量子の訳の分からなさ

スポンサーリンク
雑学

今回は「量子」についての話をしていきます。「量子」という言葉だけ聞くと、なんだか難しそうで面白くなさそうだと思ってしまいそうですが、これがまた全然そんな事なかったりします。量子は奇妙で、不思議で、そして何より「不確かで、確か」なものです。アインシュタインやハイゼンベルク、ボーアやシュレーディンガーですら解き明かせなかった謎である「量子」について、現在分かっていることから誰でもわかるような形であると願いつつ、掘り下げていきます。

では、早速いきましょう!

世界の見方は何度もひっくり返ってきた


この数百年間で、今まで当たり前とされてきた認識を幾度となくひっくり返してきました。
それは世界の見え方でさえもです。

「コペルニクスの地動説」で地球は太陽の周りを回っていることが分かり、
「ダーウィンの進化論」で人は度重なる進化の末に、偶然「人」になったことが分かり、
「アインシュタインの相対性理論」では、時空は歪むし、統一的な時間は無いし、物体は速度で縮むし、ものすごい速さで移動できれば、理論上は未来に行けると言ったり、更には「ブラックホール」があるよ!と言った後、実際ブラックホールがありました(2019年に観測に成功しました)。

こういった物事の見方が180度変わってしまう事を
「コペルニクス的転回」なんて言ったりします
が、

今回の「量子」の話はこれに近いものを持っています。

これから話すことはミクロな世界で、科学で確かめられてきたことです。私が絵空事を述べているわけではなく、何度やっても確認されている「量子の意味の分からなさ」についてです。

私達が当たり前に暮らしているこの世界は、「奇跡」なのかもしれない。
常軌を逸したものとして説明される「量子」が不可思議なのではなく、むしろ私達という存在、または物質という存在の方が「常軌を逸していて、不可思議で、それでいて奇跡なのかもしれない。」

今回は、そんなお話になるかと思います。

量子ってなんだ?


さて、ここから「量子」の話をしていこうと思うんですが、その前に、
そもそも「量子って何なの?」という事を先ずはご説明できればと思います。

量子とは
「物質を構成する物理的に存在する最小単位」の事です。
と言っても、これだけでは何を言っているのか訳が分かりませんよね。笑

なのでもう少し掘り下げます。

例えば、
目の前に何かしらの「物体」があるとします。
私達が「物体」と呼ぶものは非常に安定しています。突然パッと目の前から消えちゃったりはしません。

そんな物体を安定させているのが「原子」です。
学校で化学を学んだ人はなじみ深いものだと思いますが、
あのよく分からないけど覚えさせられた「スイヘーリーベーぼくのふね」でおなじみの「H」だの「O」だのと言ったアレです。そしてそれら原子が結合した状態が「分子」です。

そんな「原子」も、更に細かく見ると「原子核」と「電子」に分けられて、更に「原子核」は「陽子」と「中性子」に、更に更に細かく見ると「クオーク(素粒子の一つ)」などに分けられます。

それらのちっちゃな単位を「量子」と言います。
こういったちっちゃな単位の世界があって、それが世界を構成していると分かってしまえば、それを知りたくなる人も出てきます。

ですが、そうして現時点で判明していることは
「量子がマジ意味わかんない」という事です。

量子は「誰も理解が出来ていない」


量子の謎を解明するために「量子力学」というものがあります。その字面だけでも難しそうな匂いがプンプンします。

でも、「量子力学」は一部の科学者のみがやっている、よくわからん研究、
というわけでは全くない
んです。
化学の基礎、固体などの働きを明らかにするのにも、コンピューターや半導体の基礎などの最新技術にも大きく貢献しています。その他生活のあらゆるところに「量子力学」があります。

それなのにです。

根源的な意味で「量子がなぜそうなるのか?」を理解している人は、この世に一人もいないんです。
約100年の歴史があり、名だたる天才物理学者さんたち(ハイゼンベルク、ボーア、シュレーディンガーなど)が解き明かそうとしているのにも関わらず、解明が出来ない。というか、明らかに私達の常識を覆すようなことが起きる。と言った感じです
ちなみにアインシュタインも(量子をあえて徹底批判するという形で)解き明かそうとした人の一人です。

「神はサイコロを振らない」
とアインシュタインに言わしめたのも、「量子の訳の分からなさ」です。

ちなみにこの言葉の意味は、
「世界はシンプルな物理法則で成り立っているはずだ。だから、私達がいまだ確認していない法則がそこに隠されているに違いない。(自然の法則は、サイコロ振るみたいに気まぐれに変わらないよ。)」的な意味です。

ともあれ、今わかっていることをざっくり言ってしまうと
「そもそも【なぜ】そうなるかは分からないけど、【どのように】そうなるかは分かる」と言った感じです。

では、一体何が起きているのか?何がそんなに謎なのか、いくつか実際の実験内容を見ていきます。

量子は「粒」?それとも「波」?


20世紀の初めの頃、当時の物理学では「原子なんてものは存在しない!」という人が圧倒的多数派でした。これに対してアインシュタインは、「原子の寸法が測れたよ。」と一つの論文で証明してしまいます。これによって、原子の存在が幅広く受け入れられることになります。

そこである時、電子が粒であるかどうか?を確認すべく、こんな実験が行われました。

一方から電子を放出し、もう一方、その向かい側に「電子を跳ね返らせる特殊な鉱物の壁」、そしてその更に後ろに「電子が当たると跡がつくようなスクリーン」を用意。

「電子を跳ね返らせる鉱物」には2か所の隙間が空いていて、その場所だけは電子が反射することなく、一直線にスクリーンに向かい、綺麗にスクリーンに転写できるような状態です。

別の言い方をすれば
一方から電子を発射して、もう一方には電子がぶつかった場所を転写できる「スクリーン」があります。それでもって、その間に電子を反射させる「2つの隙間のある衝立」を置いて、電子が一直線に到達する事を確認しようとしました。電子の粒は、その隙間をまっすぐ通り抜けるはずです。ちょうど投手の投げたストレートが、何にも当たることなくまっすぐキャッチャーのミットに収まるかのような感じで。

電子が粒だとすると、その隙間の空いたところに、隙間とおんなじ形で跡がつくはずです。その隙間を通り抜けられた粒だけが、スクリーンに転写できるはずだからです。

ところが、なぜだか「隙間の空いていない場所」にも、跡がつくんです。隙間の空いている場所にも、空いていない場所にも、規則性を持っているかのように点は増えていき、最終的には「しま模様」の跡をつけるんです。
その規則性は、まるで「粒」じゃなくて「波」のようにです。

じゃあ前提が間違っていて、電子は「波」なんじゃないか?
2つの隙間から抜けた2つの波紋が水面のように広がって、お互いに干渉しあうような、「波」の性質こそが正しいんじゃないか?だから衝立の裏側まで映し出されるのでは?


だとすると「電子は粒」ではないのかもしれません。

ただ、ここで結論を出すのはちょっと早いんです。

ここからさらに科学者さんたちは「じゃあ、なんでそうなるんだろう?」とこれまた考えを巡らし、今度は「スクリーンだけじゃなくて、隙間を通りぬける瞬間も一緒に観測すれば何かわかるだろう」という考えに至ります。
要は電子がどういう動きをするのか自体を「観察」してしまえば、問題解決じゃないか!と考えます。

でも、ここからが本当に摩訶不思議です。

量子は「恥ずかしがり」?


最初の実験から電子が「波」のような性質を持っている、という事が見えました。
だとすれば、実際の電子はどういう動きをしているのかは、その途中を観測した方がもっと分かりやすそうです。

ですので今度は、電子が発射されてから、スクリーンに至るまでを「観測」したんです。
その結果、驚くべきことが分かります。

なんと、「観測したら、今度は隙間を直線的に通った場所にしか、映らない」んです。
要は観測するとまっすぐ飛んでいく「粒」になり、「波」じゃなくなるんです。

途中を観測すると
「粒のような動き」をして
観測しないと
「波のような動き」をする。

それはまるで意志でも持っているかのように、「恥ずかしがり」のように、
見る、見ないで「その結果が変わる」んです。

だとすれば量子は「粒でありながら波でもある」としか言いようがありません。

ですが、1つの粒なのに波のように広がる、という事自体が理解できませんよね。でも実際そうであるような結果が出ています。

例えるなら、スーパーボールが一つあって、それを見るか見ないかでその在り方が変わってしまう。見ていない時はボヤっと広がっている証拠がいくつもあるのに、それを見ようとするとやっぱりただのスーパーボールだ。
「在るのに、無い。」そんなことが「電子」には起きます。

また更に研究をつづけた結果、こう言ったことが起きるのは「電子」だけじゃなく
その他の小さな粒も
、だったんです。

つまり、ちっちゃな世界では、世界を構成しているちっちゃな要素の中では、「何度でも起きる現象」だったんです。(特にハイゼンベルクの量子力学の方程式は、驚くことに今まで【一度たりとも】間違っていたことがありません。)

量子の結論


結論から言えば、現在でもちっちゃな単位で起きる「量子の謎」は
「誰にも分からない」状態がずっと続いています。

「どのようにこういう動きをするのか?」は分かっているので、ここから現在の様々な技術が生まれているもの確かです。言い換えれば「モノそれ自体(なに?)は分からないけど、それの在り方(どのように?)はどんどん見つかっている。そしてその在り方(どのように?)を技術として適用している。」とも言えるのだと思います。

ですが「そもそも、それがなにか?」は考察や解釈の域を依然として出ていません。ミクロ(微視的)な世界では「量子場」がとてつもなく正確で、マクロ(巨視的)な世界では「重力場」がとてつもなく正確。けれども、「量子場と重力場」は互いに矛盾し合います。ミクロな世界では、重力はほとんど無視できてしまうほどに弱い力です。反面マクロな世界では極めて小さい量子を取り扱うことは困難を極めます。

しかしこの相矛盾する状態を「統合」しようと奮闘しているのが現代の理論物理学で、有力な統合理論は「超ひも理論(量子場と重力場と電磁場の統合)」と「量子ループ重力理論(量子場と重力場の統合)」です。この二つはとっても面白いですが、依然として奮闘中ですので、結論にはまだまだ至らず、と言った感じです。

ですので、現段階で言えることは、
私達や私達の世界は「不確か」なものから形作られている。

という他ないんです。

ただ、このままではあまりに収まりが悪いですよね。まるで私達が「存在しているけど、存在していない」かのような不安に駆られます。

ですので、ここからそんな不安を払しょくする一助として、理論物理学者で「量子ループ重力理論」の立役者でもある、「カルロ・ロヴェッリ」の考察を見ていこうと思います。彼は現代の天才で、「第二のホーキング、ホーキングの再来」とも言われる人です。(ホーキング博士は「超ひも理論」や「ブラックホールの蒸発」を示したことで有名な人です。)

世界が相互関係で成り立っているとしたら


カルロ・ロヴェッリの考察を一言で言うと
「世界は関係でできている。」という言葉に尽きます。

世界を構成する量子たちが、
見ることで「粒」の性質を持ち、
見ないことで「波」の性質をもつとするならば、

見方を変えると、「むしろ相互の関係が、物体を、世界を形作っている」という事にもなると思います。

私達は対象を見極める際、その「見極めるという行為であっても、条件の一つ」である可能性を見逃してしまう事があります。

言い換えれば「見る、見ないが条件を変える関係」として働く場合があるかもしれません。

つまりは何らかの「相互関係」がその存在を存在させることも、あり得るんじゃないでしょうか?

この「相互関係」という観点から見ると、たとえそこになにかが存在していたとしても、一切の「相互関係」が無ければ、それは「存在している」と確認ができないと思うんです。

どんな最小単位であっても、物質として「そこにある」のなら、物質である以上、生物である以上、私達が存在するときは常に「私(物質)となにかの相互関係」が必ずあります。

ある猫が耳を澄まし、ある犬はにおいを嗅ぐ。
太陽は地球を照らし、植物はそれによって酸素を作る。
動物はその酸素を吸って生き、世界を見渡す。
物体はその酸素を浴びて、酸化する。
人は星を見て「綺麗だね。」と言い、その星々は常に重力に引っ張られ、移動している。

私達が見るこの世界は、絶えず互いに作用しあいながら、
時に美しく、時に儚く、時に壮大に、存在している。

だとすれば、これまでもこれからも世界はずっと繋がっていたし、繋がっていきます。

まさしく「相互関係」によって。

量子を学びながら、ふと隣に置いてある観葉植物を見て、
「そうか、君ともつながってるんだ」と、心温まる私は、ちょっぴり温かみを感じました。

存在するという事は、常軌を逸した奇跡かもしれません。ですがそこに「相互関係」がある以上は「不確かさは、確かなもの」になります。

私達の一般的な世界認識は、ニュートンの頃の「古典物理学的(物体を前提として考える)」なところがありますが、最先端の理論物理学の世界認識では「場(状態量)」を。言い換えれば「ミクロで小さな相互関係」を基にして、その視野を確実に、少しずつ拡げ、展開しています。

考察のついでに


現在いろんな情報媒体でたまに見るような「量子的な謎パワーによる精神的な何か」がありますが、量子力学の専門家たちはこれを否定しています。

「宇宙がシグナルを送っている」的なものは一切起き得ないと言います。
量子は物質の性質であって、それに「思念」のようなものは発生していないと言っています。

つまり、確かに不思議な現象として量子はその性質を顕にしますが、
「こんな事が起きるのは、私に特別な秘められた力があるに違いない」的な何かではないという事です。

100年以上の時を経て、名だたる物理学者が量子の「なぜ」を特定できない状態です。
もしそれが何度でも再現できる確かなものであるなら、「科学」として世間に公表しさえすれば、その人は「世界史上最も偉大な一人」になると思います。

基本的にどのような考えも許容したいと私は考えますが、人をだます高額のセミナーの類は「高いほどいい情報に違いない」という人の心を煽る側面もあり、あまり許容できません。
救われたいと願う人ほど被害にあうことについては、どうにも納得が出来ないんです。
ですので、苦言を呈しておきます。

ともあれ、私達は「関係」において成立しているのなら、日々の何でもない関係すら、何か特別なものに感じては、来ませんか?
その当たり前こそが「奇跡の産物」なんじゃないでしょうか?

今日のあなたの一日が「量子の意味の分からなさがあっても、私達は確かなものだ」という事を考える一日であると願って。
読んでいただきありがとうございます!!

タイトルとURLをコピーしました