もうひとつのソシュール論【破】&【急】 そもそもことばとは何か?~『ソシュールの思想』と「原資料」~

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人間関係

前回、『一般言語学講義』の要約をしていきましたが、今回は「もう一つのソシュール論」として原資料(手稿&学生ノート)を基に、いわば「ソシュール論【破】」として見ていきます。

今回は『一般言語学講義』を「ソシュール自身の考え方」から更に深く広く捉えていきます。

一応、前回のおさらいをざっくりします。前回は、

【記号は二つの心のイメージ(聴覚映像と意味内容)の結びつきであるがために、変わりにくくも、その言語内全体の関係において無理なく受け入れられれば突然変わる。記号は、その言語内全体の関係によって成立するが、実のところそう呼ぶ根拠はなく、また根拠がないからこそ変わっていく。そしてその変化は記号が織りなす全体の関係の微妙なズレと再配置によって起きていて、時代や地域による記号の区別の仕方の違いに伴い、認識の仕方すら変わる。従来の言語学の様に記号毎の歴史的変化、点の変化を追っていっても、その全体像が見えなかっただろう。ラングはパロールとして個々人が使用することによって変わってしまう。また変わってしまうからこそ、ラングのみを言語学の研究として、ある時期(共時態)のある言語(ラング)を調べることを、以降の言語学では進めていこう。ただ、今言えることは、我々の世界認識は言語によって強く規定されているということだ。

と言った内容に触れました。とはいえ、おそらく前回の内容をある程度把握しておかないと、後編である今回の内容は、あまり頭に入ってこないかもしれません。

そして前回の「ソシュール論【序】」を経て、今回はその【序】を乗り越えるべく、ソシュールの本意(原資料)を紐解きながら「ソシュール論の【破】」として見ていき、更にその先へ向かうための視点の提供として、私見による【急】を最後に示します。今回はいわば【序(導入)、破(問題提起)、急(帰結)】の【破、急】の部分です。

ことば(このようにひらがなで書くときは、広い意味での言語全般のこととします)は、人間を文化的・文明的な存在にしました。そしてこれは、ことばに私達の想像を超えるような影響を与える「能力」が備わっているためでもあります。

言語は私達が生まれた瞬間から、「既に構成され、整った状態」として各文化に根付いています。だからこそ便利な道具でもあり、だからこそ人間の内部に浸透し、使用するほかない道具でもあります。

記号とは?言語とは?そしてことばとは?という根幹に迫り、かつそれすらも乗り越え、

人間の文化・文明を突き抜ける考えがソシュール自身の中に生まれていました。『一般言語学講義』では「そもそも《言語》とは何か?」を示しましたが、『ソシュール手稿』をはじめとする原資料では、「そもそも《ことば》とは何か?」を示します。ソシュール自身は、ことば全体を包み込み、ことば自体の作用の核心を突く考えを展開します。

しかし、それにもかかわらず、彼は沈黙します。ことば全体を示した後の彼の沈黙までの一連の過程には、「既存の思考やことばの枠組みを飛び超え、その外側から眺めるが故の、動揺と魅力」が同時に詰まっています。

彼が、何を思い、何を考え、何に挑戦し、そしてなぜ沈黙したのか?

今回はそういったところを見ていきたいと思います。

では、早速いきましょう!

  1. ソシュールの生い立ち
  2. 『一般言語学講義』に対する批判
  3. ラングとパロールは対立、だけではない~ソシュール論【破】~
  4. 連辞関係と連合関係~脳内ラングともいえる関係の働きと、文法批判~
    1. 連辞関係と連合関係とは
    2. 連辞関係と連合関係は、ラングなの?パロールなの?
  5. 共時態と通時態も対立、だけではない
  6. シニフィアンとシニフィエ。その結びつきがシーニュ(記号)
  7. 二つの恣意性
    1. 言語の恣意性①~記号の恣意性~
    2. 言語の恣意性②~(言語による)価値の恣意性~
    3. ことばは、実体を表すものではなく、心的な社会的産物である
  8. 記号学による乗り越えに何年も挑戦し、そして沈黙する
  9. 僕らにはまだ、出来ることがある~私見としての可能性【急】~
    1. ことばの功罪(功績と罪)~①ことばは規定する、しかしだからこそ道しるべとなり得る~
    2. 【地続きの二つ・シームレスな二つ】が二分法である。~②記号と非記号、形相と実質は地続きである。~
    3. 私達は意識的に忘れる、ということが出来ない~③価値の変化は大切なものほど、塗り替え・上書き式が有効である~
  10. 言語の固定性~記号自体が、常に変化している現実の躍動と力動性を一端、かつ過去としてしか、表すことができない。~
  11. 帰結としての乗り越えの試み。ためらいを、ためらうことなく

ソシュールの生い立ち

先ずはざっくりとしたソシュールの生い立ちに触れます。

フェルディナン・ド・ソシュール(1857年11月26日~1913年2月22日)は、「言語学の祖・近代言語学の父」と言われている人物です。

彼は私立中学に入学した時点で、フランス語、ドイツ語、英語、ラテン語を習得していて、加えてギリシャ語もその学校で学びました。

そして14歳の時、『諸言語に関する試論』と言う論文を書き、彼が尊敬する学者に送ります。その論文の時点で既に「言語の構造と全体関係(体系)」についての骨子が見え隠れしています。

まるで漫画のキャラクターかと思うような天才です。ちなみに美男子だとも言われていました。

彼は、控えめな性格で、気取りが無く、物腰も柔らかい。そんな人物でした。しかし同時に、とにかく言語が好きで、言語への好奇心は尽きることがなかった人です。

そんなソシュールも大人になり、講義を各地でするようになります。彼の講義は昔から、新しい創造に満ちていたといいます。

彼自身の今出せる考えを惜しげもなく展開するため、自身の中にあったためらいも、分からないところも、隠すことがありませんでした。講義中でさえも外を見ては、新しい創造をし、考え込む。そんな講義をしました。

完成された考えを提示することがあまり好きではなかったようです。

後に弟子たちの手によって『一般言語学講義』として出版される内容の講義は、1906年から1911年にかけて学生のための授業の一環として行われましたが、彼自身、実は嫌々引き受けたあまり気乗りのしない講義でした。(しかしいざ始めてみれば、学生のレベルが非常に高かったこともあってか、しばしば学生に対して本音も吐露してもいます。)

そして気乗りがしなかった一つの理由として、その時には既に彼自身の中では、「言語に対する次の挑戦と葛藤」が生まれていたからです。

というのも、少し時を遡って、1894年。

友人であるメイエに宛てた手紙に

「ことばの事象に関してまともに意味が通ずるようなぐあいに何かを書こうとするのは、ただの十行だけにしてもまず困難なことで、その困難さに嫌気がさします。」

「結局のところ言語学でなし得ることのかなり大きな空しさも分かってきました。」

という内容が記されています。言語が大好きだった彼は、心の中で言語に対する「むなしさ」を感じてしまっていました。

また、ソシュール自身の手で『一般言語学』という幻の本を書こうとしていました。しかしその仕事も、彼自身によって中断され、自分でも見つけることが出来ない程に手もとから遠く離してしまいます。

彼は、何を思い、何を考え、言語にどのような空しさを感じ、なぜ沈黙したのでしょう?

さて、大まかな生い立ちを見たところで、今回は、「原資料による『一般言語学講義』の訂正、および乗り越え」と、「新たな挑戦と沈黙のいきさつ」を紐解いていき、最後に私見としてのまとめを試みます。

似ているからこそ、その峻別(明確に分けること)がとても難しい、二つのソシュール論(『一般言語学講義』としてのソシュール論と、「原資料『ソシュール手稿』&学生のノート」からなるもう一つのソシュール論)の違いをできうる限り明確化すべく、今回は見ていきます!

『一般言語学講義』に対する批判

ソシュールが亡くなった後、弟子たちが『一般言語学講義』を出版し、それが後々ゆっくりと、徐々に広まった結果、世界中を驚かせる絶大な影響を与えます。そしてその影響は現代においても尚、最も重要な視座の一つとして君臨していますが、同時にいくつかの問題点も指摘されます。

主なものとして、

①、ラング(言語によるひとつの社会制度)とパロール(個々人の使用・実現)は対立として扱われて、かつラングのみに絞られた。ラングのみの研究は、そのままパロールを無視する事であり、全体を表さない。

②、共時態(ある時期の言語)と通時態(今までの言語変化)の区別は、言語の変化によるリアルを無視している。

③、全体的に歴史と変化を軽視している。

などがあります。こうしてみると確かに上の指摘はもっともでもあります。

しかし、これらはあくまで『一般言語学講義』に関する問題点であって、「ソシュール自身の考え(原資料)」の問題点にはならない部分です。

この問題点については順を追って一つ一つ紐解いていきますが、その前に先立って軽く触れておきたい内容があるので、少しだけ見ていきます。

ソシュールは、「二分法(二つに分ける方法)」を多用します。

前回でも触れ、今回でも沢山出てくる概念である、

ラングとパロール。共時態と通時態。シニフィアンとシニフィエ。などです。

また、今回は前回触れることのできなかった「連辞関係と連合関係←NEW!」と言う概念も出てきます。(こちらは前回の内容でもただでさえ覚えることが多いために、今回の説明としました。)

さて話を戻せば、彼の二分法を用いた本来の目的は

「対立を強調するためではなくて、

対立しながらも、相互に関係し合っている(逆説的な両義性)」ということを表すためでした。

つまり、ことば(広い意味での言葉・言語全般)、というものが対立しながらも、同時にお互いに関係しあい、補いあっている」という「【地続きの二つ・シームレスな二つ】であることを示すため」にこのような方法を取った、と言うことです。

こんなことを念頭に置きながら読み進めると、理解しやすいかと思います。

ではここから、『一般言語学講義』と「ソシュール自身の考え方:『ソシュール手稿』&学生ノート」を読み比べ、かつ上記の指摘内容も織り込みながら、一つずつ見ていきます。

さてでは、先ずは前回同様「ラングとパロール」から始めます。

ラングとパロールは対立、だけではない~ソシュール論【破】~

ここでは、「ラングとパロール」を捉え直します。

「ラングは言語共同体。あるいは言語としての社会制度」のことでした。

各文化に「言語という、ひとつの社会制度」があるから日本で言えば「正しい日本語、間違っている日本語」のようなことが判別できます。ラングは共通理解のためのツール(道具)の様に、目には見えないけど(潜在的に)、確かに働いていますよね。

これに対して、

「パロールは、ラングの個人の使用・実現の総体」でした。

私達はラングが社会制度として働いてくれるからこそ、個々人による言語の使用と実現が出来ます。パロールは使用・実現、という目に見える形、耳で聞こえる形で(顕在的に)実際に使用されます。

ラングがあるからパロールを実現できます。しかし他方でパロールがなされるほどに、ラングも変わっていってしまう。

だからこそ、『一般言語学講義』では、そのパロールによる変化を受け付けないよう、「ラングのみ」に言語学の研究対象を絞ろうとしました。

言語学は本来ラングを唯一の対象とするものだからである。

『新訳 一般言語学講義』

さて、この文言は前回も引用しました。しかし、この文言。実のところ、

原資料(ソシュールの手稿&学生のノート)には見当たらない、弟子たち(編者)の創作」です。つまり、ソシュールは「ラングのみでいいよ。」とは、本来言っていません。

さてここで、『一般言語学講義』の第一の問題点をもう一度おさらいすると、

①、ラング(言語の社会制度)とパロール(個々人の使用・実現)は対立として扱われて、かつラングのみに絞られた。ラングのみの研究は、そのままパロールを無視する事であり、全体を表さない。

という内容でした。

二分法によるこの二つ。「ラングとパロール」は、一見すると対立のみの様にも見えてしまいます。

しかし「ソシュール自身の考え」では

ラングとパロールは、対立のみならず相互関係」でもあります。

そもそも彼が二分法を用いた理由は、対立のみを主張したかったのではなく、【地続きの二つ・シームレスな二つ】を示すために、このような方法を用いました。

つまり、

「二つの区別は、ことばの構成要素をまず初めに選り分けることによって、そもそもとして、ことばに備わるその仕組み自体の混同を避けるためであることと、

かつその仕組みの上で、お互いが関係しあっていることによってこそ、成立しているということを示すため」に二分法を用いました。

ソシュール自身は

確かにことばの分析においてはどちらか一方に寄ることはあり、それは重要なことだが、他方ではその両極端にのみ注力し、どちらか片方のみにしては、いけない

と考えています。

そしてこの二分法への考えは、最初から最後まで一貫している態度なんです。

つまりラングも大切だけど、パロールもまた大切だという事です。

ラングがあるからパロールを実行出来て、また同時にパロールが成されるからラングを変革できるんです。両方が両方の原因であって、結果でもあります。しかし、おそらくはラング(言語としての社会制度)の発生はパロール(個々人の使用と実現)によるところだったでしょう。

加えてそもそも、ラングとパロールの双方があってのランガージュです。

前回見てきたように、ランガージュ(言語活動)はラングとパロールの総体(全体)だったはずです。

どちらかに寄ることはあっても、どちらかのみとして無視してしまうことは、ソシュールの本意ではないんです。

また、ランガージュ(言語活動)については、後々違った形で表されますが、この時点ではそのまま「言語活動全体」の意味で進めていきます。

とにかく、ことばの全貌を表すには全体の関係のお互いの補完し合いがとても重要と言うことです。

ところで、いかに「ラング」というものが社会制度として働いているとは言え、私達は全く同じ言い表し方をするわけではありませんよね。同じ言語圏でも、個々人の言い表し方には確かな違いがあります。では、どうしてそういった違いが出るんでしょう?

これを説明するために、次は連辞関係と連合関係に触れていきます。

連辞関係と連合関係~脳内ラングともいえる関係の働きと、文法批判~

言語圏が同じであれば、言い表し方が一緒か?と言うと、間違いなく違いがあるものです。逆に全く一緒、なんてことはあり得ないことです。

同じ日本語を駆使して言い表す私達は、似ている部分はあるけど、違う部分もあるわけです。つまり似ているけど、異なる」のが私達です。では、同じラングを使用する私達には、どうしてこのような違いが表れるのでしょう?(また自分一人を見ても、全く同じ文章は以前の文章を参照すること無しに、二度と書けません。この点を考えてみるのも面白いと思います。)

この違いに触れるべく、連辞関係と連合関係を見ていきます。一見すると全然関係ないように思える話になるかと思いますが、この項の最後には「似ているけど、異なる」、その理由に繋がっていきます。

連辞関係と連合関係とは

先ずは連辞関係についてです。

連辞関係とは発話や文字列などの、語の並びによる(線状)関係のことです。

「連なる辞(語・記号)の関係」だから、そのまま連辞関係です。

例えば、「すむ」という日本語を発声する場合、それを聴いた側の人はこれだけだと、どの「すむ」分かりません。

ですが、「東京にすむ」であれば「住む」。

「空気がすむ」であれば「澄む」。

「諦めずにすむ」であれば「済む」、と言ったように、

文字や発声が連なることによって、前後の関係が生まれ、より限定された意味が生じています。

「〇〇とは、これこれこういうことです。」のように並べることで、その前後の関係から、どう言ったことを言いたいのか?その語が何を意味しているのか?がその関係からより鮮明になります。

文脈の前後の組み合わせによってより鮮明になる関係。それが「連辞関係」です。

では、連合関係とは何かというと、

連合関係とは、その語・記号によって連想されるその他の語との関係です。

「連想される語の集合関係(語・記号の倉庫)」だから、連合関係です。

こちらも例えば、

私が「切り分ける」のような意味の言葉を表したいとき、私の脳内では、

「区別、峻別、弁別、分割、分節、識別、区切り」などが浮かび、どれを使おうかと考えます。こう言った関連する語が浮かんでくる脳内の語・記号の倉庫が、「連合関係」です。

「文脈の前後関係」と「関連する語の連想関係」が、「連辞関係と連合関係」ですが、こちらもやはりこの二つの相互の関係なしには文脈を成立させることが困難ですよね。

さて、この「連辞関係と連合関係」はラング(社会制度)なのでしょうか?それともパロール(個々人の使用・実現)なのでしょうか?

連辞関係と連合関係は、ラングなの?パロールなの?

ソシュールの考えにおける「連辞関係(前後関係)と連合関係(語の倉庫)」は、結論から言えば、「ラングに属するとされる」ものです。

実際のところ、ソシュールは連辞関係と連合関係が、ラング(社会制度)とパロール(個々人の使用)のどちらに属するか?については明言していません。ただ、多くのソシュール研究者さんたちは、「連辞関係と連合関係は、ラングに属する」と言っています。

しかし、これは少し納得がいかないかもしれません

なぜなら、「え?前後の関係と語(記号)の倉庫を駆使して、文脈を形成するわけでしょ?形成するってことは使用しているし、使用しているってことはパロールなんじゃないの?」と思ってしまうかもしれないからです。

ですが、よくよく考えてみると、

【まず先に脳内で】、語を選出しつつも並べていて、その後、発話や記述にしている。先立って脳内で、目には見えない形で(潜在的に)文脈を組み立て、その後に、目に見える形で(顕在的に)使用・実行している。」という過程があります。つまり、先に「目に見えない形での(潜在的な)組み立て」をしているからこそ、連辞関係と連合関係はラングに属する、とされます。

また、ラングというものは、確かに社会制度として働きますが、私達は全ての語・記号を理解しているわけではないです。もしそんなことがあればすぐさま、言語の問題はほとんど解決する可能性があります。ですがそうではないですよね。にもかからわず「言語は言語として機能」しています。とすれば、個々人のその共通する部分と異なる部分(脳内ラング)を全て合わせたものの総体(全体)が、ラングである。また、個々人の脳内にある記号とそれを組み立てた言語は、共通する部分はあるけど、それぞれ微妙に異なる。と考える方がより妥当です。

言いかえれば、個々人の脳内ラングともいえるような状態の、全部合わさった総体(全体の状態)が、ラング。個々人の言語に対する共通了解の総体が、ラングなんです。

そのために、同じ言語圏で、考え方・言い表し方が「似ているものの、異なる」ということが起きます。

また、この話も後々、大きな意味を持ってきます。(今は「ランガージュ」について。そして「似ているけど異なる」の後々の意味について。この二つを後回しにしていますが、「ランガージュ」はこのソシュール論の後半。「似ているけど異なる」は最後の私見による可能性、に触れるべく回収していきます。)

加えて、この「連辞関係と連合関係」は、ソシュールによる「従来の文法批判」という意味合いが強いです。語と語(記号と記号)の関係からようやっと意味が決まっているんだよ、と言う過去の文法への反論です。※蛇足ではありますが、2024年7月3日。『Nature』誌に掲載された、ハーバード大学の脳神経科学の研究によって、「連辞関係と連合関係によって、文脈を理解している(前後の文脈から記号の意味を理解している)」ことが示唆されました。

さてでは、次の話題として「共時態と通時態」について触れていきます。

共時態と通時態も対立、だけではない

ラングとパロールは対立するだけでなく、相互関係でもありました。

また、個々人の脳内ラングともいえるものの総体がラングで、それを話す、や書く、などして実行するとパロールとなる。加えて、個々人で了解しているラングの範囲が違うから、おなじ言語圏でも「似ているけど、異なる」んだよ。と言った内容に触れてきましたが、お次は共時態と通時態です。

『一般言語学講義』において、

共時態」は「ある時期の言語状態」。いわば「言語の面の状態の全体関係

通時態」は「歴史的な言語の変化を追うこと」。いわば「言語の点の変化・変遷です。

『一般言語学講義』では、「共時態と通時態は対立関係」の様に扱われていますが、こちらもまたやはりソシュール自身の考えでは、【地続きの二つ・シームレスな二つ】という相互関係にあります。

しかし確かに、面と点(あるいは線)では、折り合いがつかないようにも思えます。『一般言語学講義』でも、「点(変化)を追っても、言語の全体像である面(状態)が見えない。だから面である共時態を優先しなければならない。」と言った内容でした。

ですがこちらについても、「ソシュール自身の考え」とは、異なっています。

我々は言語とチェスを比較できるとしたら、それは同時に位置と打ちから成立する。つまり同時に変化と状態から成る完全な意味でのチェスゲームでしかないと確信している。

『ソシュール手稿 10』

この引用からもわかる通り、彼は、状態だけでも、変化だけでもない、「状態変化」をこそ重要視しています。

言い換えれば、「通時態は点の変化に見えるけど、面での全体関係の変化だよ。」と言っています。「打ち」によって、全体の盤面である「位置」の状態も変わる。この変化(打ち)と状態(位置)の両方を見ていくことが、ことばの全貌を見定めるには不可欠です。

だとすれば、「共時態と通時態」が表しているものは、

「面の状態と点の変化」ではなく、「ズレ・再配置をしながらも、面から面へと変化する、関係全体」を指していたことになります。要は「一見すると点の変化に見えてしまう記号の変化は、実のところ面での全体関係のズレとして言語関係の均衡を保つように成立している」ということです。

つまりソシュールのいう「完全な意味でのチェスゲーム」とは、

面から面へと変化する言語の関係全体ズレ・再配置の連続が、完全な意味でのことば」ということになります。とすると、第二の問題点であった、

②、共時態(ある時期の言語)と通時態(今までの言語変化)の区別は、言語の変化によるリアルを無視している。

と言う内容は、これまた「ソシュール自身の考え」への問題点ではないということになります。また、第三の問題点である、

③、全体的に歴史と変化を軽視している。

についても、むしろ「状態変化」を重んじていた彼への批判ではないんです。

『一般言語学講義』の示した構造は、「時の止まった(静態)、時の止まり続けた構造」でしたが、

ソシュール自身は、その構造の変化も含めた「動いている(動態)、今なお動き続けている、ことばのリアル全体」を見ていました。

ここでもやはり「共時態と通時態」の二分法は、

先ずは混同を避けるべく備わる仕組みの選り分けをし、かつ方法論的には(方法としては)共時態を優先する。しかし、それのみではいけない」と言う態度を取っています。

そして

「状態変化」によって「動き続ける(ズレ続ける)リアルなことば全体」を見たソシュールさんは、「ことばとは、いったい何であるのか?」に気付いてしまいます。

ですが一旦先にシニフィアン(聴覚映像)とシニフィエ(意味内容)、シーニュ(記号)について少しおさらいしていきます。

シニフィアンとシニフィエ。その結びつきがシーニュ(記号)

記号の織り成す言語は、その構造の中で動く状態変化による「動き続けるリアルなことば全体」を見ていたソシュールが気付いたものは何でしょう?

先ずは前回、長々と説明したシニフィアンとシニフィエ、そしてシーニュ(記号)ですが、こちらでも少しおさらいしていきます。

「シニフィアンとは、聴覚映像」であり、「聴覚映像とは、音そのものではなく、聴いた音で浮かび上がる印象(音の心的な刻印)」です。

聴覚映像は、物理的な音、つまり純粋に物理的なものではなく、音の心的な刻印、つまり人間の感覚によってその存在が証拠づけられる表示である。

『新訳 一般言語学講義』

また、シニフィエとは、意味内容(概念)です。

シニフィアン(聴覚映像)とシニフィエ(意味内容)」は「分かちがたく結びついて初めて、記号(シーニュ)」として働きます。

「ステーキ!」と言われて、ステーキの「印象(聴覚映像)と意味内容」が浮かぶのは、ステーキがステーキと言う記号として、日本語では成立しているからでした。

そしてそんな記号の成立は、他のどれでもない「それ以外、それではない」という全体の関係から生じます。

「ステーキがステーキと言う記号として」私達の言語内で機能するのは、

「ステーキが、たこ焼きでも、スシでも、パスタでも、他のどれでもない。つまりステーキ以外、ステーキではない」からです。

または、新しい何かを初めて発見した時に、それが全く新しいと言えるのは「その特徴に独自のものを含む」からです。これは言い換えれば「他のどれでもない特徴が少なくとも一つはある」ということなので、やはり否定的な差異関係(【ではない】という違いの関係)から割り出しています。要は「ほとんど一緒で同じに見えるけど、この特徴に関しては、他のどれとも違う。したがって、これとそれは、同じ【ではない】ということです。

またそうなると、何かを示す記号とは、それひとつでは成立せず、他のものとの【ではない】という関係があって初めて成立します。

加えて、記号は「聴覚映像と意味内容の結びつき」なので、心的なもの(心に関する二つのイメージ)として機能しています。

さて、結論が近づいてきました。次は、言語の恣意性を見ていきますが、こちらでは私達が抱く「価値」についての話が出てきます。そしてこれはとてもとても重要な部分です。

二つの恣意性

前回、この言語の恣意性」について纏めましたが、実は「言語の恣意性」には二種類あります。

言語の恣意性①~記号の恣意性~

ひとつ目は、「記号の恣意性」ともいえるような「言語の恣意性」です。

記号の恣意性は記号は聴覚映像と意味内容として強く結びついているものの、それが心的なもの(心に関する二つのイメージ)であるがために、実のところその結びつきには論理的根拠がない(=私達の心の共通了解によって結びついている)ということです。

記号が「聴覚映像と意味内容の結びつき」として機能するには、「その記号が心のイメージ(心的なもの)としての共通了解を生んでくれれば成立するんです。

とりあえずひとつ目に関しては一旦切り上げ、ふたつ目にも触れていきます。

次がとても大きな意味を持ちます。

言語の恣意性②~(言語による)価値の恣意性~

ふたつ目は、「価値の恣意性」ともいうべき「言語の恣意性」です。

価値の恣意性は、記号と記号の関係差異が、言語の関係を作り、そしてその関係(記号と記号の差異)によって価値をも規定してしまう。」ということです。

つまり、「私達の抱く価値すらも、言語によって強く規定されている。」と言う事です。

…これについては納得がいかない方が多いと思います。

ですが、ソシュール自身をも驚かせ、悩ませたのは、この「価値の恣意性」です。

言語を愛したソシュール自身が、ことばに深入りすればするほどに、抗いたくとも抗えないような「価値の恣意性」と対峙することになったんです。

この「価値の恣意性」なるものをもう少し紐解くのなら、

価値は私達の認識から生まれる。これは間違いない。なぜならなにも認識せずに価値は生まれるはずもないから。認識によって、何かと何かの関係が比べられ、そしてそれによって、価値は相対的に(他との関係によって)決まる。では、社会生活をする私達の認識は何を基に識別し、区別するのか、と考えると記号と、それの織りなす言語によってだ。

と言えてしまいます。

つまり、より短くまとめると

価値は認識により、相対的に決まる。そしてその認識は言語によって規定されている。となり、また逆から言えば、

記号が織りなす言語が、認識を規定し、その規定され、既に構成された認識によって、価値をも相対的に規定するとなります。

生まれた時から既に言語が浸透している私達からすれば、言語が認識や価値を規定している、なんてことはまず気付く事すら難しいものです。だからこそ私達が抱く価値は、自分自身の独自の認識から生まれた価値だと。絶対的ではないにせよ、自信を持って「これが私の価値だ。」と、言えるものでした。しかし「価値とは言語によって規定された認識から、相対的に(他との関係の対比によって)生まれたもの」だということに、ソシュール自身が、ことばの深海で、出会ってしまいました。

ことばは、実体を表すものではなく、心的な社会的産物である

そして「価値の恣意性(言語の恣意性②):言語体系(言語の全体関係)が価値体系(価値の全体関係)を相対的に規定すること。」と「記号の恣意性(言語の恣意性①)記号における結びつきに根拠がないこと」は、

(記号の織り成す言語体系による)価値の恣意性②を基として、記号の恣意性①が発生すること」を意味します。

つまり

言語体系があるからこそ、その関係の微妙なズレ・再配置が起き、記号の印象と意味の心的な共通了解の結びつきが変わる。ということで、これは要するに、

言語を成立させる記号自体が実体を正確に表すものではなく、むしろ心的なもの(心に纏わるもの)だからこそ、変化をし、その区別の仕方もその範囲すら異なっているし、異なってもいく、いわば心的な文化的・社会的な産物である。と言うことです。

おそらく言語は、私達がナマのデータのままとして取り扱うことが難しいがために用いられた、共通了解のための「可視化装置」なのだと思います。

まるでビッグデータを可視化しないと取り扱いが出来ないかのようなものです。可視化は、どの特徴を取るか?によって、様々な視点が生まれます。統計が学問として成立することそれ自体が、私達人間がナマのデータ、ナマの現象をそのまま取り扱えない、ということの一つの証左でもあります。

まさしくこの可視化のための視点のひとつが、言語なのだと思います。

あまりにも複雑で、境目のなかった世界に、少しずつ共通了解を得ながらも区切りを入れ、区別がつくよう可視化すること。これが私達の能力(分節・区別し、カテゴリー化する能力)として備わっているのでしょう。

そしてこの【カテゴリー化能力】の事を、「ランガージュ、ランガージュ能力」と、ソシュールは呼びます。

「言語活動」と訳された「ランガージュ」は、

「可視化のためのカテゴリー化・形相化(カタチ化)能力」

という方が「原資料」の観点からすれば、より明確な定義です。

ソシュールは

「ことばは、可視化のための実質の形相(カタチ)化、無分節の世界の分節(区切り)化、非記号の記号化」だと、看破して(見破って)しまったからこそ、

前回の最後で言及した、【星雲のようなもの】という発想が生まれるんです。

つまり「実質、無分節、非記号の世界」が、ソシュールのいう【星雲のようなもの】なんです。

ソシュールは、

「実質の形相化(カタチ化)が言語であり、その形相化されたものを、我々は実質とみなしている。」

と気付き、驚き、悩んだんです。言語を愛する人が、言語のおかしさ(実質のカタチ化、及びそのカタチの実質化:世界をことばでカタチ化し、そのカタチ化したものを実質としていること)に気付いてしまう。おそらく誰よりも大きな痛みを抱えていたのは、ソシュール自身だったのだと思います。

また、前回見てきた『一般言語学講義』でも「価値」については触れられています。しかし、前回の説明において「価値」について触れなかったのには理由があります。

と言うのも『一般言語学講義』では、「価値と言語」が逆転してしまっていて、先に触れることが困難だったからです。

ここでは『一般言語学講義』と「原資料『デガリエのノート』」を引用していきます。

価値は、相対的であるが故に、シニフィアンとシニフィエの絆は恣意的である

『新訳 一般言語学講義』

諸価値は、その絆が完全に恣意的なるが故に、全く相対的である。

『デガリエのノート』

原資料では、「原因が記号の結びつき、結果が価値」です。

しかし『一般言語学講義』では、「原因と結果が逆転している(価値が原因で、結果が記号の結びつきになっている)」んです。

これについて説明すれば、そもそも『一般言語学講義』自体が、「ラングのみの共時態(ある言語のある時期)」を研究すべきとしています。またそうするためには、「既に構成された言語」にその研究範囲を絞らなければなりません。「既に構成された言語」に留めるには「既に構成された価値が先にある」とし、またそれを前提としなければ、「ラングのみの共時態」の外側である「変化する言語」を、つまりは「パロールと通時態」を、無視できなくなる、という事態が生じてしまうために、逆転させたのでは?と考えられます。

簡単に言えば、

そうしないと(価値が先立つとしなければ)、変化を無視できなくなる」と言う事です。

この逆転についてはこれくらいにして、

おそらくは依然として「記号からなる言語が、心的な社会的産物(心の了解によって生まれた社会的な区別)」というところに、まだ引っ掛かりを覚える方も少なくないと思います。

ですので、

「言語(ことば)が心的な社会的産物で、価値もまた然り」ということを、おそらく最も分かりやすく説明してくれる、「紙幣」について見ていきます。

紙幣は、平均すると一枚20円に満たない紙です。

しかし紙幣は、「それが一万円札である、五千円札である」などのように、「社会に受け入れられ信用を獲得したからこそ」、物品との交換を可能にする券として機能します。

紙幣は、むしろ心的な信用からなるその「価値」によって、効果が担保されています。

また加えて、近年では「ポイント」でも機能します。もはや紙すら必要としません。データであっても価値が損なわれないのは、それが「社会に受け入れられた、心的な信用・価値」だからです。

こういった視点から見ていくと、その他のことについても、実に枚挙にいとまがありません。私達の社会は「心的な価値」によって成り立っています。

…しかしここまで、なにか悲観的になってしまいそうな内容を記してきましたが、これはなにも悲観的に捉えてください、というつもりで言及したわけではありません。むしろずっと先延ばしにしていた「似ているけど、異なる」の意味・可能性について触れながら、逆転してしまうような可能性の話をするための布石です。

この話については最後に纏めるとして、その前に一旦、「ソシュールの更なる挑戦と葛藤」を見ていきます。

記号学による乗り越えに何年も挑戦し、そして沈黙する

ソシュールは「ことばが、場所や時代によってその分節の仕方・範囲を変える、心的な形相化(カタチ化)による文化的・社会的産物」であることに気付きました。しかし彼は、それすら乗り越えようと奮闘します。何よりことばが好きだったから、このことば自体を「記号学」として変革しようとします。

彼は、今ある言語が社会的産物であり、構成されたものであれば、「構成のし直し」も可能ではないか?と思い立ち何年も挑戦します。

では、彼は「記号学」によって何をしようとしたのか?と言うと、

端的に言えば「生きた記号、生きた言語」を模索していた、と言えるかも知れません。

ちなみにここでいう「記号学の記号」については、文字列や発声のみならず、文化によって生まれたものまで含みます。例えば道路標識だったり、サインランゲージだったりです。

ですが、ソシュールはそれらも記号としながらも、「基本的には言語が最も説明が可能な記号として機能している」として、やはり言語を中心に研究を続けます。

さて、記号学によって、新しい創造を言葉に取り入れるべく、彼は「神話・伝説研究」や「アナグラム研究」をします。一見するとその研究内容は、記号や言語の変革において、いったい何の関係があるのだろう?と思ってしまいますが彼はやっぱり天才です。視点が違います。

「神話・伝説研究」をした理由は、

神話も一つのシンボル(象徴)で構成されている。神話や伝説の状態と変化は、言語の状態変化の様に面の全体関係とその変遷で起きている」と考えたためで、その変遷具合はまさしく新しい創造に満ちていて、その創造の力が、言語変革の要の一つになるのでは?と模索しました。つまり神話は、「多くの人に受け入れられてきた創造の一つ」であったため、そのような研究をしました。

また、「アナグラム研究」では、「詩」を中心に研究しました。詩は、作品を生み出すべく新たな創造をします。

言葉を巧みに扱い、入れかえ、壊し、文字を飛ばしては、結果その内容以上の効果を言葉に生み出します。

彼はその研究で、詩的な技法には「アナグラム、アナフォニー、イポグラム、パラグラム」の4つがあり、これらが入れ子状に(多重構造として)複雑に関係しながら、詩を成立させているとしました。

線状に並ぶ言葉を空間へと飛ばし、更に空間から時間へと次元を拡げながらも、実質と形相を行ったり来たりしながら、生きた言葉、生きた言語を捕まえようとしました。

ただ残念ながら、結果として彼は「沈黙」してしまうのです。

おそらくは、「生きた言語」を生み出せなかった、ということと、そもそも「いまある言語」なるものを変革するには、社会の受け入れが必要な点が大きな障害だったこと。そして何よりその変革は万が一受け入れられたとしても、すぐ惰性化してしまう(元の言語の様になる)可能性が高く、そしてそうなると常に入れ替え、常に創造し続ける他ないものとなります。

そんな今より常に変わる言語に、共通了解を保ちながらも私達がついていけるかと言うと、相当な困難が伴うものだと言えるかと思います。

僕らにはまだ、出来ることがある~私見としての可能性【急】~

ソシュールが沈黙してしまい、また「常に創造し続ける生きた言語」は今のところその達成がかなり難しいと思います。

しかしそうなると、「ソシュール自身の考え方」によって、世界が言語で切り分けられる以前と以後の、

「実質、無分節、非記号の【星雲のようなもの(世界)】」

「言語という、社会によって形相化(カタチ化)され、分節され、記号化された世界」

という、【実質(カタチ以前)の世界】と、【形相(カタチ以後)の世界】のはざまに置いて行かれたような、このやるせない状態を、一体どうしたらいいんでしょう?

ここにまず視点がある。人間はその視点によって二次的に事物を創造する。…いかなる事物も、いかなる対象も、一瞬たりとも即時的に与えられていない。

『ソシュール手稿 9』

ことばのなかに自然的事象を見る幻想の根は深い。

『ソシュール手稿 9』

私達は「既に構成された言語」の只中にいます。しかしおそらくは、このような言語による見方には、こう言った反論もあるでしょう。

「そうはいっても私達には生物的な認識。つまりは人間としての認識もあるじゃないか。これを無視するのは違くないか?」と言った反論です。確かに一理あると思います。ですが、その生物的認識も、言語によって既に【心的に】細分化され、上書きされてしまっていて、少なくとも意識下における認識したものへの思考も、言語によってなされているかと思います。仮に全く社会に属さないような単独生活者がいた場合、そのとき初めて人間本来の生物的認識によって、モノを区別すると思いますが、その区別は「注目に値するモノのみ、注目せざるをえないモノのみ」に行い、かつその区別の仕方、区別の範囲は、私達の常識とは全く異なる可能性が極めて高いと思います。ひょっとすると、区別したモノだけが「他者」で、大自然そのものを「自己」だと、あるいは自己ですらなく「大自然そのもの」だとすら、感じる可能性だってあります。そしてそんな生物的認識による区別もまた、その生物毎に「構成された知覚」に基づいて行われます。事実、生物によって世界の見え方は、様々異なります。偉大な生物学者であるユクスキュル風に言えば我々は我々の【環世界】に生きているのであって、環境に生きているのではない。(生物毎の知覚機能を基に、生物毎に感じる世界を生きている。)」ということになります。となれば、私達のような社会に生きる人間は言語によって細分化された認識の基、言語による「環世界」を生きている、と言えるのだと思います。

また、日本人初のノーベル文学賞を受賞した川端康成は

「言葉は人間に個性を与えたが、同時に個性をうばった。ひとつの言葉が他人に理解されることで、複雑な生活様式を与えられたであろうが、文化を得た代わりに、真実を失ったかもしれない。」

とこのように言います。

だとすればソシュールや川端康成の様に、動揺しつつも沈黙するしかないのでしょうか?

…いや、そうとも限らない。

冒頭の生い立ちの部分で

「ソシュール自身の今出せる考えを惜しげもなく展開するため、自身の中にあったためらいも、分からないところも、隠すことが無かった。」と言うことに触れました。

おそらくは、このやるせない「状態」を乗り越える(あるいは受け止める)ためには、こう言った態度が。つまりはためらいも、分からないところも隠すことなく、言及していくことによる「変化」にこそ可能性があるのだと思います。思うに彼自身も、彼が感じた言語に対する「空しさ」をどうにか払拭したかったため、ためらいを隠さなかったのだと推察します。

また、ソシュール研究の第一人者である、丸山圭三郎はこう言っています。

ラングは海辺の砂地の上に広げられた網のようなものである。ラングの網次第で、砂地には様々な模様が描かれるのを指摘したのもソシュールであるならば、なによりも重要なこととして、この網自体はア・プリオリには存在しなかったこと、網を作ったのは人間であること、したがって網を破り棄てることも、網を作り直すことも人間によって、可能であることを《恣意性》の原理によって示唆してくれたのも、またソシュールであったと言えるだろう。

丸山圭三郎 『ソシュールの思想』

※ここでのア・プリオリとは「経験に先立って、生まれ持つもの」のこと。

私達自身も、これから一緒に「網の作り直し」を試みてはどうでしょうか?社会全体が困難なのであれば、個として、試みてはどうでしょうか?

【序】と【破】を通ったならば、【急】をもって【序破急】という、一つの「舞・演奏」としましょう。

ここから、「未だ個々人の中に存在しなかった網によって、その網全体の関係の作り直し」を、ことばの可能性によって試すべく「ためらいながらも分からないところも隠さず」触れていきます。

ことばの功罪(功績と罪)~①ことばは規定する、しかしだからこそ道しるべとなり得る~

世界はことばによって分節され続け、文化・社会的に細切れになりました。

しかし物事は大抵、良くも悪くもです。

「ことばによる分節化と細分化」は必ずしも悲観的になるばかりではありません。

なぜなら、私達の言語による分節化によってその意味が限定されることは、方角の分からないような状態に対し、その限定作用が道しるべの様に働き、ある方向を指し示すことが出来る、ということ。つまりこれもまた、言語による能力であり、メリットにもなり得るものなんです。

そもそもこの全体の内容自体が、一つの視点としての道しるべであるからこそ、【その内容によって、言語の全体関係がズレ、認識が変わり、その認識から価値すら変わろうとしている】んです。

これを忘れてはいけません。

「似ているけど、異なる」私達の脳内ラングは、今まさに「異なる部分」に触れ、認識を変え、価値をも変え得る一つの可能性を触れているんです。

つまり、①ことばは規定する。しかしだからこそ道しるべとなり得る」これが第一の可能性です。

【地続きの二つ・シームレスな二つ】が二分法である。~②記号と非記号、形相と実質は地続きである。~

ランガージュによる「カテゴリー化能力」。

つまりは「非記号の記号化、実質の形相化(世界のカタチ化能力)」について、

その記号化と形相(カタチ)化を成立させ、区別するためには「それ以外、それではない」と言うことを確立する必要がありました。

だとするならば、「非記号の記号化、実質の形相化」の逆である「記号の非記号化、形相の実質化(カタチ以前への還り)」を「①ことばは規定する、だからこそ道しるべとなり得る」と言う可能性を用いて、言語によってさかのぼる様に、滲み寄ることもまた、可能ではないか?と考えることも出来るのではないかと思います。

方法論の確立には、ことばの限定作用を用いることが、できうるはずです。

そもそも、

【星雲のような世界認識】と【私達の言語による世界認識】はまさしく「二分法」です

ソシュールの「二分法」は【地続きの二つ・シームレスな二つ】です。であれば、それをここでも使用すれば、地続き的にさかのぼることが出来るはずです。一見矛盾し対立する二つは、実は相互関係なのですから。どちらも「隔絶された小島」ではないんです。またよくよく考えても見れば、全てが言語によって細切れになったか?と言うとそんなことは全くないですよね。自然からの新たな発見も、社会からの新たな言葉による細分化も、常々生まれています。とすると、私達は気付いていなかっただけで、二つの世界認識の曖昧な位置に最初からいた、とも考えられます。

またソシュールは言語学者です。言語を愛した彼の最終的な帰結は言語に寄らなければいけないような立場です。(丸山もこの立場で模索するべく、「ラング化されていないランガージュ」なるものも探求していました。)

しかし私達は、

【星雲のような世界認識】と【言語による世界認識】からなる「二分法」により、

対立の様に見えても、実は相互関係にある」こと。

二つの世界認識を、混同を避けつつも相互関係を探ること。どちらか一方に寄ることはあっても、どちらかのみでは、いけない」ということ。

これらを踏まえて、考えることは出来ます。

仮にも、ソシュールの言う【星雲のようなもの】に入り浸り、言語の網を完全に破り棄て、社会的な視点を失えば、社会生活自体がままならなくなるでしょう。そういう意味でも、社会的な理解や視点があるということ。また、こう言った内容に触れることが可能であるということ自体も、なにより、言語のおかげです。

【星雲のようなもの】にずっと入り浸ることは、山にこもるような、隔離された生活であれば可能かもしれません。しかしそれでは、片方のみになってしまいます。

そうではなくて、

どちらも大切にしたらいいんじゃないかって、思うんです。

言語には、認識を変え、価値すらも変えてしまう能力があるのであれば、むしろそれを利用して、日常を大切にしながらも、【星雲のようなもの】という実質なる無分節の世界に、言語によって滲みより、また言葉をも大切にしていくこともまた、可能だと思います。

また更に、別の言い方からも考えてみると、

私達の認識が「離散的認識(とびとびの認識)」だとするのなら、

【星雲のような】認識は、「連続的認識(つながりの認識)」とも言えます。

私達の認識が「離散的(とびとびのモノとモノ)」として成立しているのは、普段は「連続的(つながるコトとコト)」の成している目に見えない相互関係をそれほど意識していないところにあるのではないか、と思います。記号の成立自体が、違いをあぶり出しては、その違いとされる関係に一線を引くことで成立しています。違う関係に対して【ではない】による「仮切断」しなければ、【である】という記号は、成立しません。認識・区別のために「仮の切断」をしている状態です。であれば、その全く逆であるその相互関係の「仮、の切断」を繋ぐような「接合」にも意識を向けてみることが可能だと思います。対立の様に見える何かに、むしろどのような相互関係の基、成り立っているのかを考えてみることも出来ます。

また言語は、心的な区切りではありますが、その言語が表す中身は、何も詰まっていない「空虚」なものでもありません。びっしりと詰まった中身であることは、疑いようもありません。そのびっしりと詰まった、限定することで「中身」としているものを、今度は接合の基、詰まったままに区別を曖昧にしていく。主体化と客体化を、ひとまずは退けながら。

身体の内外が相互に関係しているからこそ、この身体の維持が可能なわけで、これは意識しようがしまいが確かに起きています。たとえ空の瓶であっても、その中身は厳密に見れば、空ではありません。私達は今確かに、その「空」とみなされたものを、事実吸っては吐き出しています。

これが二つ目の可能性としての「②記号と非記号、形相と実質は地続きである。」と言うことの提示です。

私達は意識的に忘れる、ということが出来ない~③価値の変化は大切なものほど、塗り替え・上書き式が有効である~

私達の脳は、意識的に「忘れる」、ということが出来ません。

むしろそれを「忘れよう」と考えるほどに、脳の神経活動は活発になり、それに関する神経を発火させつつ、思い出していることになります。

つまり、「忘れる」という方法は、あまり有効ではないんです。私達が「忘れることが出来る」というのは、「気にも留めなくなった時、乗り越えた時」、起きやすいものだからです。

であれば、より価値を変化させるための有効な手段は、自身によって「新たに覚え、塗り替える」ことです。

脳は、大切なものほど忘れることが難しい。だからこそ「塗り替え」による上書き・全体関係への介入が有効なんです。

また、何かしらの考えを用いるためには、いずれにおいても「ことばによって滲み寄り、最後の最後は自らの身体・感官でもって感じ、実践することが重要」と言う点はどの考えも変わりません。

このことから、第三の可能性である、「③価値の変化は大切なものほど、塗り替え・上書き式が有効である。」を提示します。言い換えれば「知ってしまったのなら、それごと進むことが重要です。」と言うことです。

さて、以上3つを取り上げましたが、ここで一旦列挙しておきます。

  • ことばは規定する、だからこそ道しるべとなり得る。
  • 記号と非記号、形相と実質は地続きである。
  • 価値の変化は大切なものほど、塗り替え・上書き式が有効である。

この3つの踏まえた上で、更に「言語についての問題提起」をもう一つしつつも、それごと乗り越える。そんな話をしていきます。

言語の固定性~記号自体が、常に変化している現実の躍動と力動性を一端、かつ過去としてしか、表すことができない。~

『一般言語学講義』は「ラングのみの共時態(ある言語のある時期)」に絞ることで、言語分析のための理論を確立しようとしました。しかしこの理論は、「言語の変化のリアルを無視している」と言う問題も同時に発生させていました。

他方で「ソシュール自身(原資料)の考え方」では、ことばのリアルを見事に見破っています。しかしそれと同時に「ことばのリアルでも、そもそも現実の動き、躍動というリアルを表し切れない。」さまも、垣間見えます。

言葉によって言う、そして書く、ということをよくよく考えてみると、「今この瞬間の一端の記号化による痕跡化(言い、書き、その一部を残すということ)」にはなっていますが、記号化されるのは「ほんの一端」であること。また、記述され記号化されたものは、「痕跡」であって、記述がなされた時には既に、過去へと置いて行かれる「今の痕跡化という、過去(言った時点、書いた時点に留まるもの)」でもあります。

例えば仮に、「未来のことを今、考え記述した」としても、記述した時点で、厳密には今現在考えたことではなくなっている、ということです。

つまり、

ことばは、記述・発声時点で固定的に時を止めてしまう(痕跡化してしまう)所があります。ソシュールはおそらく、これも含めて「ことばとして」乗り越えようとしていた(生きた記号への挑戦をした)のかもしれません。

そしてこれを

「問題提起:記号自体が、常に変化している現実の躍動と力動性を一端、かつ過去としてしか、表すことができない。」

という、もう一つの問題提起として取り扱い、これをも乗り越える試みをしてみたいと思います。

先に「ことばの3つの可能性」に触れました。

  • ことばは規定する、だからこそ道しるべとなり得る。
  • 記号と非記号、形相と実質は地続きである。
  • 価値の変化は大切なものほど、塗り替え・上書き式が有効である。

この3つを組み合わせ、並び変えつつ、帰結を導き出していきます。

帰結としての乗り越えの試み。ためらいを、ためらうことなく

私達は「既に整った社会制度である言語」の只中にいます。

言語は、私達の認識を規定し、それを基に価値をも相対的に規定する強い力を持つ、心的な社会的産物です。

既にあり、価値をも規定する言語。一見すると悪いところばかりが目立つような言語ではありますが、これは「良くも悪くも」であり、その良い点を活用するように働かせる手段を、考えていきます。

先ず「価値」についてです。「価値」は、言語同様に、言語を基として「構成されたものでありながら、変化するもの」でもあります。固定的ではあるものの、完全に固定されたものではありません。

では、どのように変化を促すのか?と言うことを考えた時、

「価値の変化は大切なものほど、塗り替え・上書き式が有効である。」先ずはここから始めてみます。

価値関係の変化は言語関係の変化(認識の変化)に基づくからこそ、新たな方法論は、あらたな言語関係をもたらし、その結果として価値を「ズラし、再配置」します。つまりは、認識の範囲が変われば、価値もまた変わるということです。

新たな方法論が、初めはおぼつかなくとも次第に確実に、その諸々の関係に変化を促します。

そして私達の脳内ラングは「似ているけど、異なる」ものでした。

この「異なる」にこそ、認識変化と価値変化の可能性が詰まっています。

また、「ことばは規定する、だからこそ道しるべとなり得る。」ことも可能性としてありました。

新たな方法論の確立もまた、先ずはことばに寄り、道を確立することが重要だと感じます。

ことばによる分節と細分化による、限定作用は、右も左も分からない状態に、道しるべをもたらします。いずれかの方向へと滲み寄るには、少なくともいまある言語は、かなり優れたものです。

そして今回私達は、

ある種「記号的・形相認識(言語による認識)」と「非記号的・実質認識(言語以前、もしくは言語によらない認識)」との、はざまに立たされ、宙ぶらりんにさせられてしまいました。

しかしこちらも、

「記号と非記号、形相と実質は地続きである。」ことを思い出せば、

二つの認識は対立の様に見えて、相互関係なのです。また加えて、

どちらか一方に寄ることはあっても、どちらか一方のみでは、何かしらの弊害が生まれもします。

また、先の問題提起であった、

「問題提起:記号自体が、常に変化している現実の躍動と力動性を一端、かつ過去としてしか、表すことができない。」、これ自体が、

「過去の記号化」と「今この瞬間の経験」の地続きな二分法、に捉え直してみることも出来るのではないかとも思います。

例えば、「今この瞬間の経験」は、私達が認識し区別する直前までは、ひょっとすると記号化する以前の経験、なのかも知れません。つまり、

「記号化以前(非記号)→知覚→統合の始まり・過去(脳内ラング)との照合→記号化→思考→発話化・文字列化」の過程があるとすると、記号化以前(非記号)と記号化の間には「それ(記号化)へと移行する瞬間的な移行」があるのかもしれません。

またもしそうであるとすれば、私達は誰しも、「記号化・分節化以前の(非記号・無分節の)今この瞬間の連鎖」を既に、そして常に経験していることになります。

現にこの瞬間は、全てを言語化できないことが悔やまれる程度には、豊かな、表し切れない瞬間でもあります。

「過去」と「今この瞬間」を選り分け、その相互関係を意識しながらも、ここでは先ずは「今この瞬間」に寄る形でとことん向き合い「砂地を見る」。しかし最終的には、翻(ひるがえ)って「網をも見る」。つまりは「砂地を見ながら、網をも見る」ような「同時に二重の認識、二重の見」を持つ、といったようなこともできうるかもしれません。どちらも捨て置かず、どちらも大切にしながら。

言い換えれば「依言からの離言、離言からの依言(ことばに依って、ことばを離れることを可能性として示し、しかし同時に戻っても来れる)」を先ずは試してみる、ということ。

ソシュール自身が「ためらい」を隠すことがなかったように、私も今はただ、そんなことを思いながら、新たに探っていこうと思っています。

さて、両方を大切にしながら、滲み寄る。こう言った方法は、

実のところ既に「西洋哲学」にも「東洋哲学」にも、あります。

西洋では、「メルロ=ポンティの著作である『知覚の現象学』、『シーニュ』、『見えるものと見えないもの』など」はソシュールに近い記号の捉え方をしていますし、また【星雲のようなもの】のきっかけとして、「フッサールの『現象学の理念』、『イデーン』」も、いいかもしれません。(実際、実存主義で有名なサルトルは、フッサールの現象学によって、記号化以前の世界を「視た」ようです。ただし、サルトルにとってその経験は思わしくないものであったため、フッサールとは、たもとを分かちます。)

また東洋でも、「二分法と地続きの二つ」と言う考えが好みであれば、『大乗起信論』(出所不明、出自不確実でありながら、東洋に絶大な影響を与えている書物)はまさにその形式を取っており、かつ東洋の真髄を「迷うこともなく、二分法によって」感じられます。(個人的にとりわけ東洋は迷いやすいとも感じます。)

加えて、井筒俊彦の遺作『意識の形而上学』は、この東洋の偉大な書物『大乗起信論』をこれ以上ないくらいに見事に解説されておられます。

「メルロ=ポンティ」は後の人々に「両義性の哲学」とも言われる考えを展開しています。

ポンティは『ソシュール手稿』などがまだ発見される以前に、なぜだか『ソシュール手稿』にとても近い考えを持っています。私たちは言葉が制度化している世界の中を生きている、辞項には差異しかない、と言ったような表現があり、これは『一般言語学講義』をポンティ自らの手で発展させたものです。)

ただし他方では、とてつもなく難しい内容にもなっています。

また、井筒俊彦は世界の中でも、最も語学に精通した一人でありながら、東洋哲学についてもその天才っぷりを存分に発揮していた人物です。

井筒は、ポスト構造主義の巨匠である、ジャック・デリダに巨匠と呼ばれた、

いうなれば「巨匠に巨匠と呼ばれた大巨匠」です。また、司馬遼太郎からも「20人のくらいの天才が一人になった人」と言われた方です。

私自身、井筒の『コスモスとアンチコスモス』という論文集を初めて読んだ時、その圧倒的な思考の広さと深さに、まるで頭をトンカチで叩かれたような衝撃を覚えたのを、未だに記憶しています。

また科学であれば、「相対性理論」や「ループ量子重力理論」などの現代物理学のモノの見方は、非常に参考になります。現代物理学では「場」が重要です。従来の古典物理学的な「物と運動」の見方ではなく、「場としての関係、現象」に重きを置くことで、物理学は次のステージに飛び込んでいます。(また非常にややこしい話で恐縮ですが、現代の理論物理学では、離散的な見方から連続的な見方へと重きを置き、突き詰めた結果、最小のスケール(プランクスケール)では、どうも再び離散的な現象が起きている可能性があるようです。つまり簡単に言えば、私達は最小の時間(プランク時間)から見れば「世界はテレビのコマ送りの様に現象しているかもしれない」、という事です。とはいえ、まだまだ可能性の段階です。ともあれ要は、離散的は紐解いて見たら連続的だった。でもその連続的も極限の最小単位では、細切れの連続性(離散性)、なのかもしれない、ということが理論としてはあり得る、ということです。)

おそらくは今回の内容をここまで読み進められた方は、幾分か迷うことも少なく、その広い思考に触れることが出来るかと思います。ためらいながらも、ためらうことなく、進めや、進め。

さて、「西も東も大切に」しながらも、今回はここまでとします。

今日のあなたの一日が「二分法による地続きの二つに、言葉によって滲み寄り、言葉をも離れて滲み寄る。」そんな一日である事を願って。

読んでいただきありがとうございます!

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