今回は、現代哲学者ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』についてです。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』という本は「世界は成立していることがらの総体である」というなんだか途轍もなさそうな、それでいて「確かに!」と思うような一文から始まる事を知り、いざ挑戦してみたものの、これがまたとんでもなく難しくて、正直ちょっと心が折れそうになりました。ですが、この難解かつ偉大な著作は「ものの見方」を与えてくれるものだったので、ご紹介できればと思います。
超難解なウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』をなんとか簡単に落としこもうという無茶。これを、今回はやっていきたいと思います!
では、早速いきましょう!
ウィトゲンシュタイン、という人
現代哲学を代表する哲学者「ウィトゲンシュタイン」
現代哲学者ベスト10を挙げてみましょう!と言われたら、否定も肯定も含めて言えば、ウィトゲンシュタインとハイデッガーは間違いなく入るんじゃないかと思います。(ジル・ドゥルーズもジャック・デリダも捨てがたい。笑)
そんなウィトゲンシュタインの最も有名な著作は『論理哲学論考』です。
(以下、略して『論考』と言います。)
『論考』はその後の哲学界に大きな衝撃を与えるとともに、
論理学、言語学、社会科学、文学などにも影響を与えました。
じゃあ一体彼の示したことの何がそこまで衝撃と影響を与えたのか?というと
彼は『論考』によって、
「思考の限界と言語の限界は、ここです。はい、哲学の問題はこれですべて解決しました。」
と断言したところです。
それどころか、その後本当に哲学の世界から数年間いなくなり、教師をやったり、奉仕活動をしたりします。
彼のその後の話については今回は置いておくとして、「思考と言語の限界」によって「哲学の終わり」を示そうとした、『論考』について見ていきます。
『論理哲学論考』という超絶難解な書物
『論考』はたった150ページ程の本です。
にもかかわらず、何度か読んでみる程度では、全く理解できない代物です。笑
一読した後の正直な感想は「なるほど。さっぱり分からない。」です。あまりの分からなさに、本当にそのままの言葉を口に出しました。笑
どの項目も非常に簡潔に記してあるんですが、先ずその意味が理解できません。
また、ずっと後の項目で前にあった項目を説明する事が多いのも、難しさの大きな要因だと思いました。
また、今回『論考』をご紹介するに当たり、実はその要になるような考え方が出来る事を願った記事を直前にアップしてもいます。
「量子の訳の分からなさ」と「知識の危うさ」という記事でウォーミングアップが出来るんじゃないか?という私の中での構想がありました。
もし、今回の記事を読んでもよく分からなかった場合は、そちらの記事でも一役買えるんじゃないかと思っている次第です。
論考の「基本的な構成」と「目的」
さて、前置きが長くなりましたが、早速『論考』の中身に触れていきたいと思います!!
先ずはその「構成」と「目的」を見ていきます。
『論考』を全体で見れば「7つの主項目と、その説明」で構成されています。
ですので前もって、その7つの主項目を見ていきます。
「1 世界は成立していることがらの総体である。」
「2 成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である。」
「3 事実の論理像が思考である。」
「4 思考とは有意味な命題である。」
「5 命題は要素命題の真理関数である(要素命題は自分自身の真理関数である)。」
「6 真理関数の一般形式はこうである。[p,ξ,N(ξ)]これは命題の一般形式である。」
「7 語りえぬものについては、沈黙しなければならない。」
先ず、この一見しただけでは到底分かりっこない7つの主項目があります。
更にこれに加えて「1を詳しく言うと」のような意味で、ウィトゲンシュタインは
コンピュータのバージョンのアップデートみたいに「1・1、1・2…」と主項目の説明をしていき、更に詳しく説明する場合は「1・11、1・12…」と表記していきます。
つまりは「おっきな7つの主項目」と「それを説明するような少し小さな項目」で『論考』は構成され、説明されていきます。
じゃあ一体『論考』で何をしようとしたのさ?という「目的」がフワッとしか見えてこないので、あえて先に言っておきます。よく分からないまま突き進むのは読んでくださる方の負担が大きいとも思いますので。
『論考』の目的は
「思考の限界と言語の限界を示して、この世界の語ることが出来るものと語ることが出来ないものの線引きをしよう!語りたくても語れないものは、いっくら考えたって答えは出ないんだから、もうやめましょうよ!そういうものは手付かずであるからこそ、崇高であって、語るほどにその意味を損なうんだから。」という事を論証していくことです。
つまりは
ウィトゲンシュタインは
「答えが出るものと答えの出ないものを明確にする事。」を目指し、結論「こうなったからには、もうお黙りなさい!」と言った哲学者です。
「答えの出るものと出ないものが明確になりますよ!限界はここです!」なんて言われたら、きっと多くの人は興味が出てくるんじゃないでしょうか?しかもそれを説いた人が、論理の達人でもある哲学者さんたちの中でも、さらに様々な分野に長け、「天才」と言われたウィトゲンシュタインです。
個人的にはワクワクせずにはいられませんでした。
さて、大まかな構成と目的が見えてきたところで、その内容に移りたいと思います。
世界は成立していることがらの総体である
論考の本文は
「1 世界は成立していることがらの総体である」
から始まり、その説明として
「1・1 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない」と続きます。
ウィトゲンシュタインは、初めから『論考』における重要なことを言い始めます。
ここで言っているのは、世界というものは
「成立していることがらの総体=事実の総体であって、ものがただそこにある状態ではない」という事です。
ですが、このままではちょっとわかりにくいと思います。
一見すると
世界は、ものがたくさん集まってできた「ものの集合体」のような感じがします。
ですが、よくよく考えてみると、「そこにものがある」とその存在を確認するためには、「その存在を認識するなにか、関係するなにか」がどうしても必要になります。
要は、
「世界がものの総体」だと考えると、世界にはただ「もの」がポツリポツリとあるだけで、それらがどういう関係にあるかが全く分からないんです。何らかの関係があるから、世界は世界として成立している、と言えると思います。
例えば
目の前の机にバナナがあるとして、「そこにバナナがある」と言えるのは、「そこにバナナがあると確認した私」がいる事を始めとして、その他さまざまな関係が成立しているからと言えます。
つまりは、ものという「対象」と「別の対象」との間に関係がある時、初めてそれが「事実」だと言えるわけです。
私達が「それが事実だ」という時はいつだって、「何かと何かの関係や、その在り方」について言っているんです。
それでもって、その事実(起きたこと)がたっくさん集まってできているのが、「世界」です。
だからこそ、ウィトゲンシュタインは
「世界は成立していることがら(事実:起きたこと)の総体である。」と言います。
「宇宙という場所に存在する太陽系、の一つの惑星である地球、に生息している酸素を吸って色々と考えたりする人間、と呼ばれる動物の一種、である私や他の方々」
は全部成立していることがら、つまりは事実の一部です。
さて、ウィトゲンシュタインの『論考』は、以降もずっとこんな感じで「一見するとよくわからないけど、意味が分かるとびっくりするほど的確かつ簡潔に言語化している」という体験を繰り返し読者に与えてくれます。
ここまでが「世界の話」ですが、ここから「私達の思考の話」に移ります。
事実の一部である私達は、時に「成立していないようなこと」や「そもそも成立しないようなこと」も、頭の中で考えたり出来ちゃいます。
ですので、今度は一旦頭の中の話、つまりは「思考」について触れていきます。
論理空間=起きたこと、これから起きうること。意味が通る思考。
「今、成立していること成立していないこと、それに成立しそうなこと」
これらの起きたことや起きる可能性のある事を、私達は頭の中で考えることが出来ます。
この、「頭の中で考えられるおっきい思考の範囲があるぞ!」という「思考の範囲」を、ウィトゲンシュタインは
「論理空間」と呼びます。
「論理空間」という言葉だけ見ると難しそうではありますが、要するに
「頭で考える時に、思考として意味が通るもの全て」の事を「論理空間」と言っています。
例えば
「私がこの記事を作成して、アップした。」という「事実」も
「人々はいつか火星に住む。」のような意味は分かるけど、「現状ほぼあり得ない事」も
「論理空間の内」の思考です。
「考えとして意味をなすものすべて」くらいに捉えると分かりやすいんじゃないかと思います。
じゃあ、「論理空間の外」にはいったい何があるかというと、
「考えとして意味をなさないものすべて」です。
例えば
「私という帽子が葉っぱの様にムジャラグジャラしている太陽。これはまさにパピプペポォ~!」
のような、意味の分からない言葉の羅列は「論理空間」の仲間にはなれません。
ここまでがざっくり1番台の内容です。
纏めるならば
「世界は沢山の起きてきた事実(成立したことがら)がすべて集まったものである。
また、頭の中の事は意味が通るすべてのものを【論理空間】という。」
こんな感じかと思います。またこの論理空間について、後編で少しだけ「例外」が出てきますが、とりあえずは「意味が通るすべての思考を論理空間って言っている。」と言う理解のまま進んでいきます。
「これで、1から7のうちたったの1かよ!」
と思われるかもしれませんが、もう既にウィトゲンシュタインの「論考の外骨格」には大きく踏み混んでいます。そして更に、ここから続く3番台までを理解できてしまえば、実はほとんどの事が理解できた、と言っても過言ではないくらいには、最初が重要かつとても難しいんです。
成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である。~確実な事態、可能性の事態~
さて、ここから2番台を見ていきます。
2番の主項目は
「2 成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である。」
です。
はい、このままだと「諸事態の成立」ってなんなのさ?状態です。
ここで新しく登場したのは「事態」です。これは先ほどの「事実(起きたこと)」とは違った意味で使用されていますので、そこは注意が必要です。要は「事態と事実は違う」という事です。
2の主項目を言い換えれば
「いろんな事態が頭の中で想定されるけど、そのなかでも成立した事態が、事実だ」
と言えます。
さて、私達が「事態」という言葉を使う時、
「だからそういう事態になるっていったじゃん!」だとか
「今後想定される事態はこうだ!」だとかと言いますよね。
「そういう事態になった」という時は、「もう起きた事」、
「今後想定される事態」という時は、「まだ起きていない事」です。
まさしくそれとおんなじ使い方をウィトゲンシュタインもしています。
「事実は起きたこと」を示しますが、それに加えて「事態は起きそうなこと」まで含みます。
確実に起きたことのみが「事実」で、今後起きそうなこと(可能性があるもの)まですべて含んだものが「事態」です。
だとすると、
「事実がすべて集まったもの。つまり、事実の総体が世界」であり
「起きたことも、起きそうなことも含む事態がすべて集まったもの。つまり、事態の総体が論理空間」と言えます。
そうすると、この時点で言えることは
「論理空間(あらゆる事態)>>>世界(あらゆる事実)」という事です。
また、
ウィトゲンシュタインは「現実」という言葉も使いますが、
これも「事実とは少しだけ違う意味」で使用しています。
端的に言えば
「今まで成立したこと(確実に起きたこと)」が事実であり、
「今まで成立したこと(確実に起きたこと)と、今まで成立していないこと(確実に起きていないこと)」が「現実」であると言っています。
たしかにこの世界では、沢山の起きたことの裏に「沢山の起きていないこと」もあって成立していますよね。
どちらも世界を表しますが、
事実は「何が起きたか?」のみに焦点を置き、
現実は「何が起きたか?そして、何が起きなかったか?」のように、「現時点で起きなかった事」まで含んでいます。
ちょっと色々な言葉が出てきたので、いったん整理すると
「意味の分からない思考」>>>>>「論理空間、事態(確実&可能性)」>>>「世界」=「現実の総体(ものの関係の成立&不成立の全て)」=「事実の総体(ものの関係の成立の全て)」>>>>>「もの、対象」
このように示せるかなと思います。
さて、ここまでは「世界」と「私達の思考」の話でしたが、
ここからは「じゃあその思考を表現する時、具体的にどうなっているの?」と言った話を「言語」をメインに見ていくことになります。
次は「写像形式」と呼ばれるものの話です。
われわれは事実の像を作る
頭でいろいろと考えたことや思ったことを記述したり、写し取ろうとした時、様々な方法があるかと思います。
写真にとる、絵にかく、文字にする、などにして、私達は世界を「記述しよう」とします。
しかし、写真に撮ったり、絵にかいたりした場合、「においや音」はその画像や絵に納められません。また言葉で記述した場合や発話した場合も、「世界をそっくりそのまま持ってくるわけではない」ですよね。
私達が何かしらを表現する時はいつも
「その言い表したいものの模型をつくるように記述」します。
ウィトゲンシュタインは、「表現する際に作る世界の模型」を
「像」と言います。まるで彫刻家が何かの彫刻を掘るような感じで、「実際のものや対象を組み合わせた像」を作ることで、私達は記述しているんです。
それはまるで、
現実にあるもの、もしくは事態を表現したいとき、言葉と言葉(語と語)をレゴブロックの様に組み合わせて、何かしらの事実や事態を「像」として表現しようとしている、ような感じです。
だとするなら、ウィトゲンシュタインのいう「像」とは、
「事態(起きたこと&起きそうなこと)を写し取る模型」ともいえます。
私達は模型として組み合わせることで、事実や現実、それに事態を「言語」として伝えあいます。そしてその伝えたいことは、「実際の世界の現実や事態などと、どこかは一致している」はずです。
「いつかは火星に住む」という言葉は、「いつか」という時制、「火星」という場所、「住む」という行為や動作、を組み合わせた「起きそうな事態(可能性)の表現」です。
この、「世界を構成するものを写し取って像を作る」ことを
「写像形式」と呼びます。
また「世界と私達の表現」のどこかを一致させることは出来ますが、そこで実際に起きたことの体験は出来ない、とも言えます。
言い換えれば「事細かに示すことは出来ても、それそのものには至らない。」ということです。
例えば、私が宇宙人と交流がある人物だとして、
「宇宙人って何?」という説明を「像」として言葉で組み合わせた時、どれだけ事細かに的確に表現したとしても、「へえ、宇宙人ってそういう習慣があるんだ。」のようなことは分かっても「宇宙人自体」に会う手段が無ければ、私はひたすら、その宇宙人の説明をするしかないはずです。
その話を聞いた誰かが「宇宙人自体」に至ることは無くって、「説明の説明」さらには「説明の説明の説明」をする事になり、以降、「いたちごっこ」になります。
これがウィトゲンシュタインの『論考』を理解するうえで、かなり重要なことです。
「写像形式」は事実や現実、または成立可能な事態を写し取り「模型を組み合わせて像を作る事」であり、またどこかが一致しているもので、更にはどこが一致してるの?とひたすらに追い求めて、「超精密な像」を作り上げたところで、やっぱり「像は像」であって「そのもの」ではない、という事です。
ただ、ここまでの話で行くと
私達が「語りうる範囲」はとんでもなく広いですよね。私達はとてつもない数の「事態」を現時点においては「語りうる」と思います。
例えば
「牛が今日も空を飛んでいる。」という文章は、論理としては今のところ成立しちゃいます。意味の通る文章を作ることは出来てしまいます。
「ムジャラグジャラしている太陽」のような
意味がない言葉はそもそも「語りえない」んですけど、
「牛が空を飛ぶかどうか?」が正しいのか誤っているのか?は言葉だけでは、判断がつかないんです。
難しい話になってしまったかと思いますが、もうかなりこの「論考の登山」は上の方まで来ています。
経験に先立つ思考、経験による思考
思考して、言葉と言葉を組み合わせて、言語として表現するのが私達です。
ですが一方で、頭の中で考えることがたくさんある中、私達は一体どういった具合に、これはあっている、間違っている、を決めているんでしょう?
少なくとも意味が通る言葉の場合、「あらかじめ」経験より先にそれが合っているか間違っているか?を判定しているわけじゃないですよね。
「何も経験をしてない状態で大人になった私」、なんてものがいたとして、とりあえず「日本語」が分かるとします。
この時、ある人から
「今日も牛が空を飛んでいるかな?」などと言われたら、
おそらく私は、「へえ~!牛というものは飛ぶんだ!あ!じゃああれは牛!?」と「飛行機」や「雲」や「鳥」を指さして言うと思います。
何も知らない他者の発言を受けた私からしてみれば、「空を飛ぶものの中に牛がいる」と考えてしまうでしょう。隣で草を食べている動物こそが、牛だとは到底思えないはずです。
なんともへんてこな話ですが、つまりは
「私達は経験によって、それの真偽を判定している」という事です。
牛が空を飛ばない事を知ることを含む、様々な経験と体験から、その真偽の判定をしています。
私達は頭の中ではなんでもかんでも考えることが出来ますが、それが実際に起きたかどうかは、「事実の経験」の中でしか、判別がつかないんです。
「言葉として間違っていなければ、事態としては想定できるかもしれないけど、実際起きるかは事実以外に確定できない。ただ思考としては意味が通れば成立するよ。」
がウィトゲンシュタインの立場です。
『論考』においては
「【知覚可能な対象(もの)とその関係】のみが思考であり、表現可能なもの」と考えます。
そしてこの流れのまま、3の主項目である
「3 事実の論理像が思考である」
を見ていけば、その意味も理解できそうです。
そのまんま
「事実を意味の分かる関係の像として映し出す事が、思考だよ。」
「知覚可能な対象の組み替えによって生まれた意味ある(有意味な)言葉は全部、思考だよ。」
と言えそうです。
「名」とは何か?
さて、既に3番台に入ってきてはいますが、ここさえわかれば、結論までかなり近づいています。(あくまで私の解釈の限りではありますが。)
ところが、ここにきて極めて難しいものが出てきます。
それが
「名」
というものです。
『論考』を難解にしている一つの要因に、この
「【名】が具体的に何を指しているのか、さっぱり分からない」という事もあります。
ウィトゲンシュタインが「名」というものの定義(言い換え)として用意したのは
「これ以上分解できないもの(原子記号)」です。
「はい、そうですか!ではその、これ以上分解できないもの、ってなんです?」となった私は必至にそれを探しました。
しかしその結果、私は知りました。
「具体的にいうと【名(これ以上分解できない原子記号)】とは、これだ!」という記述は
一切、出てきません!笑
もうこれはね、自分で探すしかないんですけど、やってみると分かります。
「え?そんなもの(これ以上分解できない言葉なんて)この世界の言葉に存在しなくないですか?」となります。
ちょっとやってみましょう。
「実家の猫の名前はマメである。」(本当にマメである。笑)
この文章を考えた時、「実家」「猫」「名前」「マメ」などがどうにも「名」っぽい感じがします。ですが、例えば「猫」という言葉は全然分解出来ちゃいます。
じゃあさらに続けて「猫とは?」について分解すると
「食肉目ネコ科ネコ族に分類されるヨーロッパヤマネコを家畜化したイエネコ」なんて出てきます。
「食肉目?」「分類?」「イエネコ?」と途方もなく続きます。
だとすれば単語は「名」じゃ無いっぽい。だったら、「名」を「な」というひらがな、また「Na」とアルファベットにしたらどうでしょう?
「な」とは、「ひらがなのナ行」、「50音順の第21位の仮名」。
「a」とは、「ラテン文字(アルファベット)の一番目の文字」です。
きっと皆さんも私と同じく、
「分解できない【名】なんて、なくない?」という結論に至るんじゃないかと思います。笑
私は何度も『論考』を読み進めようとましたが、もうそこから先は「名」がある前提で話が進んでしまいます。
これは困った。
でもこんな時はその見方を180度変えるような見方をしたらどうでしょう?
よくよく考えてみると、これは
「すべての意味をなす言葉は、世界を構成する事実と同様に、関係の網によって密接に繋がっている。」ともいえます。
また「名を探す」という行為自体が、「その人のできうる思考と言語の限界を巡らせること」になっているとも考えられます。
関係によって、事実が生まれるのは間違いない。とすれば、思考も言語も同じように「関係なしでは語りえない」んじゃないでしょうか?
気持ちよさそうに寝ている猫を見て、ご飯を食べている猫を見て、私達は「猫だ」といいますよね。ですが、何とも関係を持たない「猫」を、私達は誰も見たことがありません。
つまり、
「【名】そのものには思考と言語では到達できない」事を意味してもいそうです。
ウィトゲンシュタインが「名」を積極的に明示しないのは、
「私達の言語は、どこまで行っても分解出来てしまう。裏を返せば関係がどこかに必ずある。という事の暗示」、なのではないでしょうか?
さて、加えて彼は
「これ以上分解できない」ものである「名」を設定することで、「語り得ること」を突き詰めるために、言語の純粋な要素としての構造があれば、そこから積み上がり、組み合わさった言語の構造や言語の限界が見えてくるとも考えました。
言語によって最大限表現可能な「語りうる」限界が分かれば、それより外にあるものについては、「語りえない」という事になると、ウィトゲンシュタインは考えたんです。
つまり「名」は
「どこまでを人は語りうるのか?の限界を示すための前提に置いた、最も小さな単位での言語の組み立て要素」とも言えそうです。
また彼は実際、「日常言語から言語の論理を直接読み取ることは人間には不可能」だとも言っています。
だからこそ、「最大限表現可能な人工言語」をこの辺りから組み立て始めます。
ただ、ウィトゲンシュタインは「日常言語はあいまいでしょうもないから、これからは俺の言語を使え!」的なことを言っているわけでは全くなくて、あくまで日常言語の構造と限界を突き詰めるべく、人工言語を作ったんです。
だから、その仕組みさえ分かってしまえば、極論「人工言語なんてものはもういらない」んです。
なので「言葉を扱う時は、逐一人工言語を用いるか、人工言語の分析から入ってください。」と言っているわけではありません。
それと一応、「名」についての暗示のようなものもあります。
「3・3 命題のみが意味内容を持つ。名は、ただ命題という脈略の中でのみ、指示対象を持つ。」
ここでいう命題とは「名と名で構成された言語」の事です。
また「名、自体の意味は掴めないもの」で、それらが組み合わさった時初めて「命題」となり、それによってこれまた初めて「それが何か?」と言及できるという意味です。
また「名と名で構成された言語」を「要素命題」ともいい、更に「要素命題と要素命題で構成された命題」を「複合命題」と言います。
例えば、便宜上
「私は人間である」と「私は日本人である」という二つの命題があったとして、
これを組み合わせて
「私は人間であり、かつ、日本人である」としたものが「複合命題」です。
(ただし、「私は人間である」と「私は日本人である」の二つの命題はそもそも「名:これ以上分解できない原子記号」と名で構成された言葉ではないので、要素命題でも、複合命題でもありません。
あくまで要素命題って何なの?複合命題って何なの?を説明するための便宜上のものだと思っていただければと思います。)
ここまでのまとめ
さて、ここらへんで一旦今までの説明を纏めたいと思います。
ざっくりというならば
「世界は全ての事実から出来ているよ。でもその一方で私達の頭は、世界で起きていること以上に広い範囲【論理空間】で思考できてしまう。その状態でさらにそれを「像」として言語などで表現しているんだけど、そのおかげかそのせいで、私達は【語りえないこと】まで表現しようとしてしまうんだよ。なので一旦これ以上分解できないような、その構造を読み解く手段として、人工言語、作るよ!その限界は純粋な言語としての構造の限界を示すから、そうなれば日常言語の限界まで示せるよ。これでどこまで【語りうる】かの線引きが出来るね!」
こんな感じだと思います。
後はいくつかの難所をくぐりぬることが出来れば、「どこまで語ることが出来るの?」が分かります。もう結論としての頂上はほぼ見えているけど、その前にちょっとだけハードルが待っている。今はそんな状態です。
そこさえなんとかなってしまえば、「あとは結論を見出すだけ」です。
とはいえ、ここまで長くはなったし、一気に読み解くはおそらくはしんどいと思うので、以降は次回の記事に回したいと思います。
次回は、ここから結論まで一気に行きますが、何人かの人にとっては、「ものの見方」が変わる話になっているんじゃないかと思う次第です。
『論考』を読み終えた後、少なくとも私は「だったら示し続けようじゃないか!」と思いました。
今日のあなたの一日が「論考のとっかかり」を得る一日である事を願って。
読んでいただきありがとうございます!!