生きづらさの大きな要因のひとつ~心理的圧力の話~

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人間関係

こんにちは!幸せマンです。
今回は「生きづらさの大きな要因のひとつであるもの」についてご紹介していこうと思います。現代哲学者であるミシェル・フーコーさんにお力をかりながら、話を進めていこうと思います。この話は、現代にかなり当てはまるものだと思っていますので、読んでいただけると嬉しいです。

では、早速いきましょう!

「見られている」という感覚


ミシェル・フーコーさんは、1984年までご存命だったフランスの哲学者です。
そんなフーコーさんの話を進めるために、少しだけ監獄の話をさせてください。今回の話の根幹部分なので、見ていただけると嬉しいです。

フーコーさんは、「パノプティコン」と呼ばれる、とある監獄施設に着目しました。

パノプティコンについて簡単に説明すると、
「最小限の人数で、最大限の囚人さん達を監視するための監獄」です。
ズラッと並んだ牢獄に、1つのマジックミラーの窓のある監視塔を置くことによって、
囚人さん達からはいつ自分が見られているか分からない状態を作りだし、「常に見られている」と感じさせるような仕組みの監獄です。

これによって、いつ見られているのか分からないがために、ある程度の規律を持った行動をする、と考えられて設計されました。

フーコーさんはこのパノプティコンの仕組みと、そこから発生する精神的な面について着目して、
「常に見られている、という状態は確かに決まりが守られるかもしれない。でもそこには加えて、心理的な圧力があるよね。」
と考察をしました。

そこから更に、その「心理的な圧力」について、こう考えました。
「この心理的圧力って、一般社会にも通ずるものがあるな。それにこれって広がりつつあるんじゃないかな?」

心理的圧力「見えない監視者」


フーコーさんは「常に見られているような心理的圧力」は、一般社会でも広がっていっていると言います。

どういう事かというと、
はるか昔から今に至るまで、法律や規律といった国によって定められた「制度」が存在しています。

しかし、近代以降の世界は、これに加えて経験や環境などによって作り上げられた「これは良いこと、これは悪いこと」という別の基準が生まれているし、そしてそれは広がっていってるよ、という事です。

近代以降は「自由」の名の元に、いろいろな選択肢が確かに生まれました。ですがこれがあんまりにも自由すぎたので、人はある程度の進むべき道のようなものが欲しくなりました。

「確かに自由だ。でもそれっていくら自由だとしても、良くない事なんじゃない?」という新たな価値観が生まれていきます。

「これは悪いことだよ。」
こういった考えは社会全体に広がっていき、いつの日か、お互いがお互いを見張るような、そして見られるような社会が形成されるよ。というのがフーコーさんの指摘なんです。

つまりは「なんだか生きづらい」「常に見られている」ような感覚、もっと言うと「見えない監視者」がいる状態は今後どんどん広がっていくよ。といった具合です。

そしてそうなった末の世界についても言及しています。

ある程度の「良いこと、悪いこと」が人々の中に根付いていくと、「みんな一緒」が正しいという感覚は強くなり、
例えば
飛びぬけたような強い個性を持つものに対しての風当たりは強くなります。またなにより、人々は「次第に自分自身を監視しては、自分自身を律するようになる。」ということも、フーコーさんは言っています。

要は、
「強い個性の排除」
が起きると、フーコーさんはいっているんです。

この話は、わりかし現代社会においては、実際に起きつつあるものだと思います。
世の中には、生まれつき頭の良い人が存在していて、こういった方たちを「ギフテッド(与えられた人)」と呼んだりします。

しかし、残念な事にその頭のよさを波風立てずに生きることに使ってしまうことも多いんです。
あまりに頭が良いがために、社会に適応し始めるのもまた早いようなのです。

それにこれは頭の良い方々だけの問題ではなくて、全ての人にその猛威を奮っていきます。

「守りたいもの」「守らなければいけないもの」


私達の暮らす現代社会において、もし「生きづらい」と感じているのであれば、おそらく「良いこと、悪いこと」という価値観が一人歩きしているのかもしれません。

本当はここにいたいけど、その価値観が「とにかくなんでもいいからこっちにこい!」と無理を強いている状況になってしまっているのかもしれません。

お互いがお互いを見張りあっては、自分自身を見張っては、何かしらの我慢をお互いに、自分でするのは、疲れちゃうものだと思うんです。

本当はここにいたいなら、ここにいても構わないものなんです。
私達には誰しも個性があります。
その個性を押し殺すように生き行く事は、「生きづらさ」を生み出してしまうものだと感じます。

私達の中に、どこも飛び出していない「〇(マル)」のような人は一人たりともいません。みんなどこかが角ばったり、とがったりしているんです。ですが、飛び出た部分を隠すように、あるいは足りない部分を足りないように見えなくするために、丸っぽく生きようとします。

でもですね、

もう尖ってて、いいんじゃないかな?

無理して丸くなくたって、いいんじゃないかな?

とはいえ、ここで言っていることは、
誰かに危害が及ぶような行動をしてもいいよ、という事では無いんです。

もし、誰かに危害が及ぶ選択をするのなら、その誰かに危害を加えた責任は取らなければなりません。それは個性では無く、無法者です。

それに誰かに危害が及ぶような事は、本当にしたいことでは無いと思います。

人は心の余裕が保たれれば、誰かに危害が及ぶような選択をしようとも思わないものなんだと。私は確信しているところがあります。
「こうでなければ」ならないという、何かしらの無理をしているからこそ、私達は心の余裕をなくしていき、時に誰かに強く当たってしまいます。

周囲がどう生きて欲しいか?ではなく、
周囲にどう生きて欲しいか?でもなく、
自身がどう生きたいか?が大切なんです。

今日のあなたの一日が「見えない監視者による心理的圧力」を知る一日である事を願って。
読んでいただきありがとうございます!!

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