今回は、「人間は想定が先立つようなので、その想定を見直してみる」と題しまして、脳の話と悩みを解消するような関連の話をしていこうと思います。個人個人によって、世界の見え方はびっくりするほど違うものです。そして、ものの見方や考え方が変われば、日常ですらも見え方がガラリと変わって感じます。同じ事柄に出会った時、人それぞれどうしてこうも違って感じるのか?そんな話を最近の脳科学の話から偉人の考えまで、広く展開していこうと思っています。
では、早速いきましょう!!
私達の脳は想定がメインである
近年「私達の考え方次第では、その印象が変わる」と言った話をしばしば耳にします。
実際、目の前で同じ出来事に出会った時、その反応は人それぞれかなり違いますよね。
じゃあどうしてそんなことが起きるんでしょうか?
これについてもう少し説明すべく、先ずは近年になって着々と実証されつつある「脳にまつわる話」をします。
結論から言えば、
「知覚プロセスがメイン」だと考えられ沢山の脳の研究がされてきましたが、最近どうも、
「【事前予測と想定】がむしろメイン」である可能性が出てきたんです。
どういう事かというと
「知覚によって身体から脳へ送られる、入力の情報量」より、むしろ、
「想定によって脳から身体へ送られる、出力の情報量」が多い、という事が少しずつ実証されつつあるという事です。
つまりは、
「【想定】していることが主としてありつつ、この世界を見て、感じている」
可能性が高まってきた、という事なんです。
知覚によって想定し、想定によって知覚する
ただ、「想定がメインです」と言っても、何もないところからその想定は生まれてきません。
私達は経験としていろんな事柄に出会い、それを知覚することで、ある程度の推論を自分の中に持ち、今後起きる事柄に備え「想定」します。もちろん遺伝も関係しています。
そしてその「遺伝として備わり、環境として培った想定」を持って、再び知覚することで新しい事に対応しています。
想定ありきで起きそうなことを予測して、いざそこで起きたことと想定のギャップがあれば、それを埋めていく。
こんな仕組みで私達が思考を巡らしていると考えると、今まで解明されてきたような心理学の内容などとも、かなりつじつまが合います。
私達はかなり「考え方の偏り」を抱えやすく、間違えやすいこと。
そのため、「気付いたらこうなってた」などの状態が生まれやすいこと。
また、「実際はどうなんだろう?」さらには「その根っこはどこにあるんだろう?」と考え、「その想定自体を吟味する」事がそれなりに有効なこと。
これらがより明確に示されるなんじゃないか?と個人的には思います。
ちなみにここで言う「根っこ」とは、「起きたことの根本原因」の事です。
例えば
「私はいつもカリカリしてしまう。そしてそんな自分の器の小ささに嫌になる。」と実際に起きたことだけ考えるのではなく、「そもそも私はどうしてこれに対して怒ってしまうんだろう?」とさらに掘り下げていくと、大抵の場合、普段からかなりの我慢を自分自身に強いてしまっていることにも気付き始めます。
つまりこの場合、イライラしがちだ、という事柄は「多くの我慢をしている」という根っこまで含んだ事実によって起きていることが非常に多いと感じます。
沢山の事に対して自分を抑圧しているからこそ、些細な事柄が気になります。
そしてあまりに抑圧し続けると、「嫌なことが起きませんように」という想定がされているのかもしれません。
まるで綱渡りをしながら前に進まなければならないような、そんな心の状態を作ってしまっているかもしれません。もしそうだとすれば、少し横風が吹いただけでとても危険に感じてしまうと思います。
こうなると「なにも起きない事を望む(想定する)」がために、むしろ普段から「嫌な事探し」をしてしまっている状態に陥ります。
そうであるならば、「嫌な事探しをしないようにするためにはどうしたらいいだろう?」と自分に問うて、個人個人にある「我慢の要素・悩みの要素」をひとつひとつ紐解くことが出来れば、
「綱渡りしなければならないように見えた道が、沢山の選択肢のある大きな道」になります。
そもそも様々な事を我慢してでも一人前にやってきた方であるなら、その道が見出せさえすれば「誰より心の許容量が多い人」になるのだと思います。
実際私も、綱渡りをしていた一人でした。
ただ一点、我慢が上手な皆さんと違う所は、「私の器はそんなに大きくなさそうなこと」です。笑
ただ、そんな器の小さな私でさえも、嫌な気持ちに囚われることは、ほとんどないと言える位になったんです。いや、もっと正確に言えば「嫌だなぁ」と思う時間はとにかく短くなったなぁ。と実感できている、ということだと思います。
であれば、我慢を続けておられる皆さんはもっとその可能性を秘めていると、私は思います。
なぜなら信じられないほどに我慢強い方々は、その重荷を手放すほどに、その許容量を自己にも他者にも向けられるからです。
「その考え方を変える」ということは、「その想定を変える」ということ
「考え方を変える」という事は「自身の想定を変える」という事です。
私達は自身の経験から価値観を形成し、その形成した価値観のもと、「想定しつつ物事を考える」生き物のようなのです。確かに私達は、何かが起きた際に「無味乾燥で、無機質な事実」として捉えず、何かしらの「感情と思考を伴って」、色々なことがらに触れています。
だとすれば、自分自身の想定を変えることが出来たのなら、それこそが「考え方を変える」と言うことなのではないでしょうか?
また、それが自分自身の事であるがために、それを変えうるか否かの最後の壁もまた、自分自身でもって、超えていかねばならないものです。これは実際の私の経験上、非常に難しいし、混乱するし、疲れます。しかし、向き合った先に確かに得られるものがあるものでもあるんです。
そんな想定を僅かばかりでも変えられるきっかけになれば、とここから少しだけ、
「悩みに関する想定を変えられそうな話」について触れていきたいと思います。
「悩むこと」と「考えること」~「悩み」に対する想定を見直す~
「悩む」とは、解決していない問題を抱えている状態の事であり、
「悩み続ける」とは、問題を抱えている状態を継続している状態の事であり、
「悩みが大きくなる」とは、過去の解決していない問題や、たった今起きた問題、加えてこれから起きそうな問題同士がくっつきあって大きくなっている状態の事です。
私達はそんな大きくなった悩みに対して一挙に相手をして立ち向かおうとしますが、余りに大きな悩みになると、それはまるで過去、現在、未来の悩みを統合した「最強の軍隊」のように感じさえするものです。
悩みは一見すると大きく見えることがあります。しかしよくよく見てみれば、
一つ一つは違う問題から生まれている、大小さまざまな問題の集まりなんです。
だとすれば、それが別々のものとして対応できるよう、出来るだけ細分化してあげることが出来れば、解決の糸口が見つかることが多いです。
この「細分化をする、それが理解可能で判断可能になるまで小さくする」という思考が「考える」という事だと思います。
つまり「考える」とは「問題を細かく分解していって、問題の根っこを探す思考」なんだと私は思います。
私達は「悩みを小さくするよう考える」ことで、次第に大きく見えた悩みですら「今なら出来るかも」と思える瞬間が来ます。「悩む時間」を「考える時間」にできたのなら、小さな問題の解決が、大きな問題をも切り崩してくれるでしょう。
世評(世間の評判)を見直す。~世評に対する想定を見直す~
現代の社会は、昔と比べればかなりしっかりとした基盤の基、生活できています。
これは紛れもない事実です。
しかし、それと同時に「なんだか生きにくい」と感じる人が増えているのもまた事実です。実際、不安を抱える人の割合は徐々に増えていってもいます。特に近年、子供たちが悩みを抱える割合が目に見えて増えていっているのは、「心が弱い子が増えた」と考えるより、「我々大人が形成する社会の当たり前が、子供にとっての負担である。さらに言えば、人類にとっての負担である。」と考えてみる方が、より適切ではないか?と個人的には感じています。
どうして私がそのように考えるのか?というと、現代は数々の偉人たちが予見していたような事態が引き起こされているからなのだろうと、思ったからです。
エーリッヒ・フロムは、
「自由を獲得するための戦争が終われば、世界は真に自由になると信じて疑わなかった。だが、実際大多数の人は自由の取り扱い方が分からず孤独と不安を感じ、再び誰かに付き従うかのように、「自由からの逃走」を始めた。一見すると皆に溶け込むことは、その孤独を埋めてくれるように感じる。しかしそれには、個人の個性と社会の総意との間に生まれる代償も常々付きまとうものだ。私達は集団としての社会的要因ばかりではなく、個としての心理的要因にも目を向ける必要がある。社会的な意味で自由を獲得したとしても、自我の実現や表現という、積極的な個人としての意味での心理的自由を獲得するに至っていない。」と、説き、
ミシェル・フーコーは、
「今後増えゆく社会の義務などによって、私達は自発的に心理的圧力が増やしていき、私達はまるで誰かに監視されているように感じるようになる。そうなると皆が皆、自分自身を自ずから律するようになり、飛びぬけた個性は排除され、皆が纏まって不自由となり、不安を抱えて生きゆくことになる。人は誰に言われるでもなく、誰に見られるでもなく、それでも見られているような感覚を覚え、自己を律するようになっていく。」という事を予見しました。
さて、このお二人の主張は、「社会と個人の関係を一度見直してみよう!」という考えに至るんじゃないか?と思っています。またこれを今回のテーマである「想定」に当てはめるならば、「社会と個人の関係は次第に危うさを拡大しているので、一旦その想定を見直そう!」と言えるのかなと思います。
そしてそう考えることは、私達が感じている「世評(世間の評判)に対しての想定」をひっくり返すきっかけになり得ます。
私達はしばしば、世評(世間の評判)を気にしてしまいます。
しかし、必ずしも「世評と私がどう考えるか?」は一致しなくていいものです。
ラッセルは「幸福論」の中でこのような事を言いました。
「国や、さらに言えば所属する集団が違うだけでも、何かに対する評価なんてものは一変してしまうものだ。環境が愚かで、偏見に満ち、残酷である場合は、それと同調しない事こそ美徳だ。世評に常々耳を傾け続けることは【自ら進んで不必要な暴力に屈すること】だ。
ただ、世評そのものを悪とみなして、そのすべてを否定することも誤りだ。
そのすべてを批判することもまた世評からの支配を受けている。」
ラッセルは言っているのは、「世評に振り回されず自分自身として生きようとした時、人はその社会の中で多数派になる時もあれば、少数派になる事もある。でもそれで良い。」という事です。
私達は、社会の評価ばかりを気にしていると、「自分」というものを見失ってしまう可能性があります。
「人のための社会システムを、社会システムのための人」にしてやらないためにも、一旦個人として見直しをしてみてもいいんじゃないか?と、思います。
自分と自分の心を一致させる~心に対する想定を見直す~
心に対する想定を見直す際、これもまた偉人さんたちが口々におっしゃっていることがあります。
フロムの言葉を借りれば「自己の実現のため、自分と自分の心を一致させ、積極的であれ。」と言え
ラッセルの言葉を借りれば「義務に生きるな、精神を伴う行為(心と行動の一致)を実現するために、能動的であれ。」と言えます。
また、
カントは
「人間は優しさの源泉を持っている。しかし、その源泉は覆い隠されてしまいがちだ。だから認識を変え、その優しさを取り戻し、自分に向け、他者へと向けよ。自分も他者をも含む人間への尊重は、その均衡が保たれるとき、自由を獲得する。だが、それがバランスを崩すとき、その分自由を失う。であれば、自他共に対等な尊重を。」と説き、
キルケゴールは
「人間は絶望を本質的に感じる生き物であり、絶望を感じないであれることは極めてまれだ。大きなものに想いを馳せては絶望し、また具体的な生活に明け暮れ、自己を見失い絶望する。私達の精神には【自分自身を確立したい】という本性があり、それを社会の中で意味ある存在であることに求め、また社会変革を追い求め近づこうとしさえもする。しかし、人間が生の意識に支えられているのは、社会における個人の持っている環境の状態ではなく、むしろ個人に与えられている可能性それ自体だ。人間は可能性を失ったと感じる時に絶望する存在なのであり、反対に可能性さえあれば、どのような苦境であっても、自由で人間的な存在であれる。」と説き、
ニーチェは
「理想があるはずだ、という価値観は、むしろ現実を否定してしまう事態を引き起こし、そこに至れないという気持ちは悲壮感を生んだ。また反面、科学が多くの事を解明したことによって、今まで信じられていたようなものが次第に価値を無くしていった。その結果、人はすべてを奪われ、人生の意味まで失い、結果虚無感が生まれゆくだろう。これによって今後は何の意味も見いだせなくなってしまう人が増えていく。だが、どのような絶望があっても、立ち上がれ。仮に同じ人生を何万回も繰り返すよう定められたとしても、立ち上がれ。私達は現実に生きている。実際の存在として、ここに在る。ありもしない背後の世界に想いを馳せ、卑屈になるのでも劣等感を感じるのでもなく、今、この時この瞬間を、この現実を肯定せよ!周囲の理想に生きるのではなく、今あるこの存在を肯定し、生きよ!」と説きました。
多くの偉人さんたちが「自己の確立を目指すことで、精神的充足を得よ!」と言ったニュアンスを含んでいます。
自己の確立とは、「自分と、自分の心を一致させること」です。
それは、現実の在り方に目を向けその想定を変えるべく再認識し、その中で可能な限りの選択肢を見出し、そこに可能性を感じ、自ら能動的に進む道です。
そしてその道が確立されるほどに、
「精神的圧力に呼応した行動」は「精神的充足に呼応した行動」へと変化していきます。
精神的な充足がなされた状態で、自分に、誰かに敵意を向けることは容易ではなくなります。
また、健やかで心地よい気持ちでいられるようになると「やりたいこと」がたくさん見つかるようにもなります。
「私にはやりたいことなんてないです。」なんて方もいらっしゃるかもしれません。
しかしこれは実体験からすれば「不安に手いっぱいであるがために、やらなければならないことばかりに目が行っている。」んだと感じます。ですので「先ずはその手いっぱいな状態に気付いてあげて、不安を少しずつ少なくしていく。」事が大切なんです。
またそのような時「そうはいっても、私には責任がある。」と、どうしても今一歩踏み出せない理由がある方も多いと思います。これはもっともだとも思います。誰しも多くの責任を負っているものです。
しかし、私達の背負うべき責任は「誰かが困った時、精神的な支えになれるよう、自分自身を整えておくこと。」また、「日頃からご自身の心を充足させ、自分と周囲に愛着と尊重を持ちたいと自分自身が思えるようになり、それを在り方として表現すること。」です。
背負える重さを大幅に超えて尚、多くの人が頑張ろうとしています。
誰かのために、と必死になっています。
でもだからこそ、その誰かに「自分」を入れてあげても、良いんじゃないかと思うんです。
不思議なもので、精神的に満たされ始めると、色々なことに興味が湧いてくるんです。
心の余裕が生まれてくると、その余裕を今度は自分にとってのやりたいことで埋めてみたくなります。
私の場合はそれが本だったり、ゲームだったりしたわけですが、これについても良いも悪いもありません。ただそうしたかったから、そうしただけです。
そしてこれがおそらく「純粋な意味でのやりたいこと」なんだと思います。
大っ嫌いだった本(文字だらけなもの全般)をここまで好きになるなんて、自分自身ですら予想していませんでした。でも、そんなもんです。
「自分と自分の心が一致」すればするほどに、その見え方、その印象が変わっていきます。
自身が整うからこそ、配慮や尊重に、心が伴います。反対に配慮や義務感が先立つ場合には、途端にそれは、損失のように感じさえするものです。
だとすれば、先ずは自分自身を満たしてあげる事で初めて、義務は義務でなくなります。
「精神的充足を伴う行為としての配慮や尊重」は、損失ではなく拡がりに変わります。
本心から穏やかな気持ちを実現しつつある時、人は自分がこんなに穏やかな人間だったのだ、と気付き、そこから目にする事柄への印象が変わっていきます。
「自分の想定は何か?」
「私達人間は想定が先立つ生き物である」とすれば、今見ている事柄への印象はその想定によって変化する、といえます。
今回、「想定」についてご紹介したのは、ただ「考え方を変える」と言うよりも、「私達には個人の想定があって、その想定を変える事こそ、考え方を変える、気持ちを充足させるカギだ。」という伝え方の方が、より深く、もう一歩進んだ認識をしていただけるんじゃないかと考えたからです。
本当の意味での強い人とは、強い言葉を使わないよう気を付けている人ではなく、
強い言葉を使う必要すら感じていない人のことです。
本当の意味での寛容な人とは、無理して我慢して寛容であろうとしている人ではなく、
寛容であろうとしなくとも、その自然な対応が寛容だと言われる人のことです。
私達は、
弱っているからこそ強くあろうとし
強いからこそ弱さをさらけ出せます。
弱さを認めてあげた先には、更に「自分自身と心が一致したことによる強さ」が待っています。
もし、「弱さを認めてみよう」と誰かの想定に一石を投じることができたのなら、私は嬉しく思います。
乗り越えることのできない出来事や、ストア派の弟子などの手に負えない不幸は絶対ある。しかし力いっぱい戦ったあとでなければ、負けたと言うな。
アラン 『幸福論』
※ストア派は理性による困難の克服を目指し、不動の心(アパテイア)を求めた古代ギリシャの考え方の一つ。ストイックの語源であり、実際とってもストイックです。
もし私が、私のために存在していないのだとすれば、誰が私のため存在するのであろうか。もし私が、ただ私のためだけに存在するのであれば、私はなにものだろうか。
もし今を尊ばないのであれば ー いつという時があるのだろうか。
「タルムード」 大一編「ミシュナ」
今日のあなたの一日が「じゃあ、私はどんな想定をしているんだろう?」と吟味する一日である事を願って。
読んでいただきありがとうございます!!