やがてお金は無くなって、結果みんなでオドループ。~『22世紀の資本主義』を読んで~

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生き方

成田悠輔さん著、『22世紀の資本主義』を読んだ。

お値段は1,000円(税抜き)。この本からは「儲けてやる!」という気概がほとんど感じられない。しかも時間をかけて注釈も含め全部自分で書いたらしい。コスパとタイパが最悪な一つの本がこのたび誕生した。

この本の内容には「最大多数の最大幸福」で有名なジェレミー・ベンサムも、「無知のベール」で有名なジョン・ロールズも真っ青な、あるいは真っ赤な顔をするかもしれないし、ひょっとすると意味が分からないかもしれない。私個人は実際、開いた口がふさがらなかった。

過去の人たちの示してきたこと。今現在の得られる情報・データ。そして何よりぶっ飛んだレベルで圧倒的な知識プールを持つ、自称「プロの経済学者の末席を汚す、ぎりぎり経済学者」の構想(というより予測)。これらがかみ合わさった結果、一つの未来予測が生まれた。

私は、今のこの現状に、人がうんざりしたり疲れてしまったり、子供でさえも苦しんでしまうような社会の現状に、なんとも言えないもどかしさを感じている人間です。多分、皆も多かれ少なかれ、そうでしょう?

そしてこの展望を見ても尚、そんなもどかしさは今でも変わらない。現代人の、不機嫌が暗黙のルールになったかのような状態を、やっぱりなんとかご機嫌の不文律が小さな範囲からでも起きてはくれまいか、と感じながら、やや青臭さが残る、青臭さを取り戻さんとしている人間です。

ただ、この本を読んで少なくとも一つの「未来への可能性」を見た。

もちろんいい事ばかりではない。課題も山積みなようにも思える。

だけども正直、22世紀に想いを馳せつつ、ホッとした自分が確かにいた。

今回もまた要約なんだか読書感想文なんだか分からない書き方をする。今回もやっぱりかいつまんだ何かになった。

こんな、場末のスナックより場末のブログで、かつ非常に怪しげな屋号を掲げては、よくわかんないことしている人間だからこそ、よくわかんない感想文が実に、よく似合う。

極めて場末で辺境のここから、今回は22世紀を見に行く。

やがてお金は無くなって、結果みんなでオドループ。

そんな未来予測を。

では、早速いきましょう!

22世紀を予測する彼

成田悠輔さん。彼は、お金が大好きで大嫌いだという。勘違いじゃなければ彼の場合のお金が好きで嫌いの意味合いが世間とは異なる気がするけど、まあそう言ってる。

あと、これも私の勘違いかもしれないけど、勘違いついでに言っておけば、彼の根幹に根差しているのはおそらく、

「この世界が大好きで、大嫌い。」

といった感じなんじゃないか?と時折感じる。

思うに彼は素直でいて、かつ素直でない。あるいは別の尺度に素直だからこそある尺度での素直な表明はしない。まったく頭の良い人の想いは難解である。そして多分、シャイ。淡々とした態度を示したかと思えば、その辺の一般人が一般人に向けないような温かい目を向けたりもする。成り上がり系の人たちに囲まれた際には、どこか居心地が悪そうにも見える。文字の上ではユーモアと皮肉が入り混じり、いつでも含みがある。考えさせる余地みたいのがいっつもある。少しは理解できそうなタイプの禅問答みたいである。でも、動画等でその所作を見れば、朗らかな感じ、憂いている感じがすることもしばしば。

人間社会が向いてないと言いながら、人間社会について考えながら、酒を浴びるほど飲みトリップしながら、仕事と日常の区別をなくそうとする人。それが私の目に映る「成田悠輔」さん、その人だ。

そう言えば最近の研究で、人は他者の笑顔を見れば、その人の性格を精度高く見抜くことができる、ということが示唆された。だとすれば、残念ながらうっすら透けて見えているのかもしれない。いかに私がポンコツでも、この勘違いは単に勘違い、とも言えなそうだと思う。

彼がこんなところを見に来るはずもないから、まずは彼が恥ずかしくなってしまうようなお膳立て?を素直にしてみた。

だから、いよいよ本題に入りたい。が、その前にこの本の「帰結」を先に示したい。

『22世紀の資本主義』は「測れない経済」の到来を予測する。

この本の示す未来予測は「測れない経済」の到来。また副題である「やがてお金は絶滅する」社会到来の話。

おそらく読めば、

意味はまあまあ分かるものの反面、奇妙に感じるかもしれない。

「ホントにそんな未来が来るの?」、そう感じる人も多いんじゃないかと思った。

しかしそれは堅実な予測からもたらされる奇妙さだと感じる。いつの時代の人も先の時代を知ることができたなら、それは実に「奇妙」なはずで、今私達がスマホでやっていることなんて昔の人からすれば、きっと奇妙。加えてその先の奇妙さの片鱗、その先っぽくらいはもうすでに市場の中で、いくつかの兆候が見られてもいる次第です。

またこの未来予測は「理想郷と反理想郷(ユートピアとディストピア)の合い挽き肉」みたいなところがある。

この予測は逸れていって外れていくのかもしれない。そもそも見逃しがあって間違っているのかもしれない。でもそんなことはどうでもいい。新しい風呂敷が生まれ、拡がった。それで良い。

もしくは徹底的な批判によって、より明確なアンチテーゼが生まれてもいい。それがこの本に描かれた「未来の踊りや舞い」のような、あるいはそれすらも超える、比べようのないご機嫌選手権を生み出すかもしれないし、より良い展望にもなり得るから。未来人がくだらないことで実に楽しそうに過ごしているのなら、私はそれで良い。それに今回はとことん乗る。

ただ、

「それで良い。」

とかっていう言い方をしてしまうとまるで希望的観測のようなニュアンスを感じてしまうかもしれないので、もう少々の説明も加えておきたい。

この本は「そうなったらいいよね!」な話ではなく、

「市場が今後もあらゆるものを商品化し続けると、高い可能性を持って、こんな未来がやってくる。」

という未来予測。

つまり「そうなったらいいよね!」ではなく「得てしてそうなる可能性が高い」という内容の本。

とはいえ、このままだと「測れない経済」や「お金の絶滅」という帰結がなぜ予想されるのか?が、

全くさっぱり分からない。

この本は「1章 暴走」、「2章 抗争」、そして「3章 構想」の各章があり、進むほど徐々に「測れない経済」の到来に近づいていく。

なので、以降かいつまんで掘り下げたい。まずは、1章から。

1章 暴走:すべてが資本主義になる~すべてが商品化・データ化していく~

資本主義は暴走している。すべてが資本主義になりつつある。あるいはすべてが市場経済に取り込まれつつある。

とある国で永住権が買えるようになるようだ。どうなるかの予想は難しい。しかし、実際「国籍と人」が商品のようになってしまった。

また、某フリマアプリでは、一昔前では仰天するようなモノが次々と商品として取引されている。

市場経済が生み出す商品は、どんどんと見境を失い、どんどんと金銭的価値を帯びていっている。しかも今現在ある商品より、未来の期待に価値を見出し現在の価値にする方向の商品(株とかが分かりやすい)は如実に膨張している。政治も個人も企業も、欲しがる人、期待する人がいれば。そんな時代。

そもそも資本主義って、なんだろう?

ところで、私達は資本主義が加速している、なんていうけれど、よくよく考えるとそもそも「資本主義」とは、なんだろう?

「資本主義」は定義しにくい。

なにせ「資本主義」は動く。何が動くのかというと、「その中身」が動く。

一応名前がついてはいるけど、中身の方はと言えば、ガンガン商品や取引の内容が変わって(拡大して)いく。生まれては失敗して消えて、生まれては社会に受け入れられて残る。かと思えば突然オワコンとか言われる。

名前と中身が変わっていく。ただ、名前があるから私達は資本主義とかいう漠然とした経済を信じることができる。いわば理念、コンセプト、原動力、方向性みたいな何か。

だから多分、「中身」とか言うとそれすらも厳密には資本主義を表していないのかもしれない。しかし逆に言えば、そのくらいフワッとした何かでもある、ということ。

ともあれ成田さんはこのような、「掴みどころのなさ」こそが、「変幻自在で定義から逃れ続けること」こそが、資本主義の本質・本性なんじゃないか?と考える。

その結果、彼はこの本において「変幻自在に未開拓領域を商品化して稼ぐこと」を、あえて言うなら「資本主義」と呼べる、と。

またその実行として、「実際に商品に値が付き、売り買いされ、分配していくこと」を、「市場経済」と呼ぶことにする、と言っている。

資本主義は止まることができない。市場経済はかつてグレーゾーンだった何かを商品にしていき、拡大していく。

この商品化の流れに、ちょっとした引っ掛かりを抱いている人も少なくないと思う。民主主義ってなんだっけ?歯止めが効かない資本主義。こんな感じで。

それと共に、「でも実際そうなっていっちゃってるし受け止めるしかないのかなぁ」みたいな気持ちや「どこかで止めなければこのままでは」みたいな気持ちも抱えて。

ですが、まあ止まらんのです。どんどん進み続け商品化していく。

そんな商品化の傍らで、得てしてどんどんデータ化も進んでいっている。商品化、データ化は、おそらく今後も止まることはない。

データ化が進んだ先には~身体と心のデータ化~

成田さんはこの「データ化」が拡大していけばその先に何があるのか?を予測して、こう言う。

データは拡大し続け、私達の心身もデータ化もされる、と。

こう言われると少しギョッとするし、ゾワッとする。

確かにまずは初めに不気味さを感じる。けど、もう少し考えるとおそらくはこんなことも今後は起きる。

まずは「身体のデータ化」について触れると、

例えば、心拍数がデータによって把握できたとすると、心臓発作の予兆が示され、警告が出る。また、誰もいない場所で突然の事故にあったとすれば、その異変に即座に反応するシステムなども考えられるはずだ。

つまり、24時間営業の診察・救助が、可能になる。加えて病院側も症状が事前に、より明確に提示されて対応がしやすい。

この、身体の把握については今の技術でさえそこそこできる。後はそれらがより発展しながらも統合するだけなのかもしれない。

(成田さんは21世紀の前半には「確実に」こうなる、という。)

そして、やがて訪れるのは「心のデータ化」。

脳の状態、ホルモンの状態、更にはまだ見ぬ計測技術をも含んだ、「精神の状態のデータ化」

「身体のデータ化」に続いて「心のデータ化」もやはり、不気味だ。

しかし、こちらについても、

あなたの悩みに最も効果的な対処はこうで、

あなたが喜びそうな何かやイベントはこれ。

といったようなことが今より遥かに個別具体的な対処や方法として提示される。

ひょっとするとこの時点で、途方に暮れるような漠然とした悩みは、ほどほどに小さくなっているのかも、しれない。

最後に来るのは「存在のデータ化」

「身体のデータ化」と「心のデータ化」には、気持ち悪さと快さが一緒に詰まっていた。

だけど更に先がある。

それが「存在のデータ化」だ、と彼は言う。

「身体と心」も含んだ、存在自体のデータ化。

行動も発言も身体も思考も感情も、いずれはデータ化し絶え間なくインターネットと繋がる。

そしてすべてが商品となり、すべてに値段が付き、全てが市場経済になる。

2章 抗争:市場が国家を食い尽くす~逃げつつ食い尽くす市場vs追いつつ食われる国家~

お金って、なんだろう?

ここまで、資本主義の暴走は止まらず、市場経済がすべてを取り込むと、いずれは身体、心。そして存在すらも商品化し、データ化してしまう。という話を見てきた。

ところで、これまでの話では、何か肝心なものに触れていない。

というのも、この本、『22世紀の資本主義』の副題は「やがてお金は絶滅する」だ。

お金について吟味していかなければ、色々と紐づいてはいかない。22世紀の経済予測に、お金の話をしなければ、よく分からない話になってしまう。

だからここから成田さんはお金も紐解いていく。

商品には「値段」が付く。その値段を測っているのが「お金」だ。

それにしても、

「値段を測っているお金とは、なんだろう?」

お金は、政治経済の教科書などで、

「価値尺度・交換手段・保存手段」と書いてある。

なるほど、めちゃくちゃ分かりやすい、保存ができて、交換ができる価値を測る尺度。

また彼はこれに加えて、お金とは「ゲーム」や「宗教」のようでもある、と言う。

「価値尺度・交換手段・保存手段。それにゲームや宗教のようだ。」とひとまず触れる。

でも、更に続けてこう言う。

「このどれもが正しく、どれもが外している」と。

成田さんは「お金の核とは、過去の記憶である。」と考える。

あるいは「お金の核とは、貢献の痕跡である」とも。

一万円を持っている。この一万円は過去に何かの貢献をした痕跡、そして記憶だと言う。

ひょっとするとよく分からないかもしれない。なので、少々補足をしてみる。

お金は確かに、尺度や手段として。またはゲームや宗教のようにも振舞える。しかしお金のそういった振る舞いを可能にしているのは、「まずは記憶」として機能しているからと考えることができる。「記憶、もしくは貢献の痕跡」として機能して初めて、

価値尺度・交換手段・保存手段やゲーム、宗教のように振る舞える。

違う言い方をすれば、仮にお金がその場限りの何かだった場合、煙のような何かだった場合、上記のいずれも機能しない。尺度にも手段にもならず、またゲームのように没頭も出来ない。より根本のところに「記憶」としてのお金がある。それが「記憶や貢献の功績」でなかった場合、保存したところで価値が記憶されていない、既に価値が消えてしまっている、なんだかよく分からないものを保存していることになる。しっかり仕事をしたのに「もう既に貢献ではありませんので支払われません!」なんて言われたら困ってしまう。だから「記憶・貢献の痕跡」が核なのだと言っている。

ところでじゃあ、「お金の核は記憶である」とした場合、それも含めてとても重要なのは、

「では、お金はどこまで正当な経済活動の記憶と言えそうか?」

「経済実態とその記録は、どの程度上手くいっていそうか?」

ということ。

なので、ここから「実態と記録」のお金の変遷。その大きな時代の流れを見ていくことになる。

お金の変遷~実態と記録のズレとその変遷~

お金は大昔に生まれた当初、小さな経済活動の台帳代わりだった、とされる史料は多いらしい。

そしてそんな大昔の、小さな経済活動は「実態と記録のズレ」は、小さかった。

しかしやがて経済が爆発すると、経済活動の範囲は大きく、遠く、なり始める。

大航海時代からの数百年は手に負えない。インターネットはおろか、計算機すらない。得てして「実態と記録」はズレにズレた。

ただ反面、そのズレを埋め合わせるためのお金、という意味では、その時代は「お金の黄金時代だったのだろう」と、彼は言う。お金は実態の記録として必要で、かつ記録しえなかったズレの埋め合わせにも必要。そんな意味で。

そして時代は巡る。

ここ数十年で経済の「実態と記録」が再び近づき始めている。

キャッシュレス化はその顕著な例で、現金取引をしなくなるほどに、ズレも生じにくくなり、その記録はデータとして各決済として残る。

そんな各決済が紐づいてしまえば、経済実態全体の記録はどんどんと明らかになる。

ただ、「あっちが立てばこっちが立たず」でもありそうで、

「実態と記録」が近づくほどに、お金の価値が下がっていく可能性が高い。

なぜなら、実態と記録のズレを埋まるためのお金の必要性が下がるためだ。必要性が下がれば、価値もまた下がる。

お金の価値が下がるということは、物価や資産の価値が上がるということだし、物価や資産の価値が上がっているということは、お金の価値が下がっているということでもある。

歴史的傾向を見れば、インフレは起き続けている。デフレ大国、とか言われるここ日本であっても、今やしっかり実感できるほどに物価が上がっている。

成田さんはインフレについて、お金をバラマキのように刷り続けたことも要因かもしれないが、それに加えて経済の実態と記録が近づきつつあることも要因としての仮説が立つかもしれない、という。(サラッと言っているが、この実態と記録の話は、とても新しい切り口だし、しかも仮説として筋も通っている。と感じる。)

ともあれ実際、お金の力はどんどんと弱まっている。

実態と記録がデータになれば、お金は衰退していく。

成田さんは、こう言及した後、

データ化が進めば「一物一価の共通の価格である必要もなくなっていく。」とも言う。

これは一体、どういうことなんだろう?

データ化により「一物一価」は「一物多価」へ

さてここまでで、まずは商品化とデータ化の止まらなさと、それによる未来の身体・心、そして存在のデータ化に触れた。また、お金の核は記憶だからこそお金はお金として機能し、かつ近年、実態と記録のズレは如実に小さくなっていることにも。

となれば、「データ化とお金」の大きな傾向を含めた、新たな話が展開できそうだ。

データ化が進むほどに、実態と記録が近づくほどに、

誰が何をどれくらい求めていて、その人が何者で、取引してもよさそうな人か?いくらぐらいがよさそうか?などがより鮮明にデータとして集まり、記録され始める。

現在は皆で同じ尺度「一物一価」によって、例えばこの本だったり、車だったり、家だったりを売り買いしている。

しかし、データ化が進めば、より豊かな情報がそこにはある。その豊かな情報を企業が使わないことは想像できない。

それに今でも、デジタル金融などでは情報が集まりつつあり、結果個別に展開されてきているし、もっと身近でもクーポンや、ラーメンを何杯か食べたら一杯無料、トッピング無料、などもよく考えたら常連さんやクーポン利用する人は、少々のお得をしている。

これの一歩先が、「一物一価」から「一物多価」への移行だ、と成田さんは言う。

データが集まった先の「一物多価」では、

商品やサービスは個々人の記録に基づき、個別最適化がなされ、時間、場所、状況により異なる価格が提示される。しかも自動で全面的に。

より多く払ってもらえる人にはより多く払ってもらい、信用ならない人にも多く払ってもらう。事業者は儲かる。売れそうなラインを攻め、消費者は買いたければ、買う。

「…しかし、そんなことあるか?」と、おそらくはそこそこの人が感じる事と思います。

ですが、おそらくは、この通りになる。

なぜなら、市場が情報を利用しないことは考えられない。だからどんどんと情報を取り込むはずだ。そしてそれによって、以前はすんでのところで逃してしまっていたような客をも、データが揃えば揃うほどに、取り込むことができる。

全体の取り込みは、売り上げを高める。

だから、より個別的なの価格設定「一物多価」は、徐々に広がりを見せ、更にはその内に大胆なことをする企業もまた、現れ始める。

成田さんは、極端な場合、人の数と同じだけの数の価格もあるかもしれない、と言う。

結果、一万円は人によって価値がバラバラになり、年収で比較すること自体が徐々に意味をなさなくなり始めもする。

この時点で、他人がいくら持っているか?は問題ではなくなる。

市場が市場を最適化し始めた先に

データが揃うほどに、より豊かな情報網から個別での最適な価格が提示される。お金は一つの尺度ではなくなっていく。

現状の市場経済は避けがたく格差と弱者を作ってしまう。革命や未曽有の災害でも起きない限りは、市場経済では再分配が起きにくく、どんどんと差を作る。

しかし、データが揃うほどに、「一物多価化」が進む。となると、

市場の最適化は市場でなされるような事態が生まれる

またそうであるのなら、

再分配は国家の専売特許では、なくなる。

市場経済の格差拡大は、今まで避けがたかった。

だからこそ、再分配は国の仕事だった。

ただ、中間組織と補助金の仕組みは、競争圧力も弱く、成果自体測りにくい。だからどうしても、国家は非効率と非合理の巣窟にもなりやすい。

そして「これまで」は、他に再分配装置がなかった。

しかし「これから」は、果たしてどうだろう?

データが揃い始め「一物多価」が拡がるほどに、価格自体の仕組みとして、非効率と非合理なしに、取引それ自体として再分配が起きれば、社会保障や格差是正が進むかもしれない。売り上げを求めデータを利用した結果、再分配が起きる。

そうなれば国家は、経済的役割を疑われる。実際今ですら、ウェブ経済の方がグローバルな再分配の主体でもある。

つまり、「逃げつつ食い尽くす市場と、追いつつ食われる国家」の抗争が、今世紀だ、と成田さんは言っている。

改めて触れるけど、これは今までの大きな傾向からなる予測であって、そうであって欲しい、と言った話じゃない。あくまでこんなことが予測される、という話だ。

だから、この本は資本主義万歳な本でもなければ、国家転覆を目論む革命の本でもない。

それに彼自身も国家が無くなる、とは言っていない。国家の役割はより小さくなる、と言っている。だから資本主義万歳やら国家転覆の革命だ、などと、その手のことを書評として書いている人がいるのなら、信用ならないこのブログより、信用ならない。

さて、「2章 抗争」のお題目の意味はここで回収されている。

ざっくりまとめるなら、

資本主義の「暴走」は鬼ごっこ的な市場と国家の「抗争」を生む。

と言えるかもしれない。

また、この2章の最後で、こんなことにも触れている。

確かにデータが揃えば「一物一価」は「一物多価」へと進む、そんな予測はできる。だけど、

「お金が必要だという世界観に住むかぎり、私たちがお金から解放されることはない。市場の歪みを再分配で救う。と考えている限り、市場から解放されることはない。そのためには、測ることを止めねばならない。測ること自体成立しないようにしなければならない。私たちは測ることに洗脳されている。だから【測れない経済は、想像できないだろうか?】

つまり、お金の尺度はバラバラにこそなるものの、お金、という尺度自体が残っているとしたなら、依然としてひとまとまりのテッペンを目指すような感覚から私達は抜け出せない。測ることでひとまとまりの何かを目指す事態は、ずっと続く。だから、そもそも測ることすらできない経済を、想像もしてみる、ということ。

こんな内容から、いよいよ帰結の「測れない経済」の話として展開されていく。

また、この2章の最後の方で「ある文章」が出てくる。この「ある文章」については最後にそのまま引用する。この引用に成田さんのイイ奴っぽさが滲み出ている。だからこれは、最後の最後にとっておく。

3章 構想:やがてお金は消えてなくなる~「招き猫」アルゴリズム~

資本主義の止まらぬ暴走と共に、市場経済の商品化、データ化が進む。データ化が進むと市場はその豊かな情報を駆使して価格設定を個別最適化し始める。個別最適化が進めば、市場の中で売り上げが上がりつつ再分配が起きる。再分配が市場で起きると国家の経済的役割が危うくなる。結果始まる市場と国家の鬼ごっこ。こんな事を見てきた。

ただそれよりも更に先を彼は構想し、こう言う。

【測れない経済は想像できないか?】と。

お金は価値の測り方単純すぎて歪んでいる。歪んでいること自体は議論されてきた。

だけどこれまでされてきた議論は、

「いかに歪みを解消するか?」

「お金ありきでまともな別の価値の測り方をどう作るか?」

になりがちだった。

そのため、GDPに代わる社会経済的進歩の指標を作ってみたり、成長中毒から抜け出すべく、社会全体での「脱成長」が大切だ、と言ってみたりした。

しかし、今ある「歪み」を矯正しようが、価値の軸をひっくり返そうが、お金と言う尺度を使う以上、何らかの歪みは避けられない。

だから成田さんは、そもそもの矯正の頭から抜け出し、更にはその先を予測しながらも、

「大切なのは価値尺度の逆転ではない。単純な価値尺度を必要としない世界を作ることだ。」と言う。

お金は単純すぎる尺度である。また、貢献の痕跡を圧縮する尺度でもある。

単純で圧縮してしまうがために、人はその尺度によって規定された、より価値があるとされる何かをこぞって目指そうとする。反面、金銭的価値が低い、価値がないとされるものに見向きもしなかったりしてしまう。

だけど、私達がお金という、単純な尺度を用いる必要があったのは、私達の認知能力と情報技術が未熟だったからだ。

過去の履歴をちゃんと記録することができずひとまず、お金で測る。実態に対して記録が貧しかった結果、お金で測る。しかもお金が発生しない出来事・やり取りは、そもそも記録されない。

私達には生まれながらにお金がある。だからこそ気付きにくい。

その場しのぎで単純でポンコツな物差しだったはずのお金は、いつでも当然のごとくあったがために、それが当たり前になり、「お金で測られるものこそが、価値」であるかのような倒錯(ひっくり返り)が生まれた、とこのようなことを彼は言う。

より簡単に言えば、

なんとか社会を回すために用いられてきた単純すぎるポンコツなお金と言う尺度が、今やそのポンコツさが見えにくくなった結果、むしろお金と言う尺度中心な感覚が私達に根付いている、ということ。

お金は偉大な発明だったかもしれない。けれどもそれと同じくらいにポンコツでもある。

私達は、その尺度で測ることを、そのまま受け取るほかなかった、生まれながらの倒錯世代なのかもしれない。そしてひょっとすると、ヒエラルキー的欲望に魅せられ、比べ、絶望した、過渡期の悩める最後の人類、なのかもしれない。

なぜなら

「お金の核とは、記憶である。」とするならば、

もっと豊かな実態を示す「過去の功績・記憶」が、これまでの話で、既に、提示されているから。

「招き猫」アルゴリズム

身体、心、存在のデータ。お金より遥かに豊かな履歴データは、アルゴリズムによって、実態と記録が紐づき、それに基づいた推薦をする。

彼はこれを【「招き猫」アルゴリズム】と仮称している。

招き猫は、本人が声を上げずとも、隠れた欲求を汲み取ってくれる。もしかすると本人すら予想もしなかった、偶然のような出来事がやってくるかもしれない。

助けたり助けられたり、人の経験に相乗りして、新しい世界を教えてもらったり、教えたり。

履歴データは張り巡らされた全体関係から私達に推薦してくる。

選ぶ自由は勿論個々人にある。

やってもいい、やらなくてもいい。でもやってみたら意外と。のような推薦を。しかし、あまりに調子に乗れば選択肢は減る。

ともあれ交換、サービス利用、親切、思考、感情などによる履歴データを駆使し、それらも加味した推薦をする。

「個々人の満足・社会的制約・公平性」のバランスをとりながら。

そしてこの世界には、もはやお金が必要ない。お金より豊かな「記憶」があるがために。

そして今のような比較がそもそも成立しえない。単純な比較は、もはや意味を成さない。

ただ、履歴データによる「トークン」のような尺度はある。

彼はこれを【アートークン】と呼ぶ。けど、名前はなんだっていい、とも言っている。

アートークンは数えることも出来ない。数えることができないのだから、比べることもできない。

それは、唯一無二の「アート」のような何か。生き様は記録が揃えば、アートになる。

単純な尺度は、より豊かで複雑で測れないおのおのの唯一無二の尺度へ。

ただ、彼は言う。「そこは楽園ではない。」と。

「できないことはできないし、許されないことは、許されない」と。

私達は中々に欠点の多い生き物である。だから未来の自分を、あるいは未来人を想って履歴データにされることに、少し戸惑う人もいるかもしれない。しかし欠点すら汲み取った上で、満足と制約と公平性を保つよう、推薦してくる。

また、お金はそもそも、「それがお金である」という共通了解の上で成り立つ。だからこそ時代ごとにコイン、紙、ポイントでも機能してきた。

金属、紙、データは、共通了解の上で初めて、「お金」として機能する。

だとすれば、その共通了解が生まれれば「アートークン」もまた、機能する。

また仮に、初めこそ人がそれを受け付けなくとも、データ化が進めば、いずれお金の粗っぽさをどんどんと露呈させ、人々のお金への疑念が高まることが十分にありえる。

データ化は「一物一価」を「一物多価」へと促す。

そしてやがて実態を取り込みに取り込んだデータは、いよいよお金の必要性を失わせ、「測れない経済」として

「一物無価」になる。

経済は生きる。だけど、測れなくなる。

2章で私達は「お金とはなにか?」に触れてきた。その中で「価値尺度・交換手段・保存手段」という話が出てきたことをここで思い出す。

「測れない経済」は、この、

「価値尺度・交換手段・保存手段」の中の「価値尺度」を失わせることによって、到来する。尺度の無い交換と保存の手段。

履歴データが保存され、それが出来事として交換される。いくら溜まったかは分からない。誰が貧乏で誰が裕福かも分からない。

始まるのは、ヒエラルキー的で不機嫌な競争ではなく、四方八方に向かう、それぞれおのおのユニークでご機嫌な競争。スタイルの差異。

纏まったいくつかのテッペンへの競争ではない、様々に異なること自体を競うことになる。

まるで突然できた謎のお祭り会場で、勝手におのおの何かをして、勝手におのおの満足しては、「今日も一番楽しんでやった」だとかと思う、踊りや舞い。

【競うより踊れ、稼ぐより舞え。】

これが成田悠輔。その人の、未来予測である。

未来人よ。どうか、ご機嫌であれ。

…ただ、履歴データの徹底は、こんな側面もある。

ユートピア的には、福が舞い込んでくるその傍らで、ディストピア的には、かつて経験したこと無い、未曽有の管理社会でもある。

しかし、実態が鮮明にもなる世界である。粗さと歪みが、今のような比較が、無いともいえる。

そもそも嫉妬も見下しも、心の疲労感も。思うにこの「比較」が大きな要因だとは、言えないかな?比較は得るものもある。しかし失うものの方が多い。ただ比較がもたらす苦しみは大抵隠れていて、後からやってきたり、そもそも気付けなかったりもする、厄介で怖いものである。

テッペン競争のような比較からなる心の疲労感がことごとく弱まった先で、身近な出来事が楽しくなってしまいすらする状況で、人は人に、いわば「悲しき悪意」を持つことが、できるかな?

「3章 構想」の最後に記された「交換様式」について

帰結は既に導かれた。だけど、最後に「交換様式」なるものに触れて、この本は終わる。

そしてここ。この最後。正直私はここ最近、ここ数か月で一番シビれた。この本について読書感想文っぽいものを書きたくなった大きな動機は、これを目の当たりにしてしまったから。

今まで知ってきたこと同士がバチン!と繋がる瞬間の気持ちよさが、この本『22世紀の資本主義』の最後には記してあった。

とはいえ、多くの人にとっては中々に「とっつきにくい話」なのかもしれないので、読み飛ばしてもいいとも思う。でもできるだけ簡単にまとめるようにも努める。

2,022年。柄谷行人さん、という方が「バーグルエン賞(哲学版のノーベル賞、になることを期待して作られた賞)」を受賞した。

その哲学のタイトルは『力と交換様式』だ。

成田さんは、柄谷さんの他、デイヴィッド・グレーバー『負債論』なども例に挙げている。けど、残念ながら私が『力と交換様式』しか読んでいないものだから、『力と交換様式』の前提のみで、話を進める。ごめんなさい。

柄谷さんは物事や価値が、生産、交換、分配される様式を、「交換様式」としている。そしてその「交換様式は4つ」あり、それも以下、

「これまでに生まれてきた交換様式が3つある。そしてそれらをそれぞれ交換様式A、B、Cとするとし、また、

「これから生まれるであろう交換様式も1つある。それを交換様式Dとする。」といったように分けると、少し理解しやすい。

さて、

「これまで生まれてきた交換様式A、B、Cの3つ」については、そこそこ現代では議論されてきていた。でも、柄谷さんは4つ目の「これから生まれる交換様式D」を新たに提示した。

ここまでで、ざっくりと「交換様式は4つある」ことが見えてきたと思うので、

更にこれまでの交換様式A、交換様式B、交換様式Cについてそれぞれ見ていく。

交換様式A:文化的・常識的な共同体での物々交換。贈与と返礼。

交換様式B:政治的・権力的な国家の支配と保護の交換。もしくは略奪と分配。

交換様式C:経済的・資本的な市場の貨幣と品物の交換。お金と商品。

さてこれまで、時代の大きな流れとして「A(例:集落)→B(例:帝国・王国)→C(例:資本主義)」といった交換の様式が生まれてきた。そして多かれ少なかれ、今でも生きている交換の仕組みでもある。

例えば、近所のおばちゃんに野菜をもらう。だからたまにお返しもする。または、国家、市場がブイブイいわせているのは、ご存じの通りです。

これに加えて柄谷さんは「これからの交換様式」を提示した。

では、「これからの交換様式」、交換様式D。これからやってくるであろう、全く新しい交換の仕組み。

それが、何か?というと、

交換様式D:まだ見ぬ謎の力。CとBに封じ込められたAの高次元での回復。

…?

…???

…はい、出ました!哲学特有のよく分からんやつ!

『力と交換様式』を読んだ人も、それが何かは全く分かってません!

私も当時、何度も『力と交換様式』を読み直しながら至った結論は「ええぇ…?つまり、どういうことなんだってばよ?」といった感じのナルト君的な感想と「果報は寝て待てってこと?」みたいな感じ!

つまり、これからの交換様式Dは、なんだか分からない。けどいつか来る。そんな交換の仕組み。きっと多くの人は腑に落ちないんじゃないかと、思う。

ただ、この『力と交換様式』。

「いつかその時がやってくるから、無用な争いはしなくていいんだよ。」といったメッセージ性も込められていて、それが評価を受けた結果のあの賞だったのだと思う。

…しかし。これ。少し思い返してほしい。今までずっと掘り下げてきた内容を加味すると、なんと。

私達は、交換様式Dをひとつ、知っている。

こんなことが頭に浮かび、ハッと気づく。

成田さんは交換様式Dの一つを提示してしまっている。それも止まらぬ資本主義と、飲み込み続ける市場経済の先に。

少し話を戻して、そもそもA(共同体)、B(国家)、C(市場)。3つの交換様式には、「それぞれ明確な欠点」がある。というのも、

交換様式Aの欠点:閉鎖と束縛を作り出してしまう。

交換様式Bの欠点:腐敗と無駄を作り出してしまう。

交換様式Cの欠点:格差と階級を作り出してしまう。

こんな欠点がある。だから新たな交換様式が模索された。

対して「招き猫」アルゴリズムを見る。特に最もAが大切なので、ここではC、B、Aの順番で示すと、「招き猫」アルゴリズムは、

Cの欠点の補完:市場は市場を最適化する。格差と階級は測れない。

Bの欠点の補完:国家の非効率・非合理を介すことがない。腐敗と無駄は介さない。

Aの欠点の補完:共同体はよりグローバルになり、贈り物に対して返礼するのではなく、出来事も含めた交換がなされる。閉鎖と束縛は生まれない。

成田さんの未来予測では、これが達成される。

つまり、共同体・国家・市場を融合し、かついいとこ取りしたような、

「交換様式D」が1つ、提示されている。

Aが大切なのは、共同体内での閉鎖的・束縛的な「物々交換」は、グローバル規模の「出来事の交換」になること。

履歴データに基づく、いわば「事事交換」が成せることによる、束縛と閉鎖から解放された贈り物と返礼の様式変化がある、ということ。

ある人は出会う。出来事を含んで。誰かにとっては価値のないモノに。けれどそのある人にとっては価値あるモノに。当然いらないのだから、貰っていただいてラッキー。

またある人達は互いに出会う。思いがけない出来事に。

測れない、比較しえない経済は、分散したそれぞれの価値を見出す。

分散された価値は、単純で粗っぽい椅子取りゲームにはなりにくく、結果誰かにとっての無価値は、違う誰かにとってのとびっきりの価値になりうる。

唯一無二。それぞれ、おのおののスタイルは、測れないがゆえに、その唯一無二性を舞える。

そして資本主義の暴走は、いずれかつての〇〇主義に当てはまらないナニカになる。だから、この本『22世紀の資本主義』は、タイトルに関しては裏切ってくる。もはやそれは、資本主義ではない。

そういった未来予測だ。

最後の最後に

最後の最後に。締めのあいさつ代わりにこの本を読んで思った話でもする。

まず、この本の未来予測には、特に大きな関門が2つほどある。それは彼が記してくれてもいる。

1つは「市場が国家から逃走しきれるか否か」、だ。捕まってしまえばそれまで。けど、おそらくこちらはデータ化の止まらなさから、色々と露呈した結果、逃げ切れると思った。

もう1つは、「なりすましデータ」が生まれた瞬間、ことごとく崩壊する、ということ。アルゴリズムはなりすましも加味して公平性を保とうとしてしまう。こうなると、全体関係が崩れていき、爆散する。ただ、こちらについては私自身の知識では及ばない範囲の話なので、「なりすましデータ防止」、「個別IDの確立」が出来るか否かは、ちょっと判断がつかなかった。

また、この本は未来予測の本だ。だから今現在にはほぼ関係ないようにも思える。しかし、お金の歪さへのフォーカスや隅っこの方で踊ると楽しいっぽい感じは、今現在であっても、身近な出来事への接し方を変えてしまうようなものとして、取り込み、参考にすることも出来る本でもあったように思える。

例えばそうだな、ある尺度からすればコスパもタイパも最悪な何かの中にこそ、今まで知ることすらなかった私的な魅力が詰まったナニカがある、かもしれない。といったような。

加えて、私個人としてこの本『22世紀の資本主義』を読んで、その内に頭に浮かび始めたのは、

未来の世界の猫型ロボット。もとい「招き猫」アルゴリズムは、

目に見えてかつどら焼きが好きなタイプでなく、目に見えなくてかつ好みが無さそうなタイプの。現代に降り立って福をなすタイプでなく、未来で座して福をなすタイプの。モノを個別に与えるタイプでなくて、モノをも含んだコトを個別に与えるタイプの。

あんなこといいな、できたらいいな、みたいな夢を与えるタイプでなく、

できうることから紡いで、福といえる出来事をまんべんなく振りまくタイプの。

そういうネコかタヌキか分からない、判然としないナニカなのかもしれない。ってことだった。

さて、私が買ったこの本『22世紀の資本主義』は何度か読み返している内にクシャクシャになってしまった。クシャクシャになった結果、金銭的価値が失われてしまった。しおりを挟むのがいよいよ面倒くさくなって、ページの角を折ってはドッグイヤーにしてしまったことも、今では反省している。売ることができなくなったので仕方なく、その時が来るまで本棚にでもしまっておこう。あるいは、その片鱗がいよいよ実感できるくらいになったら、もう一度読み返そう。

そしててんで外れていたのなら、その時は「焚き火」にしようと思う。ただ、私の中では、金銭的価値とはまた違う、別の価値が今後、少なくともしばらくは、残り続ける。

こんな、肯定してるんだか否定してるんだか分かんない、けれどもいくらか肯定してるっぽい書き方が、この本とそれを書いた人には、実によく似合うのは一体、なぜなのか?

それはまるで、そっけない態度とは裏腹に、耳やしっぽにこそ本音が見え隠れする「ネコみたいな書き方」のようにも思えてくる。そう考えると、その文章が織りなすユーモアと皮肉は、また違った見方が生まれるのかも、しれない。

それと、この本では比較的冒頭にこんなことも書かれている。

1、そもそもお金とは何か?

2、なぜお金はいるのか?

3、今後もお金は必要なのか

4、お金無しで生きていくことはできないだろうか?

 

これについては、復習みたいな感じで使ってほしい。

そうだ、うっかり忘れるところだった。これがその、引用です。

真に必要なのはベーシックインカムやお金ではない。再分配を内蔵した柔軟な市場経済でもない。稼げない人間、働けない人間、値段の低い人間でも何の引け目も感じずに生きられるような経済観と人生観への転換なのだ。

成田悠輔 『22世紀の資本主義』

競うより踊れ。稼ぐより舞え。

今日のあなたの一日が「やがてお金は無くなって、結果みんなでオドループ」な未来予測をひとつ知る一日であることを願って。

読んでいただきありがとうございます!

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