今回は、「お金は対象をモノ化する」と題しまして、大抵のモノが買えるこんな時代だからこそ、一考したいことについて考えていきます。理論や実例を簡単な形で盛り込んで、「現代社会において拡大しつつあるもの」と「再確認したいもの」を見ていこうと思います。
では、早速いきましょう!
「なんでも買える」な現代社会
「お金」というものは、現代社会では切っても切り離せないものとなり、今やお金で買えないものは「ほとんど無い」と言っていいくらいになっています。特にアメリカでは非常に顕著です。
およそ数十年前に比べ、なんでも価格や価値が新たに付与され、かつては「それはさすがに売り買いしちゃダメだろ!」と言われていたものでさえ、今では当然のように買えてしまいます。
勿論かつてより便利になった部分も多くありますが、
売りたい人と買いたい人。
この2人が合意に至れば、「ダメ」のラインは相当に下がってきています。
また、「お金さえ払えば、これは正当な取引である」のような例も沢山生まれてきてもいます。
今回はそんな現代社会について、一旦立ち止まって考えてみようと思います。
先に言ってしまえば
「私達はどこに向かっているのか?」
という事にアプローチするような内容になっています。
人の善悪の判断を鈍らせる要因が「売買」によって発生する場合があるのではないか?という事について掘り下げていこうと思います。
ミクロな経済の根幹にあるのは「効用の最大化」
まず初めに、経済の根幹にある目的(ミクロな:個別性の高い目的)について見ていきます。
現代の社会でなんでもかんでも買うことが出来るようになる傾向が強まっているのは、
「効用の最大化を目指している」から、という事が大きな要因の一つと言えそうです。
経済に関する「効用とはなにか?」を簡単に言うと
「消費したい人に満足を与える度合い」くらいに考えると分かりやすいのかなぁと思います。
何かを提供することで満足する人が増えるのなら、それに沢山供給することによって満足する人はどんどんと増える。
満足してくれる人が多ければ多いほどに、みんながより「快い」と感じます。
つまり「効用の最大化」は
「消費したい人に満足を与える度合いの最大化」であって、言い換えれば、
「それに価値を感じて欲しがっている人がいれば、出来るだけ最大限に満足させてあげればいいじゃない。しかもそれが経済を回してくれる。」と言ったところです。
確かにみんなが満足するのなら、それには私も賛成したいです。
ですが、実際のところどうなんでしょう?
個別のニーズに答え続けることで、市場としての規模の拡大は成功している。そんな現状なわけですが、
このままもっともっと、なんでも買える社会になる事は、本当にみんなが満足できる社会の実現になるんでしょうか?
理論的な話は一旦置いといて、実例を見たら何かしら見えてくるかもしれません。
売血という「報酬制度」
1970年。イギリスのティトマスさん、という方が「イギリスとアメリカ、その他各国の献血方式の違い」についての意見を「贈与関係論」の中で示しました。
またここでは、イギリスとアメリカについてのみ見ていこうと思います。
イギリスでも、アメリカでも「献血」は行われています。ですが、大きく異なる点が一つだけあります。
一方のイギリスの献血は「ボランティア」によるものでありますが、
もう一方のアメリカの献血は、「金銭」を伴う活動が主流です。
つまりは
イギリスの「献血」による社会的活動(利他的活動)と、
アメリカの「売血」による市場的活動(利己的活動)を比べた場合、
どちらが有効なのかを調査したんです。
「ボランティア」と「金銭」での献血を行う2国ですが、どちらが機能するのか?を沢山の指標でもって示した結果、「ボランティア」形式の方が上手く回っている、とティトマスさんは言います。
実際に現在のアメリカでは、慢性的な血液不足が深刻化しています。
でも一体なぜなんでしょう?
理論上「金銭が発生した方が、よりそれに参加する人が増える」はずです。それによって売血に参加する人もちょっとした利益を得ます。だったら、「売血システム」の方が優秀なように見えなくもありません。
でも、実際はそうなっていません。
ここにはどういった原因があるといえそうでしょうか?
例えば、私達目線で「売血」について見てみます。
とある休日に買い物に出かけた際、そこに「売血会場」があったとします。
そこにいた受付の方が私達にこう言います。
「血液400mlで1,000円お支払いします。いかがでしょうか?」と。
誰かのためであれば参加したい気もしますが、その反面、「自分を商品化」するみたいで、ちょっと嫌な気分を感じる方もいらっしゃるんじゃないかと思うんです。
または言い方は悪くはなりますが、「1,000円欲しさに血液を売る人」のような感覚もあるんじゃないかと思います。
アメリカの主流な経済学者さんからすれば「金銭化による善性への影響はなく、経済効率は高まる」はずです。
でも私達はなにか「ちょっとした引っ掛かり」を覚えます。
実際アメリカでは、売血によって生計を立てる方がいらっしゃいます。
これに関しても、やっぱり「ちょっとした引っ掛かり」を覚えます。
さて、何かに動機付けして、行動の誘因をすることを「インセンティブ」なんて言ったりしますが、これまでは、
お金による「正のインセンティブ(誘因、動機付け)」、つまりは「報酬制度」が上手くいかないこともあるよ、という例を見てみましたが、次はその逆の「負のインセンティブ(誘因、動機付け)」も見ていこうと思います。次は「罰金制度」についてです。
決まりを破ったら「罰金制度」
社会や企業やお店の決め事に反した場合に起きる問題を、お金で解決しようとする。
その中でもここでは特に、「罰金制度」について見ていきたいと思います。
車の無断駐車、不法投棄など、
社会やお店のシステムを円滑するために設ける「罰金制度」が世界各国にあります。
「罰金制度」は、その事柄についての抑止になるし、未然に防ぐような予防となり得ます。
しかし、これにも問題はあります。
その顕著な例が「環境問題」です。
温室効果ガスについての「排出量取引」のような
「削減目標を超えてしまった分は、他国に売りつけるか、他国の環境汚染の削減をすればいい。」的な考えは、抑止にはなり得ますが、根本的な改善策にはなっていないと、多くの人は感じるんじゃないかと思うんです。
極端に言えば、ものすごい資本を持った国や企業からすれば「汚染許可証」にすらなり得てしまいます。
環境問題をお金に変換した途端に、
「お金さえ払えば、気にしなくていい。」になりかねない、という危うさがあります。
人間の中での取り決めには則しているけれど、実際の問題は解決していかないですよね。
汚染された大気は、単に「ごみ拾い」してどうにかなる問題では無いからです。
また、私の昔の記事で取り上げた話ですが
「とある海外の保育所が、親の皆さんにきっちり迎えに来てほしくて、遅れたら罰金を課しますと言った結果、皆こぞって遅れるようになった上、罰金を取りやめても遅れて迎えに来る親は増えたままになってしまった。」
という事が実際にありました。
親の皆さんが「遅れたら申し訳ない」と思う気持ちを、お金はどこかに隠してしまったんです。
「お金さえ払えば、気にしなくていい」は「お金を払わなくても、よくなった」になり、元に戻らなくなりました。
正であれ負であれ、こういった「お金によるインセンティブ(動機付け)」からなんとなく見えてくることは、「やっぱりそこらかしこに引っ掛かりを覚えるような気持ちが芽生える」という事です。
私達は市場の拡大を促す市場主義の中で、何かを見落としている可能性はないでしょうか?
私達がゾンビになりたくないのはなぜだろう?
さて、ここでちょっと変な話をします。
「ゾンビ」の話です。
おそらくは多くの方が「ゾンビ映画」のようなものを見たことがあると思います。
ここで、ちょっとだけ想像をしてほしいんですが、
例えば、
そのゾンビ映画の世界が現実になって、ゾンビになった人に噛まれたり触られたりしたら感染してしまうとします。
それと、せっかくのフィクションなんで、もう一個だけ条件を加えて、
ここでは「ただ単純に仲間を増やそうと、私達を撫でまわすことに特化」した
「なでなでゾンビ」が襲ってくるとします。
また、そんなゾンビになった人たちは皆「楽しそうに笑っている。」
でもこれを治す術はもうない。医療も文明も崩壊状態です。
世界はこんな状態にあるとします。
この場合であっても、きっとほとんどの人は「ゾンビになりたくない」と思うはずです。
これは一体なぜでしょう?
「ゾンビになりたくない」がために、
道なき道を逃げ回りながら、仲間が一人、また一人とゾンビになっていく悲しみを抱えながら、恐怖を感じながら、それでも私達は最後の最後まで逃げます。
外で響き渡る「笑い声」に、私達は昼も夜も恐怖します。
触れられたら最後、
「大切な何か」を失う
と、予期します。
何がこれほどまでに恐いんでしょう?
私達が失うことを恐れる「大切な何か」とは何でしょう?
恐れているものはおそらく、「自由意志の喪失」への恐怖だと、私は思います。
困難な状況に対処すべく、自分の力で考える事。また仲間がそうなって欲しくないがために必死になる事。
これら「絶対に失いたくない大切な何か」と「今現在置かれた、襲われる苦境」とを天秤にかけても尚、大きな価値を感じるのは、自分と仲間の「自由意志」なんじゃないでしょうか?
自分で選択して、自分で決めることが出来なくなり、ただひたすらに自分の目的とは違う目的に従うだけの存在になることへの「恐怖」を、私達は直感的に備えていると言えそうです。
さて、これらから鑑みて考察してみた時、私はふと思ったんです。
「快不快の最大限の追求に、自由意志はありそうでしょうか?」
例えば、
AIが私にあった品物を完全に取り揃えてくれるとした時、私は考えるのをやめてしまうかもしれません。
「快しかない世界」がこの先の将来で実現するのなら、私は不快を感じることなく生きていけることになります。
でもその先に「善い事悪い事」を自分で考えるだけの分別が残っているのかと考えると、おそらくはとっても薄れた世界かな、と思います。
「何かおかしい気がするけど、今いい気分だからまあいっか。」こんな気持ちになるんじゃないかと思うんです。
正直今現在の「AI」と呼ばれるものに、そこまでの力はない、と言えます。
あくまで様々なデータを取りそろえた最適解を提示するものであり、そこに「創発」はないんです。1+1=10のような、人間が得意とするような「創造性」はありません、と言いきっていいくらいの段階です。1+1はあくまで2です。
さて、少し話が飛躍しすぎたかもしれませんが、もう一度今ある問題に戻ってみます。
市場の拡大によって起きたことが
「お金の価値を更に強め(格差による不公平感の拡大)」、
「料金と罰金の境目を無くしつつある(善悪が腐敗し、快不快が成長しつつある)」
のであるとするならば、
半分は社会が、そしてもう半分は私達が「市場拡大の線引きが疎かにした」せいなのかもしれません。
そして再び線を引き直すだけの力があるのは「引っ掛かり」である「自由意志」の、とりわけ「善性」にこそあると、私は考えます。
「世界は事実の総体である」だとすれば
「世界は成立していることがらの総体である」
と天才哲学者ウィトゲンシュタインさんは言いました。
ウィトゲンシュタインさんの示した事とは、少し違う話になるんですが、今回はそのお言葉だけ拝借して、お話を進めるのならば、
世界で起きる事柄について、市場を通してお金に換算しているのは人間ですが、お金では問題解決できない部分、つまりは「お金という人間の作った概念では、世界への還元が出来ない事柄」が確かにあります。
にもかかわらず、この事実(成立していることがら)を認識しにくくなり、または認識しようとしないのは、問題に「蓋」をするばかりで、一向に解決の糸口にはならない可能性だけが残され、増えていきます。
「世界が事実の総体(事実が沢山成立することで世界が構成されているん)」だとすれば、「問題がある事実」を解決できるのは「解決可能性のある事柄」だけです。
もっと簡単に言えば
「その限界を飛び越えて、お金で解決できない問題をお金で解決しようとしているんじゃないか。」
という事です。
もっと厳しく言えば「お金欲しさに動くばかりで、思惑ばかりが横行している。」とも言えます。
お金に強い価値を見出したのは社会と私達であり、その社会と私達がお金とその価値を効率的に使用することで解決を図ろうとしています。しかし実際には「経済合理性」が「事実としての合理性」の方向には進まない事例がままあります。であれば、何か見落としている可能性があると考えた方がよさそうだと、私は思うんです。
そしておそらく、お金に換算してしまっているものの中に、お金に換算してはならないものも含まれつつあって、市場化しつつあるのかなと思います。
市場の拡大は、「人の善悪の判断を曇らせ、快と不快を強める」と思っています。「お金は対象をモノ化してしまう」事が実際いくつも散見されます。
市場の拡大がどんどんと進めば、
「私が不快だからやらない。たとえそれが善い事であっても。」
「私が快いからやる。たとえそれが悪い事であっても。」
こんな事例の増加が起きてしまうと思います。
人間の「善性」の部分を無視して、効率化を図ることで至る結論は、快不快によって動くだけの社会の実現なんじゃないでしょうか?
厳しい言い方をすれば「自由意志の基、行動しているように見せかけている快不快のみの世界への歩み」なんじゃないでしょうか?
また日本より遥かに格差が広がるいくつかの欧米諸国や中国などでは、割と実感できるレベルで「個人主義化」していることが言われているのも気になります。
遥か昔から協力して文化を作り上げてきた人類は、今では上っ面の協力体制を何とか維持し、誰もが自分一人の事で精いっぱいになりつつあると感じています。拡大するグローバル化は、反面徐々に、コミュニティの縮小を促し、今は「自分が良ければ」になりつつあるんです。
ただ日本の場合は、欧米諸国とは少し違った話になるかと思います。ここ数十年の日本の経済に関するデータを見ると、本質的な問題は「格差問題」よりも、「国内総貧困化問題」のように見えます。そして他国の日本の分析でも、このようなことが言われています。
嫌な言い方をすれば「現在の日本は格差問題がどうこうと言ってはいるが、新しい分野の開拓も弱く、また既存の企業の生産性が圧倒的に低い。では、日本の問題の本質は何か?という的確な指摘がある。」という事です。
ちょっと話が逸れましたが、世界の問題としてみた時、
社会は「いかに経済効率を高めるか?」を追求し、それによって個人は、「自分と同じ意見の人は正しく、それ以外は間違っている。」と言った意見に見られるような快の追求が起きてはいないかな?と感じます。(日本の場合は、「効率<既存の体制の維持」かなと思います。ですが、これも一つの「快の追求」の形なのかもしれません。だとすれば世界と同じく「善性の腐敗」は起きていると思います。)
いずれにせよ、まさしく「善性の腐敗と減退」と、それにとって代わるような「快不快の成長」が垣間見えている気がしています。
今回は世界の市場拡大的な話でしたが、これを鑑みて個人としてどう生きゆくか?は、私達に選択権があります。
だとすれば真に問うべきは
「この社会の中で、私は、私達は一体どう生きたいか?」
なのかも知れません。
モノは想いを伝える形としても存在できる~本当の意味での効用~
なんだか後ろ暗い話で終わりそうだったので、少しだけ市場のいい点を付け加えておきたいなって思います。
その想いを形に変える事も出来るんです。
つい先日、ひょんな事から妻の話を聞いた私が、心が温まった話をします。
私の妻のご両親はもうすぐ結婚記念日を迎えるんですが、
そんなご両親のために、今現在内緒で「プレゼント」を考えている、という話を聞きました。
「我ながら良い妻を持ったな」的な話じゃなくて、こういった「想い遣り」に当たる部分は誰しも持っている、と言う事です。(それでも尚、我ながら良い妻を持ったと思います。なんかすいません笑)
「ご両親の結婚記念日にプレゼントや旅行を、贈る。」
「誰かの喜ぶ顔が見たいから、想いを形として贈る。」
こんな素晴らしい事も同じくお金によってできてしまう事も忘れてはいけない事です。
またそれを聞いた周囲を含めて、心地よい気持ちにさせてくれます。
そんな「想い」や気持ちを私達は誰しも持っているんです。
想いを形に変えることは
「善意」でもってすれば、
経済活動として
市場として
可能であることも、忘れてはならないとも、私は思います。
私達が何を求めるか?によって市場の形が変わるのなら、
私達の選択を変えてやれば、少しずつ「善い形に延び、悪い形を淘汰する市場」が生まれゆくかもしれません。
今日のあなたの一日が「善性の腐敗を呼び起こす、市場拡大の危うさを知り、その反面、善性による市場の価値の再選定は心を温まらせ、善性を大きくする」という事を知る一日である事を願って。
読んでいただきありがとうございます!!