『一般言語学講義』要約 ソシュール論【序】 そもそも言語とは何か?~『一般言語学講義』~

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人間関係

今回はフェルディナン・ド・ソシュールの『一般言語学講義』について「ソシュール論【序(導入)】」としてご紹介します。『一般言語学講義』は、言語学やその他さまざまな分野に大きな影響を今尚与え続けている書物で、「言語論的転回(言語の分析の仕方・見方をガラリと変えた考え方)の一つ」として徐々に世に広まりました。

ふと「言葉や言語」というものを考えてみると、私達は生まれた時から

言葉に囲まれ、言葉によって育ち、

言葉を通してモノを考え、言葉を介して会話をする。

そうして言の葉を少しずつ理解しては、言語(日本で言えば日本語)をいつのまにか獲得して来たのが私達です。しかし同時に言葉・言語というものが、あまりにも身近でありすぎるからこそ、私達は「言葉自体、言語自体の作用に対して無自覚だということに、無自覚」でもあるんじゃないかと思います。要は、当たり前になりすぎていて、言語について実はよく知らないまま使っているということ自体に、そもそも気付くことが難しい、といったところが私達にはあります。

『一般言語学講義』は、「言語の理解と解明」と言う点において、最も優れた書物の一つです。ですので今回は、『一般言語学講義』の要約をしていきつつも、後半では「よくある間違い」にも触れていこうと思っています。

では、早速いきましょう!

『一般言語学講義』についての、事前知識

さて、早速その内容に移っていきたいところではありますが、その前にあらかじめ触れておかねばならないことがあります。

と言うのも、『一般言語学講義』は、「ソシュールの弟子たち(バイイとセシュエ)が再編成した書物で、実のところソシュール自身の考え方(原資料)とは異なる部分がありますよということについてです。

つまり、「ソシュールの書物として広まった『一般言語学講義』の内容は、厳密にはソシュールの考えとは微妙に違う」という、なんともややこしい事情があります。

『一般言語学講義』はソシュールが学生のために行った、あまりにも革新的な言語学の講義の内容を、後に弟子たちが学生たちのノートを駆使して理論的にまとめた書物です。

加えて、ソシュール自身が講義で使用したメモについては、「講義が終わったら捨ててしまっていた」ということもあり、『一般言語学講義』の出版は、学生のノートが頼りでした。(ちなみに弟子たちは講義に出席していません。)

ソシュール自身は、自分の言語学を出版する気が無いまま亡くなってしまったがために、弟子たちは学生の講義ノートを再編成して『一般言語学講義』として、後に出版します。

これが世に広まっている『一般言語学講義』です。

『一般言語学講義』は、ソシュールの本来考えてきた内容とは違う部分が見受けられます。講義内容をとても忠実に記してあった学生のノート(例えばリードランジェのノートやコンスタンタンのノート)や、『一般言語学講義』の、おおよそ半世紀ほど経った後に見つかった「ソシュールの手稿(手書き原稿)」などと見比べると、やはり確かな違いがあります。

しかし他方では、弟子たちの出版が無ければ「フェルディナン・ド・ソシュール」と言う天才の、その片鱗すら私達は知ることが出来なかったのだとも思います。

また事実、言語学のみならず他分野への貢献と言う意味で言えば、『一般言語学講義』は、あまりにも偉大な書物です。『一般言語学講義』が無ければ、後の学問の発展もなされず、またそういった発展が無ければ、その基となった「手稿や学生のノート」を目にする事すら叶わなかった可能性があります。

ですので、『一般言語学講義』と言う書物も大切にしながらも、「ソシュール自身が考えていたこと」もまた、大切にしていくことが重要なのだろうと思います。

さて、前置きが長くなりましたが、そんなことを踏まえつつも、今回は前編として『一般言語学講義』の内容を掘り下げ、次回、後編として「原資料(手稿&学生ノート)」の内容を

言い換えれば、前編で「言語構造の基礎」の内容を見ていき、後編で「違いの部分の訂正&乗り越え」的な内容に触れていきます。

またこの前編後編では、おそらくは多くの人にとって全く耳慣れない言葉が沢山出てきます。

ラングとパロール。共時態と通時態。シニフィアンとシニフィエ。

それにランガージュに、シーニュ・・・と、言った具合です。

しかし、これらをできうる限り分かりやすくして一つ一つ見ていけるよう尽力いたしますので、読み終わった後に「なぁんだ。そういうことか!」となりつつも「言語マジか・・・。」とも、なっていただけたらと思います。

また、特に「シニフィアンとシニフィエ」は、『一般言語学講義』以降の言語学や哲学では、これでもかと頻出する重要な概念(意味内容)です。ですので、その原典である『一般言語学講義』はその意味でも、ある程度は抑えておいた方がその後の発展を追いやすくなる書物とも言えると思います。

では先ずはラングとパロール、そしてランガージュについてです。

ラングとパロール、そしてランガージュ~社会制度とその個人使用。その総体が言語活動~

ラングとパロール。そしてランガージュ。

字面だけ見ると、まったくさっぱり意味が把握できそうもない位には耳慣れない言葉ですが、それが何を意味するかさえ分かってしまえば、難しくはありません。一つずつ見ていきます。

ラングとは

「ラングとは、言語共同体全体で形成された、ひとつの社会制度」のことです。

簡単に言えば、そのまま「言語」と訳すことも出来ます。(旧訳では「言語」と訳され、新訳ではそのまま「ラング」とされています。)

とはいえ、このままだとやっぱりわかりにくいかと思いますので、例えを用いていきます。

例えば、

私達日本人は、基本的に日本語を話しますが、

この日本語には「正しい日本語」とされるものがあって、それが私達の頭の中で「共通了解されている」ように働きます。そのため「今の言い方はちょっと変だったな。」のようなことを判別できます。

これはよくよく考えると「正しい日本語」というものが、「まるでひとつの社会制度のように働いている」からこそ、言語は言語として機能している、と考えることが出来ます。

逆にこの「ラング(言語によるひとつの社会制度)」が全く無かったとしたら、少なくともその言語によるコミュニケーションは出来ません。社会制度として働く、潜在的な共通了解があるがためにコミュニケーションが出来ます。

つまりラングは、「その社会全体に、目に見えないけど働いているコミュニケーションツールとしての共通了解・ひとつの制度」です。

パロールとは

ラングが「社会制度としての」コミュニケーションツールなら、パロールは「個としての」言語の使用・実現の総体です。ツール(道具)は使用することが出来るから、ツールです。

「パロールとは、個々人の言語の使用・実現の総体」のことです。(旧訳では「言」と訳され、新訳ではそのまま「パロール」とされています。)

目には見えないラング(社会制度)が働くからこそ、目に見える形でパロール(個々人の使用)が実現できます。

私達が日本語を個々人として、「正しく使う」ことが出来るのは、

一応は、「社会制度としての言語を基として、個々人が使用しているから」ですよね。つまり「ラングがベースにあるから、パロールとして使用(発話・記述が)できる」と言うことです。

さて、ここで「一応。」なんて言ったのは、いかに社会制度としてラングがあったとしても、私達自身が使用する際は、ある時は正しく使用し、ある時はいい加減に使用し、ある時は誤解して使用し、またある時は新しい言葉を創り出すためにも使用できるからです。

ではなぜ、ラングとパロールを分けたかと言うと、

「ラングとパロールは対立関係にあり、ラングはパロールによって、変化するから」です。

つまり、

「ラングとは、言語という一つの社会制度である。」ということ。

「パロールとは、そのラング(社会制度)の使用の総体である。」ということ。

この二つの関係を考えていくと、「ラングがパロールとして個々人に使用されることで、ラング自体がいつのまにか変化する(社会制度を個々人が使用することにより、その社会制度自体が徐々に変わっていく)」という言語構造とその変化が見えてきます。

ツールの使用が、ツール自体を変えるってことです。

ランガージュとは

言語の不可思議なところは、「一旦根付いたら変えることは困難なはずなのに、変わる時は当たり前のごとく変わる。」と言う事です。

この流れのままランガージュを見ていってしまいましょう。

「ランガージュとは、ラングとパロールの総体」のことです。(旧訳では「言語活動」と訳され、新訳ではそのまま「ランガージュ」とされています。)

つまりランガージュは、ラングとパロールの総体(言語という社会制度。そしてそれの個人使用の、全体の構造と変化)を全てまるっと含んだ「言語全体の活動」のことです。

例えば

「正しい日本語」が私達の中にあって、それを使用してコミュニケーションを取りますが、その「正しい日本語」もわずか数年、数十年で徐々に変化してしまい、数世紀も経てば、専門知識を必要とするくらいには変化してしまいます。

つまりランガージュ(言語活動)によって「言語は、変わらない時はテコでも動かないくせに、受け入れられて変わる時はさも当然、といったようにいつの間にか変わっている。と言うことです。

しかし仮にも、ラング(言語の社会制度)が毎日のようにコロコロと変わらないことは、コミュニケーションの安定性を保証してくれる、ということでもあります。また、いかに個人がラングを変えたい!と願っても、そう簡単に変わるものではない上に、基本的に変わらないものです。ですが、変わる時は一気に浸透し、突然変わります。

さて、ラングとパロールの関係の、その全体である言語活動がランガージュだよ!ということを示した『一般言語学講義』は、

「とりあえず以降の言語学は【ラングのみの分析】に絞りましょう。だって、【正しい】とされる言語が分からなかったら、【正しくない】が分からないでしょう?全体を把握したのは、その選り分けによって、【正しい】を分析するためだよ!」と言った感じで、「ラングとパロールについては、ラングに絞ろう!としました。

言語学は本来ラングを唯一の対象とするものだからである。

『新訳 一般言語学講義』

さて、そのラングの分析をより掘り下げるために、次は「共時態と通時態」について触れていきます。

共時態と通時態~言語の「面の状態と点の変化」~

ラングは社会制度として働き、それをパロールとして個々人が使用できる。その社会制度と個人使用の関係が、ランガージュという言語活動の全体を表している、と言うことを見てきましたが、ここでは更に「共時態と通時態」についてです。

共時態と通時態、というこれまた一見すると難しそうな字面の概念も意味を捉えさえすれば、難しくないものです。

共時態とは

「共時態とは、ある時点における言語の状態」のことです。

言い換えれば「変化の影響を受けないような【面としての】言語の状態」を共時態と言います。

「時間を共にする言語状態」だから、共時態と呼びます。

となると、通時態はその逆です。

通時態とは

「通時態とは、時間的な変化を遂げた言語の変遷」のことです。

こちらも言い換えれば「変化を追うような【点としての】言語の状態」を通時態と言います。

「時間を通じた言語変化(点から点への変化)」だから、通時態と呼びます。

「面としての共時態」と「点としての通時態」

さて、共時態と通時態」を、最も簡単に言い表すなら

「言語の、面の状態と点の変化」と捉え直すことが出来ます。

では、言語分析をしていくために、どちらを優先すべきか?と考えたなら、やはり

先ずは「面の状態」を優先した方がよさそうですよね。

共時態を優先する理由については、ソシュールの「チェス」の例えを見ていきます。

ソシュールは言語をチェスに例え、ゲームの「盤面」を把握するからこそ「一手」がどのように影響を与えているのかが理解できることと似ているよ。と言っています。ゲームの盤面の「状態」を把握しないでチェスを続けることは、少なくともゲームがどのように「変化」しているかが分かりません。ただ適当に駒を動かすことしかできません。

全体の駒の「位置関係・状態」を把握しているから、駒の打ち(一手)という「変化」にも対応できます。「神の一手」が試合全体に影響を及ぼし「参りました」と言えるのは、その試合の「状態」を把握しているからです。

(ただし、言語の変化はパロールによって「たまたま、偶然」起きるので、個人の意図による全体関係への影響とはほとんど無縁です。あくまでこの例えは「状態」の全体把握を優先した方が良い理由です。)

つまりは、「面の状態把握から変化を追うことは出来ても、点の変化からのみでは言語の面としての全体像や状態はいつになっても見えてきません!だからこそ優先して共時態を把握してね。」と言う事です。

さて、このように『一般言語学講義』では、

「言語研究をラングのみ、かつ共時態を優先していきましょう!」と展開してきます。

早い話が「以降の言語学は、変化のない、ある時期(共時態)のある言語(ラング)を研究しましょう。」ということです。

言語のフシギ~言語=名称目録感の否定~

ところで、ここまでの内容をよくよく考えてみると、

言語というものは、そもそもどうしてその言い表し方が変わるんでしょう?ラング(言語)がパロール(個々人の使用の総体)によって変わるのは分かったけど、ずっと正しい言語として、一つのモノに一つの言葉として、むしろパロールの変化を受け付けない「正しさ」を、ラング自体が保つことも出来てもよさそうな気がします。言葉・言い回しが変わってしまう事は、「正しい言語」も変わるという事です。これ(ラングがパロールに引っ張られること:状態が使用による変化に引っ張られること)って、よくよく考えるとフシギではありませんか?

例えば、

古文の「いとをかし」の「いと」は現代では「とても、非常に、大変」と、その面影もないような変化をし、「をかし」の方は現代では「趣深い、興味深い、おかしい」と、やっぱり変化していますが、それでも若干似ている部分もありますよね。

時代によってやっぱり「正しい言語」が変わっていっています。それも大きな変化を遂げるものもある反面、あまり変化をしないものもある、と言った感じで、その変化具合はなんとも一貫していないように見えます。

また、そもそもこのような一貫していない変化をしなければ、わざわざ『一般言語学講義』の様に、「ある時代のある言語」として言語分析をする必要もないわけです。

昔から言われている「事物には正しい名前があって、それを付けてやることが重要だ」と言った「正名論」のようなものを含む「言語=名称目録感(事物にラベルを張るように名前を付けること)」が正しいのであれば、言語の問題は、もう全部解決していたか、もしくは徐々に解決するはずです。ただただ正しい名前を付けていけばいいだけです。

ですが、そうなっていないところ(絶対とされる名称は無いということ)を見破ったところにも『一般言語学講義』の新しさが詰まっているんです。

以降の内容は、言語の「表現と意味内容」のみならず、私達の「認識」にすら手が届いてしまっています。

言語学の聖典・言語学の最も優れた名著の一つが示したことは、確かに言語のフシギさを捉え、その解明において大きな一歩を提示しています。

それはまるで、歯車と歯車が上手く噛み合い一つの機械が機能するかのようで、今までの話が噛み合い始めた結果、言語の思いがけない姿を目の当たりにするかのごとくに。

シニフィアンとシニフィエ、そしてシーニュ~聴覚映像と意味内容の結びつきが記号(シーニュ)~

言語は一度そうだと決まれば、中々変わることはないものでありつつも、ひとたび受け入れられれば変わってしまう。そしてその変化には、一貫性もない。

言語がそんな有様だからこそ「ある時期のある言語」として研究しなければ把握することも難しいものにもなっています。

では、言語のこの「強固な結びつきと、突然のほつれ」は一体どのような「構造と変化」を言語が持っているからなんでしょう?

これを紐解く鍵こそが「シニフィアン聴覚映像とシニフィエ(意味内容)」です。

…ですが、この「シニフィアンとシニフィエ」なるものは、

とにもかくにも「覚えるまでにどっちがどっちか、間違えに間違える概念」です。

実際私自身が覚え初めの頃に、何度も「シニフィアンとシニフィエ」を間違いました。笑

「あれ?こっちがシニフィアンで、こっちがシニフィエで・・・聴覚映像と概念?うん?そもそも聴覚映像ってなに?…あれ、なんだっけ???笑」

と言った具合です。

更には「シニフィアンとシニフィエ」はペアで初めて機能するがために、人によっては前後を逆に書いたりします。つまりどっちが先、みたいな話ではなくて、「二人は仲良し!」的な働き方をするからこそ、文献によっては、あえて前後を逆にしたりします。加えて、そもそも偉大な人々の解釈自体も、そこそこの頻度で『一般言語学講義』とは、異なっていたりします。笑

しかしこの記述内で取り扱う際は、「シニフィアンは前!シニフィエは後ろ!」として常に記述していきます。

シニフィアン(聴覚映像)とシニフィエ(概念:意味内容)は、ソシュールを紐解く上で、最も重要な概念の一つなのに、最も間違われる概念の一つでもあります。

ですのでとりわけ慎重に読んでいただきたいとも思っています。

シニフィアン(聴覚映像)とシニフィエ(概念:意味内容)とは

先ず、「シニフィアン」についてです。

「シニフィアンとは、音そのものではなく、聴覚映像である。」と言えます。

はい、何の説明にもなっていないので、少し読み替えるとすると、

シニフィアンとは、音そのものではなく、音の並びを聴いたときに受ける印象(心の像)である。と言えます。

つまり「聴覚映像とは、聴いたときに頭に浮かぶ印象」のことです。決して「音そのもの」ではありません。そして「音そのもの」だという間違いは、とてもとても多いんです。

…まだ少し分かりにくいとも思いますが、少しだけ辛抱をしてもらいつつ「シニフィエ」についても触れていきます。

「シニフィエとは、意味内容(概念)である。」と言えます。

そうなると

「シニフィアンとシニフィエとは、聴いた音に対する印象とその意味内容である」ということになります。

さて、このまま進めば何のことだかさっぱり分からない可能性が高いと思うので、具体例を見ていきます。

例えば、とある誰かが突然、

「ステーキ!」と大きな声で言ったとします。

それを聴いた人の頭には「ステーキの印象」が浮かぶ。と同時に、「おいしそうな肉汁や、いい具合に焼けた肉」などのステーキに関する意味内容も浮かびます。

全く状況的に関係ない場合であっても、頭の中には「ステーキの印象と、それに纏わる内容」がどうしても浮かんでしまうものです。

まさにこの「聴いた音による印象と、それにまつわる内容」がすぐさま浮かぶ状態を「シニフィアンとシニフィエ」が表しています。

つまりシニフィアンとシニフィエ。そのどちらとも「心的なイメージ(心に関すること、心の中で浮かぶもの:私達が了解している印象と意味内容)である」と言うことが重要です。どういうことかと言うと、

もし仮に、日常会話内で「ステーキ!」と聴いて、

「スと、テーと、キの音ですね!」という、音そのものが頭に一番最初に浮かぶ人は、少なくともその言語を理解している人の中には、まずいないはずです。そのため「シニフィアンは、音そのものではない」んです。

細かいようですが、ここはとっても大事なところです。

シニフィアン(聴覚映像)を音そのもの、としてしまうと後々の展開、そして全体の関係がかみ合わなくなってしまうために、ここまで言及しています。そしてこれを明示するべく、『一般言語学講義』を引用しておきます。

聴覚映像は、物理的な音、つまり純粋に物理的なものではなく、音の心的な刻印、つまり人間の感覚によってその存在が証拠づけられる表示である。

『新訳 一般言語学講義』

また、連想ゲーム、クイズなどで「意味内容」を少しずつ増やしていくと、その答えが分かって、パッと頭の中に「印象(引用に準拠するのなら、音の心的な刻印)」が浮かぶのも、「シニフィアンとシニフィエの結びつき」から起きます。

要は「シニフィアンとシニフィエ」は「結びついて脳内で浮かび上がる、心に関する二つのイメージ(聴覚映像と意味内容:音から浮かび上がる印象と、それにまつわる意味内容)」ということです。

ちなみに、「でもさ、どうしてシニフィアンが聴覚映像という言い方でもって、耳と口の情報を重視しているの?」という疑問が現代の私達からすれば生まれるかもしれませんが、これは大きな背景として、その時代の状態があります。というのもその当時、「言うことや聞くことは出来るけど、読み書きとなるとほとんどの人が出来る時代ではなかった。」などの状態があり、これを鑑みると理解が捗るんじゃないかと思います。

シーニュ(記号)とは

さて、「シニフィアン(聴覚映像)とシニフィエ(意味内容)は、心に関する二つのイメージです。」と言うことをご理解いただいたと思いつつ、もう少し掘り下げていきます。

「シニフィアンとシニフィエ」は、簡単に言えば「二つは仲良し!」状態なわけで、この「二つは仲良し!な結合状態」を「シーニュ(記号)」と言います。(新旧共に「記号」と訳されますが、別の文献では「シーニュ」と訳されることも多いです。)

「シニフィアンとシニフィエ」は「分かちがたい強固な絆、結びつき」を持っています。

そしてその「絆、結びつき、二つは仲良し」状態を、シーニュ(記号)と言います。

「ステーキ」という記号も、「たこ焼き」と言う記号も、それぞれ別々の記号(絆、結びつき状態)として成立しているからこそ、ステーキはステーキを、たこ焼きはたこ焼きを、と言った具合に、それぞれの記号がそれぞれを表していると判別できます。

さて、「シニフィアンとシニフィエ、そしてその結びつきであるシーニュ」を纏めるなら、

シニフィアンは聴覚映像(聴いた音に対する印象)で、シニフィエは意味内容。そしてその二つの心のイメージが結びつくことで、シーニュ(記号)として機能するよ。と言えます。

ところで、どうして記号は記号として成立しているんでしょう?というのも今のところ、この「記号の成立条件」が分からないままです。

先ほど言ったように「事物にしっかりとした名前を付けていったのが言語だよ(言語=名称目録感)」という昔からあった言語に対する考えは、言語自体の変化が続いている時点で否定せざるを得ないと思います。では、「事物に正しい名前はない。だから呼び方が変わる。」とするなら、「呼び方が変わるにもかかわらず、それがそれだと分かるように記号は機能している」のは、どうしてなんでしょう?

これらが全て噛み合った時、「言語」なるものが初めて理解できると言っても過言ではありません。

いよいよ『一般言語学講義』の結論が近づいてきました。記号の成立が、言語全体によって成立し、また成立させているよ、というところまで一気に見ていきます。

記号の成立~「それ以外、それではない。」ということの成立~

シニフィアンとシニフィエ。聴覚映像と意味内容が、分かちがたく結びついては、記号として成立しているのは一体なぜなんでしょう?呼び方が変わるのに、私達は「それをそれ」として識別し、理解しています。でも、どうしてそんなことが成立するんでしょう?

これについての説明を簡単に示すならば「それ以外、それではない」からです。

要は「記号は、それ以外、それ【ではない】ことで成立している」と言う事です。またもやこれだけだと、何を言っているのかよく分からないですよね。

一見すると、私達の直感的には「いやいや。それは、それ【である】、の一言でいいじゃない。だってそれは、それなんだから。」と思ってしまいますよね。つまり「それはそれじゃん!何言ってんのさ?」みたいな気持ちになります。ですが、

その記号がその記号として成立するのは、「それが、それ【である】」では、説明不可能なんです。とはいえ、やっぱりまだ分かりにくいので、またまた「ステーキ」を例えに具体例で見ていきます。

「ステーキが、ステーキである」と、皆が了解するためには、

ステーキが、たこ焼きでも、スシでも、パスタでもなく、また他のどれでもない」ことが必要です。

要は私達の言語内では「ステーキ以外、ステーキではない」から、ステーキなんです。

仮に「これはステーキである」と「これはたこ焼きである」ということをその言語内で確立するためには、「ステーキがたこ焼き【ではない】こと。かつ他のどれでもないこと。」「たこ焼きがステーキ【ではない】こと。かつ他のどれでもないこと。」がどうしても必要です。

もっと単純な記号であっても、これはおんなじです。

「A、B、C」のそれぞれを明確にするには、同じところを探すのではなく、むしろ違うところを探さねば、「AはBでもCでもない、だからこそ、AはAである」とは言うことが出来ません。

つまり、その記号の成立には、「必ず【ではない】という否定的な差異(違うという)関係」を必要とし、そんな記号が様々、別々に成立しているからこそ、記号は記号として、そしてその記号が織りなす言語(ラング)として機能しています。

もっと簡単に言えば

「【ではない】という、違うところを沢山見出した結果、はじめて【である】が生まれる」という事です。例えば新商品が発売された時、その新商品と別の商品を区別するためには、それらの商品の違いを理解しなければ、「え?何が違うのさ?」となりますよね。つまりその区別の際に、私達はやっぱり違いを探している、ということです。

また、「似たような記号」についても考えてみます。

例えば「パパ、親父、父さん」などは非常に似ていますよね。ですが、このような「似たような記号」も「似てはいるものの、別の記号」です。

例えば、

日頃「パパ!」と父親を呼んでいる娘さんが、ある日突然「親父!」と呼んで来たら、まず間違いなく父親が「…どうしたの!?」となるくらいには別の記号です。

記号は、たとえ似ていてもそれぞれ記号毎に「聴覚映像と意味内容(シニフィアンとシニフィエ)の結びつき」が違います。

そのように絶妙に違う記号が成立しているということ自体が、「記号と記号の【ではない】という否定的な差異関係」によって、はじめて成立しているという事です。

逆に言えば、「この世界にはたった一つの記号しかない」のような状態は他との関係がないので、そもそも記号にする必要が生まれません。なので、成立しません。

【ではない】という他のなにかが無いと、なにものも成立しないんです。

その他の関係があって初めて、記号は成立します。そして記号の織り成す言語が、言語として機能するのは、「記号と記号の間にある【ではない】が関係としてたっくさんあるおかげで初めて、【である】という記号が成立している(=記号には差異しかない)」と言うことです。

さてでは、記号が「他との【ではない】関係によって成立」し、かつ「二つの心のイメージの結びつき」である。とするならば、「言語が変わってしまう理由と言語自体の本質」が見えてきます。

言語はイメージだからこそ変わる。そして言語とは恣意的である。

記号は「それ以外、それではない」ことを全体の関係から限定され、描き出され、分節した、

「関係の網(ではない、という関係よって浮き掘りになった網)」です。あるいは「述語的諸関係によって、はじめて浮き彫りになる主語的識別」です。

そんな関係の網は、一度根付いたら変わりにくい。しかしそれでも社会が受け入れたのなら、変わっていきます。

記号のシニフィアンとシニフィエの結びつきは強固でありながらも、ひとたび受け入れられさえすれば、言語全体に「微妙な関係の再配置やズレ」を起こし、その結果「網の形状」を変化させます。そしてそれが起きるのは事物に正しい名前があるから、ではなくむしろ、「記号が、二つの心のイメージ(聴覚映像と意味内容)の結びつき」だからです。

これが何を意味するかと言うと、

「シニフィアンとシニフィエの絆は、分かちがたく結びついているものの、実は何の論理的根拠もない、私達の心の了解によって言語内で成立しているもの」ということです。

そしてこの結びつきには根拠がないこと「言語の恣意性」と言います。

先ほど、

「記号と記号の間にある【ではない】が関係としてたっくさんあるおかげで、【である】という記号が成立している」とうことに触れていきました。

これは、別の言い方をすれば、

「記号が強い結びつきを保っているのは、その他の【ではない】関係。【ではない】特徴が示されに示された結果、初めて【である】という、それ自体が描き出される。逆意味では、その関係が微妙な変化を遂げれば、その結びつきである状態もまた、変わってしまう。なぜならそれは、心的な共通了解だから。」と言うことです。

つまり、記号の全体の関係が変われば、記号の結びつきも微妙に変わる」ということです。

例えば

「イヌ」という記号の「シニフィアンとシニフィエの結びつき」には、根拠が全くないんです(記号全体の関係から、私達の了解から、たまたまイヌと決まった)。ただその言語内の関係で「そう受け入れられたからイヌ、共通了解があるからイヌ」と呼んでいます。ですので、仮にイヌの「印象(聴覚映像)と意味内容」が他のどれでもない記号として区別でき、かつ、万が一にも社会に受け入れられたのなら、「イヌ」でなくても良いんです。

だとすれば、その集団における今までの言語の関係が違っていれば、「イヌ」は「マッチョ」と呼ばれていたかもしれません。つまり、その印象(聴覚映像)と意味内容が、記号の織り成す社会制度(言語)として受け入れられ、結びついてさえいれば、

「ねえお母さん!今日は僕があのマッチョに餌をやってみてもいいかな!?」

みたいな世界線もあったかもしれません。むしろこの世界線においては、マッチョに餌をやらない、散歩をしない方が飼い主失格なわけです。

なんともヘンテコな例えですが、これを「おかしい、変だ」と思えるのは、私達の言語内(社会制度内)では「イヌは、マッチョではない」、「イヌ以外、イヌではない」という「心的な共通了解があるから」こそです。

言語内の記号は、全体の関係によって必然の様に働いていますが、実のところそう呼ぶ根拠はないんです。言い換えれば「全体の関係からなる偶然の結びつき」なんです。これが「言語の恣意性」の示す内容です。

また、一般的に「恣意的」と言う言葉は、「自分勝手な様」を意味しますが、この場合の言語における「恣意」とは、「既にある、与えられた言語でもって、その偶然からなる結びつきでもって、考え、認識しなければならない」と言う意味での恣意的性質のことです。

「与えられた言語でもって、認識しなければならない」と言うのは、重要なところです。

よくある説明では、フランス語の「パピヨン」は、日本語で言うところの「蝶と蛾」を指します。

フランス語圏の人からすれば、「蝶も蛾も、パピヨン」です。

あるいは、虹が何種類の色かは、国(言語)によって全く違います。

これもまた、「シニフィアンとシニフィエの結びつき方」が違うためで、そしてそのようなことが起きるのは、それぞれの「記号のくくり、共通了解のくくり」が違うからです。なので、どれが絶対的に正しいというものでもありません。

つまり、「時代や地域を含む、その言語の関係によって生まれた面(状態)が違えば、区別の仕方も、それによる認識の仕方も、様々異なる。」ということです。

にもかかわらず、おそらく私達日本人の多くは「さすがに蝶と蛾はちがうだろ!」だとか「虹は7色だろ!」だとかと思うわけです。

『一般言語学講義』のまとめと、「もう一つのソシュール論」

今までの内容を纏めると

【記号は二つの心のイメージ(聴覚映像と意味内容)の結びつきであるがために、変わりにくくも、その言語内全体の関係において無理なく受け入れられれば突然変わる。記号は、その言語内全体の関係によって成立するが、実のところそう呼ぶ根拠はなく、また根拠がないからこそ変わっていく。そしてその変化は記号が織りなす全体の関係の微妙なズレと再配置によって起きていて、時代や地域による記号の区別の仕方の違いに伴い、認識の仕方すら変わる。従来の言語学の様に記号毎の歴史的変化、点の変化を追っていっても、その全体像が見えなかっただろう。ラングはパロールとして個々人が使用することによって変わってしまう。また変わってしまうからこそ、ラングのみを言語学の研究として、ある時期(共時態)のある言語(ラング)を調べることを、以降の言語学では進めていこう。ただ、今言えることは、我々の世界認識は言語によって強く規定されているということだ。】

と言った感じの内容が『一般言語学講義』です。

…さて、このようなことを示し、また以後の様々な学問に多大な影響を与えた『一般言語学講義』ですが、初めの方で言及した通り『一般言語学講義』の内容は、「ソシュールの考えを再編成したもの」です。別の言い方をすれば「言語学の研究範囲を明確に示そうとした点ではとてつもなく秀逸な文献ではあるが、実のところ「ソシュール自身の考え」とは、違う部分がある。そしてそれを差し引いてもソシュールが若かりし頃に既に通り過ぎた浅瀬の部分である。」と言えるかと思います。つまりこの「『一般言語学講義』(ソシュール論【序】)」は、ソシュール自身の考え方(原資料)からすれば、まさに【序(導入)】に過ぎませんし、異なる部分もあります。

私からすれば『一般言語学講義』の時点で、とても深いところまで言及出来てしまっている、と感じてしまいます。ですがソシュールからすれば、この内容は、既に通り過ぎた浅瀬でした。

記号が織りなす言語は【ではない】という、否定的な差異によって区切られ、分節され、限定された、「関係の網」だと、先ほど説明しました。

これに対してソシュール自身は、その「関係の網の、その下にあるナニカ」まで深く入っていき、その「ナニカ」を次なる出発点として「言語の再構築」までも考えていました。

そしてそのナニカとは、

思考は星雲のようなもので、必然的に境界を定められたものは存在しない。だから、あらかじめ確定している観念はないし、ラングが登場する前に区別されているものはない。

『新訳 一般言語学講義』

新旧どちらの『一般言語学講義』でも触れられている、この文言の中にある、たった一語。

【星雲のようなもの】

これがソシュール自身の考えの根底に生まれます。

記号の織り成す言語による区分によって、認識が分節され、細分化される以前の「星雲のようなもの」を念頭に起きつつも、再出発しようと試みていました。

彼が何を思い、何を考え、そしてなぜ沈黙したか?については次回の後編によって、迫(せま)っていきます。

今日のあなたの一日が「言語構造の基礎」と知る一日であることを願って。

読んでいただきありがとうございます!

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