こんにちは!幸せマンです。
今回は、お互いの情報を伝え合うのは私達が考えるより難しいものですよ、という話です。私達は何かを伝える際には、少しばかりの制限がありつつ伝え合っています。その制限を今回はご紹介し、どうして話がかみ合わなかったりするのか?がなんとなく見えてくればと思います。そしてその人それぞれの意見は、その違いも含めて認め合うものなんだという事もあわせてご紹介します。
では、早速いきましょう!
「伝える」ということ
私達は話をしたり、文字を使って、相手に何かを伝える事ができます。「なにが、どこで、どうやって」をここまで具体的に伝え合う事ができるのは人間だけです。
とんでもなく高次元な事を当たり前のようにこなしてしまいます。
しかし、あまりにも当たり前だと思いすぎて、しばしば私達は「自分の話した事や書き記した事が正確に伝わる」と思ってしまうところがあります。
でも実際は私達の伝えたい内容の100%が、一言一句違うことなく伝わる事はまずありませんよね。
これはどうしても起きうる「仕方のない事」なんです。
コミュニケーションの主なツールとして、私達は「言語や言葉」を使っています。
私達の扱う最も優秀な物事を伝えるための手段です。
ところが、そんな最も優秀な言葉でさえも、
全く同じ文章を読んでも、全く同じ解釈にはならない。
という事は間違いなく起きてしまいます。
例えば、
匿名のSNS上で
Aさん「今日は散歩をして、綺麗な花を見つけました。名前は忘れてしまったんですが、とにかく綺麗でした。」
という話が文章で載せられていたとします。
これを見たBさん、Cさん、Dさんは各々
Bさん「チューリップかな?」
Cさん「忘れるくらい絶妙な花か。カラーあたりかなぁ?」
Dさん「綺麗な花があったんですね!よかったよかった!」
と、人それぞれの解釈で「綺麗な花」を想像します。
または、どこを散歩したか?もどうとでも取れるし、Aさんがどんな人かという想像も人によって違います。
女性かもしれないし、屈強なマッチョかもしれません。
「今の話って具体的じゃないからでしょ?」とお思いの方もいらっしゃると思いますが、具体的なものであっても良く起きています。
例えば
いつかの時代の偉人の本を読んだ際に、
生まれてくる解釈は私と他の誰かでは、たとえ近い感覚を持っていたとしても、やっぱり全く同じ解釈という事は無いんです。
ましてその偉人に直接聞いて「こういう事ですか!?」とは聞けません。
それを読んだ私と他の誰かの間で「これはこうでしょ?」「いやいや、全然分かってない!」と言い合いをしても、一向に解決しないんです。
その内容自体はお互いが理解していますが、そこから感じた細かい解釈は少し違っていくんです。
解釈の違いが生まれるのはどうして?
では、どうしてこんな事が起きてしまうのかという事をご説明するために、
少しだけ私達の頭の中の話をします。
相手に物事を伝えたい場合、
私達は何かを「見たり、聞いたり」した内容を言葉として相手に伝えるには、
先ずはその五感による情報を「私達の脳」で処理して「私達の言葉」として話します。
その言葉を聞いた相手も、言葉を「耳から」、表情や身振り手振りを「目から」情報として脳で処理しています。
つまり、私達から相手に伝わるまでに
私達の経験→私達の脳での処理→発話→相手が聞く(経験)→相手の脳での処理→理解
という、それはそれは複雑なステップがあります。
また、たとえそれが話の途中であっても、その話を遮るように会話をしてしまうのは、「要するにこういう事だろう。」と私達が圧縮して要約しているからでもあります。
更に、私達の一度に記憶しておける情報は、人といえどもそこまで大容量では無いので、相手が「要らないな」と思った情報がどうしても省かれます。
こうした過程や要因がある以上は、どうしても相手に伝わる際に少しずつ情報が変化してしまいます。
違うからこそ
今まで生きてきた道筋は誰もが違います。経験してきた事が違えば、感じ方もやっぱり違うんです。
違うからこそ、私達が感じたことをそっくりそのまま相手に伝える事はできないんです。
その人が何を重視にして、何をそこまで重視していないのか?は人によって全く違います。
じゃあ、話し合う事が無意味なのかというとそうではありません。
完璧に伝わらないというだけで、全く伝わらないという事では無いからです。
むしろ100%が伝わらないだけで、ほとんどの内容は伝わるからこそ、私達は話し合いが出来ます。
しかし、この時自分の思った事まで全てそのまま伝わる、その内容から受ける印象が違う、というような誤解があるからこそ、
「どうして分からないんだ!」という考えを相手に求めてしまいます。
本来は伝えた結果、相手がどう思うかは相手の自由なんです。
私達は時折、お互いの意見が一致していない事で言い争いをしたりしますが、これは必ずしも一致させなければならないものではないんです。
私がこう思ったんだから、あなたもこう思うべきだ!という考え方は損する事の方が多いと感じます。
極端にいうと
「私はシュークリームが好きだ。だからあの人もシュークリームが好きに違いない。」くらいの話になっています。
これを見るとおかしな事だと分かりますが、話題が違うだけで、これに近しい事が起き得ます。
私達と相手の中で相当複雑な過程へ繰り返し、これだけ理解しあえている事の方が、とんでもない事なんです。
また、理解が出来るからこそ、
私のような者の記事を読んで、「これは賛成」「これは違うかな」「こういう考えもあるね」と判断できてしまいます。
私自身は、私の拙い文章を読んでいただき、なにかを得るきっかけを、自分も他人も責めなくて良いんです!といった事がお伝えできればと思い、続けています。
これを読んでいただいてどうお思いになられるかは、やっぱり私が縛りつける事では無いと思っています。
特に日常生活の中では、「私はこう思うけど、あなたはこう思うんだね。」で良いんです。
意見の違いは生まれるものです。たとえそれが家族であっても良くあります。
特に同じ内容から得る、解釈については「今までの経験が違うし伝わらない事もあるんだ」という前提を持っておけば、
それに対するわだかまりのようなものは減っていきます。
同じ人では無いからこそ、違う意見が出るんです。
私達はただそれを、認めてしまえばいいだけだったんです。
加えて、「そういう意見もあったんだ。」という考え方は、様々なものに触れる事のできる、貴重な体験にもなります。
今日のあなたの一日が「意見の違いは貴重である」と思うような一日である事を願って。
読んでいただきありがとうございます!!