今回は、前回の「感情の壁」に引き続き、「論理の壁」についての話をできたらなって思います。「論理的思考」は割ともてはやされがちである反面、「理屈っぽくて頭でっかち」なんて思われることがあります。今回は、そんな頭でっかちと思われがちな「論理」に着目して、さらにその壁を取り払うような話です。
では、早速いきましょう!
感情の壁とは異なるもう一つの壁、「論理の壁」
前回、「感情の壁」なるものをご紹介して、「感情の壁は道筋を立てた言葉」によって説明すると、整理ができるし感情のコントロールができるようになります、といった話をしました。
前回の記事を読んでいただいた方が、今回の話は腑に落ちやすいんじゃないかと思います。
さて、今回は感情の壁とは異なるもう一つの壁、「論理の壁」についてです。
ふと考えた時に、論理的思考に長けた人は、確かに物怖じしないだけの確立された思考の手順があるように感じますが、反面、「他人の感情に寄り添うことに関しては、とことん苦手」な人も多い気がしますよね。
穿った言い方をすれば
「そもそも感情に寄り添おうとはしてない事も実際多い。そしてそれによって壁が生まれている。」とも言えます。
「感情」と同じく、
「論理」というものにも、私は「論理の罠」「論理の壁」が潜んでいるとも思っているんです。
論理的思考の罠
「論理の壁」は「感情の壁」と同じか、むしろそれ以上の分厚さの壁だったりします。
「論理的思考」なんて呼ばれるものは、確かに答えにたどり着きやすくて、話に一本スーッと筋が通っていることもあって、ブレにくい考え方ではあります。いろいろと事細かに吟味し、説明できるようになると、それ自体に自分の中で圧倒的な信頼を置くことが出来ます。
しかしだからこそ、過信しすぎてしまう時があります。
「この話はこれだけ筋が通ってるんだ。だから正しい。」となってしまって、遊びがなくて、なんなら時には感情を否定してしまうものでもあります。
あるいはむしろ「自分の感情に寄り添うことなく、先に論理による武装をしてしまった時」に、ひょっとすると他者からすれば、とげとげしいような「正しさ」に魅了されてしまうのかもしれないな、と思ったりします。
論理の一番大きな罠は、過信によって相手を打ち負かす事ばかりに注力してしまった時です。
論理を用いて他を打ち負かす行為を「論破」なんて言ったりしますよね。
しかしこれは厳しい話をすれば、論理を過信したことによる「自己陶酔(自分の力に酔いしれる気持ち)」なんじゃないかと思っています。
そしてそういった過信は、時に「問題の根本を見えなくする状態」を作り出す事があります。
例えば、その論理に漏れがあったことに気付かない場合は、漏れがある状態で筋道を確立してしまって、他の道が見えなくなってしまう事があります。
「モレなくダブりなく」は論理的思考の基本ですが、これが言うほど簡単じゃないんです。「モレなくダブりなく見通せた」というおごりが、むしろその問題の根っこを覆い隠してしまいます。
前回の感情の壁での重要な部分は
「自身の想定している状況が、現実に則していない場合に私達は不機嫌になる。だとすれば、現実(確実に起きたこと。そして起きていないこと)から、その想定を加筆修正すれば機嫌に振り回されにくくなる。」と言う事でした。
論理的思考によって導き出された結論に「モレ」がある状態でその意見を固めることは、これもまた「自身の想定が現実に則していない」と言うことになります。
とすれば、いかなる時もその「モレの可能性」や「訂正の可能性」を頭に入れてある、柔軟性と言えるような「可能性の余白を常に持つこと」がとても大切なんじゃ無いかな?と個人的には思います。
また、「論理」というものは、思惑や企みが加わってくると、「無い事まで有るように見せかける」ことが出来るものでもあったりしますよね。
簡単に言えば「こっちの方向に持っていきたいから、話をこのように組み立てよう」のようなことがある程度は出来てしまいます。
答えを見つけ出すための手段だった「論理」が、それを駆使することによってその目的である「答え」を隠す事になり、もしくは「主張を押し通す事」に使われてしまったりしています。
そして論理の壁が建つ
論理という手段を過信しすぎると、心の中に論理の壁が建ってしまっています。
「よって私の話は正しい。反論できまい。」というような感じです。
私達人間はその頭の良し悪しは関係なしに、話を聞かないと決心した時、その内容はほとんど頭に入っていかなくなるんです。
論理はとりわけこれを起こしやすいと感じます。ブレにくいが故にブレる話には一線を引いてしまいます。
例えば
「論理的思考」などを学び、仕事の打ち合わせや会議で実際に使い始めた人がいたとした時、おそらく初めはこんなことになると思います。
・上手く筋道を立てて話をしたつもりが、その実、対する相手に毎回のように「理屈は分かるけどさ」といわれ、いまいち前に進まないことも増えた。
・お互いが意見を出しても、自説の正しさの言い合いになってしまい、折り合いがつかない。
こんな場合には「論理の壁」があると思います。
実際に「理屈が分かるなら、一体どうして納得してもらえないんだろう?」と考え、モヤモヤするかもしれません。
前回の感情の壁でもお話ししましたが、
自分で建てた壁は、自分で気付く以外に取り払う術がほとんどないといっても過言ではないんです。
そしてこの場合、自分に壁を設け、相手に壁を設けさせてしまったのは「論理」を過信した自分なんです。
そしてこう言った場合の打ち合わせや会議にも、「現実とのギャップ」があるかと思います。
「対話ができるだけの状態」になっていない事が原因であって、話に筋道が通ってはいるけれど、自分も相手も聞く耳を持てるだけの状態ではないんだと思います。
極端に言えば、
ガミガミとうるさい人の話はできるだけ聞きたくない、と人は思ってしまうものです。
また自説を語り、それをカチコチに固めて、支持するものを仲間にし、支持しないものを排斥するのは、「極端な考え方を持つ集団」になるような可能性があります。
しかしよくよく考えてみれば、そもそも実際に「相手がそう考えた。そう考えている」と言うこと。そして「話に折り合いがつかなかった」と言うこと自体も、これまた事実であり、現実ですよね。
論理の壁と感情の壁を取り払った人は皆「謙虚」
こんな事を大げさに言っている当の私は、まだまだ半人前ですが、
論理の壁と感情の壁を取り払って縦横無尽に行き来できる人は、確かにいます。
そして、そんな人は決まって「謙虚」です。
その人が「謙虚」なのは、謙虚でいなきゃ!といった感じではなくて、感情と論理の2つの壁を綺麗に取り払った結果、謙虚になったのだと、推察しています。
相手の気持ちが分かる論理的な人は、本当に一緒にいて心地よいものです。
強要することなく話を聞くことが出来て、意見をまとめるのが上手くて、様々なところに次のヒントをちりばめてくれて、私達に自信を与えてくれる。そんな人です。もちろん自分の意見にも自分の気持ちにも柔軟です。
先ほども触れましたが、「訂正の可能性」が常にあることを深く理解している方々がそういった柔軟性を持っているんじゃないかと思います。
この、「訂正の可能性」を持つことはとっても大切だと思います。またそれがより現実に則しているとも言えます。科学であっても、事実と言われる事から新たな事実を発見するべく、「仮説」を立てます。そして「仮説を検証、実証」することで初めて、そこに大きな相関関係を。もっと簡単に言えば「大きな傾向」を見出せます。
ここで大切なのは、それが「大きな傾向であって、必ずではない。」と言う事です。つまり、最も緻密で最も事実を表しうる科学も、「そうではない部分と、かもしれない」という「余白」を同時に持っています。事実(起きたこと)や現実(起きたことと、起きなかったこと)というものは、とても複雑な要素と関係の絡み合いで成立しているものです。常々「かもしれない」という「訂正の可能性」があります。
話の筋道を通しつつ(大きな傾向を見出しつつ)も、常に「余白」のようなものを持ち、「訂正できる」可能性をも考慮している。おそらく謙虚な仙人のような人たちは、これを大切にしているんだと思います。
そして今回一番言いたかったことは
「私達も、そうあれる」ということです。
もし、
自分自身がそうあれたなら、「自分の感情を紐解き、分かりやすく説明してくれる強力な助っ人」が常に一緒にいてくれることになります。より解像度の高い現実を紐解いてくれるような賢者が常に一緒にいてくれるようなものです。となればこんなに心強い事はありません。また誰かに対してもそうあれます。
その2つの壁は越えようと思わなければ、決して超えることが出来ない壁です。
この旅に終わりはないものだと思いますが、その旅をすればするほどに、心は育ち、柔軟になるんです。
最後に、「訂正の可能性」や「余白」を持つのに一役買ってくれるかもしれない「一つの考え方」をご紹介します。それと言うのも現代哲学者であるジル・ドゥルーズさんの考え方です。ジル・ドゥルーズさんはその時々の最適解と呼ばれるものは少しづつ変わっていくんじゃないか?、ということなどを一考できるような考えを提示してくれています。今回の話と比べるとちょっと難しい話になるんですが、実際私はジル・ドゥルーズさんの考え方には「考え方の引き出しの一つ」として、結構な頻度でお世話になっています。非常に小さな要素から、とんでもなく大きな視点を与えてくれる話です。
今日のあなたの一日が「論理の壁を取り払う」一日であることを願って。
読んでいただきありがとうございます!!