人生は不条理だ。だけどね。~アルベール・カミュ「不条理の哲学」~

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感情

今回はノーベル文学賞を受賞した作家であり、哲学者でもあるアルベール・カミュの「不条理の哲学」について触れていきます。彼の哲学は哀愁を漂わせつつも、その言葉の端々に抑えきれない熱情があふれ出しています。「冷静さと熱っぽさ」の緊張状態を保ちながらも、その緊張を維持していく。そんな考え方と生き方を教えてくれます。

悲しげな一方で、その語り口には暖かさをも感じてしまう。そんな魅力が彼にはあります。

今回はいくらか簡単な形で、彼の「冷たくて熱い」考え方、「不条理の哲学」の魅力に迫っていきます。

では、早速いきましょう!

カミュのいう「不条理」

アルベール・カミュ(1913年11月7日~1960年1月4日)は、アルジェリア出身の作家であり、哲学者です。(彼自身は芸術と哲学の創造を分ける事には否定的でした。)

彼のどの著作であっても「不条理」という鍵概念が欠かせないものとなっています。

カミュのいう「不条理」は、

「この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態。」と説明されます。

もう少し端的に表すとすれば、

「心の奥底では理解したい(割り切りたい)と欲するけど、理解しきること(割り切ること)は出来ない。という、このもどかしい状態。」

と言えると思います。

そしてこの「不条理へのもどかしさ」を前提として彼の考え方を見ていくと、今後の展開はかなり理解しやすくなると思います。そして結論に向かうほどに、一見すると苦難にも思える「不条理」に対するの色合いが個々人の中で徐々に変わっていくようなきっかけを、彼は与えてくれます。

なぜなら彼の考え方には、そんなもどかしい「この世界の不条理」と向き合うことの恩恵を示す内容が詰まっているからです。

彼は、

理性によって分からないことを分からないと認め、かつ

理性によって分かっていることには、毅然とした態度でみずからの心に問いかけ、

更には、よりこの現実なるものを忠実に、それでも分かりたいと欲する態度を貫き、

ごまかすことも、かわすこともなく、断念することなく生きること。

これが実は副次的により大きな心を培うことになる。

そういった「現実の不条理を見定めていくと、結果として、自分の中のより大きな心の範囲が見えてくる考え方」を彼は「不条理の哲学」によって、示してくれていると思います。

さてでは、この大前提を携えながらも「不条理の哲学」に踏み込んでいきます。

哲学はいろんな問題を考える。だけどね。

カミュは、「哲学の真の根本問題はひとつしかない。」と言います。

そしてその根本問題が何かと言えば、

「人生は生きるに値するか否か。これを判断すること。」

これが、哲学の最重要な問題だと言い、その他の問題は、少なくとも後回しで良いと説きます。

彼はガリレオを例に出して、こう言います。

「ガリレオは異端として火あぶりの刑に処されそうになった時、自分の説をひっこめた。つまり彼にとっての地動説は命よりも優先すべき問題ではなかったんだよ。」

命の問題と比べたら、天体がどう動くか?という問題は重要じゃない、と彼は言います。

まず真っ先に「命の問題」に向き合うこと。

「人生は生きるに値するか否か」を判断すること。

これが哲学の最重要問題だとしたからこそ、彼自らの考えとして、この問題に立ち向かっていきます。

ぼくらは日常のダルさや疲れを感じる時がある。だけどね。

おそらくは誰しも、この長くて短い一生の中で一度くらいは「人生って何だろう?生きるって何だろう?」のような事を考えたことがあるはずです。そしてそういった事を考える時は、何かしらの「違和感」を感じた時だったりすると思います。

例えば、学校がなんとなくつまらないと感じた時や、進路を決めなければならない際に、進学や就職が頭をよぎった時。あるいは仕事終わりの疲れた時や、なんでもない日常のふとした瞬間などに、私達は突然そんなことを考えたりします。

そしてカミュは、これをより明確に示します。

彼は「単調な生活の中、生まれる倦怠(ダルさ、疲れ、気疲れなど)」から、

こういった向き合いが《はじまる》、と言います。

確かに何かしらのダルさのような違和感に直面することで、私達はふいに「そもそもどうしてなんだろう?」という、単純素朴な「関心」が生まれます。逆にそうでなければそういった関心を抱くことも出来ないと思います。

カミュは、《はじまる》という意味において、「関心が生まれる」という意味においては、倦怠は良いものだ、と言います。

向き合うきっかけが無ければ、人はあくせく日常をこなすことで精いっぱいです。

しかし、ふとした瞬間の「なんだか疲れたな。」という倦怠によって《はじまる》

その倦怠による《はじまり》が、私達により根本的な問題に向き合わせてくれると、彼は言います。

ですが一方で、例えば「人生の意味って何だろう?」のようなことに触れる際、私達からすれば、あまりに重すぎて出来れば考えたくない気持ちも強くあるんじゃないか、とも思います。

そのため私達は「人生に意味なんかないよ。」と一応結論したけど、すぐさまそれを「まるで忘れてしまった」かのように日常に戻ったり、

「よく分からないや。」と感じ、考えないようにしては、未来に先延ばしにしては放り投げたりします。

しかし時には、

「私にとっての人生の意味はこれだ。」と、「希望」を抱いては、それに向かって行ったりもしますよね。

さて、こう言った様々な対応がある中で、少なくともこの中だったら「希望」が。つまり、何らかの意味や意義を見出すことが、私達に勇気を与えてくれるもっともな答えの様に感じるかと思います。

ところがカミュは、そんな勇気を与えてくれそうな

「希望」を否定します。

一体、なぜなんでしょう?

希望は一時、ぼくらを奮い立たせてくれるかもしれない。だけどね。

カミュは「まずは、希望を不在にするよう努めることが重要だ。」と言います。

一見するとあまりに悲観的な意見の様にも感じます。

ですが彼は

「確証したいという想いと、現実の間のズレが増大すればするほどに、みずからに降りかかってくる不条理性は大きくなるだろう。想定としてある状態(想定された心の思い描く現実)と事実としてある状態(事実としての現実)との比較によって、不条理性は増す。と言っています。

つまりは希望による「心で想定された現実」と「私達が見ているままの現実」との間にズレが生じるほどに、その落差を、今度は実際の現実の方に感じてしまう、ということです。

私達はしばしば「こうだったら良いのに。」や、「これこそ正しい。こうあるべきだ。」、「私にとってはこれが大切だ。だから、こうしたい。」などの「希望」を抱く時が誰にでもありますよね。「希望」によって、「こうであって欲しい、こうしたい、といった心の中の想定としての現実」が生まれます。

しかし、これが逆に「こうであって欲しいのに、こうあってくれない」という「不条理感」を強めてしまうことにも繋がるじゃないか、とカミュは指摘しています。

カミュがこういった考えを提示した一つの大きな要因に、その時代の背景があります。というのも、20世紀前半は、「サルトルの実存主義」が一世を風靡していました。

サルトルは「実存は本質に先立つ」で有名な哲学者さんです。

端的にサルトルの考えを表すと、

「人生には意味なんかない。だが、人間はその意味をみずから決めることが出来る。意味を見出すことが出来る存在だ。そしてその意味とは人間が培ってきたこの偉大な歴史を加速させることだ!

おおよそこのようなことを言いました。

その勢いはあまりに力強く、実際当時、多くの人を「希望」に駆り立てました。しかしその結果、歴史を加速させるために沢山の争いをも生んでしまったんです。

そのような状況に対してカミュは「悲しみつつも熱く」このようなことを語りかけます。

「君は、人生には意味が無いことを認めておきながら、そのまま受け止めることなく逃避して、結果、意味を見出せるといったね。だが、ぼくの友、サルトルよ。この惨状を見てくれ。君の示した希望が、事実、人をこんなにも悲しませてしまっている。今や希望が独り歩きをし出して多くの人を押しつぶしていることにも、目を閉じ、耳をふさいでしまうのかい?」

「今、目を開き、耳で聞くんだ。起きてしまったことを起きてしまったと認め、分からないことにベールを被せてしまうのをやめるんだ。人生には意味がないことを受け止めきれなかったからこそ、そこから逃避してしまうからこそ、人は希望や信じるものを求める。認めるんだ。人間にとっての世界は、真に忠実に認めるなら、明らかだと言えてしまうほどに、不条理だ、と。むしろその不条理を増大させてしまった現実が、より大きな不条理が、社会に拡がってしまっている。」

「実存主義は不条理に触れるが、これは【不条理そのもの】を見るためではない。むしろ、いかにしてこの不条理から逃避し、消滅させるかを巧みに展開しているだけだ。しかしその結果、より大きな不条理が待っているんだ。考えることを止めてはいけない。不条理に向き合いながら、それに立ち向かい続けるんだ。人間の理性では理解しきれないけれど、それでも理解したいと欲しながら向き合わなければならない。理性には限界がある。けれども、ぼくらが分かることと言えば、その限界ある理性の中にしかない。だから、その理性の限界を真摯に受け取りながらも、理性の否定もしないで【不条理そのもの】を理解しようと努めるんだ。」

カミュは「希望を出来るだけ捨てろ(希望を不在にしろ)」と言います。常識的に見れば、あまりにも悲観的に見えます。ですが、その悲観と同時に、温かみや優しさを感じることが出来るかと思います。

彼の言う、「希望を抱くことが現実との落差を大きくし、不条理を増大させてしまう」という考えは、十分に腑に落ちないかもしれませんが、それでもいくらか部分的には、納得出来うるんじゃないかと思います。

何より彼自身が、みずからの考えの基、その理論をしっかり実践して生きた人物です。

その詳細は最後に語りますが、彼は彼の考えを実に見事に貫き通した人です。

さて、話を戻すと、

カミュの示した「希望を不在にしろ。希望は現実との落差を拡大させる逃避だ。」という考えは、確かに腑に落ちるところがあります。しかしこのままでは、一つの問題が生まれてしまいます。

それが

「希望を抱かなければ、もうその先は絶望しかないんじゃないか?」という事です。

つまり、「人生は不条理であるにも関わらず、希望せず生きるということは、この人生は生きるに値しないんじゃないか?」ということが残ってしまいます。

だとしたらその点についても触れないわけにはいかないと、彼は考え、絶望にも向き合いました。

希望を捨てれば絶望してしまう、と思うかもしれない。だけどね。

希望を抱かず現実を忠実に見定めた場合、そこに残るものは不条理だ。

人生には意味がない。

だとすれば「生きるということは不条理だから、人生は生きるに値しない」と判断出来てしまうのではないか?

絶望だけが残るのではないか?

これが問題として残ります。

ですがカミュはこう言います。

以前は、人生を生きるためには人生に意義が無ければならぬのか、それを知ることが問題だった。ところがここでは反対に、人生に意義がなければないだけ、それだけいっそう生きられるだろうと思えるのである。

アルベール・カミュ 『シーシュポスの神話』

ここでとても重要なのは、【人生に意義がなければないだけ、それだけいっそう生きられる】という一文です。

一見すると矛盾し、意味が分からない文章です。

再び触れますが、彼は自身の考えを実践し続けた人物です。ですのでこの文言には彼の生きた証と、彼が確かに感じた「生きやすさ」が含まれています。

ここまでの話で、「希望がなければ絶望しかないのではないか?」という問題が生まれました。

しかし、この現実の「不条理」を純粋素朴に理性によって改めて見定めてみると、

不条理には「冷たさと暖かさの両方」が同時に。あるいは前後しながらも顔を出しては、私達に降り注いているはずです。

彼は一貫して「不条理を生きろ。」と言います。

不条理を生きるとは、この現実(起きたことと、起きなかったこと)に対して、私達が感じることを、純粋素朴に、真摯に、受け止めることです。

そして純粋素朴に受け止めてみる。肯定もしないが否定もせず、ただそのまま見定めてみれば、「何事も良くも悪くもだ。だから不快と思えることも当然ある。しかし、心地よいと思えることもある。」と言えるんじゃないかと思います。

だとすれば、「絶望」する時は、「不快で悪いと思えてしまうことを沢山拾い上げ、朗らかで心地良いと思えることを受け取り切れていなかった結果、この世界は不快な事ばかりだと、片方に偏り、断念してしまった」のかも知れません。(かつて私自身がそうであったように。)

そしてカミュは

「その両方を、まじりあったそれら両者を断念することなく受け止めた場合、生きるに値しないと判断することは出来ない。

と言います。

私達は全てを理解することは出来ません。ですがそれでも、理解したいと欲しながらも理解しているであろう範疇を確かに感じ取っています。改めて素朴に、肯定も否定もせず見つめ直したときに生じる、その感じ取っている中にある「冷たさと暖かさの均衡」が、「不条理な人間」が見ている、現実。だと言えるかと思います。

そしてこの、「冷たさと暖かさの均衡という不条理を生きる。」ということは、

もっとも重要な部分をより端的に表すなら

「不条理を不条理まま(冷たさと暖かさの均衡に)向き合いつつ、より大きな不条理を感じてしまう要因である、【希望による逃避と絶望による断念に、徹底的に反抗】すること。」

と言えます。

カミュは「不条理」と同様に【反抗】も重要だとしています。

【反抗】とは、「盾突き、抗い、抵抗する」ことですが、こちらもまた「冷たさと暖かさ」の。いえ、より適切なのは「冷静による見定めと熱情による反抗」を持つことです。

熱情によって(心の内での)反抗し、更には同時に冷静さをも失わず見定めることです。

さて、「不条理を不条理ままに見定め、より大きな不条理を感じてしまう要因の、【内なる心の希望と絶望(逃避と断念)に反抗】すること。」これが彼の考えの重要なところです。と言いました。

しかし他方で、「不条理を不条理ままに見定め、生きゆく」ことは、「決着のつかないもどかしい均衡状態で生きる。」ということです。そうなると、私達の想像の中では、あまりにも重く、圧し潰される気がしてしまいます。

どうにも私達は根源的に「割り切れることに惹かれる」ようなところがあります。しかしカミュは「割り切れないもどかしさ」をむしろ重視するよう促してきます。

とはいえ、彼自身も「出来る事なら割り切ってしまいたい」とは考えてもいます。ところが、世界を紐解こうとする私達は、「世界は、様々な要因が絡み合い成立している」くらいには把握できるけれども、それがあまりに複雑な絡み合いであるがために、その全てを理解し尽くせるわけではないです。様々な要因が複雑に絡み合い、絡まり合い成立しているからこそ、「割り切りたくても割り切れない」。だからこそ私達は時に予想外のことに驚き、また同時に思いがけない面白さも感じるものです。カミュはそういった人間にとってのリアルとしての「割り切れなさ」に留まりつつ、そのラインを超えないよう、それでも見定めるべく努めます。

しかし直感的には、やっぱり居心地の悪そうな「割り切れなさ」ではあります。

ですが、もう少し踏み込んでみればこれが実は「個々人の不条理感の最小化」に繋がっていきます。

「希望と絶望に反抗」することは、「この世界に感じる不条理感を不条理そのままに戻すこと」でより不条理感を小さくし、その結果として「個として感じる自由」をより大きくするのだと、そう彼は言います。

反抗は不条理を増大させると思うかもしれない。だけどね。

希望は現実とのズレを大きくし、むしろ不条理を増大させる。

絶望は現実を忠実に見つめることを断念してしまうとやってくる。

だからそれに熱っぽく「反抗しろ。反抗し続けろ。」と、カミュは何度も言います。

彼にとっての「希望と絶望」は、みずからの心の内に設けた「柵」なのだと言います。

希望と絶望を抱けば、みずから心に「柵」を設けてしまう。希望は現実への「柵」を、絶望は現実の良き側面への「柵」を設けてしまう。

つまり「柵」を設けた分だけ、より狭い「柵の内側」に縛られてしまうものだ。

だからこそ「希望による逃避と、絶望による断念による、柵の設置に反抗しろ。」とカミュは、言うのです。

私達は「自由」というものが大好きです。だからこぞって「自由」を目指します。しかし他方では、「自由」というものは、実に定義が難しく、実際のところなんだかよく分からないものです。

そんななんだかよく分からないまま、

「自由を目指す。」これ自体が、希望の「柵」を設けてしまうことがあります。

だからこそ彼は

「自由を目指さないことが、実は最も自由だ。」と言わんばかりに、

哲学的に自由の定義をするんじゃなくて、

あくまで僕が感じた確かな自由の話だ。」と言っています。

つまり、

現実の不条理感を増大させる希望や絶望(逃避と断念)に反抗をし続け、不条理を不条理まま(割り切れなくてもどかしい均衡状態、というリアルを)見定めるよう努めていたら、ふとした時に自由を個人として確かに感じていた。という事です。

そんな実感を抱きつつも、カミュは

「不断の意識的態度で可能な限り希望と絶望に反抗しろ。そしてそれが可能な限り多くを生きるということだ。」と説いたんです。

「希望と絶望に反抗し、より大きな自由を個人として感じ、熱情を持って多くを生きること。」

不条理ままを冷静に受け止め、不条理を増大する希望と絶望に(逃避と断念に)熱情を持って反抗すること。

これが彼の哀愁と熱情の考え方、「不条理の哲学」です。

現実は厳しい。人生は不条理だ。だけどね。

現実は厳しい。

人生は不条理だ。

しかしそれに対してカミュは、

「だけどね。」と言うかのように、説いてきます。

確かに人は現実の厳しさ、人生の不条理さに圧倒され、時には希望を求め、時には絶望に苛まれたりもします。

ですが、彼の様に「不条理を不条理ままに見定めるために、希望と絶望に反抗する」ことは、みずから設ける「柵」を取り壊し、より大きな心を持ちつつ、生きることになるのではないでしょうか?

理性によって分からないことを分からないと認め、かつ

理性によって分かっていることには、毅然とした態度でみずからの心に問いかけ、

更には、よりこの現実なるものを忠実に、それでも分かりたいと欲する態度を貫き、

ごまかすことも、かわすこともなく、断念することもなく生きること。

これが実は副次的により大きな心を培うことになる。

私達がもし今現在、「希望や絶望の柵」によって、より大きな不条理感を感じながら、「現実は厳しい」と感じ、生きているのだとすれば、

今度はカミュの様に「反抗」によって、「不条理な人間」として生きゆくのならば、

「より厳しさの少ない、厳しい現実」に、

「かつてより遥かに生きやすい、厳しさの和らいだ現実」に、

出逢える余地を、未だ出逢った事のない余地を、依然残しているということではないでしょうか?

「不条理な人間」とは、「(希望や絶望への)反抗によって最小限の不条理(不条理そのもの)を見定め続けた結果、自由に生きる人間」のことです。

確かに完全に「不条理な人間」であることは困難を極めると、彼自身も言っています。

しかし一方で、「戻っても来れるだろう。」とも言っています。

「より厳しさの少ない、厳しい現実」は、反抗する以前の「より厳しい現実」と比べれば、比べるにはあまりにもかけ離れているほどに「厳しさが和らぎ、朗らかな気持ちをも増大させる」。そしてそれは副次的な心の自由を個々人に感じさせもします。

最小限の不条理(不条理そのもの)を生きる、不条理に忠実な「不条理な人間」。

幸福なる不条理な生き方。

それがアルベール・カミュの示した生き方です。

アルベール・カミュ、という人

カミュは、みずからの考え方と生き方は一致していなければならないと考えた人です。

つまり、理論で語っておきながら、自分はそうではなかった、という人物ではありません。その理論の確立以降は、常に自分の考え方を実践し貫き通しました。

そんな、ひたすらに「不条理に忠実であるため」に「反抗」をみずからの心に訴え続けた彼は、

争いを好まない平和主義者でした。

心の内に向き合い続けた偉大な彼は、その行為としては、「他者を傷つけない人物」でした。それに内なる心を培う、という意味では「(長期的には)自身をも傷つけない人物」でもあったのでしょう。

「実存主義の一人」として扱われることの多い彼。しかしカミュ自身は「ぼくは実存主義ではない。」と言います。現実の不条理を肯定も否定もせずに「不条理まま」見定める彼の考え方は、「ただ、そうあることを、人間は良くも悪くも交じり合って、そう感じる。」この状態に対し、「(キルケゴール的)絶望」も「(サルトル的)希望」すらもしない。この点において、確かに彼は実存主義的ではないと、私も思います。

彼は、美しい自然に囲まれた環境で育ったものの、父は戦死し、母は聴覚障害だったため、読み書きができない幼少期を過ごします。また、若干17歳にして、当時不治の病とされた結核に罹り、この病気と生涯向き合い続けます。更には戦乱の真っただ中に、彼は生きてきました。

人生を通して抗えなさを経験し、争いの時代を生きた彼の人生は、まさしく「不条理」でした。しかしそういった不条理が彼自らを《はじまり》に導いたとも言えます。

カミュは、その「不条理」の表と裏のどちらも見定め、「不条理ままから飛躍」するような甘い思考にも辛い思考にも反抗を続け、冷静かつ熱情を持ちつつも、この世界を「不条理な人間」として、生き、実践し、それをみずから証として残しました。

そしてカミュが見ていた不条理な世界は、きっと

「嘆かわしくてうざったくて不快で、慈しみを感じて愛おしくて素晴らしい世界」だったことでしょう。

そんな「不条理な人間」。アルベール・カミュ。

彼の友人は彼の印象について、口をそろえてこう言います。

「会えばかならず思わず手を握りしめたくなるような人物」

だと。

彼はおそらく「酸いも甘いも経験し見定め、かつそれと向き合い続けた、実直な人」だったのだと思います。

私達は「腹を割って話す」と、それにとてつもない開放感を感じます。日ごろの社会的「仮面」を残らず脱ぎ捨て、本気で腹の内をさらす時の、あの、後からやってくる重荷を捨て去ったような気楽さ。物理的環境は何一つ変わっていないのに、もどかしい均衡状態のさなか、心がよりいっそう晴れ渡る。そういう開放感を抱きつつ、カミュは常に「腹を割りっぱなし」で生きていたのかもしれません。

そしてそうであるなら、カミュ自身は実直に向き合ったその末に圧倒的な解放感を「自らの心の内」に常に手にしては、誰に対してもどんな場面でも「腹を割り続ける」。そんな実直な彼に触れ合う他者が魅了されることが少なくなかったこと。会話をするほどに、思わず自分も「腹を割りたくなってしまう」こと。突然の感情との出会いを言葉に出来ず相対する人々が「思わず手を握りしめたくなった」こと。また反面、それでも尚「仮面」を脱ぎ捨てることが難しかった人に、「腹の内が読めない奴め。」と反発されただろうこと。しかしその反発した人も、後になってカミュのことを振り返っては考えずにはいられず《はじまる》経験をしただろうこと。これは想像に難くないものだと、私は思います。

蝕み喰いあらしていく虫は、外部の社会にではなく、ひとの内部にいる。ひとの内部にこそ元凶たる虫を探さねばならぬ。

アルベール・カミュ 『シーシュポスの神話』

心を蝕(むしば)む虫に反抗し続けたアルベール・カミュ。彼がどれだけの自由を感じていたかは、誰にもはかり知れません。ですが彼の写真を見れば、その表情を見れば、まさに「冷静さとあふれ出る熱情」を、感じられることと思います。

彼の考えに触れ、深く踏み入るほどに、一般的に不穏なニュアンスのある「不条理」という言葉が、むしろその「割り切りたくても割り切れないそのさなかにありつつも、冷たさとは裏腹の温かさの、その交じり合い」を感じ得るような言葉に変わってしまう体験が出来ます。

しかし惜しまれるのは、カミュを紹介する私が、彼の冷たくも暖かい類まれな文体を表現しきれないことです。ですが同時に、誰かの勇気を惹き起こすきっかけになればと記述しています。

誰かのきっかけになっているのかは、私には分からない。しかしそれでもただただ文字にする。これによってなにかが《はじまる》のではないか?そんなことを、思いながら。

これもまた、不条理。哀愁と熱情。

けれど真の哲学は他人相手の仕事ではなくして自己の魂の真摯なる労作である。

三木清 『語られざる哲学』

心と向き合い、もどかしさの中で、自由からなる幸福を抱えて、行け。

今日のあなたの一日が「哀愁と熱っぽさを感じ、嘆きと慈しみの均衡の魅力」を知る一日である事を願って。

読んでいただきありがとうございます!

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