今回は「オモテとウラの、どちらとも」というおそらくは誰も見たがらないであろうタイトルを付けつつも、社会学の話が出来たらと思います。何かしらの物事を考える時「オモテとウラの、どちらとも」を研究する社会学の考え方は、「良い点、悪い点」、「見えている部分、隠れている部分」「一方では、もう一方では、他方では」と、多面的に考慮している点において、調和のとれた非常にバランスの良い「中庸(ちゅうよう)」的な視点を与えてくれます。
では、早速いきましょう!!
社会学ってなんだ?
社会学は、その名の通り「社会」についてのあれこれを統計やデータ、理論などを用いて研究するような学問です。
私達人間の一人ひとりが様々な行為や活動をする事で「社会」は形成されています。
私達はしばしばその集団を「社会」と一言で言い表したりしますが、正直言って「社会」というものは、とんでもなく複雑性に富み、あらゆる関係が絡み合った上で成立しているので、
「すべて理解した!」と断言することは、今のところは出来ないものです。
また少し考えてみただけでも、「自分自身」という人間の複雑さですら把握するのは難しいのに、一体どうやってその集合である「社会」を把握するんだ?と感じるんじゃないかと思います。
ですが、今まで科学というものは、人の認識外の事や現象を、「数字や言語、技術などによって可視化」しながら、人の認識内に落とし込んできました。
「人は人の認識でもって、モノを把握することしかできない」と哲学者カントさんが言いました。それでも、科学者さんたちは「だったら私達人間の認識内に落とし込めばいいじゃない。」と、世界の現象を「人間にも見える、分かる形で」少しずつ掘り出してきたんです。
例えば、fMRIなどの機械によって、「脳の活動範囲」が人の目で見えるようにもなり、人の目には見えない赤外線や電波のようなものもいろんな技術によって「可視化、数値化」がされても来ました。
それは世界のほんの一片かもしれませんが、少なくとも「見えること」は増えてきました。
そして社会学者さんたちも、「社会の可視化」を目指しています。
さて、今回はそんな社会学者さんたちの「社会の見方」をご紹介し、その前提から実際の内容を「オモテとウラの、どちらとも」と見つつ、踏み込めればと思います。
社会を見る心構え~社会の見方~
社会学には、表面的な物事のみに焦点を当てず、その物事の「潜在的機能」を考えるところがあります。
「潜在的機能」と言うとちょっと難しい感じがありますが、言い換えれば「根っこ、ウラ、背後、もしくはメタ(高次)」的な意味合いだと思っていただければと思います。
例えば、表面的な(顕在的な)物事のみに焦点を当てた場合、「そもそもそんなことがなんで起きるのさ?」のような事が見えては来ません。
ですので「その基となっているものは何だろう?」という視点が生まれるのは割かし納得がいく話かと思います。
社会学では「こういった事柄が起きた。そしてこの原因はこういった要因・要素が考えられる。ただこれも現段階では弱い可能性に過ぎないので、事実ベースのデータをもう少し集めてみる必要がありそうだ。」
と、より可能性を高めるような吟味をしていきます。
思うに、様々な専門性を持ちながら明言を避けるような物言いをする科学者さんがかなり多いのは、知れば知るほどにその複雑さ、その難解さに直面し、「Aが起きる時、必ずBが起こる」のような関係が、実はこの世界ではとっても捉えにくいということを痛感したからだと感じています。
だとすれば、明言をしない学者さんが「正直分かりません。ですが、こういった指標や大きなデータはあります。」くらいの物言いを現代の問題に対してしているのは、むしろまっとうな気がしてきます。
あらゆる角度から吟味するのは、「全てが疑わしいから根拠なんてものはない!」とするためではなく、むしろ「その低い可能性を、より高い可能性へ」と紡いでいく試みであると、私は感じています。
「オモテとウラの、どちらとも」を吟味していく試みは、その確からしさを高める考え方の一つなんです。「主観」からものを見がちな私達を、いくらかは「客観的」にしてくれる。そんな方法かなと思います。
もう少し違った言い方をするならば
【良く見せようとするのでも、悪く捉えようとするのではなく、その現象の、その要因をより確かなものだとするために、常々吟味する態度】
と言えるのかなと感じます。
さて、ここから「オモテとウラの、どちらとも」という前提でもって、社会学の内容をいくつか見ていきたいと思います。
合理的選択理論
先ずは「合理的選択理論」について、ご紹介したいと思うんですが、やや字面が難しいのでここではちょっとした例から入っていきたいと思います。
例えば、
目の前で、モノに当たっている人がいました。そばで見ていた私達は「なんだかなぁ。」と心に引っ掛かりを覚えました。
こんなことを偶然目にしたとき、「なんだかなぁ」と思うのが、
一般的な見解かなと思います。
ところがこう言った行為にも「その人にとっての合理性(道理になかった性質)がある。」と考えるのが、「合理的選択理論」です。
「合理的選択理論」は、「この社会で起きる事全ては、個人の合理に従った結果だよ。」ということを言っています。
一見するとおかしな理論ですが、
「社会の規範や秩序にとって不合理なことであっても、その人からしてみれば、行為や行動選択をするだけの合理性を見出した」ともう少しだけ考えてみると、その表面的な事柄だけでなく、「その行為に至った理由」まで、その行為の要因追求の中に含まれてくると思います。
個人的には、心理学で言われるような「根本的な帰属の誤り」というバイアスの一種を打開する際の方法にもなり得るのでは、と感じました。
「根本的な帰属の誤り」を簡単に言うと
「人がなにか起こしたことについて、しばしば私達は、気質によるものだ、性格によるものだ(内的要因のせい)、としがちなところがある」というものです。
自分や他者の何かしらの行為を考える時、私達はその「事情」を加味しない事があります。
「あいつ(私)は嫌な奴だ。」
「彼(私)は気にしすぎだ。」と、
なんとなく気質や性格と紐づけるところがあります。
ところが、様々な「事情(内的要因と外的要因のどちらとも)」を抱えた結果、そういった行為に結び付いた。と考えた方がもう少し広い範囲でその可能性を探ることが出来ます。
「そんな性格だからだ」と考えるより
「そんな行動をした理由は何だろう?どんな事情があるだろう?」と言うところまで含めて考えることは、新たな道を私達自身に与えてくれます。
日々を平然と暮らしていた人が、突然「よし!今日はなんとなくモノに当たり散らそう!」と考える事があるかと考えると、これはとっても不自然に感じます。
「その思いに至った事情や境遇はなんだろう?」
そう考えることで「個々人にとっての合理性」を見出す。
これも「オモテである行為」と「ウラである事情」を見出し、その妥当性を確かめる試みなんじゃないでしょうか?
「生産」と「再生産」
社会学では、
衣食住に関わるような物資を作りあげる活動のことを「生産」。
育児や家事、出産、または心身の休息や回復などの活動の事を「再生産」と言います。
「生産」によって社会は発展・維持していきます。
ところがしばしば私達は、その「生産」ばかりに夢中になって、「再生産」をおろそかにしたりします。
そうなると「生産」のためのエネルギーはどんどんと枯渇していき、いよいよ生み出すのが難しくなるのではないかと思います。
「肥沃な土台」あっての「綺麗な花」だと思うので、心も身体もしっかり休んで肥沃にしちゃってください。
「再生産」こそ「生産」の土台なんだと感じます。
官僚制
次は、組織にまつわる「官僚制」についての話です。
社会学上での官僚制は、
高度な専門性を持ち
規則による役割分担及び権限
公私の分離(私事と仕事)
明確な命令系統
文書などによるコミュニケーション
などの特徴を持つ集団の事を指します。
ですので、学校も政治も企業もこれに含まれます。
その仕組みがどのように機能しているか?を判断するとき、私達はこれらの仕組みが守られるほどにより良く機能すると考え、「ガッチリ固めていこう」としがちです。
確かに「そのルールが守られなかったことにより生じる問題」はインパクトが大きいので目につきやすいと思います。
例えば、曖昧になった規則によって、腐敗を起こしたり、
公私の混同によって、忖度のような事態が引き起こされたりします。
これはまさに「ルールが守られなかったことにより生じる問題」です。
しかし他方では、「このルールを守った上で生じる問題」も、その陰でひっそりと隠れていることもあると思います。
身近な例として会社の事を考えてみると、
何かしらの問題に一つ一つ対処していった結果、とんでもない量の決まりが出来て、ものすごい手順を踏んだ文書作成や作業が増え、結果残るものはなんだかよく分からない手順の増加による、仕事の複雑化と鈍化。そしてそれによってむしろ増えたヒューマンエラー。そしてそのヒューマンエラーに再び対処すべく、新たな決まりを設けちゃおう!…みたいなことって、どなたであってもご経験があるんじゃないかと思います。
その他、意思決定が遅くなったり、上下の関係が厳しくなりすぎたり、縄張り意識のような気持ちが芽生えたり、なんてこともあるんじゃないかと思います。
つまり、「ルールを守った上で生じる問題」というものは、「合理化を目指した結果、不合理化していくことによって生じる諸問題」のことです。
問題が起きた時、その問題は「規則を守らなくて起きたのか?」はたまた「規則を守ろうとした上で起きたのか?」をも含んで、いったん見返すことは結構重要かなぁと思います。
もしかしたら「規則を守れなかったのは、守りたくても守れなかったから」なんてこともあるかもしれません。
「合理性」は、実のところ結構曖昧な部分も含んでいたりします。その合理性が「誰にとっての何のための合理性」なのか?が、いまいち示されにくいものです。
決まりは「出来るだけ効率よく、その有効性を発揮するライン」をいかに目指すか?にかかっているように思えます。ただやみくもに規則を増やすのでも、ひたすらに減らすのでもなく、「その集団にとって、より妥当な仕組みを実際に確認しながら決めていく。」こんな事が重要なのだと感じます。
おわりに
さて、いくつかご紹介しましたが、ほんの少しでも「社会学の面白さ」をお伝え出来たのであれば、嬉しく思います。
また今回の話は、氷山の一角にも満たない限られた情報です。
もっと深く切り込んだ問題ももちろん沢山あって、
例えば、能力主義的な雇用である「ジョブ型(必要な人を必要なだけ)」や日本独自の雇用である「メンバーシップ型(入社から定年まで)」などの話は、どちらも一長一短で、深く考えさせられるものでした。
「ジョブ型」は経済の成長を進める可能性を秘めている反面、格差や失業率を高める可能性があり、
「メンバーシップ型」は経済成長にはいまいち効率的ではないし、賃金が上がりにくい要因の一つであるものの、失業率などは低い、などの要因にもなっています。
長期的に見た場合、メンバーシップ型は成長率が低そうなので、ジョブ型の方が良い気もするが、その分個人は沢山の努力を要するようになるし、そういった努力が出来なければ就職が難しくなり、「明日は我が身」の能力主義が加速する。結果社会に大きな穴と溝が生まれそうだ。だとすればそれを穴埋めするなにかも同時に必要なんじゃないか?しかしそうはいっても、その穴に対して包括的なアプローチが出来そうな仕組みの策定は言うほど簡単じゃない、などなど…。答えを出すには極めて困難な問題にも直面します。
ただそういった「問題」に直面しつつも、おぼろげながらに見えることは、
私達は「社会」と呼ばれるものによって「問題」を与えられることもありながら、
一方で、その「恩恵」にも与(あずか)ってもいるんだ、ということです。
今の社会に「問題だけ」があるわけでもなければ、
今の社会がガラッと変われば「恩恵だけ」が生まれるわけでもないんだと感じます。
今の問題と恩恵を真正面から見定め、今後の社会学に期待しつつも、今回はこの辺で閉めたいと思います。
今日のあなたの一日が「オモテとウラの、どちらともを見つつ、今ある問題を考えつつも、今ある恩恵のありがたさを実感する」一日である事を願って。
読んでいただきありがとうございます!!