幸せに慣れて、幸せだと感じなくなった人へ ~「快楽順応」を飼いならす~

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人間関係

今回は、心理学で言われている「快楽順応」についての話をしていきます。私達は順応する能力が高いが故に、その目の前にあるであろう幸せに慣れ、何も感じなくなるばかりか、むしろ不幸せに感じてしまうことがあります。この矛盾を解決すべく、今の生活を振り返ってみる内容が今回の記事です。

では、早速いきましょう!

その幸せが、幸せではなくなる


社会人として働き始め、1ヶ月頑張って働いて得た「初めてのお給料」の事を覚えていますか?
私は会社から「初任給」をいただいた時、とても嬉しかったし、心の中では
「わぁ!こんなにあったら使い切らないよ!」とも思っていました。アルバイトしていた頃より多くもらえるお給料に、ワクワクを覚えたことを記憶しています。

頑張って働いて得たそのお給料は、その時の私に、ある種の達成感と満足感を与えるに十分なものでした。

しかし、今となってはどうでしょう?
多くの方は
「お疲れ様でした!」といいながら毎日働き、お給料をもらいつつも、以前ほどの満足感は無い、という事はないでしょうか?

当初、とんでもないプラスの感情を与えてくれたはずの「お給料」は、今となっては慣れてしまっています。

これは私達がお給料のありがたみを忘れる、嫌な奴という話をしたいわけでは無いんです。
これは、誰にでも起きる「心の作用」です。

私達は、その報酬(モノ、お金など)が毎回同じようにもらえる事に「順応」してしまうところがあります。

そしてこれが、私達の日常を面白くなくしていきます。
その嬉しさに「順応」してしまう心の作用を、心理学では
「快楽順応」と言います。

快楽順応の嫌なところ


私達はいつでもあるその状況に順応し、「当たり前」だと思ってしまったその瞬間から、今までプラスだった気持ちが、そのプラスがなくなってしまうどころか、今度はマイナスへと働く事があるんです。

例えば
コツコツとお金を溜めて、私がかねてより念願だった「高級腕時計」をようやく購入できたとします。
購入して使い始めた際は、
「遂に手に入れた!最高にかっこいい!!」と、こう思うはずです。
最高に満足だし、晴れ晴れとした気持ちだ!と私はしばらくそれに酔いしれるでしょう。

しかし、いくらか時間が過ぎた時、あれだけの満足感があった「腕時計」は、私の中では「当たり前」になり、特別な気持ちはいまやどこかに行ってしまっています。

それどころか、もっと重厚感のあるあっちの時計にすればよかったかな?などの気持ちが生まれ始めます。
この時私は、頑張って得たはずの腕時計に満足を得るどころか、多少の不満を抱えるようになってしまっています。

これが快楽順応の嫌なところです。

この快楽順応は、おおよそのモノ、あるいは場所にまで適応される、私達が持って生まれた心の作用なんです。

例えば住みやすい場所であっても、「当たり前」になってしまえば、これまた特別感は損なわれます。

この「快楽順応」について、もっと良くないと思うものは、生活レベルなどを「他者と競った時」です。
人は誰かと比べてしまうがために、その人よりも良い暮らしを実現するために生活レベルを上げていきます。またそれによって、必要なお金はどんどんと増えていきます。
しかし、どれだけ比べようとも私達が満足するのはほんの少しの間であり、それが「当たり前」なった後に残るのは、「生活レベル」を下げる事が難しくなった、満足感のない自分自身を金銭的に苦しめるような毎日です。

「快楽順応」の観点から見ていくと、必ずしも「人の幸せ=贅沢な暮らし」では無いように感じます。

他人はうらやましがるかもしれないその生活に残ったものは、「別に楽しくもない日々」なのかもしれません。

また、私達がうらやましいと思った誰かの生活は、その人からしてみれば、もうすでに「当たり前」になってしまっていて「何にも楽しくない」のかもしれません。そしてそうであるからこそ、次の贅沢を模索します。

このまま終わってしまえば、何の救いもない記事になってしまいますので、ここから私達が「楽しい、嬉しい、安心する。」と日々感じることが出来るような
「快楽順応」を踏まえているからこそ対応していけることをご紹介していこうと思います。

日常の中にある「たまに」というご褒美が最も幸せ


今回は、幸せを感じる上ではなんとも「不合理」なこの心の作用「快楽順応」を逆手に取ってやりましょう。

それを手にする事が日常となって「当たり前」になるから、「快楽順応」は起きます。
だとすれば、「当たり前」にしてやらなければ良いと思います。

ものすごく身近な例で言えば、
私はから揚げが大好きです。
ですが、夕飯のから揚げを美味しく食べる事ができるのは、「たまに」作ってもらえるからです。

ゲームなどの宝箱を開けるのが嬉しいのは、それが「たまに」手に入るものだからです。

また、旅行に行くのが楽しいのは、その場所に「たまに」行くからです。

これらの観点から見れば、むしろ日常を日常として暮らしているからこそ、「たまに手に入るその経験」に私達は喜びを感じるんです。

つまりは、この「たまに」という経験を日常の中に感じていく事が最も幸せな生活の一つであり、最も充実している一つなのではないかと思うんです。なにも無理をして生活レベルを上げる必要は無かったんです。

私達はどうも、その喜びの状態がずっと続く事を幸せだと直感的に思ってしまうところがあり、そんな長期的に続く幸せを求めてしまいがちですが、その実それは私達の勘違いであり、その喜びはあっけなく、それも刹那的に過ぎ去ってしまいます。

心や脳の仕組みから考えていくと、
日常の中に沢山の種類の「たまに」ある喜びを見つけていくことの方が、長期的な幸せの実現が可能であるのだと知ることが出来ます。

さて、ここまでは「快楽順応」の、特に「モノや環境」についてご紹介しましたが、ここからは「人」についても言及していきます。

もっと良いもの


残念ながら、私達はその対象が「人」であっても「当たり前」と感じてしまいます。その人といる事が「特別」ではなくなってしまうことがあります。しかし、こちらについては、ありがたい事にその「当たり前」を「特別」にする、もしくは「特別に戻す」事ができます。

私達はモノや環境には「当たり前」を拭い去る事は難しいですが、その対象が「人」である場合には、再び「特別」だと思えるんです。

というのも、脳内で分泌する喜びの主な種類が「モノ」と「人」では、違うからです。
「モノや環境」に対する脳内物質は「主にドーパミン」によるもので、これは非常に慣れやすく、繰り返すほどに味わいにくくなる「ドカンと短時間の間、味わえる」喜びです。(ですが、愛や恋は、こちら側の作用が強いです。)

ですが、「人」に対する脳内物質は「主にオキシトシンとセロトニン」によるもので、これはひとたび慣れてしまっても、再び、そして何度でも思い出すことの出来る「ジワっと来るような長期間続く」心地よさです。(愛着、安心感、はこちら側の作用が強いです。)

たまにいるような仲良し夫婦のおじいちゃんやおばあちゃんが、ずっと仲睦まじくあるような関係を実現できているということが、これを証明をしてくれていると思います。おじいちゃんは威張ることなくにこやかで、おばあちゃんもこれまたニコニコしていますよね。

あなたの傍で支えてくれている夫や妻は
あなたがどうしても一緒にいたいと願った人です。
毎日仕事に行ってくれて、または、毎日家事をしてくれているその人は
「失いがたく、共に生きていくと決めた」
たった一人のかけがえのない存在です。

時に私達は、「夫婦となった理由」を忘れてしまいます。
相手の嫌な部分ばかり見て、相手を傷つけるような発言をしてしまうことがあります。

でもそんな事するために、一緒になったのでは無かったはずです。
私達がその人を選んだその理由はひとえに
「酸いも甘いも乗り越えて、それでもなお、なんだかんだ楽しく一緒に暮らすこと」だったんじゃないでしょうか?

私達は人と話したり、スキンシップをとったりすると、「オキシトシン」を主に分泌し、それ自体が楽しいと感じます。
その楽しさの源はオキシトシンによる「安心感」なんです。

それを思い出し、お互いに「安心感」を取り戻した時、私達は何も変わらない日々にさえも、喜びを感じる事ができます。いえ、その繰り返しの日々が、「安心感のある日々」に変わっていきます。

そしてその「安心感」を日頃ジワリと感じながらも、たまには「喜ばしい経験」をし、ドカンと喜びを感じてみる。こう言った「日頃、のジワリ」と「たまに、のドカン!」の味わうことは、脳の観点から見れば、とても理にかなった過ごし方なのだと思います。

思うに、「不快」の反対は「快」ではないのではないか?と最近は感じます。私達の感じる「不快」はその根っこに「不安」があります。「不安」から心拍数が上がり、呼吸を荒くし、発汗し、その派生として「怒り、悲しみ、憎しみ」などの感情が生まれます。こういった「不快」な感情と、快楽として「快」の感情は、ときおり一緒に現れることもあります。例えば「悲しみを忘れるかのように没頭する」などです。ですがそういう時はいくらか「不快」がちらつくし、「そわそわしながら楽しみに飛び込む」ということが出来ます。しかし、「そわそわと楽しい」が同時に表れることが出来るものは、別物であって正反対のものではないなのではないか?とも考えられます。

そして、「不快の根源が、不安」なのであれば、その根源である「不安」について考えてみれば、

極端に言えば、私達は「不安な時に安心することが出来ません」し、逆から見ると「安心している時に、不安にはなれない」とも言えます。ただしこれはあまりに極端な見方で、実際は程度と割合の問題です。つまり、「より大きな不安がある時は安心がより小さい状態」と言えるし、「より大きな安心がある時は不安がより小さい状態」と言えます。だとすれば「不安、不快」を軽減し、払しょくするもっともらしい感情は「快」ではなく「安心」であって、「心の平穏」なのだと思います。一見すると「快」に没頭することで不快・不安が無くせたような気がしますが、快は慣れやすいものです。そのため、不快を背負ったまま、忘れるために快を次々探してしまう、なんてこともあるかもしれません。

だとすれば、「不快・不安を一時忘れさせてくれるのが快であり、不快・不安をより和らげ、根本的に少なくしてくれるのが安心・心の平穏である」、こう言える気がします。

さて、今回は「快楽順応」についてご紹介しましたが、次回は「心の平穏」について触れてきます。実はこれに約2,300年も前に気付き、それを説いた古代ギリシャの方がいるんです。
ですので、次回はそんな古代ギリシャの哲学者「エピクロス」にお力を借りつつ、今回の話をもっと掘り下げていこうと思います。

次回は「心の平穏」の話です。

今日のあなたの一日が「快楽順応を飼いならす」一日である事を願って。
読んでいただきありがとうございます!!

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