトの集成」は全体へと「既に」相互に関係を持つ。
確実に止まって見えるそれも、外気温によってその内部では分子が振動し、酸素によって酸化しています。ミクロな世界ではせわしなく活動が見られ、その活動もやはり他との関係で起きています。また、細胞内のミトコンドリアとの共生関係が無ければ、私達は生きることが出来ません。加えて、物理的な「触れる」とは、厳密にミクロな世界から見れば「触れていない」んです。私達は力の反発によって「触れている」と感じています。あるいは量子は「観測」しないことには、その存在が確定しません。最小単位の物質は「関係が少なくとも一つ」なければ、存在できません。
事(コト)そのものであるならば、そこに境界は無い。~コトのみで突き進んだ先~
ここでは更に、もっと深く「あえてコトのみ」で振り切っていきます。
私なるものが、「事象寸前の、コトそのものの集成」であるのであれば、極端に振り切れば、【どこにも私を区切れる境界は無い。】と言う事にもなります。
先ずここに、私なるものがいます。
この私なるものは、歳をとります。衰えていきます。否応なしにこの時代を生きています。
反面、筋力を得たり、本から知識を吸収したりもします。
歳をとることが出来なければ、何かを思考することも、記述することも出来ません。五感で感じるあらゆるコトの受容、五感によって感じた結果行うあらゆるコトの表現、が不可能になります。
こんな私なるものに変化を与えているものは何だろう?と考えた時、どうしても諸々の関係が不可欠となります。その関係をすべて含んだコトたちが、今の私、なるものを成立させています。
しかしここまでは、まだカタチとしての「私」があります。仕切りがあります。しかし仕切りをこしらえることなくコトに進めば進むほどに、どんどんと「私」が薄れて、大きなコトに包まれていきます。
であれば、「事物が先立つ」と考えるよりはむしろ「関係が先立つ」と考えてみる。
私なるものが「コトそのものの集成」であるとするならば、仕切りをこしらえることなく(飛躍、飛び越えをすることなく)、「コト」のみで考えていった場合、あまりにも繋がりすぎていて、いずれは連関の網のただなかに溶けていってしまう。そうしないためにはどこかに境界を設けるように、どうしても仕切りをこしらえる必要があります。
相互の連関は切断されきってしまう事がありません。
逆意味ではあらゆる事物が、固定された事物ではなく「事象寸前の、コトそのものの集成」であるがために諸々の関係が成立し得て、また、巨視的には溶け合ってしまっている全体になり、境界線が引けなくなります。
世界と、ある事象寸前のコトとは「既に」接合されており、ある事象寸前のコトは「既に」世界と接合されています。と言うよりかは、世界自体が関係そのものであるとすれば、その関係の一部が「モノ、なる関係の集成」と考えることが出来る。またそうであるとするならば、本源的には「区別が出来ない」と言うことにもなります。
つまり、突き抜けて連関を考えると
【その連関には、中心がどこにも存在しない。】
と言うことになります。
中心無き連関を考えると、あらゆるものは名もなきコトになります。
仮にどこかを始点にその連関を考えても、次第に関係の網があらゆる方向へと拡大し、全体にのみ込まれます。名はいずれ中心を失い、名、自体の意味をも見失います。
ただ、この考えに留まれば、もはや何の意味をも見いだせなくなります。そこには「誰」も「何」もない。ただ相互の複雑な関係のみがある状態になります。そのため、先に一度だけ言及した「揺り戻し」を必要とします。
揺り戻しとしての「透明な仕切り」をこしらえる~コトのみからのコト中心的見方への回帰~
相互連関のみを見れば(コトのみ的な見方をすれば)、そこには中心が無くなってしまいます。
しかしこれでは、相互連関の理解しか、ままなりません。ただ漠然と関係がそこらかしこにある、それのみです。
だとすれば、少々の「揺り戻し」が必要になると思います。(コトのみ的→コト中心的へ)
完全に事物への回帰はせずに、いくらかちょうどいい塩梅(あんばい)で。
言い換えれば、完璧に仕切りをこしらえてしまうのではなく、
相互連関を消し切ってしまわない程度の【透明な仕切りを、置き換えとして、こしらえる。】
常に変容しつつあるコトと、他のコトとの相互連関を境なく見つつも、区別がつくような「透明な仕切り」へ置き換える。
私なるコトを私、とするために、薄膜のような仕切りをこしらえ、その内外の諸関係をも見つつも、「私」と「誰か」の区別はつく。
一旦、突き抜けて連関のみ(コトのみ)で考えてみたのは、
「この連関を念頭に起きつつも、それらの区別を施すため」の布石でした。
これによって、今まで見て来た世界とは、微妙に違った様相を呈した世界への認識が生まれるかと思います。事実として相互関係があらゆるところにあります。それを認識しようがしまいがお構いなしに、相互の関係として「既に」接続されているんです。だったらそれごと想定の内に入れてしまってみる。
また、別の言い方をすれば、この認識の仕方は「相互連関とその時間的変化による複雑なズレ」をベースとして捉えることです。この相互連関を「地」とするなら、私達の日頃の認識は「地の図」のようなものです。私達は世界を可視化すべく、あるパターンによって区切られた「図」を用いては、世界そのものを認識しているような気持ちになっている。本来分割不可能でありながら流動的な「地」はあまりにも使い勝手が悪いので、分割可能ではあるものの固定的な「図」を駆使している。ですが、世界の本源が「地」であるとしたならば、今度は「地と図」のどちらも採用し、「地」を見ながらも「図」をも見る。
日常的な生活を送りながらも、「裸の相互作用」をも見る。相互連関を意識しながらも、区別をも可能に。相互連関の「仮の切断」による事物の確立を、今度は事物の方を「仮の区別」として置き換え、相互連関の動きを、動きのままに出来うる限り捉える。
モノ中心ではなく、コト中心で見てみる。
コト中心で、モノなるものを見る。
さて、
私達は、自身の想定と実際に起こったこと、今後起こりそうなことなどに対して、何らかの不一致が発生し、かつその不一致が思わしくないものであった時に、「不快感」を感じます。
こうなるはずだったのに、こうだったらいいのに、等々の不愉快は、
現実なる常に揺れ動く事象と、自身によって想定され「固定化された」考えとのギャップによって生まれています。言い換えれば、「諸々の関係たち」と「概念として固定化された自己」との思わしくないギャップが、不快感として感情を湧き立たせます。様々な感情を抱かせる脳の一部である扁桃体は、そのようなギャップに対して、不安などの警報を鳴らし、それが島皮質で感情として「自覚」されるのです。
これまでの内容を踏まえて考えるならば、その不快感を弱める術を、加筆修正する術を、扁桃体の警報とその警報の自覚に答えてやる術を、私達は「既に」獲得しています。
あえて例を挙げるならば、「常に変化する私、なるもの」に、変化のない「私」を想定し続けること。これはまるで、常に流れる大きな川の中にありながら、「私」を流れに逆らって維持し続けるようなものかもしれません。だとすれば、その流れに逆らい続けること自体が「辛い」のではないでしょうか?
また、「科学の限界」なるものも世の中では考えられていて、その一つが「根源的なwhy・what(なぜ・なに)?」に到達できないんじゃないか?というものです。これを平たく言えば、「how(どのように?)は、その相関関係からある程度は導き出せるけど、最終的な根源そのもの(それが何か?)は、説明が極めて困難です。」と言う事です。簡単な例を挙げるとすれば、「重力(引力)は確かに発生しているけど、そもそも重力そのものとは何なのか?が誰にも分からない。(重力子という素粒子があるかもしれない、という説が有力です。)」のような事です。
ひょっとすると「科学の限界」は、しっかりと誠実に、失敗しながらも着実に、その限界を示しつつあるんだけど、私達の用いる言語や認識の方にこそ、意味や概念の「跳躍」があるのかもしれないな、なんて思うことがあります。
加えて、「言語学の祖」「近代言語学の父」との呼ばれるソシュールは、「言語が世界を区切り、その区切りによって認識が規定される」ことに言及しています。記号(語)が記号として成立するのは、言語全体の関係によって区切りを入れ、世界を切り出すためだと、ソシュールは言いました。
西洋の「我」の変遷
西洋哲学はその歴史の中で、近代になって再出発を果たしました。
その再出発に対して実に大きな貢献を果たしたのが、デカルトです。
デカルトは
「我思う、故に我あり。」
という、かの有名な言葉とその哲学を展開することによって、
「我(われ)。」と言う圧倒的な「我(が)」を提示しました。
その後、この再出発点から名だたる西洋の偉人たちが、様々な困難を乗り越え、時には危ない橋を渡りながらも、着実に進んでいきました。
(自我と演繹法、経験による実験的帰納法、汎神論と自由意志の否定、唯心論、人間の認識限界、意志と表象、弁証法、国富論、資本論、実存の肯定、現象学、思考と言語の限界、存在と時間の証明、精神の分析、構造化、等々。)
そうして、進んで行った先に待ち受けていた、
「我」と「人間主体的考え方」によって到達した現代での西洋哲学の回答は、
「存在の解体」でした。
「我、事物、概念など」の「解体」。この「解体」は、とても攻撃的で、破壊的な一面がある。にもかかわらずもうすでに50年以上、乗り越えられていないように思えます。
しかしこのような「解体」に至ったのは、西洋哲学がいい加減だったからではありません。むしろ「我」に対して真摯に向き合い、ひたすらに探究し続けたためであると、私は思います。
神主体の中世以後の西洋哲学は、人間主体を打ち出すことによってその終わりを事実上告げ、
その人間主体の西洋哲学上の終わりも、存在解体が告げました。
そんな「解体」が展開されたのは、事物を形付けるような諸々の要素が「欠如している」と感じてしまったからかもしれません。
事物、生物、人間、そして自己は、その他の相互連関無くして、成立しえないのです。また、西洋哲学が「解体」に至ったのは、その「解体以後の、再構築」まで視野に入れていたことも、忘れてはならないものだと感じます。
例えばジル・ドゥルーズの「解体」は、微視的な視点から巨視的な視点への一貫した複雑な連なりを見出し、ジャック・デリダの「解体」は、言葉の到達可能性と到達不可能性の狭間(はざま)を「彷徨う」ことによって、むしろもう少しで届きそうで届かない、寸でのところでその到達が延期される、ということ自体を「焦がれる」ように、情熱をもってその「痕跡」を「たわむれ」た、と私は感じます。
そういった事を踏まえつつ今回は、存在、なるものを成立させる諸々の要素(相互のコト、相互の連関)から考えることをもう一つの代替案として、考察してきました。
「事物」そして「我」とは、連関のただなかの、事象寸前の、コトそのものの集成の「カタチ化」である、とすることで存在解体をひとつ後押しする、というかむしろ、存在の発生と変容を、コトからその力強い動きも含めて再構築させつつも、かつ従来の存在をも生かすような、もう一つの案にしようと考えました。
平たくまとめるなら、
「従来のモノの存在の仕方だと、モノは固定的にされてしまう。この固定的な状態は、幾分現実の動きとのギャップがある。なので、その動きをそのままに捉えようとすると、「関係としてのコト」を考えてみた方がより動的なまま見ることが出来そうだ。ありありと動くそれ自体を、動きそれ自体としておくには、モノ自体とモノ寸前の境を超えないで見てみよう。」と言うように今回は考えてみました。
「西」の現代的帰結に加え、「東」の様々な場所で見られる根本原理的な価値観を、乱暴かつ無謀にも出会わせ接合した結果、このような考えになりました。これだけ西洋的文化基盤の行き渡った現代において、「西」を無視して「東」のみで考えることは、少なくとも私にはできませんでした。結果として「東西」の融合へと、好奇心のまま走り出しました。
「モノのみ」では、その関係が一切成立せず(存在のみ、無変容)、「モノ中心的」では、相互連関の大部分を見逃してしまう(生成と変容の要・更新性)。しかし「コトのみ」では、何の区別もままならない(相互連関のみの、無、一)。であれば「コト中心的」では、どうだろう?
こんな考えの基、展開してきました。
そして「コト中心的見方」によって考えられるいくつかの副次的恩恵についても考えてみれば、
モノをコトから改めて見直すことが、「対立関係の緩和、対立関係の無化」にも繋がると考えられます。モノとモノとの関係は、両者の違いを比較することによってそこに区別が発生します。しかしコト(関係)による見方は、巨視的な視点では、「コトのみ(区別なし。)」であり、日常的な視点から見れば、「その理由、その事情(区別はあるけど遡り可能な関係も有り。)の振り返り」ができうるんじゃないかと考えています。
「私」にも「誰か」にも、そう考えるに至った理由としての関係が、そこにはあります。関係を考えることは自らの、または誰かの理由や事情を紐解くようなカギになり得ます。
相互連関へ透明な仕切りをこしらえることで、「我へのこだわり、事物へのこだわり」はことごとく弱くなりつつも、それでも尚、自己と他者を区別でき、かつどちらをも傷つけることもなく、その繋がりにこだわりとはまた違った慈しみのような気持ちを持ち得ては、その繋がり自体を楽しめてしまうものの見方に。扱いにくい関係の本源性を保ちながらも、扱いやすい対象をも生かす。といったことが「次第に」感じられるような記述になっていることを願います。
「区別あれども、差別なし」
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2024年9月23日、追記。
やっぱりこういう「考え方」というのは、似たような考えが「既に」あるものだと、痛感させられました。というのも、手当たり次第に文献を漁っていると、9月に入った頃、「エルンスト・マッハ」と「廣松渉(ひろまつわたる)」に出会うこととなりました。この二人の考え方は、私と微妙に異なるものの、根本的な考え方としてはかなり似通っていて、本当にびっくりしました。(もちろん両者共に、私よりもはるかに洗練された考えを示していますが。)マッハは、あの音速の「マッハ数」で有名な物理学者で、廣松は日本哲学者の一人です。もしこの方向で見識を拡げたい方は、この二人を頼ってみると良いかもしれません。
マッハはアインシュタインに多大な影響を与えたことでも有名です。彼は「要素一元論」とも後に言われる考え方を示し、「要素こそが世界の本体です。」なんて言いました。マッハは「世界は、比較的強固な要素複合体と比較的虚弱な要素複合体からなる、要素そのものです。要素から見れば、精神も物体も分ける必要もなければ、その成り立ちを説明でき、より妥当な検証もできうる。」と言っては、要素から世界を見た方が、世界の動きがより実際に則したものとして分かるんだよ、と展開します。彼は従来の、ものの見方を変えてしまうところがあります。
また、廣松は「物的世界観から事的世界観へ」、「世界は事態(コト)の集成」などという言い方をしつつも、更には相対性理論や量子力学までも盛り込んで展開していきます。
あなたの今日からの一日が「混乱と動揺を感じつつも、乗り越えた先にあるナニカ」を得るような日々であることを願って。
読んでいただきありがとうございます!!