文明の発達=幸せ?

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生き方

今回は、文明の発達と幸せの捉え方の話です。私はこれを知ったときにハッとしたので、皆さんにも何かが生まれれば良いなと思い、ご紹介していきます。文明の発達によって得たものはなんなのか?また、西洋と東洋の歴史の捉えた方の違い等にも触れていきます。読み終えていただいた際には、幸せを感じていただきたい。その一身であります。

では、早速いきましょう!

文明の発達が目指していた?場所


1800年頃、哲学者であるヘーゲルさんは人が目指すべき到達点「真理」を求めるべく、その後に絶大な影響を及ぼした「弁証論」を説きました。

この「弁証論」をものすごく簡単に説明すると
「これはつまり、こういうものです!」という
1つの主張が生まれたとします。

そうすると
「いやいや!それはこの観点から見ればそうではない!」という
その主張をよしとしない反論が生まれます。

その1つの主張反論がぶつかり合って、どうにかもっと良い案の
いわば「主張・改」が生まれました。

これで安心。と思った矢先に、その主張・改についても反論するものが出てきました。
そして再び主張・改その反論がぶつかり合って、更に良い案の
「主張・改改」が誕生しました。

これで安心。と思った矢先に、またまたその主張・改改についても反論が。
またまた主張・改改その反論が・・・。

とこんな感じで繰り返して、どんどんその主張を「主張・改改改・・・」と少しずつ「真理」に近づけていく事で、いずれは真理に到達できるというものがヘーゲルさんの「弁証論」です。

そうして人の目指すべき「真理」はいつかはやってくる。10年後かも知れないし、100年後かもしれないよね。というものです。

つまり時代を重ねれば重ねるほどに、人は「真理」にたどり着き、人は迷う事がなくなっていくと考えたわけです。

これはとても納得のいく話ですよね。

今はどうなのか?


では、現代においてヘーゲルさんの言う真理は見つかったか?というと残念ながらそうでもないですよね。
または、見つかってはいなくても「真理っぽい」ものとして、人の目指すべき場所に徐々に近づいているならば、私達は少なからず迷う事も減るはずです。

現代ではとんでもなく文明が発達しました。これは何より過去の積み重ねがあったおかげです。
より発展した社会に暮らす現代人は、ヘーゲルさんの言うとおりだとすれば、昔の人より迷う事は減り、その都度幸せを感じているはずです。にもかかわらず、人の感じる幸せがどんどん増しているかというとそんな事は無いですよね。

人は、いつまで経っても幸せになっていかなかったんです。

実際に、時代が進むにつれてヘーゲルさんの言うような「近代哲学」の考え方は少しずつ批判の声が高まりました。
「全然良くなってないじゃん!」といった感じです。

時代が進んでいけば、問題は少しずつ改善され、いずれは皆が同じ方向に向かって穏やかに暮らしていける。と考えられていましたが、

現実は、依然として迷うし、文明が急速に発達しても幸せな人は増えていかないという事実が今、目の前にあります。

こう考えていくと
文明の発達=幸せ
では無いんじゃないか?
という疑問が生まれます。

また、もし文明の発達が人の目指すべき「真理」だったとしても、そこに到達した時に誰も幸せにならないのであれば、真理って一体何のために求めているのだろう?と思うんです。

このままでは釈然としません。
ですが、その足がかりを作ってくれそうなものが「歴史の捉え方」から得られそうです。
ですので、ここから西洋と東洋の歴史の捉え方についてみていきたいと思います。

西洋と東洋の歴史の捉え方

ここから西洋と東洋の歴史の捉え方を見ていこうと思います。私自身が結構ハッとさせられた内容でもあり、大切なポイントでもあります。まずは、西洋の歴史の捉え方から見ていきたいと思います。

西洋の歴史の捉え方

西洋の歴史の捉え方には、
「過去は未来への礎」のような概念がありました。
過去とは未来を良くするためのもので、未来は過去の問題が改善された、より良い世界という概念です。

つまり西洋では、歴史を「階段を一歩ずつ登っていくこと」のように捉えています。
もっと言えば、過去は未発達の悪い時代。未来は今より発達した良い時代。そんな感じです。
その歴史の中で「何を成し遂げたか?」がかなり重視されています。
日本は西洋文化の影響を色濃く受けていますので、この感覚に近しいものを持っていますよね。

では、次は東洋の歴史の捉え方はどうなのか?という事を見ていきます。

東洋の歴史の捉え方

東洋の歴史の捉え方には
「歴史は繰り返される」といった概念があります。

何年に、誰が、何をしたか?という事にあまり興味がなく、
時代や文明や社会が変わっても、人とはこういう事をする。という捉え方をします。

つまり東洋では、歴史を「繰り返される円環(輪っか)」のように捉えているんです。

今の時代に生きる人も、遥か昔を生きていた人も「本質」の部分は変わっていくことが無い。
人が生まれ落ちた時には、皆等しく「何も知らない」。だとすれば、その一生の中で学んでいく過程もほとんど差が無い。
だとすれば、どれだけ時代が巡ったとしても、起きた事のみを記していけば、「人の本質」は、より鮮明に、より的確に浮かび上がってくる。

その歴史の中で「人はどういう事をしてきて、それを私達がどう活用するか?」がかなり重視されています。

積み重ねる西洋の歴史と、めぐり巡る東洋の歴史。

西洋の捉え方をすると文明の発達が素晴らしいものであって、現代においても発達していないものがなにか悪いもののような印象を持ちかねない危険をもっていると感じました。
また、今を生きる私達もまた、未来への礎になります。

一方、東洋の捉え方は、文明の発達に関係なく、人がどういった生き物なのか?に重点を置いていて、またそれがいつでも利用可能な点は、個人的には「東洋すげー!!」となりました。

西洋文化がすべてこうではないし、東洋文化もまた全てこのように考えるわけではもちろんありません。ただ、全体的には西洋は「社会の発展」に目を向け、東洋は「個人の洗練」に目を向けています。

ここで言いたかった事は、どちらが優れているという話ではなくて、どちらも私達のためにあるという事です。

今、幸せを感じるために


私は文明の発達を否定しているわけでは無いんです。

発達した文明によって助けられている部分も多くあります。
私は心の仕組みと脳の仕組みが解明されつつある事によって、自分が悩んだりしてしまうのにもちゃんと仕組みがあったんだということが分かり、ありがたい事にものすごい恩恵を受けています。

それに文明を否定したところで、
どうあがいても文明は発展していくし、私達はその発達した今を生きているんです。
今を生きているのであれば、今あるものをどれだけ活用しながら実りある毎日を暮らしていくかを目指す事が大切なんだと思います。

発達してくれた文明を生かしつつ、人の本質を見ていく生き方は私達が望みさえすれば、手に入ります。どちらか一方を選ばなくてはならないという事は無いんです。

幸せの感じ方は人によってかなり違います。

というのも、それが幸せだと感じるかどうかは
その本人がそれを経験してどう感じるか?に大きく左右されるものなんです。

大金持ちが幸せというわけでもなければ
狩猟をしている民族が不幸せというわけでもないんです。

中世であっても、近代であっても、現代であっても
幸せに生きていた人もいれば、不幸を感じていた人もまたいたはずです。

幸せは「これがあれば幸せ」という誰かと同じものでは無く、
「私はこれが幸せ」という人それぞれ違うものなんです。
本人がその暮らしに満足しているかが私達の幸せを決めています。
他人と比べるものなんかじゃ決してなくて、自分がどう感じるか?なんです。

そう考えていくと
私達が気付いていなかっただけで
幸せというものはいつだってそばにあったんじゃないでしょうか?
大きな理想や時代の変遷に期待して「いつかこうなるだろう。」と、今に目を向けることなく、目の前にあったものに蓋をしてしまっていただけなんじゃないでしょうか?

ずっと傍にあった幸せに、気付く事が出来なかっただけでは無いでしょうか?

逆に言えば、目の前の幸せに気付く事さえできれば、自分を好きになり、他人を信頼する事さえ出来れば、どんな暮らしであっても幸せは実現可能なんじゃないでしょうか?

私はそう強く感じています。
私は特に大きなことを成し遂げた人間ではありません。
今後も誰もが認めるような偉大な事は出来ないでしょう。
しかし、ありがたい事にとても幸せを感じることが出来ています。

私が求めていたものは、
「誰もが認めてくれる事」ではなくて、「楽しく生きる事」でした。
よく笑う事ができて、信じる人がいるような毎日でした。

ならば、笑いましょう。
信じてやりましょう。
意見の違いを認め、一人ひとりを大切にしてやりましょう。

その大切な一人には、なにがあっても間違いなく「自分」も加えてあげてください。

あなたの今日の一日が「楽しい毎日はそこにあった」と満足できる一日である事を願って。
読んでいただきありがとうございます!!

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