今回は、私達の本能的な心の動きを把握するためには、大昔である「狩猟採集民時代以前」を覗いてみると、色々見えてくるものがあります。私達の心の根源を知るには進化心理学や人類学はかなり有用だと、個人的には感じています。今回は数万年前の狩猟採集民よりももっと大昔に遡り、そこから今、私達が「誰かに嫌われる事が怖い」という気持ちを抱く理由をお伝えできればなと思っています。
では、早速いきましょう!
私達の心と身体は狩猟採集民
地球にとっては短く、動物にとっては長い長い時間を経て、私達は「人類」になりました。
私達は「ホモ・サピエンス」という種類の動物です。
火を使い始めたのは約30万年前とされ、
道具を上手に使って生態系の頂点に立ったのは約10万年前、
衣服を身にまとったのは約7万年前です。
そこから長い時間を掛けて、私達の祖先は世界中に移住しました。
以前の記事で、私達が「不安」を感じやすい理由を述べました。
頭が良くなり道具を使うようになって、生態系の頂点に立ったけれど、依然として丸腰だとほとんどの動物に勝てない。だから、心は敏感に不安を感じて逃げたり闘ったりと対応する必要があり、不安を捨て去る事は叶わなかった、といった内容をご紹介しました。
確かに不安は嫌なものです。
ですがもし、私達が偶然にも他の動物に負けない屈強な身体を得て、生身でどんな動物にも負けないような進化をしたのなら、私達は頭の良さを手にする事はなかったでしょう。
このように文字を使って、こういった発信をする事も、会話をする事も出来なかったはずです。
また、今の頭の良さがあるからこそ、悩んでしまう反面、その不安を紐解く事ができ、そこから抜け出すことも出来ます。
私達は、狩猟採集民として生きて来た祖先の心をほとんど変化させることなく、現代社会に応用しています。
身体的な変化は食べ物や気候、時には細菌などを主な要因として、環境への適用のために起きたものです。
人間の心の起源は依然として「大昔」にあって、そこを理解する事は「私達の自然な心」というもの自体を理解する足がかりになり得ます。
反対に「自然な心」を現代社会に応用しているために、少しだけ歪になって「不自然さ」を感じ、疑問や生きにくさを感じてしまうことがあるんです。
私達は現代を生きてはいますが、その心は依然として「狩猟採集民」です。
そういったことを踏まえて、今回はこの「不安」というものについて、とりわけ「嫌われる事が怖い」と感じる理由について、掘り下げていこうと思います。
嫌われるのが怖い
私達人間は、多くの人が「嫌われるのが怖い」と感じるように出来ています。
集団から爪弾きにあったり、批判にあったりする事が、「怖い」と感じるように出来ています。
どうして沢山の人が嫌われたくないと感じるのか?という事を現代社会で考えた時、私達は答えが見つからないかもしれません。
おそらく現代のみで考えるとこうなると思います。
「だって、嫌なものは嫌だから」と。
とにかく嫌われたくない。だから、嫌な集団に属していたとしても、私達はそれを維持しようと頑張ってしまいます。
しかし、私達の祖先の生活を覗いてみると、「嫌われるのが怖い」の本質的な理由が垣間見えてきます。
「私達の心は依然として狩猟採集民」といいましたが、その心の起源はもっともっと昔です。
ですので、狩猟採集民に至るよりもっと昔の「祖先達の心」を少しだけ見ていきます。
社会脳仮説
私達の祖先が私達と同じような頭の良さを獲得したのは、およそ10万年前と言われています。
ここで一つの疑問が生まれます。
「私達はどうして頭が良くなっていったんだろう?」
人類がこういった頭の良さを獲得したのは、頭が良くなったから生き残ったのは間違いないですが、それに加えて「頭が良くならなければならない」という強い動機とがあったはずです。
でもその強い動機って、なんなんでしょう?
これにある程度の納得を与え、説明してくれるものがあります。
それが「社会脳仮説」というものです。
社会脳仮説とは、
「人間がここまで頭が良くなったのは、人間同士の複雑な集団生活へ適応するためのものとして進化したのでは?」
という仮説です。
これだけでは少しわかりにくいので、例でもって見ていきます。
気が遠くなるほどの大昔。
その身が危険に晒されるという局面は、私達の暮らす現代より遥かに、そして頻繁にありました。それは戦争よりも理不尽に、予期することもできずに起きていました。そしてその予期できない悲運は、大抵の場合は大型生物に襲われることで起きました。
しかし、そんな苦境から生き残れる事もまた幾度となくあったはずです。そしてそのほとんどの場合が「仲間の協力」です。協力すればする程に安全が守られたんです。
絶望的状況に置かれ、確かに不安や恐怖を強く感じはしたけれど、なんとかそこから脱する事が出来、安全からなる「安心感」を手にしました。
すると、そういった経験の積み重ねから少しずつ私達の祖先は考えたのだと思います。
「ずっと安心を得ていたい。」
「この安心を手放さないためにはどうしたら良いだろう?」
度重なる危険を乗り越えるたびに、「仲間と仲良くする事が、仲間に貢献する事が、集団を形成出来てかつ最も安全」であると、偶然に偶然を繰り返し、学んでいきます。
また、どこかの段階で、自分と誰かの考え方が違うことにも気付き始めたはずです。
その考えは少しずつ洗練されていき、
「仲間にもっと貢献するためには、仲間の気持ちをもっともっと知る必要がある。」
「誰かを傷つければ、仲間ではいられない。」
と変化していったと考えられます。
その結果、どんな動物よりも「誰か」の気持ちを読み取る能力をより確固たるものにするにはとにかく「頭を良くしなければ」ならなかった。
そうして頭が良くなるほどに、その誰かも頭が良くなり、その気持ちは複雑化し、またそれに順応したい、もっと知れるようになりたいと考えます。
頭が良くなる→気持ちの複雑化→頭が良くなる・・・
このようなサイクルがあったのでは無いかと考えると、今の私達に至った理由はなんとなく腑に落ちませんか?
つまり、私達は厳しい自然を生き抜くために、命の危険という不安を解消するために、身体を強くするのではなく、「皆一緒にいるために、皆の気持ちをより理解するために」頭を良くする方向で対抗したのでは無いか?と考えられます。
そう考えると私達が本能的に「誰かに嫌われる事が怖い」という気持ちを抱く理由も見えてくることと思います。「集団を築くことによる安心」を私達は欲しています。
ほんの偶然の積み重ねが私達人類を作り上げたんです。
どうして私達が人間になったのか?
熱帯雨林に住んでいたお猿さんだった私達の祖先は、地殻変動によって気候の乾燥が起きた結果、慣れ親しんだ住処だった熱帯雨林はゆっくりと「サバンナ」と化していきました。
熱帯雨林にあった安全地帯である「木の上」はどんどんと無くなっていき半ば強制的に、平原に放り出されるような形で暮らしていかなければいかなくなったんです。
これが大きな転機となりました。つまりは慣れていない上に、安全地帯を確保できないサバンナでは、いつ襲われるかもわからない「今までにない不安」が付きまといました。
その他の動物は、体を強くしたり、隠れたりとその身を変化させることで対応しましたが、
人類の祖先の場合は、それが「仲間の理解」であり「頭脳」でした。
つまりはその強い「不安」を払しょくするために、もともと比較的賢かったお猿さんはその長所を「偶然」伸ばしたんです。
すべての環境を含めて進化というものは少しずつ起きる様です。
人類の場合は、木の上という「安全」が無くなって、難敵という「不安」が生まれ、仲間という「新たな安全」が手に入ったことで新たな道が見えてきたんです。
集団生活を円滑に保てるように、誰かに嫌われることを怖く感じ、
集団での自分の地位を確保するために、誰かに認められることを求める。
こういったところは、はるか昔から続く人間の本能として組み込まれた「仕組み」なんです。
本能というと私達は「決して抗えないもの」のように捉えていますが、実はそんなことありません。
特に感情にまつわる本能は、その仕組みを知ることで、解決策を知ることで、間違いなく解決できます。
方法論を知ることで人は健やかな生活を自らの手で獲得できます。
間違いなくです。
なにせ、私達は頭が良さは、「理解するために」発達したものですから。
例えば
嫌な集団にずっとい続けるのは「本能的に」集団に属したいと思っているものです。しかし、私達は集団に属したいのであって、必ずしも「その」集団に属したいわけではない事を、自分の力で気付く必要があります。
嫌われたくないも同様です。私達が嫌われたくない理由は「本能的に」集団を維持したいと考えています。しかし、私達が維持した方がいい関係や集団は、「その」関係や集団ではないのかもしれません。意見を合わせるようにして、あなたが疲れてしまうくらいなら、素直に笑える自分を出せる場所を見つけた方がおそらく健全です。
誰かを傷つける事をお勧めしているわけでは無くて、あなたが心穏やかでいられない、明らかに違和感を感じる集団であれば、そこがあなたにあっていないだけの場合があります。という事です。
苦労して得たものが苦しみならば、本能に抗ってやりましょう。
苦しむために集団を維持するくらいなら、楽しむためにその思いを使ってやりましょう。
今日のあなたの一日が「心の起源」を知る一日であることを願って。
読んでいただきありがとうございます!!