カンジョウの壁、ロンリの壁~①感情の壁~

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感情

今回は、私達の中には感情の壁を持つ人と、論理の壁を持つ人、そしてそのどちらの壁も無い人(壁に気付き、壁を取り払った人)、の3種類が大きな括りとしているよ!という話をしていこうと思います。今回はちょっと感覚的な話ですし、実証的なデータがある話ではありませんが、それでも日々感じることについて、お話ししていけたらなって思います。

では、早速いきましょう!

私達の心の中には「壁」がある


私達の心の中には、いくつかの「自分で設けた」壁があります。
これは本当に不思議な話ですが、とっても分かりやすい例があります。

例えば
腕立て伏せ10回しようかな!と思った時は、10回で限界が来たように感じますが、20回しよう!と思った時、なんとか20回もできてしまうものです。

さすがに肉体的な限界があるので、20回で限界が来る人が、100回、200回とできるとは言いませんが、それでも私達の感じる「限界」というものは、意外と私達自身の「自分で設けた壁」に左右されることは覚えておくといいかもしれません。

さて、今回はそんな心(または脳)の壁に着目して、私達の持っている「壁」についてお話していこうと思います。

そんなわけで、最初にご紹介するのは
「感情の壁」です。

感情の壁


人間誰しも、「感情」がありますよね。
怒ったり、悲しんだり、笑ったり、泣いたり、感動したり。

沢山の、それもとても複雑な感情を、私達は持っています。
その感情に浸ろうと思えば、浸ることもできるし、
その感情を否定しようと思えば、ちょっと無理する形にはなりますが、「いやいや、そんなことないし」と我慢することもできます。

そして、時にはこんな事も起きます。

「嫌なものは嫌!」
「それはきっと楽しくないだろうからやらない!」

好き嫌いも感情です。そして誰しもこんな気持ちを抱いたご経験があるんじゃないかと思います。

なんだか説明はできないけど、直感的に嫌で、対面する相手に「どうして?」と聞かれた時初めて、「理由」をその場で探したりします。

でもその時ある気持ちは、「嫌だから嫌」であって、理由とかは正直よくわからない。
つまりは「よくわかんないけど、嫌」という気持ちの時が、誰でもあるんです。(あるいはかつては、あったはずです。)

この時の私達は「感情の壁」を自分の心の中に建設した状態です。
これ自体はいつの間にか建設されるものなので、その壁を認識しない事にはどうにも気付けないものです。
反対に、気付いてしまえば、取り払う可能性が生まれる壁でもあります。

感情の壁の原因を探る


「嫌なものは嫌」という感情の壁に対して「確かにそういう時ってあるな」と思えた人は、もうすでに大きな一歩を踏み出しているんじゃないかなって思います。

そこに感情の壁があると分かったなら、今度は素直に、素朴に、自分の中で
「あれ?でも実際はなんでこんな気持ちになったんだろ?」と、確認してみるんです。

「嫌な気持ちなのは間違いないけど、じゃあなにに対して嫌な気持ちになったんだろう?」
と「言葉」で、もしくはちょっとお堅い言い方になりますが、「その原因、その事情を論理(道筋立てた言葉)」で、もう少し具体化するクセをつけると、次第に自分の感情のコントロールが上手くなります。

「論理」と聞くと、わりかし「理屈っぽい」なんて言われたりしますが、既に言語が浸透している私達の思考は、なんだかんだ言葉で説明されるものなので、自分自身の気持ちを整理することが出来るという点においては、「論理的な考え方」は、その足掛かりになります。

想定しているなにかに気付く


私達が「何となく嫌」と思ったり、なにか否定的な気持ちや不快な気持ちを抱いたりする時、かなり多くの場合に
「想定している状態と違った時である」ということが言えるんです。

ですが、これだといまいち分かりにくいのでちょっとした例でご説明できたらなって思います。

例えば
奥さんの買い物に付き合ったお父さんが不機嫌になるのは、
「こんなに長くなるなんて思いもしなかった」もしくは「本当は家に帰ってゆっくりしたい」などの気持ちがあります。

この時、お父さんからすれば「もっと早く帰れる」という想定があり、その想定が現状との釣り合いが取れていないために、ちょっと不機嫌になっています。

さて、こんな際にお父さんは、「自分自身で」この気持ち自体に気付く必要があります。
ここで大切なのは
「想定が違っているにも関わらず、依然としてそれにこだわってしまっているからこそ、不機嫌になっている」ということに気付き、「今ある与えられた条件下で、自分に何ができるか?」を考える事です。

お父さんは
「う~ん、帰って競馬が見たいなぁ。この買い物はいつまで続くんだ。せっかくの休みなのに。ああもうイラつくなぁ。」
と考えるのではなく、
あ、俺は今、早く帰りたいがために不機嫌になっているな。ぶっちゃけ競馬が見たかった。しかも、これからさらに日用品も買いに行くようだ。参ったなぁ。でもまあ、それならそれで、買い物を早く終わらそう。そもそも車を出すことを容認したのは間違いなく俺だ。俺が不機嫌だと険悪な雰囲気になりそうだし、ここはいっちょやるか!」

この場合、早く帰れるように買い物をするか、なんならお母さんと一緒に会話でもしながら買い物自体を楽しんでしまった方がよほど建設的です。
そもそも、買い物を任せているという点があまりいいとは言えないものじゃないですか。ちなみに余談ですが、私の妻にこの架空の不機嫌なお父さんの話をした際の返答は「じゃあ、そのお父さんは明日からトイレットペーパーもティッシュも使えないね。あ、洗濯もか。」でした。はい、私のパートナーは強い人です。笑

ちょっと話が逸れましたが、つまり何が言いたいかというと、
「自分の思った通りの現実を想定しているから、実際に想定外のことが起きた時、不快感を感じる。またその想定が凝り固まった場合に特に、機嫌に振り回される。だとすれば、その想定に筋道の立った言葉でもって、現実に即して言葉で加筆修正してあげれば、不快感を弱くできる。」ということです。

「感情の壁」という「感情の罠」


感情の壁。
と私が言っているものとはつまり、
「自分の気持ちに振り回される可能性を秘めた心の壁」のことであり、また、「誰かの助言や、言葉による自分の感情の整理の機会を失う可能性を秘めた壁」のことです。

それが起きたから嫌な気持ちになる、という一般的な考え方には「感情の罠」があると考えています。

まるで感情のコントロールが自分自身ではできないもの、どうにも抗えないもの、のような印象を与えてきます。しかしその感情は、「その感情を通し、私自身に対して何らかの原因、事情、いきさつを、その変化によって知られるための印」だと、考えてみることはどうでしょう?私達はその印によって事情を遡ることによって、不快な感情を和らげ、また嬉しい感情を噛みしめることも出来るんです。

今回私が言っているのは、例えばトラウマのような「間違いなく恐怖」を与えるものに対して、「そんなものは恐怖でも何でもない」と思い込んでください、いうことではありません。
その感情は、間違いなくあなたや、私に対して何らかの危険を教えるためのものです。

または、目の前で起きた辛いことに対し、無理やり「いやいや、幸せだ!」と思い込むことでもありません。

私が言っているのは
「より心の平穏を保つため、あるいは楽しい気持ちをより味わうために、現実に起きた事柄に対し、言葉でもって説明していくことの重要性に気付いてみるべく、まずは言葉を大切にしよう。」ということです。

「考え方次第で人はその印象を変える」と良く言ったりしますが、これは無理をして「恐怖」の感情を抱かないよう努める事でも、ましてや「幸福の洗脳」をすることでもありません。

大切なのは
「今ある目の前の現実を、いかに苦しく感じないよう、辛く感じないよう、言葉で整理しながら少しずつ変化させ、いかにそうあれるように自分を変えていくか」です。

この大切な試みに対して「感情の壁」がその壁の内部に留まらせるような働きをしてきます。

自分の中に建てられた、その壁に気付き、
「これが起きたから辛いのだ」にとどまることなく、更にもう一歩踏み出して
「じゃあ、これを辛いと思うのは一体どうしてだろう?」という繰り返しが、その人の人生すら変えうる「考え方」になり、それがクセになってしまえば、どんどんと洗練されて、感情のコントロールが上手くなる
んです。

そしてその多くは、「あらかじめ無意識に想定していたもの」の中にあります。

それは例えば
「早く帰りたい」お父さんのように。

感情の壁に気付き、取り払うのが上手くなった先に


感情の壁に気付き、取り払う、というのはどんどんと上手くなっていくものです。
上手くいったり、上手くいかなかったりと紆余曲折ありながら、それでもどんどんと上達するものです。

そうして感情のコントロールが出来てくると、今度はそれ自体が自らの自信になっていきます。この上手くなっている時期が本当に心地よいんです。

「自分で自分の機嫌は取れるんだ!」というその1回1回の実感が、私達の自信を加速させます。

そしておそらくは、ある時ふと気付くと思います。
「なんでもない毎日の見え方が変わっている」ということに。気分が整った状態の毎日は、驚くほどにすがすがしく、子供の頃の様に素直で無邪気。かつ大人の様に聡明で、寛容な自分に出会えます。

そうあれることに対する余裕のある心は、筋道を立てた言葉で取り戻すことが出来ます。
そうなったのなら、いわゆる「強メンタル」の持ち主に、あなたは既になっているのかもしれません。

「嫌なものは嫌」という、「感情の壁」を取り払うのは自分であり、「自分で積み上げた、または組み立てた論理」なんです。そしてそれは、何度だって様々な状況に転用可能です。その壁を壊すハンマーやブルドーザーはいつだって傍にある状態になります。

「感情の壁を取り払うのは、取り払ったのは、自分である」と実感してください。

ちょっと話は逸れますが、時に心の問題に対して、こんな事をおっしゃる方がいます。
「今までいろんな人を救ってきました。」

これは誰もが嫌がるようなその道を果敢に歩んできた方なら、かなり不可思議なことを言っているとすぐさま気付けます。
確かに「誰かを救うきっかけ」には、私達は誰しもなり得ます。しかし、直接その本人を救えることって、その人の身体や脳に直接介入できない限りは、無いと言っていいと思います。

私達ができるのは
「きっかけ作り」なんです。
「救った」というと、本人の力を否定し、本人の努力を否定しています。
進んだのは間違いなくそうありたいと考え、行動した本人であり、その実感は本人に託すべきものです。

次回は、「論理の壁」についてです。
「論理的思考」なんて言ったりしますが、こちらに対しても過信しすぎた際、その途中には「壁」があり、「罠」があります。と言うのも、言葉には良くも悪くも「モノゴトを限定する作用、分節(区別)する作用」があります。限定し、分節するからこそ、言葉はまるで「方向を示すコンパス」の様に働いてくれます。しかし他方では、「その限定された範囲の外側が見えなくなる」事も同時に起こし得ます。私達は「言葉の大切さ」と一緒に、「言葉の危うさ」まで知っておくことが大切なのだと感じます。

言葉の功罪(いい所と悪い所)を知った上で、「言葉と実際」が出来るだけ合うような試みが大事だよ、的なことを次回掘り下げていきます。

次回は「論理の壁」についてです。

今日のあなたの一日が「感情の壁を自分で取り払う」一日であることを願って。
読んでいただきありがとうございます!!

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