今回は、前頭葉が今尚頑張ってくれている話をしていきます。動物の中でも人間の前頭葉(おでこのあたりの脳)は、最も発達している部位といえます。今回は「とある事故」を取り上げまして、その前頭葉の機能に迫り、また、私達が健やかに過ごすためにどうして行けば良いのかをご紹介していきます。
では、早速いきましょう!
前頭葉とは?
現在では、脳と一口に言っても、ある程度の役割分担が成されている事が分かっています。「不安や恐怖」など、感情にまつわる脳部位。そしてその感情を自覚する部位、「場所や人の顔」を判別する脳部位などその機能は多種多様で、更にはとても複雑です。
そんな脳部位の中でも、人間の最も特筆すべき部分はなんと言っても前頭葉(おでこのあたりの脳)です。
未だその機能の全容解明には程遠いんですが、おそらく私達が類まれな知性を持ちえたのはこの部分が大きく関係している事は間違いないだろうというところまで来ています。実際にいくつかの機能は具体性を持って説明もされています。
思考能力、判断力、感情の抑制、または運動機能にまで関わっている、かなり重要な脳部位です。
そういった解明の裏側には科学者さんたちの研究が中心にある事は間違いないですが、時には、「脳の病」や「脳を損傷するような事故」によって、その解明が進んだりもします。
痛ましい病や事故は正直目を塞ぎたくもなりますが、苦しむ方を今後少しでも減らすためには直視する必要があるものだと、個人的には感じています。
ですので、今回は前頭葉の損傷によってその機能が見えてくるような出来事を、1つの有名な事故からご紹介します。
前頭葉の損傷
1848年9月13日、前頭葉の損傷について未だに語り継がれる「事故」がありました。
鉄道建設の職長だったフィニアス・ゲージさんは、優秀で人望にも厚い人物でした。
そんなゲージさんは不慮の事故によって、鉄の棒が前頭葉を貫通してしまいます。
こんな事故があったのにも関わらず、ゲージさんは一瞬気絶しただけで、なんと自らの力で立ち上がります。
それどころか、とても落ち着いた様子で荷馬車に乗ってお医者様の元までいきました。
事故後まもなく発熱をしましたが、数週間でおさまり、約3ヵ月後には「完治」だと告げられました。
命に別状が無かっただけでも奇跡なのに、その上前頭葉をこれだけ損傷しても、おかしなところは見当たりませんでした。ただし、
「お医者様から見れば」です。
お医者様から見ればおかしなところは無かったために、当時は前頭葉には特別な機能が無いか、もしくはその他の脳でその機能を補う事ができるという説が有力になりました。
しかし、
「仕事仲間や知人から見れば」
ゲージさんには明らかな変化があったんです。
以前のゲージさんは、粘り強く誠実で、精力的な人物でしたが、
事故後の彼は、気性が荒く、すぐに苛立ち、気まぐれで、それでいてよく迷う人物に様変わりしました。
知人はこういったそうです。
「彼はもう、ゲージでは無い。」
当時のゲージさんについて調べていたお医者様は、ゲージさんの打って変わってしまった気性には関心を持たなかったとされています。
もしかしたら、その気性が「元から」のものだと考えたのかもしれません。
もしくは、これだけの損傷を被っても平然としているゲージさんの姿があまりにも印象的で気性には目が行かなかったのかもしれません。
損傷から分かる前頭葉の機能
現在までに、前頭葉の損傷や脳の腫瘍などによって、無関心になったり、自制心が効かなくなったり、また極端な性格の変化が起きる場合がある事は確認されています。
これが意味するところは、何かに関心を持ったり、人間が独自に作った社会規範や法を守ったりできるのも前頭葉のおかげであるところが大きい、という事です。前頭葉は私達が健やかに過ごせるよう、判断や抑制をしながら、私達と一緒に対応してくれているともいえます。
私達のために懸命に機能し、様々な外側からの影響に今日も忙しく対応してくれているんです。
だとすれば、外側から受ける負の影響に私達自身が「加担なんかしてはならないんだ」と強く感じます。
時に私達は、目の前のものの責任に押しつぶされそうになったりして逃げたしたくなる事もあります。
その抑えつけていけなければならない感情をそのまま露にしてしまいたい。そんな衝動を覚えることもあるかもしれません。
そうした気持ちを抑えてくれて、私達が後々もっと苦しんだりしないために、一所懸命になって前頭葉は働き続けています。
あまりに外側から受ける影響が多いのであれば、私達はそれに対しての「受取り方」をもう一度考えてあげる必要があると思います。
私にも悩み苦しんだ時期がありました。
初めは誰かのためにと必死になって頑張っていました。しかし、自分の思いが上手く届かず、認めてもらえない時期を過ごしていると、私は次第に怒りに満ちていきました。その結果、
「分かってくれないならもういい。今感じている怒りこそが私の原動力で、この反骨の精神があるから私は頑張れるんだ。」と、こんな事を本気で思っていた時期があったんです。社会を憎み、誰かを憎み、遂には自分をも憎み、行き着いた先にあったのは「壊れてしまった自分」でした。
しかしこれは、私自身が我慢することによって、憎む事によって疲れさせていたんです。もっと言えば、自分自身の前頭葉にムチを打って歩み続けた結果なんです。
自分を助けようとしてくれている前頭葉を苦しめていたのは、私自身だったんです。
私の場合は、とにもかくにも「完璧主義」が悪さをしてました。
仕事では「完璧にこうあるべきだ」、あるいは「こうだったら良いのに」と考え、
日常でも、他人から見られる私を「完璧に整ったかっこいい自分」として見せるために、精一杯見栄を張ったりもしていました。
自分にとっての100点のみが正解で、たとえ80点だろうが、90点だろうが、私は不満を抱き、その度に自分に負担を掛けました。つまりは外側から受ける影響があまりに沢山あると思っていたのは、私の要求が高すぎたために、ひとつひとつに対しての個々の負担が大きかった事が大きな原因だったんです。
ありもしない、出来もしない理想に生きた結果、不満が募っていたんです。不満は解消されない限り、我慢として私の中に蓄積されていきます。それはいつか限界を迎えるし、実際に限界を迎えました。当時は、もう判断力なんてほとんど残っていなくて、常に怒り、常に悲しんでいました。
かつての私に会えるなら、言ってやりたいんです。
「今苦しいのは、私が私である事をやめ、諦めてしまったからだよ。今ある私を、現実に存在する私をみてみようよ。その方が行く行くは楽になるから。」
よくよく考えれば、私の身体と脳は、今ここにある現実で必死に頑張ってくれているのに、当の私ときたら、上の空で全く向き合おうともしていませんでした。
大きくなりすぎた苦しみから目を逸らす事で精一杯でもありました。
ですが、勇気を持って私の身体たちと一緒に頑張っていかなければ、苦しみはもっと大きくなります。
確かに苦しみ続けている状態から、勇気を持って踏み出すのは本当に怖いものでした。
しかし、進んだ先には苦しみが少なくなっていく毎日でした。
私は理想や目標を持つことを全て否定的に捉えているわけでは無いんです。私が犯した間違いは「ありもしない」理想にひた走った事で、あくまで「ありうる」理想はむしろ持ったほうが良いと思っています。
「ありうる」理想を達成する為に「今出来る事はなにか?」に目を向け続けました。
こうした積み重ねは、たとえ達成できなくとも得るものが必ずあります。
また、この積み重ねは誰かと比べる必要は無いものだとも感じています。
自分のペースでいいし、早いも遅いもありません。
いままで頑張ってくれた私の身体のためにも、これからは苦しみを背負いはしないという決意を見せ付けていきます。
「もう大丈夫だから」と、私は私の身体と共に生きていきます。
今日のあなたの一日が「前頭葉に加担する」一日である事を願って。
読んでいただきありがとうございました!!