「見た事の無いもの」を説明するのは難しい

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生き方

今回は「見た事の無いものを説明するのは難しい」と題しまして、「知ることと経験することの違い」についてご紹介していこうと思います。今回はほとんど例え話で構成していきます。これは、おそらくそちらの方が分かりやすいんじゃないか?と考えたからです。いろいろ知ることは本当に楽しいんですが、そこには「知識の罠」もあるんです。特に「生き方」的な考えは、「もうあと一歩」がとても大切だと思います。

では、早速いきましょう!!

知的好奇心


何かを知るという事は、やっぱり面白いものです。よく「知的好奇心」と言ったりしますよね。
ただ、「知的好奇心」って言葉自体がなんだかお高くとまっていて、カッコつけている感じも否めませんよね。
でも言い方を変えれば、単に「知りたいと思ったことを知る」という事です。
要は「知りたい欲」をかっこよくいってみた、的な感じです。

例えば
動画アプリやサイト、またはネット上で、「調べたいと思う事・知りたいと思う事」は「知的好奇心」なわけです。
その動機はいろいろとあると思いますが、基本的には「自分が知りたいと思う」事を調べるものであって、「知りたくもない難しい事を調べること」ではないんです。

個人的な話をすれば、学校のテストの点数を高めるための勉強の類はあまり好きじゃなかったし、反面、ゲームの事となれば夜も寝ないで調べたりするくらいには大好きでした。
前者は「知的好奇心」じゃないし、後者は「知的好奇心」です。

また最近でも、妻と一緒に「ポケモン」をやっていて、そのために「個体値厳選」についても調べたりしています。笑

ブログでは小難しい事ばっかり書いていますが、むしろそういった「余暇」の方に全力だったりします。(もちろん本も大好きです!)
もっと言えば、漫画について「ああだこうだ」と語り合う事の方が好きです。
そもそもいろいろと学び始めた理由は、「気負わず楽に生きるため」であって、「知りたい欲」を満たそうとしたら、結果こんなブログ書いてた、みたいな感じです。
「知りたい」と思う気持ちがただ単純に爆発しちゃっただけであって、それ以上でもそれ以下でもないんです。
私は正直もうすでに「楽に生きている」と感じますが、それでも「もっと素晴らしいものに出会えたらラッキー」くらいの感覚でいろんな分野に挑戦してもいます。

ちょっとわき道に逸れましたが、とどのつまり、
誰であっても基本的に「知的好奇心:物事を知りたいと思う気持ち」はあるんです。

また、おそらくは多くの人が「気負わず楽に、そのまんま」で生きてみたいと思うんじゃないか?とも感じてもいます。だとすれば、「気負わずのコツを知りたい欲」みたいなものがあると思うんです。悩んでいらっしゃる方は特にそうだと感じています。

ですが、そういった「知りたい欲によって得た知識」が、時折「前に進むことをやめさせちゃうことがある」、または「前に進んでいる気にさせちゃうことがある」とも感じているんです。

ですので、今回は「知識に潜む罠」を、「例え話」でご紹介できたらなって思っています。

ある人はハッとして、またある人は「そうだよね!」ってなるような話になっていれば、今回示したかったことは示せたんじゃないかと思います。

最近漫画では「異世界転生もの」がたくさん出版されていますよね。今回はそれに便乗してみました。笑

これからたとえ話をしていきますが、その前に一つだけ皆さんに考えてほしいんです。

皆さんは、「リンゴの無い世界の人に、リンゴとは何か?をどう説明しますか?」

~リンゴのない世界に転生した私が、皆にリンゴを教えてみたら大変なことになった件~


これは、とある異世界の話です。
そこは「別の世界」があって、もちろんそこに住む人も「別の世界の人々」です。

私はひとり、そんな「異世界」に、全くの偶然によってやって来ました。
気付いたら見知らぬ平原にいて、持っているのはスマホだけ。いろいろと調べたけど、どうにも場所は表示されないし、電波はあるのに電話は繋がらない。とにかく人を探そうと気が動転しながらも各地を歩き回った末、一つの街を見つけ、そこの人たちと話をすることで徐々にそこが異世界だと把握します。

その世界の人は私が違う世界から来たことも、居場所が無い事もちゃんと聴いてくれて、とても優しく迎え入れてくれました。いやぁ、ここは良いところだ。

それからしばらくして、この世界での暮らしにも慣れて、大体のモノは私の世界と一緒だという事も知ります。
でも、ただ一つ「リンゴ」だけが無い事に気づきます。

そういえば、私と一緒にやってきたスマホがあったな。来た当初はとにかく色々調べましたが、正直こちらの生活に慣れてからは、そんなことも考える事は少なくなり、次第に自室に置いたままになっていました。でもふと、リンゴを見せたらうれしいかな?という思いを胸に久しぶりに電源を入れてみたところ、まだ起動しました。

「明日リンゴを見せてみよう。喜ぶと良いな。」そんなことを考えながら、私は深い眠りにつきました。

翌日、スマホを片手に、
「私の世界にはリンゴ、というものがあるんですよ。ほら、こんな感じの。」と、みんなに見せました。

すると、どうにも食には目がない人々な様で、異世界の人々は
「リンゴを知りたい!」という気持ちでいっぱいになったようです。

人々リンゴというものはどういう味なんだ!?」ああ、食べてみたい!」君は知っているんだろう?どういうものなのか事細かに説明してくれないか?頼む!!」

こういわれた時、私は困り果てます。
私「なんというかこう…。甘くて、木に実って、赤くって…。」

人々「うぉぉぉ!食べてみてぇぇ!」

人々はリンゴを知りたくて知りたくて熱狂します。でも私は上手く説明が出来ません。
「かじった時に果汁があふれていい音がするよ。」と言ってみたものの、実際に食べてもらうことが出来ないので、本当の意味での「リンゴの食感、リンゴの匂い」をその世界の人に伝えることが出来ません。

ただ、「私の持っているスマホが私の世界と繋がっている」ということを思い出し、リンゴの情報がそれはもうたくさん載っていました。
それを知った異世界の「友人」は、朝も夜も「リンゴ」について調べ始めました。

それからしばらく経ち、友人の知識は私を遥かに超えるものになっていきます。

しかし、これが友人をおかしくしてしまうとは、その時の私は想像もしていませんでした。

異世界の友人「いいですか、皆さん。リンゴとは、バラ科リンゴ属にあたり、植物学上はセイヨウリンゴと言います。異世界では約4,000年もの歴史がある果物です。非常に栄養価が高く、糖度も高い。品種も数千以上あり、その匂いは…。」

友人はとことん調べ上げた結果を皆に教えつつも、『魅惑の果実』などというリンゴの書物も出版しました。
これが異世界中に知れ渡ることになり友人は「リンゴに最も近い偉人」として名を馳せます。

世はまさに「リンゴ探求時代!!」

リンゴ!りんご!林檎!


「リンゴに最も近い偉人」となった友人は、スマホの情報はあらかた調べつくし、その後は沢山の科学者や哲学者を引き連れ「リンゴ探求」を続けます。
「こうじゃないか?いや、こうだろう!」と議論や実験を重ねます。

とある日、私は久々に友人に会います。
私「久しぶりだね。…?大丈夫?疲れているみたいだけど。」

友人「ああ、君か。おかげさまでリンゴについての知識はどんどん集まっているよ。着実に進んでいるんだ。僕と共に研究をしてくれるA君がね、この前とんでもない着想を得たんだ。だから、リンゴを得る日も近いと言っていいね。いつかリンゴを言語化し、リンゴに至って見せるさ。」

私はさすがに止めなければと思います。
私「あの…、リンゴは言葉じゃなくて、ただの果物なんだよ。かじったら甘い。本当にそれだけなんだよ。」

友人「ああ、確かにそうだな。だが他にどうしたらいいんだ?それに、今や僕、そして僕の周りの人の知識は君を遥かに超えているよ?分かるかい?リンゴへの愛は君より上なんだ。…こんな事を言うのは失礼かもしれないが、正直君がリンゴを食べたことがあることすら疑うものが出てきている。もちろん僕は君を信じている。だけど、この気持ちは食べたことがある君には分からないかもね。」

私は困り果てました。もう私の言葉は届かない。
元の世界に戻って、「ほら、これがリンゴだよ。」「甘いでしょ?」と言えたらどれだけいいか。

それ以降友人は、私には見向きもしなくなりました。大きくなってしまった友人の気持ちを、解きほぐす術が私にはもうありません。

夢から覚める時


それから少しして、私は異世界の人々との日常を暮らしていた時、「とある事」が起きます。
畑を耕しながら、ちょっと休憩。そんな折ふと目をやると、近所の子供が「井戸」の周り遊んでいるのが見えました。あんまりにもあぶなっかしいので別場所で遊ぶように促そうと、私は近づきます。

私「ほら、そんなところで遊んでいると井戸に落っこちちゃうぞ。」
おどけた顔を見せる無邪気な子供。ですが次の瞬間、ことは起きます。

そういった矢先に、子供がツルっと足を滑らせて、井戸に身を投げ出してしまいます。
私はとっさに子供を抱えますが、あえなく私も子供と一緒に、井戸に落ちてしまいました。

その落ちゆく中で、とにかくこの子だけは守ろうと抱きかかえます。
私はグッと目をつぶって、下に落ちる衝撃に備えます。

………。

しばらくして、ハッと気が付きました。どうやら気を失っていたようです。
特に痛いところもない。あれ?たしか井戸に落ちたはずなのに。

そして一緒に落ちた子も無事な様です。
子供もほとんど同時に目を覚ましたらしく、またそちらも怪我は無いようでホッと一安心。

そうしてほどなくして辺りを見渡し、私は気付きます。
目の前に「一本の木」があることに。そして更に私達の後ろにはどうやら「異世界へのゲート」のようなものがある。
試しに頭だけゲートらしきものの中に入れて覗いてみると、前に異世界に来た時にいた、ただの平原に確かに繋がっている。

それらを見て私は混乱しながらも徐々に事態を把握します。だって、その「一本の木」はまさに…。
私「あ、そうか。戻ってきたんだ…。」

一緒に来た子供は無邪気なもんで、そんなことは気にしていない様子です。

とりあえず事態を把握した私は、再び「木」に目をやり、ハッとします。嬉しいやら悲しいやら、自分でもよく分からない気持ちを抱えつつも、
ゆっくりと立ち上がり、その「木に実る果実」を手に取り、子供に渡してこう言います。

私「…食べてみる?きっとおいしいよ?」
子供はうん、と頷きその果実を「ガブリ」と一口。

そして子供はこう言います。
子供「甘くておいしいね!」

私「うん、そうなんだよ。甘いんだよ…。ただそれだけなんだよ…。」

ゲートが出来た、その後に


平原にゲートが出来た後、そのゲートがいつまであるのか分からないけど、とりあえずは行ったり来たりができるようになったようです。
でもそのゲートは、自分の体とスマホしか行き来できなくて、リンゴはどうしてもポトリとその場に落ちてしまいます。

子供を親元に返し、私はすぐさま友人を訪ねます。
私「ねえ!なぜだか分からないけど、今ならあっちとこっちの行き来が出来るんだ!だからとにかくついて来て欲しい!」

友人「ああ君か!ちょうどよかった、聞いてくれ!今僕らは大きな一歩を踏み出したぞ!!やはり僕らが一番リンゴに近い!」
私「いいから来てってば!」

私は無理やり友人の手を引っ張り、ゲートの前に連れていく。
それでもたじろいで中々先へ進もうとしない友人は、ここでも

友人「いや、こんな何が起きるか分からないものに身をゆだねることは出来ない!まてよ、こんなことしなくても、先ほどの見解によれば…!しかし目の前には…!よし分かった!少し!少しだけ頭を整理させ…」

私は「ごめん!」と言って友人を突き飛ばした。その結果、友人は片足を踏み込む。

友人はさっき私が落とした足元にある「果実」を見て、ワナワナと震え始めます。言葉は無くただ見つめて、静かにもう一歩進みます。

そうしてしばらくすると、それを手に掴み、これまたゆっくりと口へと運び、シャクッと良い音を立てながら一噛み。

友人はきょとんとした顔で一言いいます。
友人「…甘い。」

私「ほら、これがリンゴだよ。」

私「甘いでしょ?」

友人はその場で大の字で寝っ転がりながら、乾いた笑いを繰り返した。

もう一歩

さて、くだらない創作話につき合わせてしまい、申し訳ありません。辛抱強くここまで読んでいただいた方には感謝いたします。

ただ、くだらないながらに、この話から得られることもあるんじゃないかと思います。

食べてしまえば何のことは無い。
一歩進めば、そこに答えがある。
そしてその答えは大抵の場合、至ってしまえば何のことは無いものだったりします。
ただ反面、

自身にとっては、何物にも代えがたい。

知識はあくまで知識でしかなく、それが「その人にとって」意味あるものになるかどうかは、
「あと一歩」が必要なんです。知る事も大切ですが、体験・実践する事はもっと大切
だと思います。

また、「経験できない場合の知りたいは、どれだけ突き詰めても理論でしかなく、知識でしかない。」とも言えます。

知ることは悪い事ではありません。むしろ「実生活」に生かせれば、いい事尽くめだと思います。
ですが、知識のままにしてしまえば、時に「驕り」を生みだし、時に他者の意見が価値あるものだと思えなくなる時があります。

また、自身の体験でもって「自分にはこれだ!」と確信を得ているからこそ、「自分にとってはこうだけど、違う誰かはこう思うんだ。」と思えます。

いろんなことについて語り合えるのは、「違うことを考える他者」がいるから成立します。
全く同じ意見からは、その楽しさは得られないんです。
違う意見の他者をないがしろにしてしまっては、本末転倒ですらあると感じます。

個人的に、いわゆる「知識人」には二種類のタイプがいると思っています。
一方は「自分の知識に酔いしれてしまうタイプ」。
そしてもう一方は「なんだか物腰が柔らかくて、一緒にいるだけでも楽しくなるタイプ」です。

前者は高圧的になりやすく、後者は柔軟です。
「私はこれだけ知っている。だから私はすごい人なんだ!」
「ああ、それはね、実はこんなことになっててさ、私も知った時はびっくりしたんだよ。でもさ、私もここが分かんないんだよね。どう思う?」では、随分差があります。

分からない事もちゃんと見せることが出来て、他者の意見も聞いてみたい。
ただ知っていることが違うだけであって、そこに「驕り」は全く必要ない。

そう考えると、「なんだか知らない事が恥ずかしい」みたいな気持ちもフッと無くなっていくはずです。肩ひじ張っていた頃から、フッと楽になるのを感じてもらえたら、今回の記事は初めて意味あるものになります。

硬くて何物も受け付けない「岩」。
柔らかくてなんでも吸収しようとする「スポンジ」。

これらは「生き方に出る、その人の在り方」です。

アフリカはエチオピアの哲学に「知識と行為は分けない。知識は行為として表れるのであり、賢人とは行為が賢い人である。」というものがあるそうです。

だとすれば、「驕り」は知識が行為に落とし込まれなかった結果、なのかもしれません。

さて、どっちを目指すかな?と考えたら
私は後者でありたい。いついかなる時も、「スポンジ」でありたい。
ありたい、というだけであって、かくいう私は半人前ですけどね。笑

何が言いたいかというと
「沢山笑って、沢山楽しむために、知ってみて、やってみる、動くスポンジになる」
これが大切だという事です。

「岩」はいつからだって、「スポンジ」になれる。
私達がその「一歩」を踏み出してさえしまえば。自らの疑念さえ吹っ飛ばせれば。

「知識に振り回され、武装する者」ではなく、「知識を吸収し、使ってみる者。あり方で示すであれ。
楽しくあれ。笑いあれ。スポンジであれ。

今日のあなたの一日が「リンゴを知るとは、かじること」な一日である事願って。
読んでいただきありがとうございます!!

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