今回は、沢山の事を知っている人ほど謙虚になるのは何故なのか?についての話です。どうしてその道のプロほど謙虚になっていくのかをご紹介できればと思っています。
では、早速いきましょう!
その道のプロは皆、仙人みたい
何かを熟達した人たちは、何故だか大らかで、気さくで、物腰が柔らかく、謙虚ですよね。
どっしりしていてまるで全てを悟った「仙人」みたいな人が世の中にはいます。
その人の発言は重みがあって、理にかなっていて、納得してしまう。一方で誰かの意見もしっかり聞いてくれて、その意見が素晴らしいと思えば迷うことなく賛同できる人です。
一緒にいて頼りになるそんな人は、一体何が違うんでしょうか?
結論から言うと「知っているから」です。私と比べて、圧倒的に沢山の考え方に出会い、しかも【誠実に】向き合った結果、その経験値がとてつもない。だから仙人なんです。
そして、私達もいつかは、知っていく事によって「仙人」になれるかもしれない。今日はそんな話です。
ダニング=クルーガー効果
その道のプロと呼ばれる人達も始めは何も知らない、まっさらな状態からスタートしました。そして、そんな人達もおそらく通ってきたであろう心理を1つご紹介します。
何かの知識を得ていく際に、まず始めに出会う陥りやすい心理。
それが「ダニング=クルーガー効果」です。
ダニング=クルーガー効果とは
自身の能力が至らない程に、自己評価が高くなり自信ばかりが一人歩きしてしまう心理です。
私達は知らないほどに自分自身とその意見を高く見積もる傾向があります。
能力が足りていない事に気付けていない状態なので周囲との軋轢が増したりもします。
また、客観的に自己評価ができていないために、なにかと不満が募りやすいです。
確かに、覚え初めは「何でも知っている」ように感じ「誰かにこの知識を披露したい!」と思ってしまいがちです。(そしてこれはおそらく知り始めた人であれば誰もが通る道です。)ですが、
そこを【誠実に】超えてその先を目指し、徐々に様々な事を知っていくと「あれ?私はまだ何も知らないな」と感じるようなんです。
つまり知識が十分な人ほど驕りが無いのはこの心理を抜けた先の所を歩んでいるからです。知れば知るほどに「まだ知らないことの方が多い」という事に気付かされるんです。つまり仙人のような人たちは「知っていく」その過程で、「(知らないことが沢山あるということ、知りきることがないということを)知っている。」んです。
【誠実に】をカッコで強調したのは、まさに「誠実に」真正面から受け止めて、しっかりと吟味していくことが、とっても大切だからです。
その先にある「知的謙遜」
物事を【誠実に!】知れば知るほどに、「知的謙遜」をするようになっていきます。
「知的謙遜」とは、
自分も他人も冷静に見る事ができ、その状態を誠実に判断できることを言います。
自分はまだ何も知らない事に気付いた結果、「自分の考え方が絶対に正しいなんて事は無い」事に気付いているんです。また、「知らないことがあっていい、あって当たり前。そしてそうだからこそ、面白い!」とも思っているので、嘘をつこうともしていません。そもそもとして、話に持っていきたい方向があるのではなくて、ただ物事を知りたいがために、嘘をつく必要も、威張る必要も無くなるんです。
自分自身の価値観を形成しては、また違う価値観に出会い、「ぐぬぬ。確かにそうとも考えられるなぁ。」と、何度も何度も「価値観の解体と再構築」を【誠実に】繰り返した結果、得てして「謙遜をしているように見える、ホントのところを知りたい知的な人達」になるんです。
真っ向勝負は確かに「動揺と混乱」を伴います。自分の信じた価値観を揺らがせる。こんなことは、常識的には出来ればしたくないものです。にも関わらず「仙人たち」が挑戦し続けるのは、「誠実に」向き合い何度か繰り返している内に、実はその解体と再構築によって、「柔軟性と余裕。そして様々な見方」を獲得できるからです。
例えるならば、
覚え始めの状態は
硬くも無く折れやすい。それでいて元には戻らないものだけど、本人は頑強なものだと思っていて必死に構えているのに対し、
知的謙遜を持つ、至ったような人は
柔らかくしなやかで、折ろうとしてもすぐ元に戻る。そして本人もそれを理解しつつ、更にはまだ「知りたい!」と思っている。
と言う感じです。
折れても曲げてもへっちゃらな価値観のようなものが心に築かれています。
それによって、沢山の選択肢の中から、それがどういうものなのか確かめるようになり、自分も他人も冷静に見る事ができ、良い意味で「実際はどうなんだろう?」という欲求が生まれ始めます。誰かを疑って掛かるという事ではなくて、目の前で起きた事やそれに関する事実(起きたこと)を知るための準備がしてあるんです。
自分を必死で守ろうとしなくても、ものすごく安定したしなやかな価値観があるために誰かの意見を聞き入れる事が可能で、むしろ違う意見に触れられるチャンスとまで感じています。
「違う意見が怖い」のは、折れてしまいそうだからで、折れてもへっちゃらだからこそ「違う意見は面白い」のだと、感じるではないかと思います。
学び、知っていくほどにまだまだ知らない事を思い知り、それでも今まで得てきた経験値があるために謙虚になっていきます。
古代中国の老子は「上善水の如し」と言いましたが、まさに「争うことなくあるがまま。誰もが嫌がる低い所(驕らず、謙虚)へと自ら向かっていく水のようであれ。」と言った感じの人が「仙人っぽい」のかもしれません。
知的謙遜の第一歩
ここで気をつけたいのは、ただただ我慢して謙虚でいる事は、私達の心の負担を増やす事になってしまうという事です。
あくまで、その道のプロ達は知識が増やし、かつそれを何度も試した結果、謙虚になっているんです。我慢して謙虚を目指す事は疲れてしまいます。
迷いが少ないのは戻ってこられる経験値(考え方+実践の繰り返し)があるためなんです。
「無理して水みたいに」生きるんじゃなくって、そうあるために、「あるがまま」を見定めるために、たっくさん出会ってみた結果、「楽な状態で水みたいに」あれることが何より大切なんだと思います。私は仙人には程遠いですが、それでもあえてその経験値獲得方法を厚顔無恥にもご紹介するならば、再現性の高い科学実験などは、良くも悪くもその物理的仕組みから常識を覆してきます。しかも再現性が高いが故に信頼できる研究が比較的多いです。科学界は現在、「再現性の危機」によって揺れています。だからこそ、再現性を重視することが重要だと感じます。科学は「信じ切ってよいもの」ではなく、「妥当性の高いもの」であることを再認識させてくれた意味では、「再現性の危機」はむしろ科学にとっても良い機会であったのだと思います。
さらにもう一つご紹介するならば、古典はハズレが少ないと思います。残るべくして残った書物たちは、やっぱり多種多様な尖った意見に出会えます。そういった尖った意見は、私達が中々に気付けないような現代の問題に対して、思考の外側から見せてくれることがあります。例えば、福沢諭吉の『文明論之概略』では、内なるもの(内の文明)に目を向けないで、表面に現れる衣食住、法や規制など(外の文明)にばかり目を向けることを強く批判しますが、これにはハッとさせられます。福沢諭吉は文明の土台である内なるものを大切にしなさい、と説いています。明治時代、西洋の文化がどんどんと入ってくる中で、その文化を形だけを模倣しても、中身としての今の文化と合致していなければ、本当の意味で自国の文化に溶け込んでいかないよ、だから中身と合致させるよう慎重に検討することで、文明化が上手くいくよ。ということを諭吉は示しました。
現在の科学と、過去の古典を照らし合わせてみると、「再現性が高いこと」+「既成の価値観を見直す、古いのに新しい価値観」などに出会えます。そしてそこからさらに、実際の経験として、自分自身で試してみるのが今のところめちゃくちゃ良いぞ!って思ってます。笑
理念や価値観を吟味しながらも受け止めて、かつそれを吟味しながらも実践する。そうすることで経験として「こんな見方、感じ方が実際にできるんだ!」だとか、「あれ?ここがいまいち私にあってないぞ?」だとかが、初めて見えてきます。
「価値形成+実践・実用」の「誠実な(モノゴトをただひたすらに知りたいという気持ちの)」繰り返しが、「仙人」への道だと感じます。何度も繰り返した先にある「違和感のない生き方」が「仙人の生き方」なんです。
「執着の無さが終着かもね。」なんて、くそつまらないダジャレを最後に、終わります。笑
今日のあなたの1日が「知的謙遜」な1日である事を願って。
読んでいただきありがとうございます!!